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最終章 -誰が為の終焉-

第21話 11月27日[後編]

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「……マジか」

 冬真からのメッセージを受け取ったアリスは呟く。

 別行動をしていたのは、紅の捜索に向かっていたためだった。
 冬真が先に見つけてしまうとは。

 いよいよまずいだろうか。

 彼に“使えない”と判断されれば、容赦なく殺されるだろう。特にアリスのような人間は。

 とはいえ、紅が見つかったのは幸いと言うべきだ。何とかして殺さなければ。

 そんなことを考えながら足早に河川敷へと向かった。



「……?」

 目に入ってきた光景に困惑してしまう。

 冬真が小春たちと一緒にいるのだ。

 傀儡や絶対服従で従わせている様子も、小春たちが冬真を人質に取っているような様子もない。

「どういうことや? 何でそいつらとおんの?」

 眉を寄せ、怪訝な顔で尋ねる。

 冬真の性分は知っている。彼が小春たちに味方する謂れはない。逆も然りだ。

 つまり、アリスが嵌められた、ということはありえないはずなのだが。

「冬真くん、アリスちゃんを拘束して」

「!?」

 小春の言葉に応じた冬真が、アリスに向かって蔦を伸ばした。

 しゅるりと巻き付き、捕縛される。

 何がどうなっているのだ。
 何故、そうも友好的なのだ。
 何故、冬真はそうも小春たちに素直なのだ。

 わけが分からない。

 混乱が拭えないながらもアリスは巨大化し、蔦をちぎって裂いた。
 易々と拘束を抜け出す。

「ね、ねぇ。この二人会わせてよかったのかな……」

 はたと思い至った瑠奈は不安そうに小声で呟く。アリスと冬真だ。

 記憶の懸念が再燃する。

 アリスがここへ着く前に、冬真のことは匿った方がよかったかもしれない。いや、確かにそうすべきだった。

「今さらどうしようもねぇよ……」

 油断なく二人に目をやりながら、蓮も声を抑えて返した。

 アリスは冬真を見据える。

「なぁ、何があったん? 桐生や佐久間は? その地面の血は……?」

 それを受けた冬真の動きが止まる。

 そんなこと、何故自分に聞くのだろう。

「おい、聞く耳を持つな! もっかい拘束しろ」

 蓮が慌てる。

 冬真は再び蔦を巻き付けたが、アリスは、今度は矮小化し回避した。

 彼女に蔦による拘束は効かないようだ。

「無駄無駄! どうせ無理やろうから教えたるわ、あたしの魔法のルール」

 巨大化も矮小化も、所有権が自分にあるものは本人とサイズが連動する。

 例えば衣服や靴が代表的な例だ。

 それ以外は本来のサイズのままだった。

 つまり彼女を拘束し、尚且つ抜け出すのを防ぐには、アリスの持ち物を使わなければならないということである。

「どうするの……」

 紗夜が誰にともなく尋ねた。

 見たところ、当然ながら拘束に使えそうなものなどアリスは持っていない。

 ひとまず拘束の手を弾き返すことに成功したアリスは、注意深く冬真を眺めた。

 小春たちと見比べる。

 彼ら彼女らが演技をしているようには見えない。

 ……はっと閃いた。

 冬真にあれこれと尋ねるのを阻んでくること、冬真の態度が百八十度変わったこと────。

 地面に残る赤黒い血溜まりを見た。

(まさか、佐久間……?)

 冬真は記憶操作をされているのではないだろうか。

 そう考えれば、この不自然な現状にも合点がいく。

 大雅と律と相対した冬真は、試合に勝って勝負に負けたわけだ。

 ────しかし、律の記憶操作は不完全だと聞いた。

(……あたしが思い出させたるわ)

 アリスは目を細め、冬真を見据える。

「如月、しっかりせえよ。あんたが殺したんやろ? 桐生も佐久間も」

 実際のところは、代償で死んだに違いない。

 詳細は知らないが、想像はつく。

 どっちだってよかった。彼に関わりのあるキーワードを口にすることが狙いだ。

 それが彼の記憶を引っ張り起こす禁句カギになるのだから。

「…………」

 戸惑ったように眉を寄せる冬真に、アリスは構わず続ける。

「敵の術中にまんまと嵌っとってええんか? 唯一の生存者になるんとちゃうかったんか?」

「うるせぇ! 黙れよ」

 急いで蓮が制した。
 記憶のことをアリスも察しているのだと悟る。

「……っ」

 不意に冬真が頭を押さえ、たたらを踏んだ。

 ズキンズキン、と頭の奥が疼く。

 視界がちかちかと明滅する。

「!」

 場に緊張感と焦りが走った。

 まずい。今思い出されたら、為す術なしだ。
 やはり会わせるべきではなかった。

 そのとき────。

 ぱちん、と指を鳴らす音が響いた。

 紅が時間を停止したのだ。

 彼女はつつくように、矮小化しているアリスに触れる。

「このまま踏み潰してやろうか?」

 威圧するように見下ろして言った。

 昨日のことを思い出す。皮肉だろうか。

 アリスは慌てて本来のサイズに戻ると、紅を睨めつける。

「昨日はよくもやってくれたな」

「あの程度で効いたのか? 存外脆いのだな」

 挑発するような紅の態度に、アリスは不満気に顔を顰めた。

「諦めることだ。如月がこちらに落ちた今、もうお前に勝ち目などない」

「ばーか、もともとそんな当てにしてへんから。どうせ、そのうち殺すつもりやったし。最後に勝つのはこのあたし」

 アリスは余裕の笑みを浮かべる。

「あんたらのことも潰したるわ」

「言葉に気を付けろ。この停止した世界でお前を殺すなど容易なことだ」

 紅の言葉を受け、嘲るように笑った。

「何言うてんねん、あんたらには殺せんやろ」

「勘違いするな。それは我々が弱腰なのではなく、水無瀬氏の温情だぞ。悪いが私はそれほど優しくない」

 どんなに歩み寄って信じようとしても、所詮悪人の腹の底は変わらない。

「……水無瀬氏は優し過ぎる。それゆえに他人のいい部分しか見られない」

 救いようのない愚か者までも守ろうとして。

 アリスは吐き捨てる。

「それを偽善者って言うんやん」

「何が悪い。善を施すことに変わりはないではないか。……尤も、彼女はそんなぬるい覚悟ではないがな」

 気丈に振る舞いつつも、割れるような頭痛を感じ始めていた。

 だんだんと痛みの波が大きく深くなり、内側から、がんがんと響く。

 平然としているが、実のところ必死で装っていた。

 ……時間がない。
 時間を止めているのに時間がないとは、妙なものだ。

(……すまない、水無瀬氏)

 彼女の、そして彼らの信念を蔑ろにはしたくなかったが、これはその“限界”と言わざるを得ないだろう。

 仕方がない。
 相容れないものは存在する。
 紅は開き直るのではなく、そう割り切ろうとした。

 それでもこの危険因子だけは、命を懸けて葬り去ることを誓おう。

「私が……お前を殺す」

「はぁ……? やれるもんならやってみれば」

 彼女の宣言はにわかに信じ難いが、何処か真に迫っていた。

 笑い飛ばそうとしたのに、怯んでしまう。

「ぐ……っ」

 そのとき、不意に紅が血を吐いた。
 顔色は蒼白で、口元を覆った手が震えていることに気が付く。

 そのお陰でアリスに余裕が戻った。

「随分と辛そうやな。あたしを殺る前にあんたが死ぬんちゃうか?」

 浅い呼吸を繰り返す紅は、口元の血を拭った。

 に、と口角を上げる。初めて彼女の表情が変わった。

「……案ずるな、一瞬だ」



 ────ぱちん、と指を鳴らす。時が動き出す。

 気付けばアリスの首には、真一文字の切り傷が浮かび上がっていた。

「……っ、は!?」

 目を見開く。痛みを感じる間もなかった。

 間欠泉のように首から鮮血が噴き出す。

 その勢いのまま、ふっとアリスは地面に倒れた。すぐそばには既に紅が横たわっている。

「な、何……!?」

 一同は混乱を顕にした。

 突然の出来事だった。わけが分からなかった。

 小春は弾かれたように動き、倒れている二人と血の海に駆け寄る。

 屈んで様子を窺った。

 脈を見るまでもなく、二人に息がないのは明らかだった。

「どうして……」

 ふと視線を流すと、紅の手に血のついたカッターナイフが握られていることに気が付いた。

 カッターナイフ────紗夜はポケットに手を入れる。

 ない。
 いつも持ち歩いているそれがなくなっている。

「私の……?」

 デザインからしても自分のもので間違いない。

 どういうことだろう。紅に渡した記憶などないのに。

 各々が彼女を見やった。

 血を吐いた痕跡がある。目や鼻、耳からも出血したようだ。

 大雅や律と同じ……恐らくは魔法の反動により力尽きたのだと推測出来る。

「何でこんなことに……!?」

「どういうことなんだよ」

 皆が一様に狼狽えた。

 時が止まっている間に、何が────。

「紅が、アリスを殺した……」

 白い顔で紗夜が結論を出した。

 アリスの口にしていた言葉の数々を思い出す。

 冬真の記憶回復を阻むために時間を停止したのだろう。

 しかし、それは所詮その場しのぎに過ぎない。

 アリスの性根は変わらない、と判断した紅が、やむなく命と引き換えにアリスも連れて行った。

 気付いたときには、既に紅が倒れており、息がなかったことを考えると、瞬間的に何度も時間操作を繰り返した可能性がある。

 例えば、一度は停止した世界でアリスと話したかもしれない。

 すぐに殺すのではなく、話を聞いた上で判断したはずだ。

 何しろは、小春が最も避けたかった選択なのだから。

 それでも殺すしかないと判断したなら、一度時を再開してからもう一度すぐに停止した。今度はアリスに触れずに。

 紗夜のポケットからカッターナイフを抜き取り、アリスの首を切った。

 そこで限界を迎え、紅の死とともに魔法が解け時間が動き出した────ということである。

「そんな……っ」

 小春は肩を震わせた。涙をこぼす。

「……マジか……」

 蓮も眉を寄せ、悔しさと悲しみを滲ませた。

 それぞれが似たような表情で衝撃に明け暮れる。

 ぎゅう、と拳を握り締める小春。

 “誰も殺さない”という信条に背く形になったとはいえ、紅を責めるのは明らかにお門違いだ。そんな資格などない。

 結果として裏切り者アリスの対処を押し付けた形となってしまった。

 紅の死は、小春が理想や綺麗事を追い続けたしわ寄せが及んだ結果ではないだろうか。

 守るなどと言いながら、結局誰かが手を汚さなければ、自分たちの身すら守れないではないか。

「…………」

 小春の涙は止まらない。

 純粋な悲しみと、責められている気分がせめぎ合った。
 無論、紅にそのような意図はないだろうが。

 ……悔しかった。自分の甘さに腹が立つ。

 理想を掲げるだけなら簡単だ。

 しかしそれを貫き通すことは難しい。

 今回も、具体的な施策がないまま、流されるような形でここに来た。

 何とかなる、と思っていた。それは他の誰かの力に甘えていたからだ。

 自分で何とかしよう、などとは思わなかった。
 結論を先延ばしにしていた。
 ……だから、こうなる。

 何度繰り返せば気が済むのだろう。

 周囲に頼り切った結果、何人を失った?

 自分の理想のせいで何人を傷つけた?

 最低だ、と思った。

 仲間を守るためだったはずが、自分を守るためのものになっていた。

 殺さない理由を作りたかっただけなのではないか。

 それを周囲に押し付けることで、自分だけに伸し掛る負い目から逃げたかったのではないか。

 仲間を傷つけてまで、死なせてしまってまで、守りたかったのは自分自身……?

(本当に最低だ、私……)

 ぽろぽろと涙があふれる。息が苦しい。

「……私のせい。ぜんぶ私の。皆が死んじゃったのは、ぜんぶ私が悪い」

 無責任な信念を無理強いして、取り返しのつかない事態へ追いやった。

「お前のせいじゃ────」

 思い詰める小春を慰めようと蓮が手を伸ばしたとき、それより先に瑠奈が小春の腕に触れた。

 自分に向き直らせると、思い切り平手打ちする。

「!」

 突然のことに驚き、頬の痛みは後からやって来た。じん、と痺れて熱くなる。

 蓮も奏汰や紗夜も、瑠奈の行動に驚愕した。

「何のつもりだよ」

「あたしは小春ちゃんに感謝してるの」

 毅然と、瑠奈は言う。

「小春ちゃんのお陰でゲームに飲まれずに済んだ。……ううん、一時は飲まれたけど戻ってこられた」

 我を見失わずに、自分を取り戻せた。

 瑠奈は目に涙を溜める。

「確かに償いきれない過ちを犯した。でも、小春ちゃんのお陰で間違いに気づけた。慧くんや琴音ちゃんに贖いながら生きていかなきゃって思った。小春ちゃんの優しさに生かされたの!」

 小春の手を取った。その双眸を見据える。

「間違ってなんかない。否定しないで」

 そんなふうには考えたこともなかった。

 小春の瞳が揺れる。

 冷たく凍てつき、自責の念でがんじからめになっていた心が溶かされる。

「……そうだよ、瑠奈ちゃんの言う通り。小春ちゃんが自分を責めて、やってきたことを否定したら、死んじゃった皆が報われない」

 奏汰が同調した。

「君に従っただけじゃない。皆、どうするかは自分の意志で選んだ。だから、小春ちゃんがそれを悔いるのは、違うんじゃないかな」

 小春は息をのんだ。目を見張った。

 ────そうか。それこそ無責任だ。

 皆の選択を、答えを、尊重すべきだ。

 残った仲間を信じて託した結果なのだから。

 生き残っている者がするべきことは、悔いたり自分を責めたりすることじゃない。

 命を賭けて使命を果たすしかない。

「ごめん……。そうだよね、報いなきゃ。皆を裏切るわけにいかない」

 小春は涙を拭い、決然とした表情になる。

 程なくして、紅とアリスの遺体は眩い光とともに消えた。



 これで残りは十人となった。ここにいる六人と日菜、そして名花高校の魔術師三人だ。

 大雅の言っていた通り、死の連鎖は続いている。

 次に命を落とすのは自分かもしれない。

 誰しもがその覚悟をしておくべきだろう。

「……色々、話し合いたいよな。もう最後だし」

 蓮が静かに言った。

 “最後”という言葉の重みが伸し掛る。

「そうだね」

 運営側との戦い────それがまだ、この先に控えている。

 その最終決戦に向け、作戦を練っておかなければならない。

 悲しむのは、すべてが終わった後でいい。

「とりあえず落ち着きたいし、紅の家に戻るか」

 主はいなくなってしまったが、荷物もあるためどのみち戻らなければならない。

「あ、鍵……どうしよう」

 紅が持っていたはずだが、彼女の遺体は既に消えてしまった。

 困った、と何とはなしに周囲を見回した小春は、ふと重みと異物感を覚えた。

 ポケットの中に何かが入っている。

 上から触れると、ちゃり、と音がした。

 もしや、と思い取り出してみると、まさしく鍵だった。

(紅ちゃん……)

 時間停止中の紅の仕業だろう。とっくに先を見越していたようだ。

 小春はぎゅっと鍵を握りしめる。

 連絡を取って日菜とも合流し、一行は紅のマンションへと向かった。

 その前に彼女には、メッセージアプリでここ数日の出来事と冬真の事情を伝えておいた。

 至の死にはショックを受けたようだったが、すぐに事実として受け入れていた。

 立ち止まってはいられないことを、よく理解しているのだ。



 紅の家へ上がった面々は、ダイニングのテーブルを囲んだり、リビングのソファーに座ったり、絨毯の上に座ったりと、各々落ち着ける位置を見つけて腰を下ろした。

「改めて言うけど……最終的に私は運営側を倒したいと思ってる」

 小春はそれぞれを見やり、凜然と宣言した。

「正直、それでどうなるのかは分からない。戦うことで、本当にこんなゲームを終わらせられるのか。それとも、あっさり殺されて終わりか……」

 謹厳な面持ちで、慎重に言葉を紡いでいく。

「今までのことを思うと、実力的に敵わないかもしれない。命の保証はない。だから、どうするかは皆に任せる」

 自分からはどんな選択も強制出来ない。

 現実的な見通しの話をした上で、意をともにするかどうかは各自に任せるしかない。

 例えばそれで、自分一人しか残らなくても。

「俺はやる」

 真っ先に言ったのは蓮だった。

「死ぬのが怖くて逃げたって、どうせ十二月四日には強制的に終わりが来る。やるしかねぇよ。それしか守る方法がねぇんだから」

 小春を。そして、仲間たちを。

 二人の言葉を受け、奏汰も頷いた。

「俺もやるよ。……最初から一緒に戦ってきた。一人じゃとっくに死んでたと思う。皆のお陰で繋いだ命だから、最後まで一緒に戦う」

 仲間たちには本当に助けられた。支えられた。守られた。

 それなのにこの佳境で知らん振りなど出来るはずもない。

「あたしも、あたしの命は皆のために使いたい。それでも罪は消えないけど……せめて向こうで和泉くんや慧くん、琴音ちゃんに顔向け出来るように」

 瑠奈が顧みるように言った。

 それだけが唯一の贖罪に思えた。

「私も借りがある……。このゲームのせいで死んだうららの仇も討たなきゃ」

 紗夜は右胸に手を当てつつ告げる。

「ちょっと怖いけど、私も……お役に立てるなら一緒に戦います。怪我なら私に任せてください」

 日菜まで同調してくれるとは少しばかり意外だった。

 彼女は献身的な性格ではあるが、ゲームに対しては割と傍観傾向にあったためだ。

 自分に出来ることをするだけ────日菜の原動力はそこにあった。

「……冬真は?」

 硬い声色で、蓮が尋ねる。

 記憶を書き換えられた彼は、どういう選択をするのだろう。

「僕、は────」

 同調しようとしたが、何かが引っかかって即答出来なかった。

 何だろう。何か消化出来ない、言葉に出来ない違和感のようなものが胸にわだかまっている。

 アリスの言葉も引っかかっていた。

『敵の術中にまんまと嵌っとってええんか? 唯一の生存者になるんとちゃうかったんか?』

 あれは口から出任せだったのだろうか。

 だとしたら、あのとき疼いた頭痛は偶然……?

 何だかしっくり来ない。

 皆とは仲間のはずなのに、まるで情が薄い。

 皆とは違い、命はやはり自分のために使いたい。

 仲間であっても他人のために死ぬなどごめんだ。そう思うのは、自分がおかしいのだろうか。

 そういった意識が相容れないことも相俟り、何となく自分はこの場に馴染んでいない気がする。

 考え過ぎだろうか。

「おい、冬真? 大丈夫か」

 蓮に案じられ、冬真は咄嗟に微笑み返した。

「……うん、僕もやるよ。協力して運営側を倒そう」

 その返答に、思わずほっと息をつく。

 アリスと顔を合わせ、彼女の言葉で冬真が頭痛を起こした時は肝を冷やした。

 だが、どうやら律の魔法はまだ効いている模様だ。

 もしも記憶が戻ったのなら、運営側の肩を持つはずである。

 彼に直接手出し出来ない小春たちの前では、彼が演技をして騙す謂れなどないのだから。

 何にせよ、そういう意味でも時間がない。

 記憶が戻るより早く事を成してしまわなければ。

 ────全員の意思の統一を確認したところで、運営側を倒す具体的な施策を打ち出すための“作戦会議”を始めた。

 連中を方法は分かっている。あえてルールを犯すことだ。

 彼らが状況のすべてを見ているなら、こちらの狙いも筒抜けのはずだ。

 それでも倒すことを画策するだけではルール違反にならないためか、制裁には来なかった。

 それとも、余裕の現れだろうか。

 ともかく今は、呼んだ後のことを考えるしかない。
 
「一対一じゃ敵わねぇよな」

 向こうが何人で来るか分からないが、万全の対策はしておかなければならない。

 こちらの戦力は実質六人である。日菜はあくまでヒーラー役であり戦えはしない。

「基本的に私たちはバラバラにならないようにしよう……。人数が減るほど隙が生まれる」

「そうだね。でも、誰を相手取るかは決めておこう」

 ────かくして、呪術師は紗夜と瑠奈、霊媒師は奏汰、祈祷師は冬真、リーダーの陰陽師は小春と蓮が請け負うこととなった。

 日菜は随時負傷者の治癒を担当する。

 過去、祈祷師と冬真には関わりがあったが、記憶を失っているため問題ないだろう。

 祈祷師がアリスのような行動に出るとも考えにくい。

 蓮は本当のところ、恨みのある祈祷師に一矢報いてやりたかったが、恐らくそんな余裕はない。

(……一発くらい殴ってやる)

 密かにそう息巻いた。

 また、これは連中が四人で来たパターンの想定だった。

 これまで陰陽師は一度も姿を見せていないことから、今回もそうである可能性が高いかもしれない。

 そこで、陰陽師を除いたパターンも決めておく。

 そのときは陰陽師に割いていた戦力を分散させるわけだ。

 呪術師は変わらず紗夜と瑠奈、霊媒師は奏汰と小春、祈祷師は冬真と蓮、日菜はヒーラーという構成である。

 最初のうちに陰陽師が現れなくても、他の面子を倒せば出てこざるを得ないだろう。

 いずれの場合も、最終的には、陰陽師にゲームの中止を確約させる。

 失った人たちは戻らないが、可能な限り元に戻して貰う。世の人々の洗脳も解いて貰う。

 魔法を返還し、魔術師となった自分たちを解放してもらう。

 日常を取り戻す────それが最たる目標である。

「……それで、どうかな」

 小春が確かめるように言う。異論や反論は出なかった。

 それが最善だろう。

 自分たちを信じて逝った仲間たち、そしてこんな狂ったゲームなんかの犠牲となった他の魔術師たち、皆のためにも。

 何より自分たちのためにも。

「決行はなるべく急いだ方がいい……」

 紗夜が念を押すように言った。

 含まれている意味は推察に易い。小春は頷く。

「明日にしよう」

 唐突なようにも聞こえたが、諸々の事情を考えれば妥当だった。

「皆、今日はゆっくり休んで」

 平穏は終わる。

 所詮、鳥かごの中の平穏だが。

(私たちは抗う────)

 もう命も安全も担保されない。

 それぞれ、決然とした表情で頷き合った。既に覚悟の上だ。

 一同は解散の流れとなる。もう他の魔術師に襲われる心配もない。

 小春と蓮を残し、彼らはそれぞれ帰路についた。

 ガチャ、と玄関のドアを押し開ける。

 外廊下を歩いていくその背中を、蓮は引き止めた。

「奏汰」



*



 家の中に戻ると、小春の姿を捜した。

 彼女は紅に借りた部屋で何やら屈み込んでいた。蓮はそちらへ歩み寄る。

「?」

 何か紙を持っているようだ。
 覗いてみると、紅からの置き手紙だった。

“水無瀬氏、向井氏へ

二人がこれを読んでいるということは、もう私はこの世にいないのだろう。

正直に言う。
大いなる目的のためには互いの信頼が不可欠だ。

嘘つきも裏切り者も、不安の種は徹底的に排除しなければならない。禍根は残すべきではない。

私はそのためなら殺しも厭わない。
とはいえ、それは水無瀬氏の前では最悪の選択。

なるべくなら避けたいが、そうせざるを得ない状況になるかもしれない。

私がそうしたときは、許して欲しいとは言わない。
どうか、愚か者だと蔑んでくれ。

水無瀬氏、私は君の偉大な意志を尊敬している。

運営側を倒すなど、私一人では考えもしなかった。

どうか、私たちが駒などではないことを証してくれ。

君の慈悲や優しさは決して弱さではない。己を責めたり恥じたりする必要はないぞ。

向井氏、君は一見口が悪い乱暴者だが根は一途で思いやりがある。

その強さで水無瀬氏や仲間たちを守ってくれ。

胸を張っていいぞ。今、水無瀬氏が横にいるのは間違いなく君の功績だ。

……などと、死んだ分際で偉そうにすまないな。

短い間だったが、ともに過ごせて楽しかった。

この家は好きに使ってくれて構わない。

他の仲間たちにもよろしく伝えてくれ。

皆の無事を願っている。

藤堂紅”



 ────ぽた、とこぼれ落ちた涙で、文字が滲んだ。

 “偉大”と言うなら紅の方だろう。

 その命を仲間のために使い果たし、死してなお人を気遣って。

 愚か者と蔑め、などそんなこと出来るはずがない。

 結果的にをしたが、それは私欲や私怨によるものでなく、禍根を絶つためだった。

 仲間のためだった。

 責めるわけがない。責められるはずもない。

「……っ」

 こんなにも仲間想いで強く優しい彼女のことを、その死を、また明日には忘れてしまう。

 それがまた苦しかった。

 咽び泣く小春の背を、蓮は黙って摩った。彼自身の眉根にも力が込もった。

『すまないが私はやることがある。先に行っていてくれ』

 小春たちが星ヶ丘高校へ向かった際、紅はこの手紙をしたためていたのだろう。

 最初からこうするつもりだったのだ。

 つくづく思う。彼女には助けられてばかりだった。

「私……これでよかったのかな」

 小春は紅の言葉をしんに受け止めつつも、そう思わずにはいられなかった。

 先の見えない恐怖は、次々に身近な人を失う現実は、底知れない不安を煽る。

「間違ってなかったかな。皆を苦しめてないかな。……守れるのかな?」

 蓮は黙って小春の横顔を眺めた。

 彼女の手を取り、強く握り締める。

「大丈夫だ、これでいい。間違ってない。誰も苦しめてない。一人で気負うな、皆が互いを守り合うんだよ」

 蓮は一つ一つの言葉に丁寧に答えた。

 不安なのは自分も同じだ。

 また、守れなかったら────そう思うと、怖くて気が狂いそうになる。

 だが、もう一人ではない。小春にしても、蓮にしても。

 道は開けている。
 あとは、信じて進むしかない。

 つ、と小春の頬を伝い落ちた涙を、蓮は親指で拭ってやった。

「…………」

 それから、意識的に深く呼吸をする。

 真っ直ぐに彼女の双眸を捉える。

「伝えたいことがある」

 そう言った瞬間、鼓動が速まった。

 指先が痺れるように熱を帯びる。
 
「ぜんぶ終わったら話す。……だから絶対、死なないでくれ。生きて聞いてくれ」

 儚げであり照れくさそうでもある蓮の表情を見つつ、小春は小さく頷いた。

「……分かった」

 いつにない様子に少し戸惑うが、まるっきり想像がつかないわけでもない。

 くすぐったいような沈黙の時間が訪れる。

「……あ、お腹空かない? 何か作るね」

「おう……」

 慌てて頬を拭った小春は繕うように言い、立ち上がる。

 紅の言葉に甘え、少なくとも明日までは、この家を使わせて貰うこととしたのだ。



 ──ピンポーン。
 そのとき、不意にインターホンが鳴った。

 二人して顔を見合わせる。

「やっほー、さっき振りだね!」

 ドアを開けると、そこにいたのは瑠奈だった。

 明るい笑顔で手を振っている。

「小春ちゃんたち、この後何するか決まってる? もしよかったら、奏汰くんも誘ってどっか遊びに行かない?」

 思いもよらぬ誘いだった。

 蓮は眉を寄せる。

「そんな場合かよ」

「でも、何もしてないと落ち着かないでしょ? それに、明日にはどうなるか分かんない。最後なんだよ」

 彼女の言い分は、確かにその通りだった。

 ……本当に最後なのだ、もう。

 その実感が深く心に伸し掛る。

「紗夜ちゃんには断られちゃった。たくさん食べてたくさん眠って備えなきゃ、遊んだら疲れる、って。日菜ちゃんは、最後かもしれないからこそいつも通りでいたい、って言うし。冬真くんはあれだし……」

 だから四人で何処かへ行こう、と誘いに来たのだ。

 ────色々なことが立て続けに起こった。多くの死に触れた。

 明日はさらに過酷なものとなるだろう。

 だからこそ思い詰めないよう、瑠奈なりに気を遣ってくれているのだ。

「そうだね。遊びに行こう」

 小春は小さく笑って頷いた。



 かくして奏汰も合流し、四人は大通りを歩いていく。

「何処行く?」

「俺、腹減ったー」

「じゃあとりあえず腹ごしらえからね。近いしバーガーショップでいっか」

「早くしなきゃ時間なくなっちゃう!」

 他愛もない話をしながら昼食をとった四人は、瑠奈の希望で遊園地へと赴いた。

 アトラクションを楽しんだり、お土産を買ったり、スイーツを食べたり、そう純粋に楽しんでいるうち、気付けば日が傾き始めていた。

 このゲームに巻き込まれてから、これほど気を抜くことが出来たのは初めてだった。



「あー、楽しかった」

「いい気分転換になったよね」

 帰路につき、駅へと向かう。

 帰りの切符を買おうとしたとき、不意に蓮が足を止める。

 訝しんで振り返ったとき、彼は呟いた。

「……海、行かね?」



 ────電車の窓から水平線が見え始めると、瑠奈が「わぁ!」とはしゃぐ。

 駅から出た四人は海辺へ歩いていった。

 沈んでいく夕日が、辺り一面をあたたかいオレンジ色に染め上げていく。

 柔らかい光が射し込み、水面が煌めいている。

 細かな砂粒を靴裏で弾きながら浜辺を歩き出す。

 ふと、奏汰は瑠奈の肩を叩く。
 二人の方を目で示しつつ何も言わずに頷くと、瑠奈も察したようににんまりと笑った。

「ねぇ、二人とも。あたしたち、ちょっと売店の方行ってくるね」

「えっ? あ、うん。分かった」



 瑠奈たちが去り、二人になると、またくすぐったいような時間が訪れた。

「…………」

 快いのに居心地が悪いような感覚────お互いを意識してしまっているのだ。

 それでも、と、蓮は小春の手を取り握った。

 長く一緒にいるが、手を繋いだのは当然初めてのことだ。

 ……それでも、もっと意識して欲しいから。

 小春は驚いたものの、振りほどきはしなかった。

 思わず蓮は手に力を込める。

 不安になるのだ。

 小春が一度消えて以来、こうして捕まえていないと、またいなくなってしまいそうで。

 あるいは触れて確かめないと、幻かもしれないから。

「大丈夫だよ、私は何処にも行かない」

 顔に出やすい蓮の考えていることは小春にも分かった。
 微笑んでそう言ってからふと俯く。

「私がこんなこと言ったら怒るかな……」

「?」

 顔を上げ、首を傾げる蓮を見据えた。

「蓮も何処にも行かないで。抜け落ちる私の記憶は、蓮に教えて欲しい。……これからも」

 明日が過ぎた後、記憶がどうなるのかは知らない。

 それでも、もしも忘れるようなことがあるのなら、それは蓮に埋めて欲しかった。

 わずかに瞠目した蓮は、思わず小春を抱き締めた。

「当たり前だろ。お前放ってどっか行くかよ。覚えてねぇなら何度でも言ってやるよ。俺はお前を独りにしねぇ、ずっとそばにいる」

 不意に泣きそうになる。

 終末の予感に、随分と感傷的になっているのかもしれない。

 あるいは蓮の不器用な優しさに安心しているのかもしれない。

「……ありがとう」

 両手の先が震えていた。

 怖い。

 自分が死ぬことより、大切な誰かを失うことが何よりも怖い。

 死んで欲しくない。蓮にも、もう誰にも。

 ……ずっとこの時間が続けばいい、と思う。

(でも、早く終わらせなきゃ)

 これは、かりそめの平穏だ。

 日常を取り戻してこそ、本当の意味で安穏も戻る。

 ややあって、小春と蓮はどちらからともなく離れた。



「おーい、二人とも。アイス食べる?」

 瑠奈の声がして二人は振り返る。

 駆け寄ってきた彼女は楽しげににやにやしていた。

「溶けちゃったけどね」

 何処からかは分からないが、陰から見ていたのだろう。

 涼しい顔をしているが、奏汰にも見られていたはずだ。

 小春も蓮も思わず赤くなった。

 ふと小春は思い出す。以前から彼女には、蓮とのことをからかわれていた。

 そのときは何ともなかったのに、どうして今はこうも頬が熱いのだろう。

「こんな寒ぃのに何でアイスなんだよ」

「えー? だって何か熱くてぇ」

 照れ隠しに言った蓮だったが、瑠奈はさらに笑みを深め冷やかした。

 奏汰は笑う。小春もつい笑った。

 蓮は何だか怒っていたが、気を悪くした様子はない。

 夕暮れに影が伸びる────。

 四人は笑い合った。



*



 じっとしていると、違和感が増幅していくような気がする。

 そのため、冬真はあてどもなく適当に歩いていた。

 蔓延るわだかまりや齟齬を考えると────自分はどうやら、何かを忘れているように思う。

 日が傾き始めた頃、冬真は星ヶ丘高校にいた。

 屋上で風に当たっていると、不意にじわじわと頭が締め付けられ始める。

 まるで誰かに押さえつけられているようだ。

 頭の中で残像のように映像がちらつく。

(夜中……ここに誰かといた。誰だ……?)

 ノイズが走り、よく見えない。

 冬真は落ち着かない呼吸のまま頭を押さえ、ふらりと階段を下りていく。

 気付けば旧校舎にいた。

 ほとんど流れるように、あるいは何かに導かれるように来てしまったが、頭痛が増長した。

 ズキズキと芯から響くように痛む。

「……っ」

 顔色悪く、瓦礫の山に座った。

 耳の奥で誰かの声がする。……誰だろう?

 分からない。分からないことが気持ち悪い。

 何故、こうも思い出せないのだろう。苛立ちともどかしさと焦りが、冬真の感情を掻き乱す。

(……もう嫌だ)

 ひどく居心地が悪い。
 ここにはあまりいたくない。

 結局、自分に対する違和感の正体は掴めないままだったが、長居はしていたくなかった。

(今、何時だ……?)

 明日に備え、もう帰ろう、と立ち上がる。

 時間を見ようとスマホを取り出したとき、ポケットから白い何かが落ちた。

 だった────。

(何で、こんなもの……)

 自分のものではないはずだ。

 訝しみつつ拾い上げる。

 その瞬間、眼帯に手が触れた瞬間、電流が走ったかのような衝撃を受けた。

「……っ!?」

 思わず両手で頭を抱え、膝をつく。

 強く頭を締め付けられ、脳内を掻き回されているような激痛が襲った。

 不鮮明な過去の映像が脳裏を駆け巡る。

 それは痛みを伴いつつ、徐々に明瞭化していく────。

「…………」

 嵐のような頭痛が凪いだ。

 冬真は半ば放心状態となり、しばらくそのまま動けなかった。

「……ははは」

 やがて傀儡が乾いた笑いをこぼす。

 冬真は緩慢と立ち上がると、眼帯を踏み付けた。

「はぁ……。何で忘れてたのかなぁ。律のせいとはいえ自分に腹が立つよ。仲間とか自己犠牲とか、気色悪いと思った。僕がそんな奴らと同調するわけがない」

 その顔に冷ややかな笑みが浮かぶ。

「甘いなぁ、律も大雅も。残念だったね、命懸けで僕を無力化したのにさ。悔しがってる君たちの顔を見られないのが惜しいよ」

 天国や地獄があるのなら、あるいは幽霊が存在するのなら、彼らにも聞こえているといい、と思う。

「まぁ結局、僕がこうして元通りになった以上、君たちの死はぜんぶ無駄だったってことになるね。ざまぁみろ」

 冬真は傀儡を伴い、旧校舎を後にする。

 空いた手をポケットに入れ歩き出した。

 ……まさか、こんなところで瀬名琴音が役に立つとは思わなかった。
 彼女のお陰ですべてを思い出せた。

(いや、祈祷師のお陰かな)

 冬真は記憶を辿った。

『はい、どーぞ。戦利品だよ』

 偶然の結果論に過ぎないが、またしても彼に助けられた。

 もしもここまで読んだ上での行動だったのなら、さすがに畏怖の念すら覚える。

 冬真はまたしても笑った。

 必死になる小春たちの様子を思い出したのだ。

「運営側を倒す、ね。……ほざいてろ、馬鹿ども。やれるものならやってみろ。勝手に死んどけ」

 吐き捨てるように容赦なく毒づいた。

(最後に生き残るのは、この僕だけでいい────)



*



 夜の二十三時を回った。

 小春は布団に入ったものの、なかなか寝付けずにいた。

「…………」

 本当に色々なことがあった。

 最初は────ゲームに翻弄され、ひたすら怯えていた。

 まず真っ先に蓮が手を差し伸べてくれなければ、不安に押し潰され、とっくに生きることを諦めていたかもしれない。

 敵が味方となり、味方が敵となった。
 友が敵になったり仲間になったりした。

 何が正しいかなんて今でも分からない。それぞれに信念があるのだ。

 無謀とも言えるような目的と理想を前に、犠牲となった仲間たちも少なくなかった。

 生き残るほどに生まれる責任。多くの死の上に成り立つ現在。

 彼ら彼女らの思いを背負い、今はただ、突き進むしかない。

 小春はそっと一旦起き上がり、部屋を出た。



 水を飲みに行こうとしたのだが、リビングに蓮の姿を見つけた。

 テレビもつけず、しんと静まり返った空間で、ソファーに座っていた。

 小春に気が付くと顔を上げる。

「どうした? 寝れねぇの?」

「うん、ちょっと……」

 小春は頷きつつ、首を傾げた。

「蓮こそどうしたの?」

 彼は口端を結び、記憶を辿る────。



『奏汰』

 外廊下を歩いていく彼を呼び止めた。

 奏汰は足を止め、不思議そうな振り返る。

『……俺、今日もっかいガチャ回す』

 思わぬ蓮の言葉に奏汰は瞠目した。

『ちょっと待って。本気?』

『ああ。けど、別に自棄やけになったわけじゃねぇ』

 奏汰はただ彼を見返した。

 その真剣さを測るように双眸を捉える。

『火炎だけじゃと同じだろ。水で封じられて終わり』

 蓮の言いたいことは分かった。

 祈祷師に襲われたとき、確かに為す術がなかったのだ。

 ……正確には、呪術師と相見えたときもそうだったのだが。

 運営側は全員の手の内を把握している。
 のは当然だろう。

 とはいえ、ガチャは魔物だ。時に人を惑わせ、破滅へと導く。 

 そこから力を得られるのか、あるいは果てしない代償を負わされるのか、すべては運次第である。

『……小春ちゃんには言わないの?』

 案ずるように問うと、蓮は頷く。

 小春に言うつもりはなかった。

『……ずっと“何で”と思ってたけど、小春が黙って回した理由が分かった気がする』

 祈祷師に殺される未来を見た彼女が、その後一人で決断を下した理由が。

『大切な人には、大切だからこそ言えないもんなのかも』

 心配も迷惑もかけたくなくて、自分一人で何とかしなければ、と背負い込んでしまう。

 打ち明けたからと言って、奏汰が大切でないという意味ではなく。

『…………』

 蓮の覚悟は相当なものだった。危険もとっくに承知の上だ。

 今さら止めるのも野暮だろう。

 第一、既に決めたことだ。その固い意思は第三者に覆せるものではなかった。

『もし俺に何かあったら、小春を頼む』

 その強い眼差しを正面から受け止める。

 一拍置き、奏汰は頷いた。

『……分かった』



 蓮は曖昧に笑う。

「何でもねぇよ。明日のこと考えてた。もしかしたらもう、人生最後の夜かもしんねぇから」

「……蓮」

 小春が咎めるように呼ぶ。

「やめてよ、そんなこと言わないで」

「冗談だって」

 軽く流そうとしたが、思いのほか真に迫る雰囲気になってしまった。

 少なからず本心が含まれていたからかもしれない。

 今日が人生最後の夜である可能性は否定し切れない。

 それでも────。

「最後になんかしねぇよ。小春に伝えなきゃなんねぇこともあるし」

 それに対する答えを聞くまでは死ねない、と心の中で思う。

 歩み寄ってきた小春は少し間を空け、蓮の隣に腰を下ろした。

 わずかにソファーが沈み込む。

「……もう寝た方がいいぞ? 記憶のことなら何も心配すんな。忘れてることはぜんぶ俺が教えるから」

「うん……。ありがとう」

 今日のことを忘れたくないのは事実だが、大雅が取り戻してくれたように、深層部分には確かに残っている。

 思い出せなくても、教えてくれる蓮がいる。
 失いはしない、自分の中に留まっている。

 だから怖くはない。心配もいらない。

 ただ、記憶のことではなく、何か他に胸騒ぎがするような気がした。

 何かは分からないが、漠然とした不安が渦巻いている。

「……なぁ」

 遠慮がちに蓮が声をかける。

「小春の布団で寝てもいいか?」

「えっ!?」

 思わぬ言葉に戸惑った。

 それまで蔓延っていた不安感が、ぱちん、としゃぼん玉のように弾ける。

「い、一緒に寝るってこと……?」

 不意に頬が熱を帯びた。

 瑠奈のせいで変に意識してしまう。

「一人じゃ眠れねぇんだろ、余計なこと考えちまうから。俺だってそう。だから……」

 とはいえ、一緒に寝るなんて尚さら眠れなくなるのでは、とも思った。

 だが、一人で目を閉じると色々なことを考えてしまって眠れないのも事実である。

「わ、分かった」

 そう答えると、蓮は安堵気味に小さく微笑んだが、はっとして慌てて両手を上げた。

「大丈夫、指一本触れねぇから」

「心配してないよ」

 小春は笑った。

 わずかな沈黙が落ち、彼女は口を開く。

「……海、綺麗だったな」

「また行こうぜ、今度は夏に」

「うん、行きたい。瑠奈や奏汰くんも一緒に……次は紗夜ちゃんたちも誘って」

 明日のその先、そして、十二月四日の先の話をした。

 ────しばらくそうしていた。

 静寂の間で思いついたことを口にするだけの、取り留めのない会話を交わす。

 少し経つと、だんだん沈黙の幅が広くなっていった。

 小春はうつらうつらとしていたが、いつの間にか眠りに落ちていた。



 蓮はスマホで時刻を見る。二十三時五十六分。

 そっと、小春の頭を撫でた。

 音を立てないようソファーから下り、彼女の正面に屈む。

「……小春。俺さ、中学の頃にお前と初めて会って、腐れ縁でずっと一緒にいたけど……本当はそれだけじゃなくて。俺がいたくてお前のそばにいたんだ」

 蓮は深く息を吸った。

「いつからかはわかんねぇけど……。俺、小春のことが好きなんだよ」

 眠っている彼女からは、当然反応などない。

 それでよかった。

 そうでなければ、まだ言えない。

「……こんなことになるなら、もっと早く言えばよかったな」

 ぎゅう、と拳を握り締めた。
 つい感傷的になり、はたと我に返る。

「くそ、フライングした。何ビビってんだ、俺」

 想いを伝えるのは、すべてが終わってからのつもりだった。

 彼女には聞こえていないといえど、つい思い詰めていたようだ。

 これからしようとしていることに、その結果に、少し怯えてしまっていた。弱気になっていた。



 立ち上がった蓮は小春から離れ、再びスマホを見る。

 二十三時五十八分から五十九分になった瞬間だった。

 ウィザードゲームのアプリを開き「④」を選んでガチャを回した。

 ぎゅっと目を閉じる。

 ……そのまましばらく待った。一分近くそうしていた。

 今のところ身体に異常はない。

 心臓も動いている。記憶も失っていない。

 そっと目を開け、画面を見やる。

【オメデトウ!
キミには“風魔法”を授けるよ~】

 蓮は慎重に文字を目で追う。

【あなたの“寿命(80年分)”を消費しました。
魔法ガチャは23時59分に再度回せるようになります】

 無意識に止めていた呼吸を再開する。

 つ、と垂れてきた鼻血を人差し指で拭う。すぐに治まった。

 蓮は微弱に笑う。

「……俺って長生きだったんだな」

 正直なところ八十年分という数字は衝撃的だったが、ともあれよかった。
 すぐに支障があるようなものではなくて。

 小さな賭けに勝ったと言える。

 蓮はスマホをしまうと、小春を横抱きにして布団に運んだ。

 ……この温もりを、失いたくない。
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