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最終章 -誰が為の終焉-

第19話 11月26日[後編]

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 程なくして、河川敷に紗夜が現れた。

 蒼白な顔に返り血を浴び、肩を震わせている。

 その手にはカッターナイフが握られていた。

(切りたい、切りたい……)

 呼吸が乱れ、冷や汗が滲む。
 周囲の音が遠のき、指先が体温を失っていく。

 不意にカッターナイフを持ち上げたその手を、咄嗟に小春が掴んだ。

 その姿を見た紗夜はわずかに瞠目する。

「無事だったの……?」

 こく、と頷いて答えた。

「それについては後で記憶を転送してやるよ。小春、いいよな?」

「……うん、お願い」

 それを耳に、紗夜は薬を取り出した。じゃらじゃら、と錠剤を口に入れ流し込む。

 少しばかり冷静さを取り戻した。

「何があったの……?」

 沈痛な面持ちで奏汰が尋ねる。

 ややあって、紗夜は答えた。

「うららは……結城依織に殺された」



*



 ────うららと紗夜は、百合園家に集っていた。

 ルールノートを作ったときのように、これまでに判明している事実をまとめていく。

 運営側の面々など、これまではベールの中に包まれていたことまで書き記すことが出来た。

「かなり情報が揃って来ましたわね。雲を掴むようだったけれど、何だか敵の実体を捉えられた気がしますわ」

「そうね……」

 朗々と言ううららに同調したとき、ふと表が騒がしくなった。

 何事だろう。

 顔を見合わせた二人が庭へ出てみると、門衛たちが上、鉈で斬られて死んでいた。

 蔦は明らかに何者かの魔法だ。

「どうなってるの……?」

 二人して戸惑う。

 植物を操る魔法だろうか。そんな知り合いはいない。

 しかし────。

 この有り様、この家に魔術師がいることをあらかじめ知っている襲撃の仕方だ。

「お邪魔ー」

 聞き覚えのある声だった。二人は振り返る。

 悠々と門から入ってきたのは依織だった。咄嗟に身構える。

「……現れましたわね、結城依織。魔法を奪われたことを逆恨みするなんてお門違いもいいところですわ。命あるだけでも感謝なさいよ」

「はぁ? このゲームで魔法を奪われるってのは死んだも同然だよ。これ以上の代償なんてごめんだが、魔法を失ったせいでお前から取り返すことも出来ない!」

 ぎゅう、と依織は拳を握り締めた。

 根深い怨恨の宿る眼差しをうららに向ける。

「わたくしを恨んでいるなら、わたくしだけを狙いなさい! 関係のない方々を巻き込むなんて汚いですわ」

 大雅然り、門衛然り、だ。

 依織は鼻で笑う。

「しょうがないだろ。うちは魔法をなくしたんだ。正攻法で正面から突っ込んでも勝てるわけがない」

「……ああ、思い出しましたわ。もともとあなたは、そういう小狡い手法で殺しまくってた魔術師でしたわね。今さら義を説いても仕方ないですわ」

 うららはとことん辛辣な態度を取った。依織にかける情けなどない。

 強気な表情で腕を組む。

「何処から来ようが一緒よ。わたくしと紗夜が叩き潰してあげますわ」

「はぁ……。何で私が尻拭いを手伝う羽目に」

「し、尻? はしたないですわよ!」

 ────正直、紗夜もうららも彼女を甘く見ていた。完全に油断していた。

 何しろ依織は無魔法の魔術師だ。どう考えたって勝ち目はない。

 それなのに────。

「行きますわよ、紗夜。前と同じように……」

 それが呪術師と相対したときのことを言っているのだということはすぐに分かった。

 うららが相手を引き寄せ、紗夜が毒を食らわせる、という作戦だろう。

 あのときは失敗したが、今回は易いはずだ。

 うららが魔法を繰り出そうとすると、依織はにやりとほくそ笑んだ。

 地面の芝生が触手のように伸び、うららの手足を拘束する。

「な……っ」

 うららは動揺する。紗夜も困惑した。

 ……おかしい。これは依織の能力なのだろうか。

 “魔法で魔術師を殺して奪う”という手段のない依織にはガチャを回すしかないが、先ほどの口振りではそれを忌避していた。

 依織でないのなら、近くに隠れている協力者がいるということになる。

「分が悪いかもよ、うらら。何か得体が知れない……」

「そう、みたいですわね。紗夜、ひとまずこれを何とかしてくれないかしら?」

 うららは芝生の拘束を一瞥し言った。

 毒を繰り出した紗夜は、それで芝生を腐らせようとする。

 しかし、その前に、先ほどのように足元の芝生が触手の如く伸びてきた。

「紗夜!」

 はっとした紗夜は慌てて飛び退く。捕まる寸前で回避出来た。

 しかし、間髪入れずに着地地点から再び芝生が伸びてくる。

 さすがに避けきれず、紗夜も捕まった。

 しかし、瞬時の判断で自身に毒性を帯びさせ、まとわりつく芝生を枯らした。

 奇怪ではあるものの、芝生であることに変わりはないようだ。

 依織はその様を見て目を見張った。

(火炎もだけど……この能力も植物魔法の天敵と呼べるんじゃ?)

 一方、うららは安堵の息をつく。

 このよく分からない魔法に対し、紗夜には対抗手段がある。

「……っ」

 しかし、紗夜は強い頭痛を覚えた。頭の内側から槌で殴られているようだ。

 毒魔法の中で、自身が毒性を帯びる、というのが最も大きな反動を伴う。

 ふらりとよろけ、思わず座り込む。

「ごめん、うらら……。もうしんどい」

「馬鹿ね、普段から全然ご飯食べないから体力がないんですのよ。もう、肝心なときに!」

「…………」

 依織は呆気にとられた。

 二人は状況が分かっていないのだろうか。何なのだろう、この緊張感のなさは。

(まぁ、いいや……)

 紗夜に植物攻撃が効かない、と分かったときは焦ったが、この分なら脅威ではない。

 結果的にどちらの動きも封じた。

 にぃ、と笑った依織は鉈を振り上げ、走り出す。

「死ね!!」

 はっとうららは瞠目する。避けようにも拘束で動けなかった。

 咄嗟に紗夜が動き、うららを庇うように立つ。

 そんなことをしても無駄だ。

 紗夜ともどもうららを────。

「……!?」

 依織は、はたと動きを止める。

 首筋がちくりとした。注射器を構える紗夜と目が合う。

 容器の中身は空になっていた。今の痛みは、注射器の針か。

 そう理解した途端、背筋が冷えた。

 何かを注入された。毒……?

 依織は首を押さえ愕然とする。

 底知れぬ恐怖が這い上がる。

(やばい……)

 紗夜はその場に注射器を捨てた。

 ストックしている注射器は部屋に置いたままにしてきてしまった。

 本当は即効性の猛毒を注入したかったが、“毒性が強くなるほど反動が大きくなる”という特性上、今はこの程度の毒で限界だった。

 遅効性だが、解毒しなければ死に至る。

「動かない方がいいよ……。動けば毒の回りが速くなる。死ぬよ」

「……!」

 依織は焦った。

 紗夜の言葉が事実であれはったりであれ、毒に冒される前に決着をつけなければならない。

 うららのことだけは、何としても殺したい。

「だったら、お前も道連れだ!」

 依織は叫び、再び鉈を振りかぶった。

 紗夜を突き飛ばし、うららに襲いかかる。

「!」

 動けないうららの身体が、鉈で裂かれた。辺りに鮮血が飛び散る。一瞬の出来事なのにスローモーションのようだった。

「うらら……っ」

 地面に手をついていた紗夜は慌てて起き上がり、掠れた声で叫ぶ。

 鉈の斬撃でうららの拘束が解け、彼女は崩れ落ちた。

「この……!」

 紗夜は憎々しげに依織を睨めつけ手を翳す。

 しかし、実際にはもう反動で限界寸前だった。

 立っているのもやっとだったが、悟られないよう虚勢を張る。

 依織は怯み、牽制するように鉈を振り回した。

「はは、は……あはは……っ!」

 復讐を果たした達成感と、毒への恐怖が混在し、狂ったように笑いながら走り去っていく。

 その姿が門の向こうに消えると、紗夜は直ぐ様うららに駆け寄った。

 深過ぎて傷が見つからない。とめどなくあふれる血が止まらない。

 彼女の顔がどんどん色を失っていく。

「ごめんなさい、紗夜……。やられて、しまいましたわ。あなたのことも巻き込んでしまって……」

「いい、いいよもう、喋らないで。すぐ日菜を呼ばなきゃ」

「助からないですわ……、これでは。もう、痛みもない」

 紗夜は喉の奥が苦しくなった。

 息が詰まったのか、言葉が詰まったのか分からない。

 唇を噛み締める。気付けば視界が霞んでいた。
 それを見たうららは力なく笑う。

「何ですの、紗夜……。わたくしが死ぬのが、そんなに悲しいんですの……?」

 いつものようにからかったつもりだったが、彼女の目にも涙が滲んだ。

 意識が遠のいていく。世界の輪郭がぼやける。

「わたくしはここまでですけれど……必ず、目的を果たして。紗夜……生き残って」

「うらら……!」

 うららはそうして微笑んだまま息を引き取った。

 堪らず紗夜は慟哭する。

 それを聞きつけ飛び出してきた家政婦たちは、庭で起きた惨劇に悲鳴を上げた。

 紗夜は呆然としながらそんな騒ぎを抜け出し、大雅にテレパシーを送ったのだった。



 ────紗夜の話を聞いた一同は、沈痛な表情を浮かべたり、険しく謹厳な面持ちになったりと、それぞれ真摯に受け止めていた。

 うららがそんな最期を遂げたとは、さぞ無念だったことだろう。

 彼女だけでない。これまで犠牲になった者全員がそうだ。

 小春は眉を寄せ、涙を拭った。

「……植物魔法、か」

 大雅が呟くと、紗夜は顔を上げる。

「心当たりあるの……?」

 全員の脳裏に先ほどのことが蘇る。

 ────山中の廃屋。男子生徒の遺体。殺された至。

 蓮は硬い声で言う。

「……冬真だ」



*



 百合園家を飛び出した依織は、付近の建物の屋上へ駆け上がる。

 小さな町工場のような場所だ。屋敷を見下ろせるそこには冬真とアリスが待機していた。

「おかえり。復讐達成おめでとう」

 遺体を介し、冬真が言う。

 依織の不気味な笑いが一層深まった。

 何はともあれ、その点は喜ぶべき事実である。

「ぜんぶあんたのお陰だよ! 手を貸してくれてありがとう」

 崇めるような眼差しを向け、依織は深く感謝した。

 うららへの復讐は唯一の願望でありながら、半ば諦めてもいた。

 無魔法の自分には為す術などないはずだった。

 そんな無力な自分に手を貸してくれ、恨みを晴らす一助となってくれた冬真は、依織にとって救いの神のように思えた。

 彼は満足気に微笑む。

 冬真としても、向こうの仲間は減らしておきたいところだった。

 そのために、依織の存在、その復讐心はちょうどよかった。

 うららの魔法は割と強力なのだ。身をもって経験したし、さらには魔法を奪えてしまう厄介な能力でもある。

 しかし、それも最早過ぎた話だ。

 依織のお陰で脅威は天界へと還った。

 まさか無魔法の魔術師が役に立つとは思わなかったが。

「……っ、う」

 不意にたたらを踏んだ依織が咳き込み、血を吐いた。

 みるみるうちに肌の色が青白くなり、血管が浮き出始める。

 紗夜の毒が回り始めたのだ。

 だんだんと呼吸が浅くなる。息を吸っても肺が膨らまない。

 手の先が痙攣していた。
 身体に力が入らなくなり、地面に膝をついて転がる。

 依織は焦った。早く解毒しなければ死んでしまう。

 だが、どうやって────?

「…………」

 冬真は苦しむ依織を冷たく見下ろす。

 うららは片付けられたが、紗夜は殺せなかった。

 彼女を仕損じただけでなく、毒の攻撃まで食らうとは。
 所詮、この程度が限界だろう。

「……冬真、助け────」

「ごめんね。もうここで死んでくれる?」

 縋るように冬真に手を伸ばした依織だったが、無情にも切り捨てられた。

 同盟はここまでだ。

 目的を果たした依織がこれ以上熱心に連中を狙ってくれるとは思えないし、何より無魔法に甘んじている。

 生産性がない。価値もない。
 むしろ、足でまといとなることは確定である。

「な、な……っ」

 何で、と問いたいのだろうが、言葉にならなかった。

 依織は目を剥き、首に手を当てもがく。

 毒の進行は早かった。手足が麻痺し、その場にくずおれる。

 ひゅー、ひゅー、と隙間風のような呼吸を繰り返し、必死で酸素を求めた。

 拍動のたびに全身が焼けるように熱く痛い。
 苦しい。

(誰か、助けて────)

「大丈夫。禍根かこんが残らないように、君の死は見届けてあげるから」

 屈み込んだ冬真の微笑は優しかった。それでも、そこに温度は感じられない。

 依織は目に涙を溜めた。

 彼は、神などではなかった。

「……この……、ク……ズ……」

 絞り出したような言葉に冬真はせせら笑う。

「身から出た錆でしょ。最期の言葉どうも」

 がくがくと痙攣していた依織はやがて動きを止めた。命が尽きたのだ。

 終始沈黙を貫いていたアリスは、依織の遺体を見て気を引き締める。

 “利用価値がない”と判断されれば、次にああなるのは自分だ。

「……ねぇ。あれ、チャンスなんじゃない?」

 冬真はうららの屋敷から出てきた紗夜を指して言った。

 消沈している彼女は足取りもおぼつかない。

 アリスは一瞬考えた。チャンスだろう?

 依織が仕損じた紗夜を殺せ、という意味だろうか。……いや、そうではない。

 最終的にはそうなるかもしれないが、少なくとも今は、別に有効活用する術がありそうだ。

「……せやな。ちょっと行ってくるわ」

 矮小化したアリスは、紗夜を尾行した。



*



 ふと、気配を感じた紅が振り返る。高架の柱裏に影があった。

「誰だ?」

 臆せず尋ねる。その声に一同も影の存在に気が付いた。

 そこに隠れていたアリスは潔く姿を見せた。
 楽しそうに口端を持ち上げる。

「見ーつけた」

 いずれここが特定されることは予想していたが、想定よりもだいぶ早かった。

 至やうららの死を悼む暇も与えてくれない。

 スマホ片手にくるりと背を向け歩き出そうとする彼女を、咄嗟に蓮が火炎で包囲して足止めした。

「うわ」

「冬真に報告する気だな。そうはさせねぇ」

 アリスは振り返り、可笑しそうに笑った。

「どうせ、あんたらが殺せんことは分かってんで。頼みの八雲ももうおらん。何も怖くないわ。佐伯の硬直もせいぜい二十秒やろ? 手も足も出せへんのに、どうするつもりや? 止められるもんなら止めてみ」

 挑発するような言葉と態度に、蓮は憤った。

「なら、このままずっと火で囲っといてやる」

「ウケる。あんた阿呆やな」

 嘲笑したアリスは巨大化し、いとも簡単に炎を跨いだ。

 蓮たちは瞠目し、彼女を見上げる。

 巨大化はかなり目立つものだ。一見して魔術師だと露呈する。

 そのため、これまでは基本的に控えてきたが、今やもう冬真がついている。

 恐れるものなどない。

 そんな彼女の開き直りが、こちらにとっては困ったものだった。

「今ここで全員踏み潰してもええんやで? そうせず一旦退いてやるって言ってんねんから、感謝して欲しいくらいやわ」

 唇を噛み締め、強く拳を握る。

 アリスの言葉通り、こちらは手も足も出せなかった。

「あれでも守らなきゃならない対象なのか? 如月も有栖川も生かす価値などないだろう」

 律は小春に言った。

 彼女は一瞬俯くも、その意思は曲げない。

「……確かに許せるものじゃない。でも、すべての元凶はこんなゲームを始めた運営側にある」

 冬真やアリスの歪んだ性格が元来の性質だったとしても、人殺しまではしなかったはずだ。

 そうさせたのは、助長させたのは、この殺し合いゲームだ。
 間違いなく運営側のせいなのだ。

「感情的になって目的を見失っちゃ駄目。殺し合ったら、それこそ運営側の思うつぼだよ。だから私たちは殺────」

 不意に大雅が手で覆い、慌てて小春の口を塞いだ。
 彼女も蓮も、一同が戸惑う。

「何のつもりだよ」

「……言うな、それ以上」

 大雅はただそう言った。

 よく分からなかったが、気迫に圧された小春は頷く。

「あーあ、相変わらずのお花畑やな」

 アリスは小春を嘲笑いつつ、本来のサイズへと戻ると手を振った。

「じゃあな」

 アリスが背を向けた瞬間、紅は指を鳴らし時を止めた。

 持ち合わせていた結束バンドでアリスの手足を拘束する。

 時間停止時の戦闘手段の一つとして、彼女は常にそれを携帯していた。

 紅は軽々とアリスを抱え、停止した世界の中を颯爽と歩いていく。



 ────時が動き出した。

 アリスはいつの間にか、両手足を拘束された状態で大通りの交差点のど真ん中にいた。

 歩行者信号は青だが、道行く人々の好奇の目に晒されている。

「くそ! 何でこんなとこおんねん。あいつ……、時間停止の魔術師め!」

 アリスは喚いた。

 少し動くと、がさ、と紙の音がする。

 即座に矮小化し、拘束を脱した。

 いつの間にか世の人々は皆、運営側の手の内に取り込まれていた。

 魔法により起こるあらゆる出来事について、疑問も持たなければ追及もしない。

 十二月四日が近づくにつれ、洗脳のようなものが進んでいるようだった。

 最早、魔法の使用に躊躇はいらない。

 はら、と何かが落ちる。いつの間にか背中に貼られていた紙だった。

 “裏切り者”と書かれている。

「…………」

 これも紅の仕業だろう。小さく舌打ちする。

 通常の大きさに戻ったアリスはスマホを取り出し、冬真に電話をかけた。

「あいつらの拠点、見つけた! 今ならまだそこにおるはずや。まずは時間停止の魔術師からぶっ殺そう!」



*



 瞬くと、目の前からアリスは消えていた。紅の姿もない。

 彼女が時を止めている間に、アリスを連れ去ったのだろう。

 瑠奈は紅に電話をかけ、応答を確認するとスピーカーに切り替えた。

「紅ちゃん、大丈夫? 何処行ったの?」

 ややあって、紅の苦しげな息遣いが聞こえてくる。

『……平気だ』

「アリスは────」

『殺した。……社会的にな』

 あんな紙如きでは全然足りないが、嫌がらせにはなっただろう。

 ────時間停止魔法は、指を鳴らすことで時間の停止と再生が可能だった。

 停止中も術者は動くことが出来る。また、術者が触れた物体も動くことが出来る。

 停止していられる時間は、最大で一分間だ。

 しかし……。紅は腕時計を確かめる。

(四十六秒……)

 先ほどは一分と経たずして限界を迎えた。

 だんだん、停止していられる時間が短くなっているように思う。

 紅は蒼白な顔で口元の血を拭った。

「戻って合流する」

『ちょっと待って。やめた方がいいかも』

 慌てたように小春が制する。

『アリスちゃんに場所が割れたってことは、今頃冬真くんにも伝わってるはず。私たちが逃げないうちにここに来るかもしれない』

『だな。今日は一旦解散しよう』

 彼女たちの言葉に「分かった」と紅は頷いた。

「……今のうち、全員に伝えとく」

 大雅が言った。

「運営側に狙われた理由はルール違反だ。そのルールが何なのか分かった」

「何だ……?」

 ルール違反などまったく心当たりがなく、蓮は眉を寄せる。

「殺意の放棄だ。“殺さない”って明確に意思表示しちまうと、あんなふうに直接制裁を加えに来る」

 各々、神妙な顔つきになる。

 蓮も「なるほどな」と頷いた。だから、先ほど小春の口を塞いだわけだ。

「そんな……。私────」

 意図したことでないとはいえ、運営側を呼び寄せた原因が自分だったと悟り、小春は愕然とした。

 これまで制裁として運営側の連中に殺された仲間たちのことを思い出す。

 すべて、自分のせいだった……?

「おい、思い詰めんなよ。小春のせいじゃねぇ。俺たち全員、自分の意思で選んだことだ」

 蓮の言葉に顔を上げる。

 思わず窺うようにそれぞれを見やった。肯定するような頷きや微笑みが返ってくる。

 何てあたたかいのだろう。

 彼らと“仲間”と呼べる存在でいられる事実を噛み締める。

 それは、このゲームに巻き込まれたことで得られた、数少ない喜びだった。

「────皆、くれぐれも気を付けろよ」

 大雅がそう呼びかけ、その場で一同は解散した。



*



 日が暮れる。星が瞬く夜だった。

 暗い道を遠回りして歩いていく。

 隣に小春がいる事実を、蓮は噛み締めた。

 二人で帰路につき、この道を歩くのは随分と久々なように感じた。実際にはそれほどでもないはずなのに。

「……なぁ、これからどうすんだ?」

 このまま家へ帰っても、眠って起きたらまたすべてを忘れている。

 両親も戸惑うだろう。小春もまた、パニックになって家を飛び出したりして、それで冬真たちに見つかったり他の魔術師から襲われたりするかもしれない。

 何より、せっかく取り戻した記憶を、再び失ってしまうことがやりきれない。

「記憶の回復は今日限りなんだろ」

「……でも、もう怖くないよ」

 小春は蓮を見上げ、小さく笑う。

「忘れても蓮が教えてくれるんでしょ」

 深く実感する。本当に小春が帰ってきてくれた。

 蓮は頷き、笑い返す。

「おう、百回でも何百回でも教えてやるよ。忘れてたことを忘れるくらいな」

 小春はさらに笑う。

 蓮がいてくれてよかった。

 ……しかし、実際問題どうしたものだろうか。

 正直なところ、この状態では、小春は家には帰れない。

 かといって至もいなくなってしまった上、冬真たちにも場所が割れたことで、あの廃屋に戻ることも出来ない。

 何処を生活の拠点にしたらいいだろう。

 そのとき、小春のスマホが鳴った。見ると、紅からの着信だった。

 アカウントは瑠奈を介して交換していたのだ。

「もしもし、紅ちゃん?」

『ああ、突然すまないな。水無瀬氏、君は記憶喪失なのだとか』

 紅は相変わらずの古風な語り口で切り出す。

 “突然”なのは電話のことだろうか。話の内容だろうか。
 彼女の問いに小春は「うん……」と頷く。

『色々と困り事があるのではないか? 例えば、住む場所とか』

「それは────」

『私は学校近くのマンションで一人暮らししている。特別なもてなしは出来ないが、もし困っているなら来ても構わないぞ。住所を送っておく』

 驚いたり感謝したりする隙もなく、一方的に電話が切られてしまった。

 間を置かず、紅からメッセージが届く。彼女は言葉通り、住所を貼ってくれていた。

【心配するな、寝巻きなら貸すぞ】

 そんなメッセージ付きで。

 小春は蓮と顔を見合わせた。

 思わぬ申し出だったが、この上なくありがたいものである。

 小春は紅の厚意に甘えることとした。



 日用品だけコンビニで調達したところ、今度は蓮の方に紅からメッセージが来た。

【向井氏に貸せる分はないから、君は自分のを持って来てくれ】

 蓮は驚いたように瞬く。

「え? 俺もいいのかよ」

 そう呟きながら送った。

【当然だ。水無瀬氏のそばにいると言ったのだろ?】

【記憶を失ったら自分がすべて教えてやる、と。独りにしない、と】

【向井氏がそう息巻いた記憶を確かにが】

 立て続けにメッセージが来た。

 “見た”とは、大雅から転送された小春の記憶のことだろう。

 蓮は思わず口元を手で覆った。

(バレてんのかよ、恥ず……。まぁ、ほぼ全員の前で宣言したんだから変わんねぇか)

 記憶を転送されていようがいまいが、あれは仲間たちに見聞きされている。

【分かったよ、ありがとな】

 そう返信すると、スマホをしまう。

 一旦、蓮は荷物を取りに自宅へ戻ることとした。



「寒いだろ? 中で待ってろよ」

「いいよ、家の人に悪いからここで」

 ドアに手をかけ促したが、小春は首を左右に振った。

 仕方がない。彼女を玄関前で待たせ、蓮は速攻で支度すると家を飛び出した。

「……!?」

 しかし、待っていたはずの小春の姿はなかった。

 この一瞬で何かよくないことが起きたとでも言うのだろうか。

 青ざめた蓮が慌てて道路へ飛び出すと、そこにはぽつんと人影が佇んでいた。

「…………」

 小春が、自身の家を見つめ立ち尽くしていた。

 蓮は眉を下げ、小さく息をついた。

 家も家族も恋しいはずだ。心配なはずだ。

 尤も、家族の方は“小春は友人の家へ泊まりに行っている”と信じ込んでいるのだが。
 ……そして、それは今から奇しくも現実となる。

 ぽん、と蓮は小春の頭に手を載せた。

 小春ははっと我に返り、振り向く。

「行こっか」

 彼女は微笑んだが、無理が垣間見えた。

「……おう」

 蓮は短く答える。それ以上、何も言えない。

「飛んで行く?」

「……いや、歩いてこうぜ」

 夜風は冷たいはずなのに、何故だか寒くはなかった。



 送られてきた住所へ、マップアプリを活用しながら歩いていくと、辿り着いたのは高々と聳える立派なマンションだった。

 外観も内装も豪華で綺麗なものだ。植えられた木や花壇の手入れも行き届いている。

「おいおい、こんなとこに一人暮らししてんのかよ。しかも高校生が」

「びっくりだね……」

 驚きを隠せないまま顔を見合わせた。

 彼女に教わった部屋番号を入力し、インターホンを押す。

 解錠された自動ドアを潜り、紅の部屋へと向かった。

 すぐさまドアが開けられ、彼女が顔を覗かせる。

「よく来たな。上がってくれ」

「お邪魔します……」

 やや戸惑いを拭えないながら、小春は蓮とともに家へ上がった。

 廊下を進む彼女について行くと、広々としたLDKへと突き当たる。

 紅の部屋は全体的にシンプルですっきりとしていた。
 洗練された家具が揃っており、掃除も行き届いている。

「すげぇー」

「うん、凄い広いね」

 きょろきょろと部屋を見回し、小春と蓮は感動を顕にした。

「私は必要最低限の生活を好むため、持て余している。空室ばかりだ。今回はかえってそれが役に立ったみたいだがな」

 淡々と答えた紅がリビングに隣接する二つの扉の前で立ち止まった。

「空いている洋室だ。それぞれ好きに使ってくれ。こんなときのために布団もある」

 ガチャ、と扉を開けてみる。

 テーブルに椅子、布団一式と、まさに必要最低限のものが揃っていた。

「ミニマリストっつった割には用意がいいな……」

 訝しむように屈んだ蓮は、その布団にタグを見つけた。

 小春は「あ」と呟いてしまう。

「これさっきパクッて来ただろ」

「さて? 何のことか分からない」

 紅は表情を変えることなく、淡々としらばくれた。

 時を止められるということは、そういうことも出来てしまうわけだ。

 そういえば、紅は小柄な見た目とは裏腹に、たった一人でアリスを運んでしまうほどの力持ちなのだった。布団二つくらいも余裕だろう。

 間取りの説明を終えた彼女は二人に向き直る。

「風呂は沸かしてあるから、いつでも入ってくれて構わない。ご飯は私が作る。自分の家だと思ってくつろいでくれ」

 それを聞き、蓮は小春に目を向けた。

「今日は色々あって疲れただろ。先、風呂入って来いよ」

「安心してくれ、水無瀬氏。洗面所には鍵もある。向井氏のことは私が見張っておく」

「覗かねぇよ、馬鹿」

 遠慮と容赦のない紅と蓮のやり取りに思わずくすりとする。

 深刻になり過ぎないよう気遣ってくれているのかもしれない。

「ありがとう」

 二人の優しさに甘え、小春は風呂へ向かうこととした。



 湯船に浸かると、気が抜けた。

 一人になった途端、今日の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。

 じわ、と涙が滲んだ。

 至を失い、うららを失い────その事実が重く深く胸に突き刺さる。

 唯一喜ぶべきは記憶が戻ったことだが、それも明日には消えてしまう。

「……っ」

 震える右手を見た。

 至を貫いた感覚は、まだ色濃く残ったままだ。

『……ね、よかったら俺の拠点おいで。記憶が戻るまで俺が守ってあげる』

 孤独に飲み込まれた夜、手を差し伸べてくれた。

『やれ! 小春!』

 最後まで、自分ではなく小春たちのことを優先してくれた。

 何度忘れても、彼は怒りも責めもしなかった。

 身に余る優しさを注いでくれた。

 ありがとう、も、ごめんね、も、全然足りない。

 もう届かないと分かっていても、涙の隙間で何度もそう唱え続けた。

 悲しみと虚しさで心に穴が空いたようだった。

 明日には、そんな彼のことも忘れてしまう────。



 着替えを運んできた紅は、洗面所の扉に手をかける。抵抗なくすんなりと開いた。

「……鍵はあると言ったのに無防備だな」

 そんなことを呟きつつ、バスケットに畳んだ服を入れておく。

 そのとき、浴室の扉越しに小春のすすり泣く声が聞こえてきた。

 彼女の置かれた状況やその心情を思えば当然なのかもしれない。

「…………」

 少しだけ迷ったが、紅は結局何も言わずに洗面所を出た。



 時刻は二十一時半を回っていた。

 寝るには少し早い気もするが、疲労感からか既に眠気を覚えた小春は、布団の上に座っていた。

 ……だが、眠りたくない。

 こんこん、と扉がノックされた。返事をすると、蓮が顔を覗かせる。

「どうかしたの?」

 蓮は「んー」などと答えになっていない答えを返しつつ、後ろ手で扉を閉める。

「別に、様子見に来ただけだ」

「そう……?」

 静寂が訪れる。秒針の音がそれを埋めていく。

 小春といられて嬉しいはずなのに、もう少し一緒にいたいはずなのに、何だか妙に居心地が悪い。

「…………」

 くすぐったいような焦れったいような、この微妙な空気感は何だろう。

「……じゃ、俺戻るわ。おやすみ、また明日な」

 耐えられなくなって半ば捲し立てるように言うと、背を向け取っ手に手をかける。

 小春は咄嗟に立ち上がった。思わず蓮の裾を掴む。

「小春?」

 振り返るに振り返れず、蓮は戸惑った。
 どうしたのだろう。

「忘れたくない……」

 小春は泣きそうなほど小さな声でこぼす。

「怖くないのは本当。蓮がいるから。でも、蓮や皆のこと、忘れちゃうのはもう嫌だよ。忘れたくないの」

 彼女の本心を聞き、蓮は唇を噛み締める。

 ────小春に忘れられたとき、目の前が真っ暗になった。 

 ショックと絶望に打ちひしがれ、ぶつけようのない激情に苛まれた。

 苦しかった。辛かった。

 そんな一言では到底表し切れないが、とにかくやるせなかった。

 ひどく腹が立った。小春にではなく、そんな状況に。彼女の記憶を奪った運営側に。

 これまで小春と過ごしてきた時間、紡いできたすべてを、否定されたような気がしたのだ。

 だが、何より辛いのは小春本人のはずだ。

 その日、どれだけ丁寧に思い出を築き上げても、次の日には跡形もなく崩れてしまうのだ。

 彼女が色々なことを忘れても、自分が教えてやればいいと思っていた。

 実際そうするしかない。しかし、それだけで割り切れるわけがない。

「……分かった」

 蓮はそう言うと、振り向いた。

 そっと小春の手を取る。

「じゃあ、眠らないでいよう」

 彼女の手を引き、布団の上に並んで座った。

 蓮は真っ直ぐに小春の双眸を捉える。

「俺もここにいるから、朝まで話そうぜ」

 小春はわずかに瞠目した。蓮らしい台詞だった。

 焦りや不安の蔓延っていた心が、じんとあたたかく震える。

「うん……!」

 小春は泣きそうに笑った。

 ……いつだってそうだ。

 蓮は、沈んでいた心を掬い上げてくれる────。
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