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最終章 -誰が為の終焉-

最終話 11月28日

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 午前七時半。

 目覚めた小春は困惑した。
 隣で蓮が眠っていたからだ。

 意外と長い睫毛や通った鼻筋が、柔らかな影を落としている。
 思わず見つめてしまい、どぎまぎした。

 いったいここは何処だろう。

 何がどうなって一緒に寝るということになったのだろう。

 ゆっくりと起き上がったとき、蓮が「ん……」と小さくこぼした。

 うっすらと目を開ける。その焦点が小春に定まる。

 朝の淡い光に包まれ、まだ何処か夢心地だった。

「……はよ」

「あ……おはよう。えっと……」

 戸惑いつつ答える。
 蓮は起き上がり、ふっと笑って見せる。

 彼女の記憶の穴を埋めるように、忘れていることをすべて説明した。昨晩先走ってしまった告白のこと以外は。

 小春は告げられる色々な事実を、驚いたり悲しんだり笑ったりしながら受け止めた。

 一通りの説明を終えると、蓮は言う。

「俺さ、昨日またガチャ回したんだ」

「えっ!?」

「会得したのは風魔法で、代償は寿命だったけど……大丈夫だ」

 年数については明言しなかった。

 今さらどうにもならないし、余計な心配を煽りたくない。

 同じことをメッセージアプリのグループでも報告しておく。

【火炎と相性がいい。運がいいね】

 紗夜は淡々とそう評した。

 それはそうだ。代償はともかく、引いた魔法自体は当たりの部類に入るだろう。

 その後、程なくして七人全員と連絡がついた。

 決戦は今日だ。

 泣いても笑っても、今日ですべてが終わる────。



 身支度をして朝食をとると、九時を回った。

 昨日同様、運営側から“中間発表”と題したメッセージが来る。

【12月4日まで、残り6日となりました。
現在の生存者を発表するよ~!

・朝比奈 莉子
・雨音 紗夜
・如月 冬真
・胡桃沢 瑠奈
・五条 雪乃
・斎田 雄星
・佐伯 奏汰
・三葉 日菜
・水無瀬 小春
・向井 蓮

以上、10名。
各自殺し合い、頑張って生き残ってください】

 紅とアリスの名が消えていたが、他は変化なしだ。

【みんな、もう大丈夫?】

 小春はグループにそう送り、各自の状況を確認した。

【大丈夫!】

【いつでもいいよ】

 最後を迎える覚悟は、各々既に出来ているようだ。

 彼らの返信を受け、これから三十分後、河川敷で合流予定とする。

「まだ三十分あるけど、何すんだ?」

「伝えに行かないと。雪乃ちゃんたちにも」

 魔術師である三人のことは、どのみち今日巻き込んでしまうことになる。

 小春と蓮は名花高校へと赴いた。



 雪乃は今日も莉子たちと一緒だった。当然、和気あいあいとしたものではないが。

 埃にまみれた雪乃と、そんな彼女を見下ろす莉子と雄星。

 咎めるような眼差しで彼女たちを見据える。

「あれー? 小春じゃん。今までどこいたのー?」

 そうか、と思い至る。

 彼女も魔術師だ。だから小春失踪の異変にも気付けていたわけだ。

「……やめなよ、もう」

 小春は毅然と言う。

 雪乃は若干目を見張った。

 しかし莉子たちは怯みも悪びれもせず、へらっと笑うだけだった。

「何が? あたしたち遊んでるだけじゃん」

「つか、見た? こいつも魔術師だったんだって。マジびっくり」

 雄星が雪乃を指して言う。

 その雪乃からほとんど毎日殺されているとは、夢にも思わないことだろう。

「てか何しに来たの? わざわざ止めに来たわけ?」

「……話があるの」

 不興を顕にする莉子にも怯まない小春の姿は、雪乃からすれば信じ難いものだった。

 否、雪乃以外からしてもそうだ。

 女子の中の女王的存在である彼女は、そういう意味で恐れられている。

 だからこそ、雪乃いじめをほとんどが傍観しているのだ。

「何?」

「私たちは今日、運営側と戦う。そのことをあらかじめ伝えに来たの」

 さすがに驚いたようだった。

 莉子と雄星の顔から笑みが消え、二人して顔を見合わせる。

「……へー、ガチ? 何で?」

「ゲームを終わらせるため」

「放っといても十二月四日には終わんだろ」

「それじゃ手遅れなんだよ、馬鹿」

 見兼ねた蓮は毒づいた。

 どうやら二人は事の重大さが分かっていないようだ。

「……ま、何でもいいや。好きにしなよ」

「俺たちは手伝わねぇからな。面倒くせぇ」

「いらねぇよ」

「どうなるか分かんないから伝えに来ただけなの。二人も好きにして」

 最初から協力など求めてはいない。むしろ願い下げである。

 莉子は「言われなくてもー」と暢気な調子で返し、背を向けた。
 雄星とともに去っていく。



「今日……」

 目を伏せたまま雪乃がぽつりと呟いた。

 とうとう今日が、決戦の日なのだ。

 小春は慌てて彼女に向き直った。

「あ、ごめんね。勝手なことしちゃって」

 莉子を制したことだ。

 あれでさらなる反感を買えば、害を被るのは小春ではなく雪乃だろう。

「とんでもない。あんなふうに立ち向かってくれる人、水無瀬さんが初めてです」

 雪乃は眉を下げ、笑った。

 何処か晴れやかで清々しい表情だった。

 蓮は不満気に眉を寄せる。

「……お前さぁ、本当に二面性凄いよな。つか、小春のこと好き過ぎだろ」

「は? 向井に言われたくねぇし」

「おい!」

 思わぬ反撃を食らい、蓮はたじろいだ。

 告白はすべてが終わってから、と決めているのに、余計なことを言われた。

 幸いにも小春は気付かず「二面性?」と首を傾げている。そっちではない。

 ふと、蓮は雪乃の制服や髪に付着した灰色の埃を眺めた。

 肩に載っていたそれを一つつまんで払う。

「……なぁ、何でいじめられるって分かってんのに毎日律儀に登校してんの?」

「怨恨の蓄積だ」

 お陰で殺すことに躊躇もなくなる。モチベーションも保てる。

 殺害しても時間を戻して蘇生しているとはいえ、小春の手前、そこまでは口に出来なかった。

 残忍で私的な理由であることは自覚している。

 尤も、ほとんど復讐のために力を使い、復讐に生きている彼女を、今さら責め咎めたりする資格はないと小春は思っていた。

「……今日、決着をつけるんですね」

 彼女に向き直った雪乃は呟く。

「そしたらおしまいだな、この世界も」

 少し寂しげに聞こえた。

 この命に執着はないが、楽しかった一方的な復讐劇が終了してしまうことだけはわずかに心残りだ。

「運営側を倒したらどうなるんです?」

「……分からない」

 そもそも勝つか負けるか、生きるか死ぬかも分からない。

 反逆に怒った運営側が、報復として関係のない魔術師────つまり雪乃たちを狙う可能性もないとは言えない。

「私たちのせいで、雪乃ちゃんにも害が及ぶかもしれない。本当にやってみないと、どうなるか分かんない」

 眉を下げた小春に、雪乃は頷く。

「大丈夫。元よりあたしは最後まで生き残るつもりなんてなかった。魔法の残量も残りわずかだし、身体もボロボロです。仮に生き残れたとしても、先は長くない」

 ちょうどいい機会だ、終焉を受け入れるには。

「……やっぱ一緒に来るか?」

 思わず蓮は言った。

 彼女の魔法を当てにしたいわけではなく、何となく見殺しにするようで忍びないという気持ちが強かった。

「お前は最後まで馬鹿だな。どう考えてもついてく方が危ねぇわ」

 雪乃はばっさりと断った。

 馬鹿にされたことにカチンと来た蓮だったが、反論は出来ない。

 彼女の言う通りだろう。

「でも、自分の知らないところで起きた出来事のせいで、巻き添えになって死んじゃったりしたら……やるせなくない?」

 案ずるような小春に、ぱっと雪乃は顔を上げた。

「そんなことないです。水無瀬さんはこうして事前に知らせに来てくれた。前にも言ったけど、あたしは水無瀬さんたちのやろうとしてることは間違ってないと思う」

 雪乃は真っ直ぐな視線を注ぐ。

「だから、応援って言い方が相応しいのか分からないけど……成し遂げて欲しい」

 少し間を空け、今度は小春が頷いた。

「……ありがとう、気遣ってくれて」

「おまえ────」

 雪乃による扱いの差に文句を言おうとしたが、その前に彼女は遮る。

「あたしはあたしのしたいようにするよ、最後に」

 長い前髪の隙間から覗いた瞳には、強い意志が宿っていた。

「ありがとう。あのとき、あたしに声掛けてくれて。無事と勝利を祈ってるからね、水無瀬さん……と、向井も」

 意外そうに顔を上げる蓮。

 小春は心が震えるのが分かった。

 思わず一歩踏み出し、雪乃を抱き締める。

「こちらこそ……助けてくれてありがとう。無事でいてね。すべてが終わったらまた会おうよ」

 雪乃は答えることなく微笑を湛え、小春を抱き締め返した。

 荒んだ心が乾き切る前に、この優しい温もりを知れてよかった。



*



 名花高校を後にした二人は、約束通り河川敷へ向かった。

 奏汰、瑠奈、紗夜、日菜────それぞれと同じだけ目を合わせる。

 決意も覚悟も揺らいでいない、凜然たる眼差しが返ってきた。

「冬真は……」

「ごめんね、少し遅れた」

 傀儡を伴い、冬真も姿を現した。小春は「大丈夫」と答える。

 彼に別段変わった様子はないように思えた。

 不都合な記憶はまだ、忘却の彼方だろうか。

「行こうか、最後の戦いへ」

 冬真が告げた。

 探り探りに眺めてしまったが、記憶の回復は恐らくしていないだろう。そう判断出来た。

 各々が頷き合う。

 拍動を落ち着けるように、小春は深く息を吸う。

「私たちはゲームを放棄する」

 はっきりと宣言した。

 ゲームに巻き込まれたときからの記憶や、死んでいった仲間たちの顔が、走馬灯のように思い浮かぶ。

「誰も傷つけないし、殺さない。こんなくだらないゲーム、もう終わらせる」



*



 運営側の面々は、当然ながらその状況を眺めていた。

「はぁ? 私の考案したゲームがくだらない? もーあったま来た! あいつら許さない!」

 霊媒師は苛立ちを顕にしたが、呪術師と祈祷師は興がるような笑みを口元に湛えた。

「どうする、陰陽師。奴ら、あたしたちに楯突く気だよ。見聞きしていたと思うが、あたしたちの打倒を目論んでる」

「誘われてるって分かってるけど、無視は出来ないよねー。霊ちゃんも激おこだし」

 祈祷師は続ける。

「まー、でも……ちょっとヤバイかもよ。脅威のイタルくんがいなくなったとはいえさ、人間界したに降りたらボクたちにもダイレクトに魔法効いちゃうし」

「関係ないし! 天界こっちでだって魔法は効くじゃん。今すぐ殺しに行かせて」

 感情のままに騒ぎ立てる霊媒師を、陰陽師は呆れたように一瞥した。

「……落ち着け」

 彼は常に無表情だったが、今は何処か不興が滲み出ているように見える。

「確かにどちらでも魔力は有効だが、我々が受ける分には、ここの方が奴らの世界より威力を軽減出来るのも事実だ。人間如きには適応出来ない空間だからな。……奴らがここで能力を使えば、その肉体は確実に破滅する」

 祈祷師は「ひゅー」と口笛を吹く。

「出たー、陰陽師サマの人間嫌い。要は奴らをここに呼んじゃおうってことね」

「自滅も狙える。そもそも自滅覚悟なら、陰陽師がそれより先に叩き潰してくれるんだね」

 呪術師も後に続いた。

 陰陽師は頑なに人間界へ降りようとしないため、向こうを戦いの舞台に選べばこちらが不利だ。

 さらには天界でしか使えない、そして陰陽師にしか使えない、禁忌の異能がある────。

 そのためにも、こちらでやるしかない。

 負けるとは思えないが、こうも分かりやすく宣戦布告されたのでは、圧倒的な力の差を見せてやらなければならない。

 何せ連中は所詮、魔法を借りているだけの、魔術師とも呼べないである。

 自分たちを倒すなど、思い上がり過ぎだ。

「……招待してやろう、我々の天界にわへ」



*



 小春たちは、突如として広がった閃光に目を瞑った。

 まるで雷でも落ちたかのように白く眩しい。

 恐る恐る目を開けた。

 空間に光の穴のようなものが出現していた。眩し過ぎて白く飛んでおり、その奥は見えない。

「何、これ」

 てっきり運営側の誰か、あるいは全員が現れるものだとばかり思っていた。

 予想外の展開だ。

 だが、直感的に分かる。

 自分たちが呼ばれているのだ。

「……行こう」

 小春は躊躇なく光の穴へ飛び込んだ。

 恐らくは天界へのポータルである。それぞれが後に続いた。

 最後に残った瑠奈は怯え、二の足を踏んでしまう。

 しかし、もう行くしかない。後戻りは出来ない。
 えい、とどうにか自分を奮い立たせ飛び込んだ。

 全員が飛び込むと、光は消える────。



*



 ぽた、ぽた、と包丁の先から血が滴り落ちる。

 家庭科準備室から持ち出したものだ。

 屋上には、二人の遺体が転がっている。包丁で滅多刺しにしたため血まみれだった。

 莉子と雄星の虚ろな目は、もう何も捉えていない。

 包丁を握り締める雪乃は、迸る眩い光を見た。小春たちが最後の舞台へ向かったのだろう。

「…………」

 足元に転がる憎い二人を見下ろす。

 もう、巻き戻しはしない。

 これで終わりだ。

 雪乃は手にしていた包丁を自身に向ける。

 ────何度も、繰り返し復讐を遂げた。

(あたしのやることはあと一つ……)

 凄絶な復讐劇に幕を下ろすときが来たのだ。

 優しい小春は自分の所業を咎めなかったが、雪乃自身の心は既に決まっていた。

 如何な敵にも殺しという手段を用いない小春。

 自分は私怨に縛られ何度も両手を血に染めた。

 救世主である小春の信念を裏切り続けた。

 小春が雪乃を赦しても、雪乃は自身を許せなかった。

 それでも、自分の選んだ道に後悔がないことだけが、唯一の救いだ。

「……水無瀬さん、ごめんね」

 つ、と涙が頬を伝う。

 強くを握り直す。

 雪乃は包丁の刃を、心臓に突き立てた。



*



 小春たち七人は、異空間へといざなわれた。

 赤く燃えるような夕空が足元に広がる水面に反射しており、上下左右という感覚がなくなりそうだ。

 時間の概念も自分たちの世界とは違う模様である。

 何より水の上に立っていることが不思議な体験だった。沈みもせず踏み締められる。

「ここが天界か?」

「イメージと違うなぁ。雲の上とかかと思ってたのに」

 瑠奈が呟く。
 幻想的な風景であることに変わりはない。

 人気ひとけはなかった。

 奥(という言い方が正しいのか、距離感の概念もおかしくなる空間だが)に椅子が見えた。玉座のような豪勢なデザインだ。

 誰からともなく七人はそちらへ進む。

「!」

 不意に風景が変わった────。

「え、学校!?」

「しかも夜だ……」

 気付けば、深夜の名花高校にいた。その廊下に立ち竦んでいる。

 どうなっているのだろう。

 場所の概念も自分たちの世界とは違う。

 ここはもう、何でもありの異空間なのだと痛感する。

 何が起きてもおかしくない。

 小春はふと祈祷師に瞬殺されたことを思い出した。正確には、雪乃に見せられた光景だが。

 あんなことが、今この瞬間に起こってもおかしくないわけだ。

「あ、来た来た~。やっと殺せる」

 廊下の先から声がした。

「あんたたち、相当なお馬鹿さんみたいだね。自らのこのこ虎の穴に飛び込んでくるなんて……命知らずにも程がある」

 暗闇から姿を現したのは二人の女だった。霊媒師と呪術師である。

 一同に鋭い緊張が走った。

 身構えながら、奏汰、紗夜、瑠奈が前衛に出る。昨日の時点で決めていた通りだ。

「蓮たちは行って」

 油断なく二人を見据えつつ、奏汰が言う。

 昨日二通りの作戦を練ったが、現段階では陰陽師の動向が窺えない。

 天界という場所からして、ひとまず“前者”の想定でいくしかないだろう。

 ここで必要以上に犠牲を出すわけにはいかない。

 小春たちが不安気に彼らを見やれば、力強い頷きが返ってくる。

「日菜は小春たちについて行って……」

「あたしたちはヘーキ! 一瞬で片つけてやる」

 小春は踵を返す。

「分かった。……また後で」

 半分は希望を込め、そう言って走り出した。

「気を付けろよ」

「どうかご無事で……!」

 蓮と日菜も後に続く。

 冬真は人知れず白けた表情を浮かべながら、傀儡を伴って走った。

 何処へ向かうべきかなど分からない。

 ただ、遠ざかることだけを考え駆け抜けた。



「はい、ストップー」

 最早馴染み深いとさえ感じる祈祷師の声とともに、踏み出した足の先で、火炎で線引きされた。

 蓮は「危ね」と咄嗟に飛び退き、小春を庇うように立つ。

 冬真と日菜も足を止めた。

 祈祷師は顎に手を当て、それぞれを見比べる。

「ふーん、変な組み合わせだね。特にトーマっち、キミどういう風の吹き回しなの? ……なぁーんつって。見てたからぜんぶ知ってるケドー」

 けらけらと笑う。彼は本当に掴みどころがない。

 ひやりとした。
 祈祷師が余計なことを口走るとは。

「……だったら、あのことも知ってるよね」

「アノコト? 何のコト?」

 微笑む冬真にとぼける祈祷師。

 やけに親しげな二人の様子に小春たちは戸惑った。

 律が自分たちにとって不都合となるような冬真の記憶を消したのなら、祈祷師とのことも消えたか書き換わっているはずなのに。

 冬真の様子もおかしい。……“あのこと”?

「僕が記憶を取り戻したこと」

 冬真ははっきりと言ってのけた。

「……!?」

 小春たちは動揺する。
 目を見張り、息をのんだ。

「そんな……」

 いったい、いつからだろう。ずっと演技をしていたとでも言うのだろうか。

 祈祷師はにやりと笑みを湛える。

「モチロン知ってるよー。記憶操作されておろおろしてたキミは傑作だったな。あんなの普段のトーマっちからは想像もつかないってー」

「はぁ……本当に情けない姿だったよね。しかも、こいつら全員そんな僕に付け込んでさ。僕よりよっぽどヴィランだと思わない?」

「くくく、キミに自覚があったとは」

 二人のやり取りに圧倒されてしまう。

 ひたひたと、悪い予感が忍び寄ってきている。
 
「どういうことですか……。どうなってるんですか!?」

 日菜は狼狽える。

 小春も信じ難い気持ちになり平静さを欠いていた。

「……最悪だな」

 驚いたり怒ったりする気力を失っていた蓮は、それだけを低く呟く。

 この状況が。そして、冬真の魂胆が。

 ────冬真は以前、琴音を殺すために祈祷師と手を組んでいた。

 そして彼は元より、小春たちとは意向が対立している立場である。

 今回また祈祷師と手を組むことで、小春たちを皆殺しにし、自分一人だけ生き残る気なのだ。

「ねぇ、もう一度僕と協力しよう。あのとき言ってたよね。また何かあったら、って」

「あー、うん。言ったね」

「じゃあ手を組もう。僕もこいつらの殲滅に全力で力を貸す。全員殺して、唯一の生存者になる。僕だったら、君たちを退屈させない」

 小春たちはただただ惑った。言葉が出なかった。

 どうしたらいいのだろう。

 冬真が運営側についてしまえば、小春の信念も貫けないかもしれない。

 冬真だって立場は同じで、守るべき対象なのに。敵対している場合ではないのに。

 しかし彼は話の通じる相手ではない。

 記憶が戻ってしまったのならば、尚さら────。

 祈祷師は興がるように口角を持ち上げる。

「いいねー、確かにキミは見てて飽きないよ。ボクは大好き。その提案も超面白そう」

「……じゃあ────」

 ほくそ笑んだ冬真が一歩踏み出した瞬間、素早く祈祷師が水弾を連発で放った。

 その銃口ゆびさきは、冬真に向いている。

「……っ」

 まともに数発食らった彼は血を吐き、崩れるように膝を折った。右胸や脇腹、みぞおち辺りが赤黒く染まる。

 突然の出来事に、日菜は悲鳴を上げた。

 蓮は瞠目し、小春も呼吸を忘れた。

「と、冬真くん……」

 どういうことなのだろう。

 驚いたのは、彼が急に撃たれたことだけではない。

 そのまま結託する流れではなかったのか。

 祈祷師は冬真の申し出を全面的に受け入れたように見えたのに────。

「お、まえ……」

 どくどくと血のあふれる傷を押さえ、彼は恨めしそうに祈祷師を睨む。

 当の祈祷師は相変わらずへらへらと軽薄な笑いを浮かべていた。

「いや、申し訳ないけどボクに決定権ないんだよね。キミの言ってることはすごーく魅力的。でも、ここへ乗り込んできた魔術師は一掃しろ、とのことだからさ、悪く思わないでよ」

 その言葉に、小春は眉を寄せる。

「もどき……?」

「おっと」

 どういう意味だろう。

 口を滑らせたのか、祈祷師は口を噤んでしまった。それについて説明する気はないらしい。

 冬真の荒い呼吸に血が絡む。銃創からぼたぼたと血が垂れる。

 日菜は治癒しようと手を伸ばした。

 彼がどんな人間であれ関係ない。何事も命あってこそだ。

「近寄るな……」

 しかし、冬真はにべもなく拒絶した。

 この状況における、なけなしのプライドだった。

「強がっちゃって。ホントは痛くて痛くてたまんないくせにー」

「どうして……僕を裏切る?」

 祈祷師の顔から笑みが消える。

「トーマっちさぁ、勘違いしないでくれる? ボク、別にキミの味方じゃないから」

「何を、今さらそんな嘘……」

「嘘? あはは、ぜーんぶ事実だよーん。最初に手を組んだのもコトネン殺害のため。そこは一致してたけど、動機が違った。ボクはあくまで制裁に来てたんだよ」

 別に冬真に手を貸したわけではないのだ。

 冬真は、ぎり、と奥歯を噛み締める。

「そんで、あとは? ……あぁ、キミに星ヶ丘の魔術師の人数教えたんだっけ。あれはまぁ、ゲームを盛り上げるための粋な計らいってやつよ。だってフツーに考えてアウトでしょ、運営とプレイヤーが結託なんて」

 とんだ暴論だ。無茶苦茶な言い分である。

 冬真もまた、彼の気まぐれに振り回されたに過ぎないのだ。

 祈祷師の唇がにんまりと弧を描く。

「これで分かったんじゃない? キミも所詮、駒の一つに過ぎないってこと。……それじゃ、苦しそうだしそろそろ殺してあげようかな────」

 祈祷師が再び銃のように手を構えると、小春は咄嗟に地面を蹴った。

 冬真の前に立ち、両手を広げる。

「小春!」

 蓮は慌てた。

 驚いたのは冬真も同じだった。

「なんの、つもり……? 僕は君たちの敵で、仇でしょ……」

「そんなこと関係ない。皆守るって誓ったの」

 毅然として告げる。

 怒りや憎しみに翻弄されては、目的を見失う。

「おーおー、すんばらしい仲間意識。キミはミナセコハルだね? けど、やっと手を下せそう」

 祈祷師は水弾から光弾に切り替えた。

「あのときはイタルくんともどもやってくれたよねー。キミに貫かれた肩痛かったんだよー。さすがにやり返していいよね」

 小春は怯むことなく、同じように手を構える。

 互いにいつでも光弾を放てる状態で対峙する。

 不意に背後で傀儡の遺体が倒れた。冬真の力が弱まっている。魔法を発動していられるだけの体力がもう残っていないのだ。

「……私たちは身を守っただけ」

 小春はそう返すと、油断なく祈祷師に銃口ゆびさきを向けたまま、冬真に触れた。

 これであれば、重傷を負った彼でも逃げられる。

「蓮、二人を連れて逃げて」

「待てよ、小春は!?」

「心配しないで。すぐ追いかける」

 蓮は正直なところ、彼女と離れたくなかった。

 一人にするなど心配でたまらない。こんな場所では尚のことだ。

 しかし、ここで駄々をこねていても埒が明かない。それほど無駄なことはない。

「……無茶すんなよ? すぐ戻るから」

 二人を安全な場所へ隠し、すぐに戻ってくる他にない。

 走り出した蓮に日菜も後に続いた。

 しかし、冬真は項垂れたまま動こうとしなかった。

 動けないのではない。小春の魔法により、空中を移動出来るのだから。

 足を止めた蓮は振り返る。

「冬真!」

 急かすように叫んだ。

 彼は俯いていた顔を上げ、祈祷師を睨みつける。

 もう言葉はなかった。傀儡が解除されているのだ。

 意図は聞けないが、やろうとしていることは何となく分かる。

「おい冬真、やめとけ。死んじまうぞ」

 蓮は制したが冬真は首を左右に振った。

 手を翳し、祈祷師に蔦を絡め拘束する。

 既に息が苦しい。
 負傷のせいか、いつもより反動が重く大きい。頭が割れそうだった。

 撃たれた傷が疼く。あふれる血が止まらない。

 ひどい寒気に襲われ、指先が震えたが、ほとんど意地と気力で動いていた。

「えぇ? ちょっとー、動けないじゃん。殺されるー」

 祈祷師が喚く。

 言葉とは裏腹に、その口調にはまるで緊迫感がない。

 冬真は小春の浮遊魔法を利用し、一気に祈祷師と距離を詰めた。

 尖った剣のような樹枝をその左胸に突き刺す。

 しかし、実際に貫いたのは彼の左肩だった。

 祈祷師は寸前で避け、急所から逸らしていた。

「……っ」

 冬真は歯を食いしばる。

 祈祷師も痛みに顔を歪めていたが、致命的なダメージを与えられていないのは明白だった。

 刺さっていた樹枝を抜く。

「痛ったいなぁ、もう……。キミらさ、ボクの肩に恨みでもあるの?」

 祈祷師は傷口を押さえながらおどけるように言った。

 あふれていた血は止まり、みるみる傷が塞がっていく。

「!」

「そんな……」

 日菜の回復魔法とも少し違っているように見えた。

 彼の能力で治癒したというより、この空間がそうさせているようだ。

「ふふ、天界こっちではボクら無敵なんでねー」

 祈祷師は笑った。

 その言葉に疑いの余地はなさそうだ。

 この異空間は見るからに彼らにとって有利に働いている。彼らの味方をする。

 だからこそ自分たちが招かれたのだ。

 ────不意に祈祷師は笑みを消す。

「トーマ、覚えときなよ。悪役ヴィランは滅びる運命なの」

 冷淡に告げた祈祷師は、流れるような動作で冬真の額に光弾を撃ち込んだ。

 小春の浮遊魔法が解け、彼はその場に倒れる。勢いよく背中から床に打ち付けられた。

「冬真くん!」

「冬真!」

 彼は微動だにしなかった。
 ……あれでは即死だろう。一目でそれが分かる。

 奇しくも琴音と同じ手段で命を落とす羽目になったわけだ。

 残酷かつ非道な行動を目の当たりにし、祈祷師に思わず非難の眼差しを向ける。

 彼は既にこと切れた冬真からは興味を失ったかのように、小春たちを眺め笑っていた。

 まるで次なる獲物を吟味するかのように。

 蓮は臨戦態勢を取った。

「……一旦、退こう」

 小春が言う。

 想定外の出来事が立て続けに起こった。

 あんなふうに傷が瞬間的に治癒するのでは、戦っても勝ち目はない。

 まだ、普段の世界の道理が通用するのなら、可能性はあったかもしれないのに。

 だが、傀儡やテレパシー、睡眠、時間操作といった魔法は使えないようだ。
 使えるのであれば、とっくに惨敗している。

「他の皆のことも心配だし、態勢を立て直して────」

「小春!」

 不意に蓮が小春を突き飛ばした。

 驚いて振り向くと、目の前を光線が過ぎる。

 それは蓮の脇腹を貫いた。彼は顔を歪めて呻く。

「蓮……!」

 祈祷師による光弾から庇ってくれたのだ。

 そんな事実と併せ、彼の傷口からあふれる鮮血を見ていると、小春の平静さが失われていく。

「私が……っ」

 日菜は慌てて治癒に当たった。

 淡い光を宿した手を傷に翳すと、みるみる怪我が治っていく。

 これくらい大したことない。治すのもわけはない。その程度の傷である。

「う……」

 しかし、日菜は甚大な魔法の反動を受けた。

 肩で息をし、蒼白な顔で鼻血を拭う。

「日菜ちゃん」

 小春も蓮も、そんな日菜の様子に戸惑った。

「あー、キミ結構ガタが来ちゃってるみたいだね」

 祈祷師が口元に笑みを湛えた。

 雪乃の言う通りだった。

 紅然り、強力かつ反動の大きな魔法は、使うほど劣化していくようだ。

「その分だと、もうかすり傷程度の治癒でも血吐いちゃうんじゃなーい?」

 挑発する祈祷師の言葉を、日菜は否定しなかった。出来なかった。

 小春は案ずるように彼女を見やる。それほどまでに劣化が進んでいたとは……。

「心配ありません。私は皆さんを治すために来たんです。躊躇いません……!」

 日菜はきっぱりとそう言った。

「……悪ぃな、さんきゅ」

「ごめん、私────」

 小春は思わず眉を下げる。

 自分のせいで蓮に怪我を負わせ、日菜を反動で苦しめた。

「そういうのは後だ。退くなら急いで行くぞ」

 蓮は二人を促し、走り出す。

 一瞬、小春は倒れている冬真に目を向けた。

 最後まで悪役ヴィランに徹した彼だったが、だからといってその死が肯定的な意味を持つわけではない。

 守れなかったことを悔やむ時間も、死を悼む暇もなかった。



 蓮に続き、廊下を駆け抜ける。

 ここが通い慣れた名花高校で良かった。作り物だが見取り図は同じだ。

 足の速い蓮が先導して走っていく。

「あは、鬼ごっこだ」

 すぐ後ろに祈祷師が追ってきている気配があった。

 追いつかれそうになると、小春が目眩ししたり蓮が火炎を放ったりして妨害した。

 祈祷師からの攻撃を何とか避け続け、一直線に昇降口を目指す。

「もう少しだ……!」

 外へ出れば逃げるのも隠れるのも、校舎内より容易になるはずだ。

 昇降口を抜けた蓮は生徒玄関の扉に手を掛け、一気に力を込める。
 抵抗なく開いた。

「!」

 外へ飛び出そうとしたが、すんでで立ち止まった。

「おい、マジかよ」

「うそ……っ」

 足下には深淵の闇が広がっていた。地面がないのだ。

 外が暗いのは深夜だからだと思っていた。

 そうではなかった。

 この名花高校を模した空間が、闇に浮かび上がっているのだ。

 三人は困惑したまま、その場に立ち尽くす。



「……忘れたの?」

 のんびりと歩み寄ってきた祈祷師が首を傾げた。

「ここは“天界”という名の異空間。キミたちの知ってる場所にどれだけ似てても、別の世界なんだよ」

 小春たちは振り返る。

 祈祷師が口角を上げた。
 
「もっと分かりやすく言おうか? もうキミたちに、逃げ場はない」

 ────理解した。

 だからこそ彼らが来るのではなく、自分たちが招かれたのだと。

 連中は自分たちを殺すのに本気になったのだ。

 また、今はあえて甘い追跡をしていた。

 自分たちに逃げ場がないということを知らしめ、絶望させるために。

 校舎からは出られない。

 ここだって、いつまた形を変えるか分からない。

「…………」

 小春も日菜もおののきを顕にした。

 混乱を抑え込み、蓮は虚勢を張る。

「……は、そうかよ。関係ねぇな、俺たちに逃げる気なんてねぇんだから」

「えー、カッコつけないでよ。今しがた逃げてたトコじゃん!」

 祈祷師はけたけたと声を上げて笑った。

 実際、小春たちに余裕はなかった。

 どうしたらいいのだろう。

 同じ土俵に立つことも出来ない相手を、どう倒せばいいのだろう。

 確かに逃げ道はないが、仮にあったとて逃げても仕方がない。

 こんなことでは、陰陽師と相見える前に全滅するのではないだろうか。

「さぁ、どうするー? 大人しく降参する? そこから飛び降りてみる? それとも、ボクに殺されたいかにゃ?」

 祈祷師は楽しそうに言った。

 場を、命を、状況を、一方的に操れるのだから、彼にとっては楽しくて仕方がないだろう。

「…………」

 唇を噛み締める。

 どのみち、いずれぶつかる相手だ。ここでやるしかない。

(……そう。“どうするか”じゃない)

 やるしかないのだ。
 ここへ乗り込んできた時点で後には引けない。

 小春は生徒玄関の扉を閉めた。

 毅然として振り返り、祈祷師を睨めつける。

「どれも違う。あなたたちを倒して、ゲームを終わらせる」

 祈祷師は「へぇ」と意外そうに答えた。

「キミ、おバカさんだね。さっきの見たら、そんなの無理だって分かるでしょ?」

 小春は厳しい眼差しを保った。

 余裕そうな態度の祈祷師を、その肩を、鋭く見据える。

「無理じゃない。だって────」

 小春は指を構え、光弾を撃ち込んだ。冬真が先ほど樹枝を刺した位置を狙って。

 ひゅん、と走った光線が命中し、肩から血があふれた。

「な……」

 突然のことに祈祷師は戸惑いを見せ、銃創を押さえる。

 さすがに予想外の行動だった。

 驚きからか、あるいは痛みからか、祈祷師の態度と自信が揺らいだ。

「小春、何して……。どうせすぐ治るだろ? 意味ねぇんじゃ────」

 蓮も困惑し小春と祈祷師を見比べる。そうして違和感を覚えた。

 ……先ほどより止血が遅いような気がする。

 やはりというべきか、彼の傷は治った。

 しかし、それも時間がかかっていたように感じる。

「やっぱり……」

 小春は呟く。
 先ほど逃げながら祈祷師を観察していた。

 冬真に貫かれたダメージが残っているのか、左腕の動きが鈍くなったような気がしていた。

 気のせいではなかったようだ。

 見かけ上、傷は治っても、そのダメージは確かに蓄積しているのだ。

「私たちの攻撃が効かないわけじゃない。勝算はある」

 小春はきっぱりと言い切った。

「おぉ……。やるな」

 希望を取り戻したように蓮が呟く。

「……っ」

 珍しく笑顔を消した祈祷師は、ぎり、と奥歯を噛み締めた。

 悔しがる様子を見せていたが、すぐにいつもの軽薄な笑みを取り戻す。

「……だから何? 結局、耐久値は反動がないボクの方が上。魔法の精度もね」

 彼が払うように手を振ると、床に水が渦巻いた。

 轟音とともに水柱が上がり、小春たちに迫る。

「分からせてあげる。キミたちが所詮“ニセモノ”だってこと!」



*



「どうしてこう、ゲームに消極的な奴らばっか残ったんだか……。あーあ、どうせならもっと従順でカワイイ魔術師ちゃんが残って欲しかったなぁ」

 霊媒師は愚痴をこぼしつつ、傘をくるくると回した。

「確かにこいつらの反抗的な態度は目に余るね。全員ルール違反者だが、どうやら陰陽師はバトロワルールを徹底する気だ」

 同調する呪術師はさらに続ける。

「“どんな形であれ最後に残った者を勝者と認める”って。誰が最後に残ったとしても……に差し障りそうだ」

 紗夜が眉を寄せる。“今後”?

「それ、どういう意味……?」

 呪術師は笑った。

「生き残ったら教えてあげる」

 彼女は口を滑らせたのだろうか。それともわざとだろうか。その態度からは読み取れない。

 自分たちの知らない事実が、他にもまだあるのかもしれない。

「お喋りはもうおしまい。殺すね、目障りだから」

 指を構えた霊媒師は、立て続けに水弾を放った。

 瞬時に奏汰が氷でバリアを張り、二人と自分たちを隔てた。

 ドドドドッ! と、硬い音がしてすべての弾が氷の壁にめり込む。

 一拍も置かず、奏汰は壁を乗り越え、敵側へ移った。

「奏汰くん!」

 なんて危険なのだろう。

 瑠奈は驚きと焦りを覚えたが、彼がすぐに攻撃されるようなことはなかった。

「君の相手は俺だ」

 霊媒師を見据え、強気に告げる。

 一瞬呆気にとられた彼女だったが、にやりと笑うと奏汰の目の前に瞬間移動した。

「望むところ」

 彼の肩に触れると、二人ともが消える。

 何処かへ瞬間移動していったのだ。



「……っ」

「大丈夫……。何処かへ移動しただけ。私たちは私たちの戦いに集中しなきゃ」

 息をのんだ瑠奈だったが、紗夜が冷静に宥めた。

 彼女は幾本もの注射器を構える。

「そうだね」

 頷いた瑠奈もステッキを強く握り締めた。

 奏汰が残していってくれた氷の壁は、厚い大きなガラスのようだった。

 呪術師と隔たれているような状態で、ヒビが入っているとはいえバリアの機能を果たしてくれている。
 いつまでも安全ではないだろうが。

 呪術師はバチバチと手に雷を宿した。

「!」

 不意に慧を思い出した瑠奈は顔を歪める。

「おや、顔色が悪くなったね」

 意図的に罪の意識を刺激しているのだ。

 にやりと笑い呪術師は挑発したが、紗夜が波のような毒を飛ばし牽制した。

 咄嗟に飛び退いた呪術師だったが、飛沫が彼女の頬にかかった。じゅう、と皮膚の一部が溶ける。

「熱……っ」

「精神攻撃が得意なのね、性悪女」

 紗夜はそう毒づき、瑠奈に向き直る。

「振り返ることなんて、後からいくらでも出来る……」

「紗夜ちゃん」

 彼女の言葉を受け、自分を奮い立たせる。

 そのとき、呪術師がため息をついた。

 ただれた皮膚を撫でると、一瞬で元通りに治癒してしまう。

「え……?」

 紗夜と瑠奈は驚愕し、瞠目する。

 どういうことだろう。
 どうなっているのだろう。

「生意気だね……。もう一度、氷漬けにされたいかい?」

 気付けば、呪術師の手には氷剣が握られていた。

 紗夜はうららとともに呪術師と相見えたときのことを思い出す。

 ……惨敗した。思わず右胸を押さえる。

 傷はとっくに癒えているのに、ずん、と重苦しくなる。

(大丈夫……)

 あのときより分が悪いとはいえ、希望が壊滅したわけではない。

 毒を打ち込んだとき、確かにダメージを与えられたのだ。

 気を引き締める。
 呪術師は解毒の方法を知っている。絶対に血を流さないようにしなければならない。

 紗夜を守らなければ、と覚悟を決めた瑠奈は、先ほど奏汰がそうしたように氷の壁を乗り越えた。

 自分が前衛に出る。そして、隙を見て彼女に毒を打ち込んで貰う。

「おや、揃いも揃って勇敢なこった」

 瑠奈はステッキを向けると、石弾を続けて放った。

 呪術師はそれを避ける傍ら、氷剣を振るう。

「……っ!」

 予想以上に敏捷な動きで、完璧に避けきれなかった。

 刃が瑠奈の腕を掠めると、その部分がパキパキと凍っていく。
 からん、とステッキを取り落としてしまう。

 痛い。冷たい。

 そんな言葉では言い表せない、芯から刺すような激痛に悲鳴を上げ悶えた。

「瑠奈……!」

 隙を悟った呪術師は、トドメを刺そうと氷剣を構える。

 紗夜は慌てて壁の向こう側へ飛び出した。

 一気に呪術師と距離を詰め、注射器を振り上げる。

「!」

 それに気が付いた呪術師は、咄嗟に紗夜の手を弾いた。

 落ちた注射器が割れる。床に禍々しい紫色が広がる。そこから煙が立ち上った。

「舐めて貰っちゃ困るね。そう何度も同じ相手に同じ手でやられはしないよ」

 氷剣を大きく一振りした。紗夜は飛び退く。

 凍てつく痛みに顔を歪めていた瑠奈だったが、震える手を無理矢理擡げ、呪術師に翳した。

「な……っ」

 両脚が石化していく。呪術師が初めて動揺を見せた。

 じわじわと感覚が失われていくのが分かる。末端から硬化していく。
 
「紗夜ちゃん、今!」

「うん……!」

 呪術師は焦った。

 これでは避けようにも動けない。石化は既に腰辺りまで進んでいる。

 紗夜は別の注射器を構えた。

 針を刺そうとした寸前、半ば自棄になったように呪術師が氷剣を薙ぎ払った。

 予想外の動きを受け、紗夜は目を見張ったまま動きを止める。
 ザンッ、と刃がその右腕を切断した。

「う、ぅああっ!」

 悲鳴を上げ、がくんと崩れ落ちる。

 その傍らに切り落とされた腕も転がっている。その手が力なく注射器を手放した。

「紗夜ちゃん!!」

 瑠奈は金切り声で名を呼ぶ。とんでもないことになってしまった。

 彼女が混乱を極めている隙に、呪術師は氷剣を逆手に持ち替える。そのまま瑠奈の身体を貫いた────。

 ……ように思われたが、彼女は寸前で自身を複製していた。

 呪術師が卑怯な手を使ってくることなど、もう充分に見切っていた。

 彼女が貫いたのは偽物の瑠奈だったのだ。

 瑠奈は自分の腕の痛みなど、とっくに忘れ去っていた。
 倒れている紗夜に駆け寄る。

「どうしよう……! 大丈夫!? 腕、どうしたら……」

 紗夜と転がる腕を見比べ、取り乱す瑠奈。

 呼吸を荒くし、気が狂いそうな痛みに悶絶していた紗夜だったが、だんだんと痛みが鈍くなっていくのに気が付いた。

 斬られた切断面を見れば、凍っていた。お陰で出血もしていない。

 転がっている腕の方も凍っているため、血は流れていない。

(よかった……)

 紗夜は全身を震わせながらゆっくりと起き上がる。

 身体を支えるため右手を床につこうとして、もうないことを思い出した。

「平、気……」

 残りの注射器は四本だ。すべて毒の強度は同じである。触れるだけで命の保証はない猛毒────。

 チャンスはあと四回。

 失敗したら、この場で命と引き換えに新たな猛毒を生成するしかない。

 そして、呪術師を道連れにする。



「…………」

 紗夜が立ち上がると、油断なく二人して呪術師に目をやった。
 彼女は氷剣を振るった状態で全身石化していた。

「う……、痛たた」

 瑠奈が頭を押さえた。反動で既に頭が痛い。

 激しい動悸に息もしづらくなってくる。

「やった……?」

 緊張感を孕んだ、奇妙な静寂が続いていた。

 紗夜は首を横に振る。

「まだだよ……」

 ピシ、と音がしたかと思うと、呪術師の石像にヒビが入った。

 ガシャン……。内側から割れ、石の残骸が散る。

 瑠奈の力が弱まっていたためか、呪術師の内部まで石にすることが出来なかったようだ。

 あくまでコーティングのような状態だったのが、今完全に解けてしまった。

「……いい度胸だ」

 苛立ち混じりに言った呪術師は、すぐさま瑠奈目掛け光弾を放つ。

 咄嗟に何発か避けたものの、素早く動いた拍子に目眩がした。

 割れるような頭痛に邪魔をされ、左の太腿に食らってしまう。

 一気に動きが鈍くなる。あまりの痛みに膝をついた。どく、と血があふれる。

 それを見た紗夜は慌てて微弱な毒を作り出す。

 呪術師の背後から放ち、そこを注射器で狙うが、先に光弾で割られた。

 残りは三本……。
 呪術師は得意気に高笑いする。

「あんたらの動きは分かりやす過ぎる。一方が危うくなったらその隙にもう一方が攻撃……仲間意識が裏目に出てるよ。すべて予想の範囲内で終結する」

 警戒する方向が明らかなのである。

「よっぽどお友だちを失うのが怖いみたいだね。……を思い出すからかい?」

 紗夜の睫毛が揺れる。
 うららを思い出し、図らずも熱が入る。

 守れたはずだったのだ。自分のせいで、うららは死んだ。

「……っ」

 彼女がたじろいでいる間に、瑠奈が呪術師の腕を石化した。

「!」

 呪術師が戸惑う隙も与えず、石弾を撃ち込み左腕を破壊した。

 ガラン……と粉々に砕けた石の破片が落ちる。

 その音で紗夜は我に返った。

「立ち止まっちゃ駄目……、うららちゃんのためにも。振り返ることなんて、後からいくらでも出来る。さっき紗夜ちゃんがあたしにそう教えてくれたんでしょ」

 紗夜はいつの間にか滲んでいた涙を拭う。

 自分もまんまと呪術師の口車に乗せられた。

「そうだね……。ごめ────」

 思わず声が詰まった。言葉が切れた。

 顔を上げると、目の前で瑠奈の身体が貫かれていたのだ。呪術師の“左腕”に。

「……っ」

 かは、と瑠奈は大量に血を吐く。

 呪術師の腕が抜かれると、その勢いのままどさりと倒れた。

 床にみるみる血溜まりが広がっていく。彼女の目が虚ろに光を失っていく。

「瑠奈……!!」

 そう叫んだ声は掠れていた。

 突然の、そして一瞬の出来事だった。

 かたかたと全身が小刻みに震える。驚愕と動揺に飲み込まれ、不安定な浅い呼吸を繰り返す。

 呪術師の左腕を凝視した。

 先ほど、確かに瑠奈が石化して砕いていたはずだ。

「やっぱり気持ち悪いねぇ。内臓に素手で触れると」

 呪術師は血まみれになった自身の左腕を眺めていた。

 毒だけではないのかもしれない。怪我まで一瞬で治ってしまうようだ。

(そんなの────)

 無敵ではないか。一人でどうすればいいと言うのだろう。

 ……もう無理だ。

 うららだっていない。瑠奈もたった今死んだ。

 非力な自分には何も出来ない。

 敵う要素がない。

 どうせ、すぐにやられて終わりだ。

(だったらもう、下手に楯突かない方が楽に逝けるんじゃ……?)

「…………」

 がく、と紗夜は崩れ落ちるように膝をついた。

 ここまで広がってきていた血の海が、赤い飛沫を上げる。

 呪術師は楽しげに笑いつつ、毒を生み出した。

「さぁ、決着と行こうか。目には目を、毒には毒を、ってことで」

 紗夜目掛け、波のようにうねる毒が放たれる。

 彼女は諦め、すべてを受け入れようとした。

 実際、直前までそうなりかけていた。しかし不意に思い出した。
 うららの最期の言葉を。

『わたくしはここまでですけれど……必ず、目的を果たして。紗夜……生き残って』

 はっと我に返った紗夜は顔を上げる。

(……そうだ)

 このまま死んだら、あの世でうららに会ったとき、合わせる顔がない。

 毒に飲まれる寸前で、紗夜は立ち上がった。そのまま素早く飛び退く。

 力強い眼差しを呪術師に向けたまま、残りの注射器を三本、すべてその場に捨てた。

 音を立てて割れる。シュウ……と毒素を含んだ煙が上がった。中の毒がこぼれ、無に帰していく。

 その行動に呪術師は目を見張り、吐き捨てるように笑った。

「諦めたのかい? それとも、気でも狂ったか」

 紗夜は答えることなく、呪術師のもとへ一直線に駆け寄る。

 床を蹴って跳ね上がると、彼女の首を掴んだ。
 不意を突かれた呪術師は、その勢いのままに後ろへ倒れ込む。

「何を……」

 困惑し、動揺した。打ち付けた背中や肘の痛みに構っている余裕もない。

 いったい何のつもりなのだろう。

 もしや、別に注射器を隠し持っているのではないか、と警戒したがどうやらそんな様子もない。

 片腕しかないが、紗夜は必死に力を込めた。

「毒には毒を。殺意には殺意を……」

 彼女がそう言った瞬間、呪術師の顔色が蒼白になり、血管が浮き出た。

「……ぐ……っ!!」

 充血し見開いた目から血が流れた。

 紗夜は命と引き換えに、自身に毒性を帯びさせることにしたのである。

 即効性、致死性の猛毒を。

「う……っ」

 紗夜自身の目や耳、鼻からも血が流れてきた。
 喉に何かが絡まり、思わず咳き込めば血があふれた。

 骨が、血管が、身体中が痛い。激痛が走る。

 割れるような頭痛を覚えながら、それでも不敵な微笑みを浮かべた。

 苦悶する呪術師を見上げる。

「これも予想通り……?」

 呪術師の身体が震える。小刻みに痙攣する。

 隙間風のような貧弱な呼吸を繰り返しながら吐血した。

 血管の浮き出た青白い顔で目を剥く。苦しみ喘ぎ、大きく開いた口から血と唾液が滴る。

 もとの美貌は見る影もない。
 紗夜はようやく彼女を離し、傍らで見下ろす。

「生意気な……小娘が……ぁ……っ」

 血走った目で憎々しげな睨めつけたものの、数度痙攣した後、すぐに動かなくなった。

 さすがに回復する様子はない。

「はぁ……はぁ……」

 紗夜は不意にふらついた。

 どくん、どくん、と心臓が強く大きく脈打つ。
 拍動のたび全身に激痛が走る。

 息が苦しいのに、どれだけ吸っても肺に酸素を取り込めない。

「ごめん、うらら……。生き残る、のは……無理そう……」

 力が入らず、平衡感覚を失った。

 ……頭が痛い。視界が白く明滅する。

 気付けば、血の海の中に倒れ込んでいた。

 苦く笑う。
 呼吸が、鼓動が、弱く緩やかになる。

「私も……そっちに、行く、から……叱って」

 ふ……、と紗夜は安らかに目を閉じた────。



*



 瞬いた次の瞬間、奏汰は屋上にいた。

 ふと、仰ぐ。夜空かと思っていたが、違うようだ。
 一切の光もない漆黒の闇が広がっている。

「……どうして名花高校ここに?」

 異空間ならば現実世界の何処でも再現出来るはずだ。

 あるいは、何処も模さずそのままの形を保っていてもよかった。

 わざわざ名花高校を舞台に選んだのには理由があるのだろうか。

「そんなのテキトーだよ。陰陽師の気まぐれ」

「気まぐれ……?」

「そ。だいたいこのゲーム自体、ほとんどその気まぐれで決まってるし」

 霊媒師はくすくすと笑った。

 怪訝そうな顔をする奏汰に言う。

「君たち、最初に考えたでしょ? “何で自分たちが?”、“何のためにこんなことを?”って……。その答えのほとんどが“気まぐれ”。陰陽師のだったり、ダイスのだったりはするけどねー」

 彼女はにっこりと楽しげな笑顔を湛えた。

「やっぱ、ゲームと言えばダイスでしょ」

 怒りを覚えた奏汰は俯く。思わず拳を握り締めた。

 ……なんて理不尽なのだろう。

「そんなわけの分からない気まぐれなんかに俺たちは命を賭けてたってこと?」

 顔を上げ、彼女を睨めつける。

「何人も死んだ、君たちのせいで! 散々振り回された」

 霊媒師は鬱陶しそうに目を細めた。

「はぁ……。なに、君? 正義のヒーロー気取り? 今さら私たちを責めてどうなるの? ……あーあ、イケメンだからに迎えるのもアリかなーって思ってたけど、どうやら無理そうだね」

 新しい魔術師?
 訝しげに眉を顰める。

「どういう意味?」

「教えてあげなーい」

 霊媒師はおもむろに火炎で彼を包囲した。

 円形に燃え広がる炎の中心に閉じ込められる。

 奏汰はその魔法に少し怯んだ。

 今さらだが、天敵が明確な自分が“一対一”を請け負うのはよくなかったかもしれない。

 真っ先に火炎を繰り出されたということは、やはり自分の魔法が露呈している。

 そんなことを思いつつ、炎の上を辿るようにして氷を被せる。熱で溶け、その水で火が消えた。

 奏汰はそのまま間髪入れず、霊媒師に向け氷柱を落とす。

「!」

 霊媒師はすんでのところで浮かび上がり、迫ってきていたそれを回避した。

「やるね……」

 愉しげににやりとする霊媒師だが、虚勢が垣間見えた。

 以前に対峙した祈祷師より明らかに劣っている。そのことに奏汰は気が付いた。

 この分ならいけるかもしれない、と強気に出ようとしたが、不意に違和感を覚える。

(あれ……?)

 じんわりと締め付けるような頭痛。何となく酸素が薄いような気がする。

 何故か手まで震えていた。あまり力が入らない。

(何で?)

 困惑する。おかしい。

 いつもはこの程度で疲労することも、魔法の反動を受けることもないのに。

「あれあれ、どうしたのー? もう疲れちゃった?」

 霊媒師に余裕が戻る。

 彼女は軽やかに浮かび上がり、屋上の柵の上に着地して立った。
 背後に広がる闇の黒と彼女の纏う白のコントラストが明瞭だ。

「魔法は気を付けて使った方がいいよー、天界ここでは」

 得意気に言い、くるりと傘を回す。

「人間を忌み嫌って見下してる陰陽師の世界だから、人間には優しくないの。負荷も反動も倍。使うほど君たちの寿命は急速に縮んでいく」

 そういう理由があるのなら、自分の陥っている状態も理解出来た。納得は出来ないが。

 陰陽師が姿を現さないのも、なのだろう。

「……ご忠告どうも」

 奏汰は微笑んだ。余裕はなかったが。

 苦しむ羽目になるからといって、魔法の使用をやめるわけにはいかなかった。

 どのみち、この他に戦う手段はないのだから。

 奏汰は霊媒師の立っている柵を凍らせ、鋭利な氷塊で串刺しを狙う。

 彼女は瞬時に飛び退いた。

 それを見越していた奏汰は、その逃げ先に先んじて氷剣片手に回り込み、霊媒師の着地と同時に薙ぎ払った。

 霊媒師の腹部に深い切り傷が刻まれる。

「く……っ」

 霊媒師は呻き、思わず傷を押さえた。パキ、と凍っているため血は出ない。

 奏汰はひっそりと安堵した。

 攻撃自体は当たる。……やれる。

「あー……やっぱ紛い物とは違うね。カイハルトの氷剣より効くなぁ」

 霊媒師は呟きながら傷を撫でた。

 みるみる氷が消えたかと思うと、その怪我まで癒えていく。

「!?」

 驚愕して目を見張った。

 日菜と同じ回復魔法なのか、あるいは天界の仕様なのかは不明だが、人間でない運営連中は、負傷しても即時回復してしまう模様だ。

(……こんなの、どうしろって?)

 魔法による負荷や反動が倍な以上、闇雲に繰り出しても無意味だ。

 それでは自滅行為である。

「見ての通り、私に君の攻撃は効かない。降参するなら今だよ? 私、君のこと気に入ってるからさ……苦しませず殺してあげる」

 霊媒師は狼狽える奏汰に満悦した様子だった。

 彼は氷剣を掲げ、宙に投げると逆手に持ち替えた。切っ先を霊媒師に向け、そのまままっすぐに放つ。

 それを認めた彼女は火炎を繰り出し、迫ってくる氷剣を易々と溶かした。嘲笑する。

「素直じゃないなぁ。分かんない? 君の攻撃は効かないんだってば」

「……本当にそうかな?」

 不敵に笑い返され、霊媒師は思わず表情を強張らせる。

「え」

「本当に効かないなら、避ける必要なんてないよね? 俺が見た限り、君はかなり必死に避けてるけど何でかな」

 奏汰は再び氷柱を作り出した。

 その尖った先端を見やった霊媒師は飛び退こうとしたが、身体が動かない。
 硬直魔法だった。

「やば……っ」

 為す術なく、おののく霊媒師に直撃して突き刺さった。辺りに鮮血が舞う。

「痛ったー……!」

 やはりというべきか、ほとんどの傷は瞬間的に治癒したが、先ほど一度深手を負った腹部だけは、回復に時間を要していた。

 やっぱり、と奏汰は呟く。

「効いてるみたいだね?」

「……っ」

 霊媒師の顔が引きつった。

 奏汰はもう一度作り出した氷剣を握る。

 しかし手にした途端、一瞬で火炎に溶かされてしまった。軽く火傷を負う。

 やはり硬直魔法は、片腕の自分には扱いづらい。

 氷剣を繰り出そうと思うと、硬直魔法は解かざるを得なくなる。

「……あーあ。バレちゃったみたいだし、そろそろ本気出すしかなさそう」

 霊媒師は銃型に構えた指先から水弾を連射した。

 先ほどのように奏汰は氷の壁で防いだものの、霊媒師は器用に両手から魔法を繰り出してきた。

 右手の水弾で奏汰を狙い、左手の火炎魔法で尽く彼の氷を溶かす。

 お陰で奏汰は甚大な反動を受ける羽目になった。

 しかし、氷を張るのをやめれば、水弾に容赦なく撃ち抜かれてしまう。



「……っ」

 一旦、特段厚い壁を作り出した。

 氷のバリアを背に肩で息をする。

(苦しい……)

 心臓がもたない。肺が破れそうだ。

 割れるような頭痛に耳鳴りもする。つ、と耳から血が流れ、首を伝い落ちていく。

 荒い呼吸を整えようとして、思わず咳き込んだ。血があふれる。

「おーい、もうおしまい?」

 霊媒師は攻撃をやめ、楽しそうに声をかける。

 まるでいたぶり弄ぶかのように、随分と余裕な態度だった。

「……う……」

 苦しい。苦しくて堪らない。
 呼吸が痛いなど初めてのことだ。

 それでも奏汰は震える手を見下ろし、ぎゅ、と強く握り締める。

(……大丈夫。まだやれる)

 しんどくても、魔法を惜しむな。
 そう自分に言い聞かせる。

 長期戦は間違いなくこちらが不利だ。

 どんなに辛く苦しい反動が、あるいは死が待っているとしても、さっさと決着をつけるに越したことはない。

(……やってやる。すぐに決める)

 奏汰は氷のバリアを飛び出すなり、霊媒師のいる地面を凍らせた。足元がひんやりと冷気を帯びる。

 このままいたら自分も凍らされる、と察した霊媒師は、再び空中へ浮かび上がった。

「上からの方が狙いやすいもんねー。悪手だったんじゃない?」

 奏汰はしかし、強気に笑う。

「……いや、狙い通りだよ」

 氷柱を上下左右から取り囲むように飛ばし、霊媒師を狙った。

 思わぬ立て続けの攻撃に焦った彼女は、地面に着地するべく降りていく。

(確かに、逃げ場がないのが空中の弱点……)

 などと思いながら足をつこうとした霊媒師だったが、その部分に鋭利な氷塊が現れた。

 剣先のように、あるいはやじりのように、先端が尖って棘だらけである。

「な……」

 慌てた霊媒師は再び空中へ戻ろうとしたが、突如として身体が動かなくなる。
 またしても硬直魔法だった。

「君……」

 憎々しげに奏汰を睨む。

 どうすることも出来なかった。

 二十秒後には、あるいは彼が拳を開いた時点で、この氷塊へと落下し、尖った氷に串刺しにされる。

 無情な秒読みは止まらない。

「お、覚えてなさいよ! 今日のこの屈辱は……死んでも忘れないんだから!」

 奏汰は荒い呼吸の中、ふっと笑った。

「……よかったよ、君たちにも“死”って概念があって」

「ふん、ばーか! 私たちは死んでも死なないから。殺すならさっさとやれば!? 恨むけどね」

 子どもじみた霊媒師の態度と言い草に少々呆れつつ、二十秒を待たずして奏汰は硬直を解除した。

「……っ!」

 霊媒師はそのまま落下し、鋭利な氷塊に串刺しになる。
 グサ! ザク! という残酷な音とともに赤色が翻った。

 彼女自身も察していた通り、回復も追いつかないためにこれならば死は免れない。

 ぽたぽたと、彼女の身体を貫通した棘のような氷から血が滴る。

「…………」

 虚ろな霊媒師の目を見れば、息のないことは明白だった。

 “死んでも死なない”とは、単に最後の強がりだったようだ。

「う……っ」

 奏汰は再び吐血し、たたらを踏む。
 目や鼻、耳からの出血を拭っておく。口元も拭った。

 他の皆は大丈夫だろうか。

 魔法使用時の負荷や反動が通常より大きいことを知っているだろうか。

(捜そう……。加勢しないと)

 奏汰はふらつく足を引きずるように歩く。

 呼吸を整えつつ、校舎内に戻った。



*



 その場に強風が吹き荒れる。

 蓮が風魔法で渦巻く水柱を退けた。ばしゃ、と弾けるように飛沫が散る。

「へぇ……。なるほどね」

「俺の武器は火炎だけじゃねぇぞ。知ってんだろ? もう前みたいに水を恐れはしねぇ」

 くす、と祈祷師は笑う。

「ボクたちに勝つために、ボクたちに魂を売ったワケね」

 確かにその通りだ。皮肉なものだが。

「小春、お前は下がってろよ。日菜を守ってやれ」

 蓮は半分だけ振り向き、小春を見据える。

「お前のことは俺が守るから」

 小春は一瞬躊躇ったものの、意志の強い彼の背を見て頷く。

 皆を守るための戦いだ。

 小春は光学迷彩の結界を作り出し、日菜と身を隠した。

 隙をつき、祈祷師に攻撃を加えよう、と画策する。

 蓮は風による鋭い斬撃を飛ばしつつ、祈祷師の足元に火の海を作り出した。

 祈祷師は浮かび上がって避けた。

「キミは運がいいなぁ、火炎と風かー」

 どちらにとっても相性がいい。

 とっ、と軽やかに彼は着地する。

「代償の方はツイてなかったみたいだけど」

「……黙れ」

 へら、と挑発するように笑った祈祷師に凄む。

 小春は「?」と首を傾げた。

 代償について蓮は“大丈夫”と言っていたはずだが、違うのだろうか。

「……っ」

 唐突に蓮は胸を押さえた。何だかやけに息苦しい。

 頭痛を覚えた小春も表情を歪め、思わず支えるように額に触れる。

「大丈夫ですか?」

 小声で案ずる日菜に小春は何とか頷いてみせた。蓮は険しい顔で不規則な呼吸を繰り返している。

 祈祷師はにやにやしながら、手中に水を生み出した。そのまま蓮に迫る。

「!」

 それを見た小春は咄嗟に光線を放った。

 痛みから狙いがブレたこと、さらに祈祷師が避けたことで急所は逸れたものの、攻撃は彼の腹部に命中した。

 とはいえ、姿の見えない小春からの攻撃をよく躱せたものだ。

「……悪ぃ、小春。助かった」

 絞り出すように蓮が言う。

 祈祷師は小さく舌打ちし、傷を押さえた。すぅ、とその怪我が瞬く間に癒えていく。

 足元の炎を易々と消し、さらにそのまま霧を発生させた。視界が白く烟り、小春の光学迷彩が解かれる。

 つ、と垂れてきた鼻血を拭いつつ、そんな祈祷師を睨めつける。

「キミってさぁ、卑怯な手使ってくるよねー」

 笑っているが、苛立っているのが分かる。

「……あなたこそ」

 小春は毅然と言い返した。それから目を伏せ、呼吸を整える。

 蓮や自分が受けているダメージは、恐らく魔法の反動によるものだ。

 しかし、今まではこれしきで反動を受けることなどなかった。

 時空間操作や回復だけでなく、他の魔法も使用するたび劣化していくということだろうか。

 だが、紅たちとは違い、魔法の精度が落ちたわけではない。

(どういうことなんだろう……?)

 思案する小春へ、祈祷師は指先を向けた。容赦なく光線を連射する。
 はっと我に返ったときには遅かった。

「小春!」

 咄嗟に床を蹴って駆け寄った蓮が彼女を押したことで、どうにか急所は避けられた。

 しかし一発は頬を掠め、一発は右腕に命中した。さらには右脇腹にも食らってしまう。

「ぃ……っ!」

 一拍遅れて訪れた痛みに悶えた小春は倒れ込む。

 まるで突き刺されたナイフを捻り、身体の内側をかき混ぜられているような激痛だ。

 どく、と風穴から止めどなく血があふれていく。

「大丈夫か……!?」

 蓮は慌てた。その出血量に焦り、平静を失う。

 小春の顔がみるみる青白くなる。急激に寒くなり、身体が震えた。
 焦点が合わなくなり、蓮や日菜の輪郭がぼやける。

「わ、私が……!」

 駆けつけた日菜が慌てて言った。

 蓮は「頼む」と告げると、祈祷師を牽制するため、再び火の海を作り出した。

 さらに風で煽り、炎を大きくする。祈祷師を囲うように燃やした。

 その場の温度が一気に上がり、真昼のように明るくなる。

「うわ、あっちー」

 彼は暢気な調子で飛び退く。

 わずかな時間稼ぎにしかならないが、回復することくらいは出来るはずだ。

 日菜は先に蓮の傷を治癒させた。ぱぁっと淡い光に包まれる。

 小春を突き飛ばした際に蓮も負傷していたようだ。まったく気が付かなかった。

「頼む、早く小春を……!」

 蓮が懇願すると、日菜は神妙な表情になった。

「……これが、私の最後の仕事です。水無瀬さんを治したら……私はお役御免です」

 蓮の表情が強張った。

 その意味を理解し、刹那、呼吸が止まる。

『あー、キミ結構ガタが来ちゃってるみたいだね』

 祈祷師の言葉を思い出した。

 それに加え、この空間────魔法の反動が肥大化する、自分たちにとって不利極まりない空間。

 劣化と甚大な反動に、もう身体が耐えられないということだ。

 勿論、小春のことは助けて欲しい。

 しかし、それを口にすれば、すなわち日菜に“死ね”と言っているも同然だ。

 蓮は唇を噛み締めた。

「日菜、ちゃん……。私なら、大丈夫だから……」

「馬鹿言え! 無理に喋るな、じっとしてろ」

 今にも消え入りそうな声で、気遣った強がりも空回りする。小春の意識は朦朧としていた。

 のんびりしている暇はない。

 日菜は澄み切った表情で、小春に手を翳す。

「言いましたよね、私は躊躇いません。皆さんの力になりたくて来たんですから。ただ、一つだけ……お願いします」

 意識して深く息をする。

「どうか、もう怪我しないでください。無事でいてください……!」

 日菜は涙を滲ませ微笑んだ。

「…………」

 蓮は黙ったまま、強く頷く。

 背後の熱気が消えた。炎が消されたのだ。

 素早く振り返った蓮は立ち上がり、祈祷師に風の斬撃を飛ばす。

「日菜、頼む!」

 それが何を意味するか、しっかりと理解して噛み締めながら、それでも言った。

 彼女の手にぼんやりと淡い光が宿る。小春の傷が癒えていく。

「う……。うぅ……っ」

 代わりに日菜が呻いた。つ、と目や耳、鼻から血が流れる。

 激しい頭痛に見舞われ、関節も軋むように痛んだ。

 手が震える。息が苦しい。気を抜けば、今にも意識が飛んでしまいそうだった。

 日菜は必死で苦痛に耐える。役目を果たすまでは、力尽きるわけにいかない。

 追尾してくる水を風で払い除けた蓮は、祈祷師の弱った肩に炎とともに斬撃を飛ばした。

「うわ」

 ザン、と切り傷が刻まれ、火傷まで負う。彼は傷口を押さえ悶えた。

「……っ」

 その隙に振り返った。

 座り込んだ小春が、血まみれの日菜を見下ろしている。

 日菜は既に絶命していた。
 身を削り、小春の命を救ったのだ。

「守れなかった。また……」

 涙を流す彼女の腕を、ぐい、と蓮は引っ張り上げる。

「日菜は、お前を守った。気持ちは同じだったはずだ。悔いるな。お前があいつだったら、お前に何をして欲しいと思う!?」

「……!」

 小春は唇を噛み締め涙を拭う。どうにか感情に折り合いをつけようと気を取り直した。

 少なくとも、死を悼みこそすれ、その決断を悔やんだりはして欲しくないだろう。

 日菜が何のために自分を救ってくれたのか。
 自分は何のために生き永らえたのか。

 日菜がそうしたように、小春には小春の役目がある。

 それを果たすことだけが、失った仲間たちへの、そしてともに戦う仲間たちへの報いだ。

「……ごめん。もう……立ち止まらない」



 そのとき、立て直した祈祷師が粉塵から現れた。

 肩の傷は癒えていない。

「はぁ……。小賢しいなー、ムカつく」

 かなり余裕がなさそうだった。

 いつもの笑みはなく、口元だけでも冷酷な表情をしていると分かる。

「消しちゃうね、邪魔だから」

 一瞬の閃光の後、日菜の遺体が消え去った。

 小春たちは息をのむ。

 これまで漠然と“魔術師の死体は天界に還る”と思っていたが、ここが天界としたら、何処へ行ったのだろう。

 本当に忽然と消えたとでも言うのだろうか。

「……ふふ」

 不意に祈祷師が興がるように笑った。

「ねぇねぇ、人間ってさぁ……水中で息出来ないってホント?」

 こてん、と首を傾げる。

 嫌な予感しかしない。何をするつもりだろう。

 身構えると、祈祷師が両手を翳す。壁や床、天井がみるみる凍りついていった。

 この昇降口に通ずる唯一の道である廊下も、氷の壁により塞がれる。

 閉じ込められた。

 氷を隔てた向こう側に立つ祈祷師は一層笑みを深める。

 一気に室温が下がり、吐く息が白く霞んだ。

 蓮は咄嗟に火炎で溶かそうとしたが、目眩に邪魔をされる。ぐらぐらと視界が揺れ、目が回るようだ。

「く……」

 ゴォッと大きな音が響き、辺りの床が渦を巻き始める。祈祷師が水を湧き出させたのだ。

「うそ……っ」

 まずい。このままではやがて沈み、溺死してしまう。その前に体温が下がり過ぎて死ぬかもしれない。

 小春は狼狽える。

 蓮は「くそ」と毒づき、急いで火炎を繰り出そうと試みるが、まるで意思を持っているかのような水にすぐさま消火されてしまう。

 瞬く間に水位が上がっていき、既に胸の辺りにまで達していた。

 氷による冷気と水の冷たさに凍え、震えが止まらない。既に手足の先の感覚はなかった。

 水位はどんどん上昇している。間もなく息が出来なくなるであろう。

 思わず縋るような眼差しで壁の向こうを見ると、祈祷師は心底愉快そうな笑みを湛えていた。

「……っ」
 
 小春は水をかき分けるようにして進み、ドンドンと氷を叩く。

 同じように壁へ寄った蓮も、思い切り殴った。しかし、壁はびくともしない。割れるどころか、ヒビすら入らない。

 氷を叩く手に血が滲んでも、最早痛みも感じなかった。
 ……寒い。冷たい。全身が震え、歯がかたかたと音を立てる。

「おい、出せよ! クソ狐野郎!」

 焦りと苛立ちを滲ませ、蓮は怒鳴った。

 小春は震える掌を見下ろす。

 滲んだ血が滴り、ぽたりと水に溶けていく。
 はぁ、と息を吹きかけたが、まったく体温は上がらない。

「くそ!」

 蓮は、ガンッ! と再び氷の壁を殴った。つ、と凍瘡とうそう状態の手から血が流れ、腕を伝い落ちていく。

 為す術がない。
 水を止める術も氷を破る術も────。

(どうすれば……)

 そう考えた小春は、はたと思いつく。自身の手を見下ろす。

(魔法……。光線なら、氷を破れる?)

 小春は指を構え、光弾を放とうとした。
 しかし、震える指先に光を灯すので精一杯だった。

 すっかり衰弱している。身も心も。
 以前、琴音と奏汰が言っていたことを思い出す。

『コツは、イメージすることよ』

『具体的にイメージ出来れば、より安定して上手くいくよ』

 魔法はイメージの力によるのだ。使い慣れていても、集中してイメージ出来なければ上手く扱えない。

 小春の思考は弱い気持ちに侵食されていた。

 寒い。冷たい。誰か、助けて
 どうすればいいのだろう?
 助からないかもしれない。死ぬかもしれない。

 ────そんな感情に支配されていく。

 水位はもう、天井に迫ろうとしていた。上を向いても顔に水が触れる。

 あと何センチあるのだろう。この隙間が埋まれば、本当に終わりだ……。

「大丈夫か? 小春……」

 ぼんやりと蓮の声がする。
 二人して天井の出っ張りに掴まり、必死に耐えていた。

「大丈夫……」

 そう答える他にない。

 大丈夫なわけがない。それは彼もきっと分かっている。

 氷を物理的に破ることは、諦めざるを得なかった。

 ここまで水位が上がった以上、殴ったりする余地もない。

「悪ぃ。こんだけ浸かってちゃ火も使えねぇ」

 何より、火炎は繰り出した瞬間に水に捕まってしまう。祈祷師が尽く妨害してくる。

 諦めるしかないのだろうか。

 このまま待っていれば、誰かが助けに来てくれるだろうか。

 ……無理だ。その前に沈んでしまう。

 ────溺れ死ぬ。

 ぞく、と背筋が冷えた。凍てつくような寒さからか、間近へ迫る死への恐怖からか。

「でも、よかった。……最後まで一緒にいられて」

 蓮が言う。諦めたように、あるいは受け入れたように。

(最後……?)

 最後に、していいの?
 諦めていいの?

 思わず自分に問いかけた。

 寒さも冷たさも痛みも怖さも、いつかそのうち消える。

 でも、死んだら、そこで終わりだ。
 命は一つしかない。

「…………」

 小春は白い息を吐き出した。
 懸命に自分を奮い立たせる。

 深く息を吸うと、天井から手を離す。躊躇なく水中へ潜った。

「小春……!?」

 戸惑った蓮は、慌ててその名を呼ぶ。
 限られた空間の中で顔を動かし、彼女の姿を捉える。

 思い切り息を吸うと掴んでいた出っ張りを離し、小春を追った。



 小春は氷の壁の前で、再び指を構える。

 失敗したら、駄目だったら、今度こそ終わりだ。もう上がっても、息をすることは出来ないだろう。

 まだ隙間はあるかもしれないが、もう体力が持たない。

 氷壁の向こうで祈祷師が嘲笑っていた。

 その姿を睨めつけながら、構えた指先から光線を放つ────。

「……っ」

 内側から響くような頭痛がする。魔法の反動か、酸欠かも分からない。

 ────果たして、氷の壁には穴が空いた。

(やった……!)

 分厚い氷の壁を破る手段がないわけではなかったのだ。よかった。

 小春は安堵しつつ、その穴を広げるべく再び手を構える。
 その瞬間、向こう側にいる祈祷師が動いた。

「!」

 驚いたものの、好都合だ。このまま祈祷師ごと撃ち抜けばいい。

 そう思い、強気な態度を保とうとした。だが、そういうわけにいかなかった。

 補強するかのように新たな氷壁が重ねられる。

「……!」

 これではいくら光弾を撃ち込んだところで意味がない。埒の明かない鼬ごっこである。

 口から泡が立ち上っていく。
 狼狽える二人を面白がるように祈祷師は笑う。

「ザンネンでしたぁ。足掻いたって意味ないよ? 大人しく溺死しちゃいなってー」

 そんな声がくぐもって聞こえる。

 彼本人をどうにかしない限り、水中から脱する方法などないのだ。そもそも手が届かないというのに。



「……っ」

 息苦しさを覚えた蓮が水面から顔を出すと、天井との隙間はわずか三センチほどしかなくなっていた。

 肩で息を繰り返す。まだ何とか呼吸は出来る。

「小春……」

 蓮は再び潜り、水中を見回した。

「!」

 彼女は底の方で沈んでいた。反動と酸欠により、気絶してしまったのだろう。

 気が気ではなかった。驚きと焦りに飲み込まれ、手足の先が痺れたような錯覚を覚える。

 無我夢中で彼女を掴んで引っ張った。
 ざば、と水面に顔を出した。三センチの隙間はみるみる埋まっていく。

 蓮は悔しげに表情を歪めた。

 小春を持ち上げるが、安定した呼吸をさせるのは無理だ。応急処置も出来ない。
 自分が息をするので精一杯だった。

「く、そ……」

 片手で小春を支えつつ、空いた方の手で天井を掴む。

 反動をつけ、氷の壁を蹴った。
 ずん、と重く揺れるが、やはり割れる気配はない。

(終わりか……、本当に)

 蓮は思わず、小春を一際強く抱き締める。

「ごめんな、小春」

 指先も呼吸も震えた。寒さのせいだけではない。

(死んでもお前だけは守りたかったのに)

 ……もう、無理だ。
 せめて、死ぬときは一緒にいよう。

 そうすれば、死んだ後も同じところへ行けるかもしれない。
 どうか、そうであって欲しい。

「……?」

 そのとき、不意に氷の壁がオレンジ色に光ったような気がした。

 慎重にそちらを向く。

 祈祷師のいる側の壁が、何やら光っている。

 ……違う。
 壁そのものではなく、その向こう側だ。

(まさか────)



*



 少し時を遡る。
 屋上を後にした奏汰は、校舎内で仲間の姿を捜した。

 まず最初に、紗夜たちと別れた場所へ戻ってみる。

 しかしそこに紗夜や瑠奈、呪術師の姿はなかった。

 ただ、床には赤黒い血溜まりが残っており、それは明らかな戦闘の痕跡だった。
 瑠奈のステッキまで落ちている。

 二人は無事なのだろうか。

 しかし、どう楽観視しても、血の量的に生存は絶望的と言える。
 奏汰は眉を寄せ、唇を噛んだ。

(相討ち……?)

 だとしても、全員何処へ行ったのだろう。

 これまでのように死体が天界へ送られたのだろうか。
 いや、天界はここだ。

(陰陽師とやらが回収した、とか?)

 疑問は拭えないものの、ここは決着がついている模様だ。

 それだけは分かる。

 最悪、呪術師が生きていることを想定しつつ、蓮や小春を捜すこととする。

 再び歩き出そうとしたそのとき、一階から大きく重々しい音が響いてきた。

「!?」

 何の音だろう。

 名花高校内の見取り図には詳しくないものの、ただ音の出処を目指して奏汰は駆け出した。



 急いで階段を降りる。出た先で氷の壁に突き当たった。
 構造的に生徒玄関のようだが、異様な様相をしている。

 氷壁の前でこちらに背を向け立っている男は、間違いなく祈祷師だ。

 幸い、奏汰の存在には気付いていない。

「…………」

 陰に潜み、様子を窺う。どうやらあの壁の向こうに小春と蓮がいるようだ。

 ただ、見るからに壁は氷で出来ている。

 それであれば蓮が溶かせるだろうに、と思ったが、そう出来ない理由が分かった。

 物凄い速度であの中に水が浸っていっているのだ。加えて蓮が炎を宿しても、その瞬間に追尾する水がまとわりついて消える始末。

 祈祷師は二人を水没させ、溺死させる気だ。

(どうしよう)

 どうにか出来ないだろうか。

 自分の氷魔法でなら、あの壁を破れたりしないだろうか。

 ……いや、手段が浮かばない。

 例えば氷剣を突き刺そうとしても、貫通なんかしないだろう。ぶつかった瞬間に割れて砕ける。

 やはり、火か何かが必要だ。

 だが、例えば理科室にアルコールランプなんかを取りに行ったとしても、所詮焼け石に水だ。
 そんな代物では、歯が立たないというものである。

 もっと大きな火、それこそ蓮の火炎魔法が使えたら────。

 そのとき、ゴッ、とさらに激しい水流の音がした。

 弾かれたように顔を上げて見れば、氷の壁の一部に小さな穴が空いていた。

 小春の光線だろう。
 よかった。あれが使えるなら、その要領で氷の壁を破壊出来る。

 そう思ったが、そんな気配はなかった。
 祈祷師が新たな氷壁ですぐさま塞いでしまったのだ。

 はたと奏汰は閃いた。……そうだ、そういえば。

「火炎魔法なら、祈祷師も使えるじゃんか」



 柱の陰から飛び出していき、不意打ちで祈祷師の両脚を凍結した。

 作り出した氷剣を握り締める。

 珍しく驚いたような祈祷師だったが、すぐに平静を取り戻した。

「へぇ、キミ生きてたんだ。……ってことは、霊ちゃん殺られちゃったのかにゃ? あのコってばホントに口だけだよなー」

 そう言いつつ両脚を火炎で溶かそうとしたところを、奏汰は硬直魔法で止める。

 ここに来て今さら気が付いた。

 硬直魔法は何も、五本の指すべてを握り締める必要はなかったのだ。一本でも指を折っていれば解除されない。

「!」

 祈祷師の顔から笑みが消えた。余裕がなくなる。

 奏汰は毅然と威圧するように彼を睨めつけた。

「その氷の壁を溶かして」

「……あは。やーだね」

「従わないなら……」

 ゆっくりと歩み寄ると、氷剣の切っ先を祈祷師の心臓に向ける。

「このまま刺し殺す」

 その気迫には、さすがの祈祷師も怯んだようだ。

「ちょちょちょ、ちょっと待ってよー。優しそうな顔してるクセに、キミって相当鬼畜だね?」

 ぐっ、と奏汰がわずかに剣を押し当てると、触れた部分からパキパキと氷が張り始める。

 それを目の当たりにした祈祷師は喚いた。

「うわー!」

「時間稼ぎするなら選択肢も与えない。今すぐ殺すよ」

 今は優位に立てているが、実際は恐れていた。
 二十秒の時間を稼がれたときが一番まずい。

「わ、分かった分かった。まったくもー、横暴だな」

「……妙な真似したら分かってるよね」

 念を押す奏汰に祈祷師は「へいへい」と適当な返事をした。

 奏汰は氷剣を向けたまま、硬直を解いてやる。

 祈祷師はいつもの軽薄な笑みを湛えてはいたものの、大人しく従った。

 氷の壁に掌を翳す────。



*



 天井までの隙間はもう二センチを切っていた。三十秒と経たずして水没する。

 蓮は思い切り酸素を吸い込むと、小春とともに水中へ潜った。

(頼む。死ぬな……)

 その頬に両手を添え、祈るような思いで意を決して口付ける。酸素を送り込むと、泡沫が揺れ上っていく。

 そのとき、周囲がオレンジと青の光に包まれた。

 音もなく氷の壁が割れる。もとい、溶かされる。

「!」

 雪崩のような水に二人は押し流された。蓮は彼女を庇うように抱き締め衝撃から守る。

 廊下に着地すると、膝をつき屈んだ。

 見上げれば、氷剣片手の奏汰がいた。

「奏汰……!」

 安堵から、思わず顔を綻ばせる。助けてくれたのは奏汰のようだった。

「よかった、間に合って」

 微笑んだ奏汰は、すかさず祈祷師に硬直魔法をかけておく。
 彼は胸の辺りを覆っていた氷を溶かしたところだった。

「く……、言う通りにしたのに!」

 悔しそうに喚く。いいように使われた。

「……くそ。俺、弱気になってた」

 蓮はぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜる。

 すっかり諦めてしまっていた。八方塞がりな“最後”を、受け入れかけていた。

「マジで助かった。ありがとう、奏汰」

 噛み締めるように告げたとき、けほ、と小春が咳き込んだ。

 意識を取り戻した彼女が、ふっと目を開ける。

「大丈夫か!?」

「よかった……」

 ぶわっと熱風を起こした蓮は、自身と小春を乾燥させあたためた。ブレザーを肩からかけてやる。

「……ありがとう、二人とも。本当に……」

 憔悴してはいるが、命に別状はなさそうだ。

 立ち上がった蓮が差し伸べてくれた手を借り、小春も立った。

 三人は油断なく祈祷師を見やって対峙する。

 今のうちに奏汰は現状の報告をしておく。

「ひとまず俺は、霊媒師を倒してここに来た。呪術師の方は分かんないけど、姿がなかった。瑠奈ちゃんたちも」

 その点が気がかりだった。彼女たちは無事なのだろうか。

「それから、天界での魔法使用は普段の倍の負荷と反動を免れない」

 やはりそうだったのだ。

 薄々勘づいてはいたが、合点がいく。

「ひとまず気を付けて。……あと三秒」

 奏汰の言葉に思わず心の内で秒読みをする。

 三、二、一……祈祷師の硬直が解ける。

 奏汰は不意に頭を押さえた。よく見ると、耳から出血している。
 やはり、反動は甚大だ。

「悪ぃ、面倒かけて。あんま無理しないでくれ」

「するよ。……そのために来たんだから」

 頭痛を堪え、奏汰は強気に笑って見せる。

「……何度繰り返せば分かるのかな? 仲間なんていう厄介な繋がりを持ってるキミたちにはさ、精神攻撃が一番効くんだって。そうやって誰かが命を張るほど、他の誰かを追い詰めちゃうの」

 からん、と祈祷師の下駄が鳴る。彼は両手を広げ、朗らかに言った。

「……そんなことない。私たちは皆、自分の意思で戦ってる。誰のどんな結末も、後悔しないって決めた」

「ほぉー、割り切ったって? ────じゃあ、試してみる?」

 不敵に笑った祈祷師は、奏汰に風の斬撃を飛ばす。

 奏汰は咄嗟に避けようとしたものの、息が整わなかった。右腕を切り裂かれ、鮮血が舞う。

「奏汰!」

「……平気」

 案ずる二人に答え、奏汰は氷剣の切っ先を祈祷師に向ける。

「さっきと同じ目に遭いたい?」

 虚勢を張った。ぽた、と腕から血が滴る。

 それを見透かしている祈祷師はにやにやと笑った。

「やれるもんならね」

 彼は磁力魔法で奏汰の氷剣を引き寄せた。剣がその手に移る。三人は、はっと息をのんだ。

 そのまま奏汰に向け火炎を放つ。

 咄嗟に氷の壁でバリアを張った。炎がぶつかり、しゅう、と音がする。

 その隙に祈祷師は、氷剣片手に蓮に迫っていた。

「!」

 本当の狙いはそちらだったのだ。

「蓮……!」

 突然のことに、彼は動けない。

 小春は慌てて光線を放ったが、祈祷師には当たらなかった。わずかに矮小化し、器用に躱している。

 奏汰は地を蹴り、蓮の前に飛び出した。

 迎え撃つように手を翳し、氷柱を放つ。……その瞬間、祈祷師が消えた。

(どこだ……!?)

 戸惑った。一瞬の隙が生まれる。

 直後、目の前に現れた。

「……っ!」

 腹部に走る激痛。

 頭が真っ白になる。

「奏汰!!」

「奏汰くん!」

 ふら、と膝から力が抜けた。

 蓮たちの慌てたような声が、ぼんやりと霞んで聞こえる。

 瞬間移動した祈祷師は、氷剣で奏汰を貫いていた。

 すぐさま剣が抜かれると、その勢いのまま彼は床に倒れ込む。かは、と血を吐いた。

 貫かれた傷は凍りついたため出血しなかったが、じわじわと内臓も凍結していっている。

 祈祷師がその場に放った氷剣は床に落ち、砕けて散った。

 煌めく宝石の欠片が降ってくるように見えた。

「おい、奏汰……っ」

 慌てて駆け寄った蓮は彼の傍らに屈む。

 その間もつけ狙う祈祷師のことは、小春がどうにか一人で相手取った。

「馬鹿、お前────」

「そこは……ありがとう、でしょ」

 奏汰は冗談めかして笑うも、ひどく弱々しかった。

 顔色は蒼白だ。その分、血が鮮烈に目に焼き付けられる。

 蓮は目に涙を溜めた。

「“助けてくれ”なんて言ってねぇよ。何でこんなこと……っ」

「俺には、聞こえたけど……?」

 思わず以前のやり取りを思い出す。

 突如としてヨルに変貌した瑚太郎に、奏汰が襲撃されたときのことだ。蓮は危険も顧みず一人で助けに現れた。

 ぽろ、と涙がこぼれ落ちる。

「蓮、聞いて……。俺、自分でも驚くくらい怖くない────死ぬの。……満足してるから」

 結果的に無二の親友を救えたこと。これまでの日々。

 自分の選択に、微塵も後悔はない。

「……っ」

「だから……自分を責めたりとか、しないでよ」

 かなた、と呟いた声は掠れた。

「もう俺のことはいいから……早く、戻って。小春ちゃんを守るんでしょ? ……もう、彼女を守れるのは、蓮しかいない」

 その言葉に、蓮は涙を拭った。

 立ち止まってはいられない。それは重々承知している。

 惜しむような視線をやりつつも頷くと、戦線に戻っていく。

 奏汰はぼやける視界の中で、その背を見送った。

(ありがとう、蓮……。あのとき助けてくれて)

 ────これで、借りは返せたかな?

 そんなことを思いながら奏汰は目を閉じる。涙が伝う。

 それでも、その表情は穏やかに微笑んでいた。



 小春は苦戦を強いられていた。

 攻撃が命中しても、すぐに傷が癒えてしまう。

 祈祷師にダメージが蓄積しているのは確かなはずだが、倒し切る前に大きな反動に見舞われる。

 そのせいで足止めを食らう。自滅の方が早そうな気がしてくる。

 祈祷師もそれを分かっているのか、あるいは奏汰の犠牲について苦悩させるためか、積極的に致命的な攻撃を仕掛けてこなかった。

「はぁ……はぁ……」

 小春は肩で息をする。

 苦しい。呼吸が苦しい。

 魔法の反動だけではない。

 祈祷師の狙い通り、精神攻撃の賜物だった。

「ふふふ。あえて目を背けても、現実は変わらないんだよ? コハルちゃん。────キミさぁ、何人死なせるの?」

 祈祷師の笑みが、言葉が、小春の心を抉る。

「死なせたくない、守りたい、とか言うキミが一番死神じゃない? キミのせいで命を落としたお仲間たちは、キミが殺したも同然だよ。ねぇ、理想も綺麗事も命の前では無価値なの。キミの正義は、皆を殺す刃だ。なのに……いつまで夢見ちゃってるのかなぁ?」

 彼の挑発に、小春は何も言い返せなかった。両の拳を握り締め、わななく。

 確かに自分のせいで犠牲となった仲間たちもいた。
 何度も、守れなくて悔しい思いをした。

 彼ら彼女らは自分を恨んでいるだろうか。

 到底実現出来ないような甘い理想ばかりを追い、正義を盾に綺麗事ばかりを並べ、仲間の命を疎かにした自分を────。

「キミが償う方法はさ、一つしかないよね。いくら鈍感で脳内お花畑な夢見がち乙女のコハルちゃんでも、さすがに分かるんじゃない?」

 祈祷師は作り出した蔦を、首吊りロープの形にして掲げる。

 彼の軽薄な笑顔が、今はひどく冷酷に見えた。

「よかったね。キミにとって、死は救済だ」

 不安定な呼吸が震える。

 雰囲気に、彼の言葉に、飲み込まれていく。

 自分のせいで死んだ仲間への贖罪────それは、自分の命を差し出すこと……?



 そのとき、ぼおっと祈祷師の持つ蔦が燃えた。

「くだらねぇこと言ってんじゃねぇよ、狐野郎。その仮面は皮肉か?」

 蓮は低く言い、鋭く睨みつけた。

 祈祷師は一瞬真顔になったが、再びにんまりと笑う。

「蓮……」

「俺だって悔しい。守れたはずの奴は何人もいる。俺のせいで亡くなった親友だっている」

 言葉にすると自己嫌悪に陥りそうになるが、その親友の最期の言葉を思い出し、かぶりを振る。

 蓮は強気な表情を取り戻し、小春の腕を引く。

 迷子のように彷徨うその目を見やる。

「大丈夫、惑わされるな。仲間たちは誰一人、お前を恨んだり憎んだりなんかしてねぇよ。俺含めてな」

 ……いつだって、そうだ。

 彼は沈んだ心を掬い上げてくれる。

「誰の犠牲もお前のせいじゃない。皆、自分で選択した」

 小春が何か言う前に、蓮は彼女の腕を放した。

「おい、てめぇ。覚悟しろよ」

 祈祷師目掛け火炎を放つと、爆風のような風で煽る。
 そのまま斬撃を飛ばし、立て続けに攻撃を仕掛けた。

「……っ」

 祈祷師は最初こそ易々と避けていたものの、だんだん動きが鈍くなっていった。目に見えて余裕が損なわれていく。

 先ほど小春が与えたダメージが、彼の足を引っ張っているのだ。

 蓮は祈祷師に隙を与えなかった。

 現実へと立ち戻った小春も、祈祷師の反撃から蓮を守るべく光弾を放つ。

 ────今は、自分に出来る精一杯のことをやるしかない。

 その一心で戦い続けていた。

 祈祷師の放った刃のような葉が小春や蓮に噛みつき、切り傷を刻む。

 身体のあちこちに熱いような鋭い痛みが走った。鮮血が翻る。

 しかし、もう怯まなかった。

 蓮の飛ばした斬撃が、祈祷師の身体を切り裂く。赤い雫が床を染めていく。

「……!」

 たたらを踏み、膝をついた祈祷師を、油断なく火炎で包囲する。
 小春も常に人差し指の先を向けていた。

 彼の呼吸は浅い。

 これまでに蓄積したダメージと連続して受けた攻撃のせいで、回復が追いつかないようだ。

 祈祷師自身が弱ったため、致命的な攻撃を繰り出すことも出来ない。

 蓮はずっと、このときを待っていた。

「ようやく、そのムカつくにやけづらが崩れたな」

「く……。……はぁ、ここまでかぁ」

 死の淵にいるというのに、祈祷師は最後まで暢気なものだった。

「お前には借りがあるからよ……。ここで返せてよかった」

 一度、小春を殺したことだ。

 結果的にその事実は消えたといえど、あればかりは許せない。

 さらには奏汰まで殺した。

 ────こうして、直に仇を討ててよかった。

 小春は指先を構え直す。

「あなたを倒したら……陰陽師に会えるの?」

「さぁ? やってみれば? ……ボクは保証しない」

 陰陽師に会えなければ、ここまでの戦いは、皆の犠牲は、すべて無意味だったことになる。

「……やれ、小春」

 蓮は静かに言った。

 どちらにしても、祈祷師の最期は今だ。

「…………」

 小春は強い覚悟をもって光弾を放った。真っ直ぐに祈祷師の心臓を貫く。

 どさ、と抵抗なく彼はその場に倒れた。

 ────終わった。やっと、祈祷師を討つことが出来た。



「やった……」

 静寂が落ちる。自分たちの荒い呼吸が響く。

 頭痛を覚えた小春は頭を押さえた。耳に触れると血が垂れてきていた。

 咳き込んだ蓮も吐血し、あちこちから流れてくる血を震える手で拭う。

 かなり無理をした。
 堪えていた反動が、今になって彼らを襲う。

「蓮……」

 特に甚大な反動を受け、苦悶する蓮を窺った。

 大丈夫だろうか。ここまでのことは初めてだ。

「ちょっとだけ、休んでもいいか……」

「も、勿論……」

 蓮は壁に背を預け、ずるずると滑るように座り込む。

 手足に力が入らない。立っていられない。腰を下ろしても身体の怠さは治まらなかった。

 槌で殴られているような頭痛が、がくがくと震えを助長させる。

 小春は案ずるように蓮の傍らに屈んだ。彼女の方の反動は既にだいぶ落ち着いていた。

「まだ、こっからだってのに……。悪ぃ、不甲斐ねぇな」

 ────そう、まだすべてが終わったわけではない。

 陰陽師は恐らく祈祷師よりも強い。

 祈祷師相手でもこれほど苦戦したというのに、たった二人きりで大丈夫だろうか。憂いは止まない。

 蓮は不規則な呼吸を繰り返す。

 既に相当なダメージを負った。傷も痛む。反動も苦しい。身も心も疲弊している。

 しかし、ここで倒れるわけにはいかない。

 小春を一人には出来ない。

「……お前って凄ぇよな」

 ほとんど口をついてこぼれた。小春の頭に手を載せる。

「え? なに、急に……」

 幾度となく 危険な目に遭ってきた。

 時に醜い人間の本性を目の当たりにした。

 だが、どんな困難に晒されても、一度たりとも信念を曲げなかった。

 馬鹿な理想だと嗤われ、偽善者だと蔑まれても。

 ────変わらない。出会った頃から。

 優しくて、でも決して弱くなんてない。
 何があっても、あたたかい強さを忘れない彼女。

 ……だから、だろうか。

(だから、俺は小春を────)

「……っ」

 こはる、と呼びかけた蓮は、不意に咳き込みさらに血を吐いた。

 休んでも、反動による苦痛は一向によくならない。

 どく、どくと心音が大きく重く脈打った。

 視野の端を、じわじわと黒い触手のような影が侵食してくる。

 蓮を案ずる小春の声が、水の中にいるみたいにぼんやりと遠く霞んだ。耳鳴りがする。

「…………」

 ふと、昨晩のことを思い出した。
 スマホの画面に表示された文字が鮮明に蘇る。

 ────寿命、八十年分。

(……そうか)

 これは、そういうことか。

 なのだ。

 天界で魔法を使った反動が、本来の寿命を縮めたのかどうかは分からない。

 しかし、蓮の寿命はどうやらここまでのようだった。

「ごめんな、小春……。俺、ここで終わりみてぇだ」

 小春は彼の言っている意味が即座に理解出来ず、言葉が出なかった。

「実はさ……代償が“寿命八十年分”だったんだよな」

 蓮はその途方もない数字を明かす。

 瞠目した小春は、祈祷師の言葉を思い返した。

『代償の方はツイてなかったみたいだけど』

 あれはそういう意味だったのだ。

「そんな……。何で」

 現実を拒絶するように涙が滲む。声が震える。

「何で言ってくれなかったの……? こんなことって……」

「ごめんな。……でも、言っても余計な心配かけるだけだろ」

 蓮は儚く笑う。

 その笑顔にさらに胸が痛んだ。

 小春の記憶が眠るたびリセットされることが、今ばかりはかえってよかったかもしれない、と蓮は思う。

 “伝えたいことがある”と告げたことを、忘れてくれた。

「…………」

 蓮は真っ直ぐに小春を見やる。

 ────自分にとっては、もう終わりの瞬間。

 だが、小春にはまだするべきことが残っている。戦いはまだ終わらない。

 例えば自分のエゴのために思いの丈を伝えても、彼女を困らせるだけだ。

 だったら、ぜんぶ、自分の中に閉じ込めて持って行こう。

 小春が十二月四日を超え、それから何年も何十年も経って髪が白くなってから、天国だかあの世だかで再会したそのときなら、伝えても許されるだろうか。

「ありがとな」

 蓮は弱々しくも、いつも通り笑った。

 大きな意味でも、小さな意味でも、ありがとう。

 ……ありがとう、出会ってくれて。
 この気持ちを教えてくれて。
 一緒にいてくれて。
 ともに戦ってくれて。

「……っ」

 小春は顔を歪める。涙があふれる。

 思わず蓮の腕を掴んだ。……いかないで、待って。
 喉が詰まって言葉が出ない。

 蓮も震える手で小春の手を掴む。入らない力を精一杯込め、ぎゅっと握った。

「絶対、諦めるな。何があっても……小春なら────」

 ずる、と蓮の腕が垂れる。はっと顔を上げる。

 霞んで滲む視界で彼を見れば、固く目を閉じていた。

「蓮……!」

 小春は咽び泣いた。

 ……“ありがとう”はこちらの台詞だ。
 蓮には、どれだけそう伝えても足りない。

 最初から最後まで、ずっと守ってくれていた。ずっと安心感をくれた。

 蓮がいなければ、恐らくもうとっくの前に死んでいたことだろう。

 果てしない喪失感に苛まれる。

 信じられない。

 彼がもう、この世にいないだなんて。

「……蓮」

 唇の隙間から勝手に言葉がこぼれる。

 何を言おうとしているのか、自分でも分からない。

 ……だけど、本当はとっくに気が付いていた。

 無償の優しさをくれた、ずっとそばにいてくれた、蓮の想い。
 そして何より、自分の気持ち。
 
「私は────」



 その瞬間、何かが割れる音がした。

 はっとして周囲を見回す。

 窓にヒビが入っていた。……否、にヒビが入っていた。

 まるでガラスのように、この奇妙な世界が砕け壊れていく。

 ガラガラと崩れ落ち、深淵の闇に飲まれていく。

 足場が割れ、奏汰や祈祷師の亡骸が落下していった。

 自分たちのいる床も崩れ、蓮ともども暗闇へ投げ出される。

 浮遊感に包まれながら小春は彼に手を伸ばしたが、届かない。

「……っ」

 ……これからどうなってしまうのだろう。

 不意にとてつもない孤独感が伸し掛かってきた。

 もう、誰もいない。独りぼっちだ。

 皆、死んだ。

 小春は闇の中を、崩れる世界の破片とともに、ただただ落ちていった。



*



 小春が目を覚ましたのは、水の上だった。

 天界だ。最初に目にした景色と同じである。現実世界を模していない、まっさらな天界。

「…………」

 周囲を見回しつつ、そっと身体を起こす。

「目覚めたか」

 不意に低い男の声がした。

 振り返ると、和服のような漢服のような衣装を纏った男がいた。

 三十代から四十代くらいだろうか。
 闇のように黒い長髪と、血のような紅色の瞳が特徴的だ。

 彼は悠々と玉座に腰かけている。
 直感的に、彼こそが陰陽師だと分かった。

「私……」

 小春は警戒しつつも、戸惑いを顕にする。

 深淵の闇の中を永遠と落下しているような気がしていた。

 あのまま落ちた先に叩きつけられ死ぬか、破片の下敷きになって死ぬかと思っていた。

(助かったの……?)

「あれは言わば、精神世界……。物理的な崩壊ではないゆえ、そなたはこうして無事というわけだ」

 小春の心を読んだかのように陰陽師は答えた。

 何だか抽象的な話だ。

「蓮は……? 皆は……」

 呟くように尋ねると、陰陽師はおもむろに指を鳴らした。

 宙にガラスの塊のようなものが無数に浮かび上がる。

 恐る恐る立ち上がり、透明度の高いそれに近づいてみると、中に人の顔が浮かび上がっていた。

 その中の一つに蓮を見つける。

「蓮……!?」

 ガラスの塊は小春の肘から指先ほどの大きさだ。

 実際に本人が閉じ込められているわけではないのだろう。

「どうなってるの?」

「皆、このゲームの死者たちだ。よく見てみろ、そやつ以外にも見知った顔がいるだろう」

 小春は辺りを見回した。

 琴音や大雅、瑠奈、奏汰……。他にもいる。確かに失った仲間たちが閉じ込められている。

 皆一様に目を閉じ、眠っているように見えた。死者の魂とでも言うのだろうか。

 小春は圧倒されながら、思わず後ずさった。
 ガラスの塊はそこら中に無数にある。遠くのものは霞んで見えない。

(こんなに、たくさん……)

 ゲーム中の人間世界の状況も、こうしてガラスに投影し把握していたのだろう。

「これでもほんの一部だ。彼ら彼女らは、の犠牲者たち。その他も合わせればこの空間が埋まる」

 言っている意味が分からなかった。

 小春は困惑する。

 “東京戦”など、まるでここ以外でもこのウィザードゲームが行われていたような言い方だ。

「ゲームは時期をずらし、全国で予選を行っていた。東京が最後だったのだ」

「全国……予選?」

 陰陽師は小春の心情を無視する形で続ける。

「我々の目的はただ一つ。“新たな魔術師”を決めることだった」

「何、言ってるの? 意味が分かんない……! 魔術師って、だって私たち────」

 理解が追いつかない。

 話についていけない。

 自分たちは魔術師だ。その中の頂点を決める、というならまだ話は分かる。

 だが、陰陽師の口振りはそうではない。

 いったいどういうことなのだろう。

「天界と我々の実態について改めて話そう」

 陰陽師は頬杖をつき、小春を見下ろした。

「……天界は、簡単に言えば異空間。別に人間界より上に存在する、神々の住処というわけではない。我々の呼び名にしても同様、実際にその役割を担ってるわけではない。ただ、呼び名がないと不便なのでな、今の呼称に落ち着いたに過ぎない」

 おもむろに立ち上がった陰陽師は滔々とうとうと語り出す。

 悠然と階段を下り始めた。

「そして、少し前まで……私と祈祷師、呪術師、霊媒師の他に、もう一人の者がいた。それが────魔術師」

「……!」

「この異空間はその五人が揃わなければ、空間の存在を保っていられない。それぞれが、次元を保つ歯車なのだ」

 何となく、ぼんやりと、話の輪郭が見えてきたような気がする。

 先ほど一度世界が崩壊したのは、歯車が一つ欠けているからかもしれない。

「知っての通り、我々は人間ではない。あやかしとでも言っておこうか」

「あや、かし……」

 そんなものが実在するのだ。

 魔法の存在がある以上、今さら信じられないことでもない。

 人間でないことくらいは確かに分かっていた。

 ────彼らは勝手に日常に介入して来て、ぶち壊していった。

「でも……魔法は全員使えるんでしょ? 魔術師だけ、魔術師って呼ばれてるの?」

 何となく口をついて疑問がこぼれた。何だか“魔術師”だけ異色に感じる。

 それも中身の伴わない呼称であるだけだ、と言われれば、それまでなのだが。

 段差の途中で足を止めた陰陽師は、すっと目を細める。

「我々の持つ“異能”を、人間たちは“魔法”と呼ぶな。だが、単に魔法使いということでなく、我々の中で魔術師は異質な存在なのだ」

 小春の抱いた直感的な感想は、間違いではなかったようだ。

「異質……」

「如何にも。魔術師は────人間の中から選ばれる」

 小春の睫毛が揺れる。

 驚くものの、半ば予想通りだ。

「ということは……このウィザードゲームは、そのための選別ってこと?」

 陰陽師は首肯する。

「ゲームにおける唯一の生存者が、正式に魔術師に選ばれ、天界へ招かれる」

 祈祷師の言葉が理解出来た。

 “魔術師もどき”とは、そういうことだ。
 ────魔術師候補もどき

「魔術師が欠けたら、毎回こんなゲームをしてるの? 大勢を殺して……」

「いや、そういうわけではない。我々と同類の者で適任者がいれば、普通はその者を選ぶ。その場合、魔術師ではなく“妖術師ようじゅつし”と呼ぶがな」

 つまり、彼らにとって魔術師と妖術師は同じ役割を持つのだ。

 人間上がりなら魔術師、妖なら妖術師と、呼称が変わるだけである。

 空間の維持には陰陽師、祈祷師、呪術師、霊媒師、そして魔術師か妖術師のいずれかが必要となる。

 魔術師と妖術師はどちらでも構わず、それぞれ五人が揃えばいい。

「何で私たちが選ばれたの……?」

 人間など、どれだけ膨大な範囲がいることだろう。

 それなのに何故、自分たちに白羽の矢が立ったのか。

「貴様ら高校生が対象になったのは、ダイスの結果だ。バトルロワイヤル形式にすることで、運やその個人の能力を測りつつ、選別していくことにした」

 魔法の扱いなどといった魔術師としての素質や頭脳、体力、気質などが、そういった個人の能力に含まれる。

 運営側はこの選別を「ウィザードゲーム」と称し、ゲーム感覚で高みの見物をしていたわけだ。

 また、メッセージについても完全にランダムに送信されていた。

 受信出来なければ“運が悪かった”として、その時点で候補からも除外される。
 受信者はもれなく魔術師候補になるのだ。

「でも、何で人間を巻き込むの……? あなたたちとは関係ないのに」

 勝手に選ばれ、勝手に殺し合いを強いられた。

 陰陽師は鼻で笑う。

「私とて人間などとは関わりたくない。何もかもが我々に劣る。異能の精度も治癒能力も。老いもするし死にもする。何より……身勝手で利己的。この上なく愚か」

 吐き捨てるように言い、陰陽師は人間に対する嫌悪を顕にする。

 歴代の魔術師たちはその本性を顕に、欲望のままに行動した。

 今、魔術師及び妖術師の席が空いているのもそのせいである。
 先の魔術師が状態になったのだ。

 実に愚かな生き物だ。分不相応な力を手に入れた途端、横柄で盲目になるのだから。

「貴様のような人間も軽蔑に値する。その性分も理想も言葉も、反吐が出るほどの偽善者だ」

 陰陽師の鋭い目に射すくめられる。

「結局、己が生き残った。他者を散々犠牲にした結果な。上辺だけ繕い、よくもまあ皆を出し抜いたものだ。打算的な策略家だな。感心すら覚える」

 淡々と刃のような言葉を浴びせられた。

「実に諦めが悪い」

「……っ」

 小春は唇を噛み締め、わななく。

 ────間違ったことをしたくない、と思った。最初から。

 突如として始まった非日常。殺し合いバトルロワイヤル

 それでも、選ばれたプレイヤーたちはあくまで被害者という立場だ。
 妖たちの気まぐれに巻き込まれ、踊らされているだけである。

 命を奪う資格も、奪われる謂れもない。

 だから、殺し合いなんてしたくなかった。

 殺さないと決めた。

 特別な力を得たのなら、他の誰かを守るために使うべきだと思った。

 そうやって掲げた理想や信念は、正義感から来るものだったかもしれない。

(でも、それだけじゃない……)

 それだけじゃないということに、本当は気が付いていた。

 だからこうして責められるたび、深く言葉が突き刺さった。

 蓮も紅も他の仲間たちも認め称えてくれたけれど、買い被りすぎだ。

 本当はただ、怖かっただけなのだ。怯えていただけ。

 一度でも手を汚してしまったら、もう後戻り出来なくなる気がして。

 日常に戻れなくなる気がして。

 皆を失う気がして。

 間違ったことはしたくなかった。
 実際、間違ったことはしていない。

 奇妙な話だが、それでも必死に正当化していた。

 そうしていなければ、自分を守れなかった。

 きっと流され“殺さなければ殺されるから”と逆方向の正当化をしていただろう。

 そうしないでいられたのは、自分一人の力ではない。

 皆が、仲間がいたから。

 彼ら彼女らと意をともに出来たから。

 だから、誰よりも重んじていられた。自分自身に課した戒めを。

「…………」

 小春は涙を溜め、顔を上げる。

 強気な眼差しで陰陽師を見据える。

「身勝手なのはそっちでしょ……! このゲーム自体、あなたたちの身勝手で成り立ってる」

 小春が反論したことに、陰陽師はわずかに驚いたようだった。

「利己的なのもお互い様。自分たちのためだけに私たちを巻き込んで、何人も殺して、殺させて。従わなかったら制裁……? あなたたちのルールなんて知らない。押し付けないでよ!」

 ぎゅ、と拳を握り締める。

 息を吸う。

「“諦めが悪い”? 当たり前でしょ。私はすべてを背負ってここにいるの! 皆に託されたすべての希望を信じて、叶えるために来たの! 簡単に諦めてたまるか……っ!」

 魔法なんて使っていないのに、心臓がうるさかった。

 息が切れた。手が震えた。

(……怒ってるんだ、私)

 その事実に少し驚いた。

 恐怖よりも怒りがまさっている。

 本当に腹立たしいのに、何処か冷静な自分がいた。

 言い返せたのはきっと、皆のお陰だ。蓮のお陰だ。

 間違ったことはしていない。

 ならば、気後れしなくていい。遠慮はいらない。自分を責める必要もない。

「…………」

 陰陽師はただ黙っていた。

 圧倒され押し黙っているわけではなく、意図的に口を噤んでいるのだろう。



「……言うじゃん、ちょっと意外」

 不意に何処からか声がした。少女の声だ。

「何だかんだで芯が強くなったんじゃない? ウィザードゲーム様々だね」

「誰……?」

 小春は周囲を見回した。誰もいない。

 すぅ、と空間が歪む。

 突如としてそこから少女が現れる────霊媒師だった。

「え……!?」

 小春は瞠目し動揺を顕にする。

 何故生きているのだろう。

 奏汰は確かに“倒した”と言っていたはずだ。しかし、見たところ霊媒師には傷一つもない。

「悪いね、陰陽師。聞き耳立てるつもりじゃなかったんだが」

「じゃーん、ボクも再登場。ザンネンだったね、命からがらの勝利だったのに。実は生きてました~」

 呪術師と祈祷師も現れる。

 小春は呼吸を忘れ、ひたすらに戸惑った。

(何で……。何で?)

 心臓が早鐘を打つ。

 まったくもって理解が出来ない。

 何故、全員無事なのだろう。

「……最初から潜んでいただろう」

 陰陽師は三人を見やり、呆れたようにため息をついた。

 小春が目覚めた時点で、全員ここにいた?

「…………」

 瞳が揺れる。

 ざらざらとした砂粒が皮膚を撫でているようだ。

 絶望感が胸を貫く。

 不意に平衡感覚を失い、その場にへたり込んだ。力が抜けてしまった。

「いいねー、そのカオ。信じらんない、ってカンジ? 何が起きてるか教えてあげよっか? ま、簡単な話なんだけどー」

 祈祷師は小春の傍らに屈む。

「ボクたちはさ、ゲーム中ほとんどの異能を解放してあげたの。いろーんな魔術師たちのいろーんな魔法を目の当たりにしたでしょ? でもその中で唯一、存在しない異能があった。“これがあったらなぁ”ってときがキミたちにも確かにあったと思うよ、痛いほどね」

 もったいつけて微笑む祈祷師。

 小春の耳元に顔を寄せる。

「それはね────“死者蘇生”」

 息をのみ、小春は顔を上げる。

 祈祷師はけたけたと笑った。

「そうだよねー。あったらよかった、って思うよね? あのコもあのコも、生き返らせることが出来たらどんなにいいか」

「死者蘇生、なんて……出来るの?」

「モチロン。陰陽師にかかればワケないんだな、これが」

 時間逆行での二分間という縛りもなく、死んだ者を蘇らせることが出来るのだ。

 魔術師候補のプレイヤーたちも陰陽師以外の妖も使うことが出来ない唯一の異能である。

「ま、ゲーム中に使えないのは当然だよね。生き残りをかけたバトロワだもん。生き返っちゃったらゲームが崩壊する」

 霊媒師はそう言うと、くるりと傘を回す。

「あ、そうそう。ついでに代償についても教えてあげるね」

 ────本来、魔法即ち異能は、人間が扱えるような代物ではなく、人間は天界へ足を踏み入れることも許されていない。

 しかし、魔法と引き替えに代償を払うことで、天界への“切符”を買うこととなる。

 また、代償のお陰で、陰陽師の力を借りることが出来、人間でも魔法に耐えられる身体になる。

 そのためにゲーム中、魔法の会得には必ず代償が必要となり、一つ目の魔法はガチャからしか手に入れられない縛りがあったということだ。

「……そういうわけだが、これでもまだ我々に楯突く気があるか?」

 燃えるような陰陽師の紅い瞳に捉えられる。

「…………」

 小春は呆然と四人を見た。

 ……ああ、これで振り出しだ。そう思った。

 いや、違う。こちらは自分以外の仲間をすべて失った。

 しかし、その犠牲も結局は無意味だったのだ。

 命を懸けて戦ったのも、無駄だった。

(傷が癒えるとかいう次元の話じゃない……)

 こんなふうに蘇ることが出来るなら、何度倒したって仕方がない。

 ぜんぶ意味がない。何もかも無駄。

(何のための戦いだったの……?)



「何はともあれ、ミナセコハル。おめでとう~! キミは見事、新たな魔術師に選ばれました!」

 祈祷師はそう言い、ぱちぱちと拍手する。

「え……?」

 小春は眉を寄せた。

 陰陽師の話では、ここ数か月の出来事は予選であり、序の口だという解釈だったのに。

「それがね……実は、他では唯一の生存者がいなかったんだ。皆、期日までに決着がつかずに強制終了皆殺しってパターンがほとんどかな」

 小春の困惑を悟った呪術師が言う。

 実際、期日までにたった一人の生き残りになることなどほとんど不可能な所業であり、これまでに達成した者はいない。

 つまり、東京以外に高校生はもう存在していないのだ。

 しかし、小春たちもそのことにまったくもって気が付かなかった。知らなかった。

 洗脳されているのは、小春たちも同じだった。

「あんたたちみたいに直接挑んできた奴もいたけど、返り討ちに遭ってゲームオーバー。まぁ、あんたからしたら仲間を失って自分だけが生き残る、って後味の悪い最悪の結末かもしれないが、実はこれは凄い結果なんだ」

「ホーント、まさか君が生き残るとはね」

 霊媒師は同調し、じっと小春を見やる。

「コハルちゃん。魔術師になってボクたちの仲間になるってことで、キミも妖になって貰うからね。あ、キミは別に何もしなくていいよ。陰陽師に任せといて」

 祈祷師は、ぽん、と小春の肩を叩いた。

「この身体は便利だよー。魔術師になったら、君も制限なく異能を使えるから安心してよね。大抵の傷は即治癒するし、不老不死だし、人間が如何に弱っちい生き物か思い知るよ」

 霊媒師がそう言うと、陰陽師も口を開く。

「貴様のことは気に食わないが、我々も規則には従わねばならぬ」

 彼は淡々とした声色で続けた。

「祈祷師の言葉通り、唯一の生存者となった貴様には、魔術師となり天界にて明かし暮らす権利が与えられた。それに伴い、そなたを妖とす」

「…………」

 小春は何も言わず、呆然と俯いた。

 もう、頭も心も空っぽだ。

 色々な感情が一気に湧き起こり、そして今は一気に凪いだ。

 蓮も皆も、誰もいないこんな場所で、永遠に生き続けることに何の意味があるというのだろう。

 いっそのこと、もう死んでしまいたい。
 彼らと一緒に死んでしまえばよかった。

 そうしたら、独りにならずに済んだのに。

(こんなこと考えてたら、蓮に怒られるかな……?)

 ああ、でも本当に……心からそう思う。

「ほい」

 祈祷師が手を差し出す。

 ほらほら、と催促され、小春が反射的に手を伸ばすと、引っ張り立たされた。

 彼は小春の手を引き、陰陽師のいる玉座の方へ連れていく。

 ……もうどうでもいい、どうにでもなれ、と正直投げやりな気持ちになっていた。

 そのとき、不意に小春の頭の中に蓮の最期の言葉が蘇る。

『絶対、諦めるな』

 はっとする。

 凪いだはずの感情が揺れ始める。

『何があっても……小春なら────』

 蓮はその先に何て言おうとしたんだろう。
 小春なら。

(私なら、大丈夫? 私なら、勝てる? 私なら……)

 きっと、どんな状況に陥っても打開できるはずだ、ということを伝えてくれようとした。

 そう信じたい。

「…………」

 小春は立ち止まり、祈祷師の手を振り払う。

 決然たる眼差しで真っ直ぐに陰陽師を見据えた。

「あなたはどうして……関わりたくない、って人間を見下してるくせに、魔術師を迎えようとするの?」

 妖がその立場を担えるのなら、人間に固執する必要なんてないのに。

「今回のバトロワは私が考えたことで、初めての試みだったんだよ。醜い人間たちによる醜い争いの果てを見たかったの。面白そうだから。陰陽師じゃなくて、私の提案ってわけ」

 陰陽師の代わりに霊媒師が答えた。

「……だとしても、あなたに拒否権だって決定権だってあったでしょ」

 すっ、と陰陽師は目を細め、小春を見下ろす。

「何が言いたい」

「……あなたは何処か、期待してるんじゃない? 人間の身勝手さと利己主義加減と醜さの中にある、何か……崇高な美しさ────それを探してる」

 しん、と水を打ったように静まり返る。

 一拍置き、陰陽師は声を上げて笑った。

「馬鹿なことを。貴様は何処まで夢想家なのだ」

「それを私が持ってるとは言わないけど……」

「当然だ、思い上がるな。そんなことはどうでもいいのだ。さっさと────」

「私は」

 陰陽師の言葉を遮り、小春は毅然と言ってのける。

「私は、魔術師になんてならない」

「……はぁ?」

 霊媒師が驚くような非難するような声を上げた。

 すぐそばにいる祈祷師が何か言おうとしたが、先んじて小春は続ける。

「魔法とか、特別な力なんていらない。傷がすぐに治らなくてもいい。老いることも死ぬことも当たり前だよ。……だって、人間だから」

「だーかーら、それが君たちの欠点だって言ってんの」

「でも私はそれでいいの、それがいいの。普通の人間でいたい……いたかった! 平凡な高校生のままでいたかった!」

 何気ない日常を思い出せば、じわ、と涙が滲んだ。

「特別な何かなんてなくてよかった。ただ……ただ、蓮や皆がいてくれたら、それでよかった……っ」

 こぼれそうになる涙をどうにか堪える。

「返してよ……。あなたなら、生き返らせることが出来るんでしょ。皆を返して! こんなゲームの犠牲になった人たち全員、蘇らせてよ。私たちの日常を返してよ……!」

 永遠のように感じられる静寂が落ちた。

 自分の呼吸や心音が耳元で聞こえる気がした。



「…………」

 目を伏せ黙していた陰陽師が、ややあって口を開く。

「────そなたは、何を差し出す?」

 その言葉に小春は息をのんだ。

「忘れたわけではあるまいな? 私は最初から言っている。何かを得るには、何かを差し出せ、と」

「……私は、どんな代償も厭わない」

 小春は揺らぐことなく、強気な表情で答えた。

 吟味するようにしばらく眺めていた陰陽師は、わずかに、ふっと笑う。

「……いいだろう」

 欠けた歯車は妖の中から探すとしよう。

 陰陽師の出した答えに、三人は驚愕した。

 まさか小春の申し出を受け入れるとは思わなかった。

「え、マジで? いいのー?」

 念押しする祈祷師を無視し、彼は階段を下りてくる。

「ただし、その場合、当然ながら人間たちに与えた異能は返して貰う。その代わり、代償も返還しよう」

「本当に……!?」

 予想外の言葉だった。

 これで元に戻る────。平穏な日常に戻れる。

「勘違いするな、温情などではない。ただ、やはり人間風情には天界へ昇る資格などなかったのだと判断したまで。もう関わりたくないものだ。永遠に下界で燻っているのが似合いだな」

 天界とは名ばかりの異空間だ、と言っていたくせに、ひどい言い草だ。

 しかし、話が通じた。すべてを懸けた甲斐があった。
 今ならこの程度の悪態は聞き流せる。

「────して、そなた。如何なる代償も厭わぬと申したが、二言はあるまいな」

 小春は黙って見返す。当然、ない。

「では……愚かな魔術師気取りどもが払った代償。それをすべて、そなた一人に背負って貰おう」

 目を見張り、息をのんだ。

 これまで魔法ガチャでプレイヤーたちが差し出した代償のすべてを小春一人が払わなくてはならない、ということだ。

 勿論、中には“心臓”など即死の代償もあるだろう。

 それでなくとも何百万人というプレイヤーたちの払った代償を一身に引き受ければ、どんな人でも死に至ることくらい明白だ。

 つまり、陰陽師は“皆を救う代わりにお前が死ね”と言っているわけだ。

 まさしく無慈悲である。

「そーいうこと……」

 祈祷師は顎に手を当て、口角を持ち上げた。

 陰陽師が小春に絆されたのかと案じていたが、そういう結論なら、と安堵した。

「…………」

 小春は俯く。考えた。

 考えたが、いくらそうしたところで答えは最初から変わらない。

「……分かった」

「ほう……」

 陰陽師は意外に思った。

 さすがに命と秤にかければ、命をとると思ったのに。

 彼女に迷いや躊躇は見られない。

「でも、もう一つお願いがある」

「図々しいにも程があるぞ。私がそれを聞き入れると思うか」

「でも、聞き入れて。代償なら何でも……私が差し出せるものなら何でも差し出す。私が犠牲になる。だから、お願い────」

「……小賢しい。何なのだ」

 促された小春は、深く息を吸う。

「私から代償を取る前に、皆の記憶から私を消して。私を知ってるすべての人から、私という存在を忘れさせて」

 ふん、と陰陽師は目を閉じた。

「元より記憶は改竄するつもりだ。さもなくば辻褄が合わん。どうせついでだ、貴様がそう言うのならそのように」

「……ありがとう」

 小春は小さく微笑んだ。澄み渡って清らかな顔つきだった。

 覚悟を決めたような、透明な表情をしている。

 陰陽師はそれでも悪態をついた。

「どうだ、英雄になれて満足か? 記憶にも記録にも残らんがな」

 小春には何の利もない。

 小春がここまでしても、誰一人として彼女のこともゲームのことも覚えていない。

 小春が切望した日常は、彼女自身には返ってこない。

 それなのに────。



「…………」

 からん、と祈祷師の下駄が鳴る。

 霊媒師と呪術師のもとへ寄った。

「何か……凄いね。他人のために自分の命をなげうつなんてさ。考えらんない。……まぁ、私の命は擲とうにも出来ないから余計に」

 霊媒師は小声で言いながら傘を回した。

「死ぬし、皆に忘れ去られるし、異能も失う。天界で魔術師になることも望まない、か。せっかく戦って皆のために死んだって、自分には何の得もないのに」

 腕を組み、呪術師は息をつく。

「まるで天使だねー、彼女は。……羽根は、折れちゃうみたいだケド」

 祈祷師も小春を見据えた。

 最早、彼女を嘲笑する気も起きない。素直に感心してしまう。

 陰陽師は小春に向き直った。

「……覚悟はいいな」

 小春はそっと目を閉じる。

 不思議と何も怖くない。

「…………」

 心の中で“ありがとう”と唱えた。

 意をともにしてくれた仲間へ、ずっとそばにいてくれた蓮へ。

 ……非日常は終わる。自分たちは、勝ったのだ。

 ────ふ、と陰陽師が手を翳した。
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