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第一章

2 お風呂のお湯はちょうどいい加減

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ふと意識が浮上した。

「よかった、夢か」

寝心地のいい寝具。ユリは、あまりの気持ちよさに体を動かく事もままならず、目を瞑ったまま、独り言を漏らした。

「変だと思ったのよ。ラノベじゃあるまし、異世界転移なんて、現実にあるわけないわ。それに、いくら何でも、『聖女』が、寝間着のままお布団ごと召喚されるなんて、間抜けにもほどがあるもんね」
「気がつかれましたか、聖女様。ご気分はいかがでございましょう」
「きゃあぁああ!!」

ユリは、目を剥いて跳ね起きる。

「誰!」

メイド服を着たお姉さんが立っていた。

「本日より聖女様の身の回りのお世話をいたします。侍女のラーダと申します」
「どこよ、ここ!」
「白と黒の大地ノーヴァゼムリア北方のルーストルーニャ大聖国でございます」
「白と黒の大地?」
「左様でございます。聖女様は、乱れたこの地をあるべき姿にお救いすべく、精霊によって遣わされました尊きお方です」
「尊きお方……」
「僭越ながら、このわたくしラーダも、ルーストルーニャ大聖国の一淑女として、あなた様が使命を全うするその時まで、微力ではございますが、ご助力いたしたく存じます。早速ですが、聖女様、身なりを整えてはいかがでしょう。よろしければ、湯浴みのご用意がしてございますので、脱衣のお手伝いを」
「嫌」
「それでは、お目覚めになりました聖女様に、司祭様が面会の許可を求めております。ここへお通ししてもよろしいでしょうか」
「司祭様って誰?」
「御召喚の儀の執行に携わったお一人でございます。聖女様の疑問にお答えすべく、別室に控えております」

ユリは一瞬考えた。
異世界召喚なんて、あるわけがない。攫われたのは、自分が寝ている間の出来事だ。睡眠薬でも使えば、本人に気づかれずに家から連れ出すなど簡単だろう。だが、誰にも見られることなく、国外へ移動できるものだろうか。ここは日本ではない。だって、と、ここまで考えて、ふと、絶世の美女と謳われたクレオパトラの歴史的な逸話を思い出した。カエサルの元へ届けるのに絨毯にくるんで運んだという話だ。

いくら、わたしが魅力的だからって……。

一瞬、ユリはそう思ったが、あり得ないことが目の前で起こっていることに気づいた。
彼女が話しているのは、日本語ではないのだ。それが奇妙なことに、ちゃんと聞き取れるし、ユリが話す言葉も通じている。

本当に、異世界に来ちゃったんだ、わたし・・・・・・。

不思議と気持ちは落ち着いている。
ユリは、すっと一息を吸って、言った。

「わかった。話くらいなら聞いてあげてもいいわ。元の世界の戻り方を教えてくれるんならね」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

一礼し、去っていく彼女の後姿をユリは見つめる。三十代だろうか。ラーダと名乗った侍女は、女性にしては背が高く、早口だが落ち着いた声色をしていた。メイド服の特徴であるヘアバンドから覗く、眉にかからないよう切り揃え得られた前髪、そして、耳の後ろ辺りから器用に編み込まれ、うなじ辺りで一つのお団子に纏められた癖のない髪は、鮮やかな瑠璃色をしている。
綿で仕立てられた仕事着は見事な漆黒に染められており、汚れひとつない純白のエプロンには、肩や裾にたっぷりとフリルが仕立てられている。しかし、気になるのは、膝丈のスカートから覗く、紐で編み上げられた革製のブーツだ。ライフルを担いで山越えをする軍人でもあるまいに、何故あんな凹凸のしっかりしたゴム底の厚いブーツを、高級お仕着せを身に纏った侍女が履いているのか。

「失礼いたします」

と、ユリが考え事をしているうちに、ラーダが戻ってきた。後ろに、若い男がついてきている。くるぶしまであるワンピースの上に、袖口の大きく開いたポンチョのようなものを被った、いかにも司祭といった風貌だ。ユリが頬を引っ叩いた男とは真逆の柔和な顔立ちをしている。

「お初にお目にかかります。私は、セヴェイエート大聖堂助祭、イェフシャにございます」
「助祭?」
「はい。司祭に次ぐ職位にございます。司祭様方に変わり、私が参じました」
「司祭様方って、司祭ってたくさんいるの?」
「はい。御召喚の儀にあたり、この国の全ての司祭が集結いたしました」
「ふうん。それで、いつ元の世界に帰してくれるの? 呼び出したんだもの、もちろん、戻せるのよね?」
「その件に関しましては、ファオラーン第一王子様から直にご説明を賜るのがよろしいかと存じます。つきましては、謁見のためのお部屋をご用意いたしましたので、お時間を頂戴できますでしょうか」

ユリは唇をへの字に曲げた。
ファオラーン第一王子とはあの男のことだ。眠っている間に自分を他所に連れ込み、無防備な寝顔を覗き込んだ男。

「初対面で張り手を喰らわせた手前、会いたくないわね」

ふと漏らした聖女の言葉に、イェフシャが慌てた素振りを見せだ。だが、ユリは、口を開きかけた彼を遮って続ける。

「いいわ。話をつける。そのファーナントカ第一王子が責任者なんでしょ?」
「ファオラーン様です」

そっと、ラーダがユリに耳打ちする。

「ファオラーン、ファオラーンね。よし」

ユリは、何度か王子の名前を繰り返した後、ようやくベッドから抜け出した。仁王立ちで助祭のイェフシャを見つめながら、

「連れていってちょうだい」

と、敵陣に乗り込むような面持ちで言った。しかし、寝起きのパジャマ姿だ。顔すら洗っていない。
イェフシャは、当惑した表情を浮かべてラーダをちらりと見やる。思えば、ここへ来た時からずっとそんな表情だ。ユリは内心恥ずかしく思った。

「聖女様」

ここでラーダが言った。

「湯浴みはいかがでしょう。それから、身支度を整えても遅くはございません」
「そうね。さすがに、こんな格好じゃますいもんね。でも、待たせちゃ悪いかも」
「そのようなことはございません」

と、イェフシャ。

「聖女様におかれましては、いついかなる時も麗しく穏やかにお過ごしいただくのが、私共の総意にございます」
「じゃあ、遠慮なく」
「では、私は、件の事、聖女様よりお許しを承った旨、ファオラーン第一王子様にお伝えしてまいります。聖女様、また後程お目見えできますことを心待ちにしております」

イェフシャは、深々と一礼すると部屋を去っていった。
静かに閉じた扉をよく見れば、細かな木彫りで飾られている。他にも、可愛らしい模様と穏やかな色調で整えられた壁紙と絨毯、光沢を放つ布地に丁寧な細工の木製ソファー、派手な縁取りをした壁掛けの鏡、フリルとレースで作られた天蓋付きの巨大なベッド・・・・・・。ぐるりと、改めて部屋を見渡せば、宮殿にあるような豪華な部屋だ。

「ねえ」
「何でございましょう」
「わたし、着替え持ってないわ」
「ご心配には及びません。聖女様を我がルーストルーニャ大聖国にお迎えするにあたり、全てのご用意を整えてございます」
「洗顔料は?」
「ございます。もちろん、全身用、毛髪用の石鹸も取り揃えてございます」
「化粧水や乳液は?」
「はい。頭の先から爪の先に至るまで、それぞれの部位に特化した香油を数種類、肌や髪の状態やその日の気分に合わせて、どれでも好きなものを好きなだけお使いいただけます。お望みであれば、聖女様専用の特別配合もご用意させていただきます」
「わかってるじゃない」

至れり尽くせりだ。気分が上向いていくのを感じながら、ユリは、浴室へと案内するラーダについていく。向かったのは、イェフシャを見送った扉とは反対側の部屋の奥だ。どうやら、この一部屋で全てが賄えられるよう設計されているらしい。てっきり、部屋の外に出るものだと思っていたユリは、寝間着であちこち移動せずに済んで、ほっとする。
浴室の扉を開けると、青く美しい幾何学模様が描かれたタイル床に、金の猫脚に支えられた陶器のバスタブが目に飛び込んできた。ラーダの言った通り、いくつもの石鹸や油瓶が備え付けの棚に並べられていて、浴室全体に草花のいい香りが満ちている。


「さあ、聖女様」

 と、ラーダがパジャマの前ボタンに手をかける。

「自分でできるわ、このくらい」

ユリは咄嗟に胸の前に腕を交差させて言った。

「しかし」
「ひとりでゆっくり浸かりたいの。あなたはさっきの部屋で待ってて。わからないことがあったら呼ぶから」

ユリは、置かれてある物や道具の説明を一通り聞くと、ラーダを扉の向こうに押しやって、服を脱ぐ。

「まるで、外国に来たみたい」

素っ裸で広々とした浴室を見渡すユリ。バスタブを覘くと、白濁した湯に浮かぶのは、温かい色合いをした八重咲きの花々だ。そっと、お湯に指をつければ、丁度いい湯加減であるのがわかる。
ゆっくりと肩までお湯に浸かって、ほっと息を吐く。頭をバスタブの縁に乗せ、ユリは、天井から落ちる煌びやかなシャンデリアの光に瞳を瞬かせながら呟いた。

「わたしが聖女だなんて大げさよ。貴族でもなきゃ、魔法使いでもない、ただの高校生なのに。だいだい、今夜は『ブタバラとギョニク』の最終話なのよ。せっかく買った『豆腐散弾みだれうち』の劇場版も観てない。薫くんの未公開シーンだってあるのに」

彼女の脳裏にあるのは、推しの2.5次元アイドル、チ・クワの面立ちだ。艶やかな黒髪に形の良い眉、すっきりとした鼻梁に、きりりとした瞳・・・・・・。

「このままじゃ死んでも死にきれないわ。わたし、まだ、十八なのに」

ユリの声が段々と弾む。

「そうよ、わたし、まだ未成年よ。それを保護者の承諾なしに勝手に連れ出せば、立派な誘拐罪だわ。そもそも、いくら困ってるからって、全然関係ない異世界の女の子に泣きつくなんて、おかしいんじゃない? 自分の国の出来事を自分たちでどうにもできないのに、どうして、何も知らないわたしが解決できるっていうのよ?」

ユリは、水面を叩いた。バシャッと飛沫が跳ねる。

「そう言えば、精霊に遣わされたとか言ってたわね。そんなものが本当にいるなら、魔王とか、暗黒龍とか、邪神とかもいそう。まさか、生贄にする気じゃ・・・・・・?」

ユリは、勢いよく立ち上がった。

「だから、異世界から呼び寄せるのよ。異なる世界間を渡ってきた人間には、きっと特別な何かがあるんだわ。膨大な魔力とか、他にはない独特な技能とか」

そして、手近な石鹸を鷲掴みにする。

「それを自分たちのいいように利用したいのよ。この世界のこと一つもわからないし、無垢で素直な子どもなら扱いやすいし、国賓扱いで取り囲んで情報を制限すれば、どうにでも都合よく動かせる」

濡れた手で石鹸を捏ねくり回すと、ほんのりと良い香りを放ちながら、白い泡が膨らんでいく。手に吸い付いて離れないほど濃密なそれを、ユリは、全身にたっぷりと塗りたくった。

「きっと、そうよ、何か裏があるんだわ。だって、異世界召喚ができるくらい凄い魔法があるのに、その力で国が治められないなんて、絶対おかしいもの」

しばらく、無言が続いた。ユリは、念入りに泡を顔に押し付ける。そして、全身泡まみれの状態で、目を開けられない彼女は、手探りでシャワーヘッドを探す。猫脚同様、金のシャワーヘッドはバスタブに取り付けられているため、陶器の感触を確かめながら縁をなぞればいい。随分四苦八苦しつつも、やがて金属らしきものに指がぶつかる。蛇口を見つけ捻ると、細かな水沫となってお湯が出てきた。優しい当たり心地で、さっと泡が流れ落ちていく。

「ーーっぱあ!」

ユリは、顔面の水分を手のひらで掃うと、さっぱりした様子で目を開けた。

「こうしちゃいられないわ。第一、わたしは聖女じゃなく、立派な受験生なのよ。志望の大学に合格するためには、学力が圧倒的に足りない。全国模試の結果は散々だったのに、二か月後には大事な本番を控えてるのよ」

その後も、ジャージャー、バチャバチャ、と、盛大に水が跳ね飛ぶ音が続いた。

「何としてでも元の世界に帰してもらわなきゃ。私の人生かかってるんだから。ああっ!」

濡れた身体で扉を開くと、大きなバスタオルを両手に広げたラーダが待ち構えていた。
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