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番外編.残りの鍵
「団長、少し席を外します」
王城の一角、第十二執務室で時計の時刻を一瞥したドノヴァ・レグデンバーは椅子を鳴らして立ち上がった。
「構わん。どこに行くんだ」
「ミラベルト様の元に」
「あぁ、それならこれも持っていってくれないか」
上司であり、友でもあるカッツェが腕を伸ばして差し出す書類を受け取った。文面に目を走らせると見知った名が記されている。いずれドノヴァの義理の姉となるだろうゼーラ・ノクホーンの名だ。
内容は彼女が隣国アレアノイアから当国ジグランカへ転属した際の待遇などを纏めた書類で、人事管理部の容認が必須となる。ミラベルトが身を置く部門がまさしくそれなので体良くおつかいを言い渡されたというわけだ。
書類を木製の書簡綴りに挟んで小脇に抱え、空いた手で自身の胸ポケットを弄る。指先に折り畳んだ紙の感触を確認して満足する。今のドノヴァには小脇の書類よりもずっと大事なものだ。
「では行って参ります」
石造りの無骨な執務室を後にして、少しばかりひんやりと冷たい回廊を第二執務室に向けて進む。行き交う人々は同僚や部下がほとんどだが、最近になって見掛ける制服に新しい色が増えた。アレアノイアから遠征に帯同してきた、薄紫を纏った女騎士たちだ。
彼女らの存在にジグランカの騎士の対応も様々だ。明らかに浮わついている者もいれば、鼻の下を伸ばす同僚に冷ややかな目を送る者、男所帯に慣れすぎたせいであまり関わりを持とうとしない者もいる。
(私はどうなんだろうな)
騎士団副団長という立場からすると厄介な揉め事を起こさないのは大前提だが、それ以前にドノヴァは同じ騎士職に就く者に男女の別を感じていない。もちろん男女の性で採用される現場に違いが生じることはままあるが、与えられた職務を全うするという一点は揺るぎないもので、ただ騎士であるだけだ。
だから相手が誰であろうと分別なく接しているつもりなのだが。
(カレンの瞳にはどう映っている?)
何事にも真っ直ぐに向き合う、黒い睫毛に縁取られた緑がかった灰色の瞳。どちらかと言えば物静かな印象の彼女だけれど、その瞳には感情が表れやすい。
喜びに目を細めたときには緑色が少し濃くなるし、照れたり恥じたりすると表面が潤んできらきらと輝く。驚いたときにまん丸に見開かれる様も可愛らしい。
その愛おしい瞳はドノヴァをどのように映し出しているのか。
「副団長、モルテン様から副団長に取り次ぐようにとお声掛けされたのですが」
「ありがとう、用件の見当は付いています。こちらで対処するので君は持ち場に戻って下さい」
道すがら部下に呼び止められて、そんな会話を交わす。
モルテンといえば先頃の遠征でアレアノイアより迎え入れた護衛対象の貴族令嬢だ。ゼーラたち女騎士も彼女の護衛の任を受けている。
モルテン家のご令嬢自身が高位文官という身で、外交の架け橋だの何だのと言い出してジグランカの要職者へ輿入れすることを希望した。唐突に当国への訪問を提案したものだから、ドノヴァを始めとした第二騎士団があれやこれやと奔走させられ、隣国まで赴くはめになった。
そんな人騒がせなご令嬢はゼーラとドノヴァの兄ユヴェンの縁談を嗅ぎ付けており、その上で何やら画策しているようだ。
(関わらないのが一番なのだが……)
心の内で嘆息する。相手の身分が身分だけに断りを入れるにも一苦労なのだ。
身辺に寄せ付けたくない。これがドノヴァの本音だった。
(ゼーラさんですら誤解の対象になってしまったからな)
第二騎士団の執務室で騎士と同席することはドノヴァにとって疑うところはない行為だったが、カレンにはそうではなかった。詳しく話を聞けば互いに名を呼び合っていたこと、公を離れた私的な付き合いを感じさせる発言をしてしまったことが原因だった。迂闊な自分に歯噛みしたのは言うまでもない。
嫉妬とは両刃の剣である。
彼女が悋気を起こすほど好意を寄せてくれていることは喜ばしい事実だが、同時に彼女を傷付けてもいる。だとしたら自分を満たす感情を手放してでも彼女を傷付けずに済む道を選び取りたい。
ドノヴァに至っては彼女の親友を挟んで、すでにやらかしてしまっている。同じ轍を踏むわけにはいかない。
「失礼。ミラベルト様への取り次ぎを願えますか?」
「お約束は?」
「本日伺う旨は伝えてあります」
第二執務室のプレートを掲げた扉の前で、ちょうど出てきたばかりの文官に声を掛けた。ソフィアの一件もあってよく訪れているためか、文官は「お待ちを」と言い置いて引き戻っていく。しばらく待った後、入室を許可された。
「やぁ、レグデンバー」
「急な訪問、お許し下さい」
「いや、話は聞いていたから問題ない。どうしたね?」
騎士団の灰色に染まった執務室とは全く異なる豪勢な造りの部屋で、一際立派な椅子に腰掛けているのが人事管理部門を統べるミラベルトその人だった。機嫌は悪くなさそうだ、と相手の様子を観察して切り出した。
「個人的なお願いがございます。少々お時間よろしいでしょうか?」
そう告げて脇の扉に目を向けた。個室で二人きりの話を、そう暗に示唆して。
「構わないよ、来なさい」
もったいつけて立ち上がったミラベルトに続いて個室に入る。四人も入れば手狭なこの部屋は密談に向いており、ソフィアの護衛に関しての話し合いもここで行ったものだ。
「で、お願いとは?」
「こちらをご覧いただいてご署名いただければ、と」
立派な口髭をひと撫でして椅子に腰掛けた貴人に、胸ポケットから取り出した紙をそっと差し出す。眉を大袈裟に持ち上げたミラベルトは畳まれた紙を開いた後、その文面に走らせた目をすっと細めた。
「あのお嬢さんと婚約、ね」
「はい。空いた証人欄にミラベルト様以上のお名前はないのではないか、と思いまして」
「ふうん」
鋭い眼差しのまま、視線はドノヴァに移る。
「劇場でソフィアと共に待ち受けていたのがカッツェだったのはそういうわけか。どちらの差し金だ?」
「差し金だなんて人聞きの悪い。私がレオに頼んだ結果です」
「誰のために?」
「それをお聞きになりますか?」
あの日、勤務時間外という言葉を使いはしたが、観劇そのものは護衛任務の延長線上に発生したものだ。そこにドノヴァ個人の感情を優先することは許されない。
しかし彼の孫娘ソフィアとドノヴァの利害が一致したならば。
「ソフィアさんにも私にも等しく選ぶ権利はありますから」
無理に別の相手を宛てがえば、ミラベルトはまた同じ過ちを繰り返すことになる。そう匂わせると鼻に皺を寄せて渋面を作る。言い負かしたい気持ちがあるわけではないが、カレンが彼の思惑に巻き込まれた意趣返しをしたくないと言えば嘘になる。だから敢えて言葉を続けた。
「その書類が存在するのは、ソフィアさんがカレンを後押しして下さったお陰でもあります。我々の婚約に問題が生じればソフィアさんは心を痛められるでしょうね」
豪胆でやり手な彼の目下の生命線は、カレンの親友でもある孫娘だ。そこを突くことが今のミラベルトには一番効果的であることをドノヴァは熟知している。
「レグデンバー侯爵家と縁続きになれば面白いと思ったんだがなぁ」
「周囲には煙たがられるでしょうね、間違いなく」
これみよがしに大きな溜息を吐いてみせるが、次の瞬間にはけろりと笑っている。この老人はしばしば演技掛かった態度を見せるので内心でレオと似ているな、などと思ってしまう。
「うん、あのお嬢さんなら異論はない。両親には難ありだがね」
「元両親です」
まだカレンを不幸の渦に巻き込もうとする元母親から彼女を守るためにも、ミラベルトの署名が必要なのだ。
「彼女は働きぶりも考え方も王城に勤める者として良いものを持っている。まさか屋敷に閉じ込めるつもりじゃあるまいな?」
「カレン本人が食堂勤めに誇りを持ち、続けていきたいと願っております」
「そうか、それならいい」
得心したように何度も頷くミラベルトの口は止まらない。
「で、いつからお前はお嬢さんに目を付けていたんだ?」
「その言い方は好みませんが、惹かれたきっかけを上げるならば初めてお会いした日です」
「そんなに前から? お前のような男が片恋を患っていたのか」
また大袈裟に眉を上下させて演技じみた表情を浮かべている。
お前のような男、という言葉に釈然としないし、正解であっても片恋患いと決め付けられていることが若干腹立たしい。
「カレンを第一に考えられない日々はなかなかに辛いものでしたよ」
「ソフィアの護衛がなければそんな贅沢な悩みも生まれなかっただろうにな」
皮肉に皮肉で返される。
ソフィアの護衛を請け負ったからこそカレンの側にも立つことが出来た。ソフィアが食堂勤めをしていなければカレンと出会うことさえなかったかもしれない。反論の余地もない正論だった。
「お嬢さんと出会ってソフィアが良い影響を受けたのは紛れもない事実だ。得難き出会いをお互い大事にしなくてはな。お前も励んでカレン嬢を守ってあげなさい」
「はい、それはもちろん」
ミラベルトの言葉の裏にカレンへの思いが込められていることに感謝し、ドノヴァ自身も誓う。
同じ気持ちで側にいられるように、と。
「署名はあちらで行おう」
かくしてドノヴァの手元には二人分の証人欄が埋まった婚約証明書が帰ってきた。再びポケットに大事に仕舞い込んで第十二執務室へと舞い戻る。
頼まれていたゼーラの書類をカッツェに返却し、改めて上司に申し出た。
「団長、今一度席を外します」
「今度は何だ?」
「こちらを提出しに」
訝しげに面を上げるカッツェの目の前にひらりと婚約証明書を開いて見せる。「はーん」と鼻を鳴らしてドノヴァを見上げたカッツェは清々しく笑っていた。
「許可する、行ってこい」
「ありがとうございます」
友の後押しを背に改めて回廊に出る。
そんなドノヴァの視界の端で見逃せないものが揺れた。
「それでは後ほど食器の回収に伺います」
「うん、ありがとう」
紺青の制服を纏う騎士に向けて丁重に頭を下げるその拍子にはらりと垂れた紫黒色の髪束。他の誰かと見間違うわけがない相手だ。
姿勢を正して第三騎士団員ににこりと微笑みを浮かべる横顔は彼女の性格をそのまま映し出したかのように穏やかで、見ているこちらの心を優しくしてくれる……と思っていたのだが。
「カレン」
思わず声に出して名を呼んでいた。
「ド……いえっ、レグデンバー副団長」
ドノヴァの存在に気付いたカレンが驚きに肩を震わせ、戸惑う唇で自身の名を呼び返す。
公の場では家名を呼ぶように心掛けているのか、近頃は王城内で会うといつもこんな調子になっている。慌てた様子も可愛らしいが、いつかは必ずその呼び方も変わってしまうのだろう。その鍵は今、ドノヴァの胸ポケットに収まっている。
「配達ですか?」
「はい、少し早めの配達をお願いされまして」
カレンが第三騎士団員に会釈をしたことで二人の会話は終わったと判断して話を続けた。彼女が食堂へ戻る道筋を辿るので同じ速度で隣を歩く。元よりドノヴァの行き先も同じ方向だ。
「私は今、団長に許可をいただいて休憩に入っているのですが」
カレンが低い位置からこちらを見上げ、うん?と首を傾げている。
例の書類を取り出して彼女の方に広げて見せた。
「今からこれを提出しに行くところです」
「これは……あっ」
ぱちりと瞬いた灰色の瞳は上部に大きく記された婚約証明書の文字を捉え、瞬時に言葉の意味を理解したらしい。俄に頬を朱に染めていく。
「……ミラベルト様の署名もあるのですね」
「つい先程いただいてきたばかりです」
「あの、全てお任せしてしまって申し訳ありません」
何と甘い言葉だろうか。そう思うと笑みが溢れてしまった。
「私の行いに反対するつもりはない、そういうことでしょう?」
「そう、ですね」
「であれば、いくらでも喜んで」
二人の関係を盤石にするためならば、どんな手続きも路傍の石と変わりない。一息に跨いでみせるだけだ。
「ねぇ、カレン。わかっていますか?」
「はい?」
「これを提出してしまえば我々の関係は変わってしまいます」
国に認められ、婚約者という明確な立場になる。
「……はい、もちろんわかっています」
耳まで紅潮させながらも決意を含んだ返答。
だと言うならば。
他の男にあんな風に微笑みかけないで欲しい。
(……そうか、こういうことか)
隣に立ち、自身に向けられるからこそ優しい気持ちになれる彼女の笑顔。
別の誰かに向けられると心を乱してしまうのは、自分だけのものであって欲しいから。
ドノヴァが騎士職に身を置く者に等しく接するのと同じく、彼女もまた食堂職員として利用客に等しく接しているにも関わらず、だ。
(留意しておかなくてはな)
相手が騎士であろうとも男と女を切り分けて考えること。ほんの少しの心掛けがきっと彼女の負担を軽くする。
あとは……周りの意識も変えることだろうか。
「あなたにお願いがあります」
「はい、私に出来ることでしたら」
「カレンにしか出来ないことですよ」
真っ直ぐに見上げてくる無垢な瞳をいつまでも見つめていられたらいいのに。
けれどもドノヴァの目的地である第一執務室は、もうすぐそこだ。
周囲には行き交う人々の耳目がある。だから彼女の耳元に唇を寄せて、密やかに願いを告げた。
(いずれあなたも背負うものだから)
王城の一角、第十二執務室で時計の時刻を一瞥したドノヴァ・レグデンバーは椅子を鳴らして立ち上がった。
「構わん。どこに行くんだ」
「ミラベルト様の元に」
「あぁ、それならこれも持っていってくれないか」
上司であり、友でもあるカッツェが腕を伸ばして差し出す書類を受け取った。文面に目を走らせると見知った名が記されている。いずれドノヴァの義理の姉となるだろうゼーラ・ノクホーンの名だ。
内容は彼女が隣国アレアノイアから当国ジグランカへ転属した際の待遇などを纏めた書類で、人事管理部の容認が必須となる。ミラベルトが身を置く部門がまさしくそれなので体良くおつかいを言い渡されたというわけだ。
書類を木製の書簡綴りに挟んで小脇に抱え、空いた手で自身の胸ポケットを弄る。指先に折り畳んだ紙の感触を確認して満足する。今のドノヴァには小脇の書類よりもずっと大事なものだ。
「では行って参ります」
石造りの無骨な執務室を後にして、少しばかりひんやりと冷たい回廊を第二執務室に向けて進む。行き交う人々は同僚や部下がほとんどだが、最近になって見掛ける制服に新しい色が増えた。アレアノイアから遠征に帯同してきた、薄紫を纏った女騎士たちだ。
彼女らの存在にジグランカの騎士の対応も様々だ。明らかに浮わついている者もいれば、鼻の下を伸ばす同僚に冷ややかな目を送る者、男所帯に慣れすぎたせいであまり関わりを持とうとしない者もいる。
(私はどうなんだろうな)
騎士団副団長という立場からすると厄介な揉め事を起こさないのは大前提だが、それ以前にドノヴァは同じ騎士職に就く者に男女の別を感じていない。もちろん男女の性で採用される現場に違いが生じることはままあるが、与えられた職務を全うするという一点は揺るぎないもので、ただ騎士であるだけだ。
だから相手が誰であろうと分別なく接しているつもりなのだが。
(カレンの瞳にはどう映っている?)
何事にも真っ直ぐに向き合う、黒い睫毛に縁取られた緑がかった灰色の瞳。どちらかと言えば物静かな印象の彼女だけれど、その瞳には感情が表れやすい。
喜びに目を細めたときには緑色が少し濃くなるし、照れたり恥じたりすると表面が潤んできらきらと輝く。驚いたときにまん丸に見開かれる様も可愛らしい。
その愛おしい瞳はドノヴァをどのように映し出しているのか。
「副団長、モルテン様から副団長に取り次ぐようにとお声掛けされたのですが」
「ありがとう、用件の見当は付いています。こちらで対処するので君は持ち場に戻って下さい」
道すがら部下に呼び止められて、そんな会話を交わす。
モルテンといえば先頃の遠征でアレアノイアより迎え入れた護衛対象の貴族令嬢だ。ゼーラたち女騎士も彼女の護衛の任を受けている。
モルテン家のご令嬢自身が高位文官という身で、外交の架け橋だの何だのと言い出してジグランカの要職者へ輿入れすることを希望した。唐突に当国への訪問を提案したものだから、ドノヴァを始めとした第二騎士団があれやこれやと奔走させられ、隣国まで赴くはめになった。
そんな人騒がせなご令嬢はゼーラとドノヴァの兄ユヴェンの縁談を嗅ぎ付けており、その上で何やら画策しているようだ。
(関わらないのが一番なのだが……)
心の内で嘆息する。相手の身分が身分だけに断りを入れるにも一苦労なのだ。
身辺に寄せ付けたくない。これがドノヴァの本音だった。
(ゼーラさんですら誤解の対象になってしまったからな)
第二騎士団の執務室で騎士と同席することはドノヴァにとって疑うところはない行為だったが、カレンにはそうではなかった。詳しく話を聞けば互いに名を呼び合っていたこと、公を離れた私的な付き合いを感じさせる発言をしてしまったことが原因だった。迂闊な自分に歯噛みしたのは言うまでもない。
嫉妬とは両刃の剣である。
彼女が悋気を起こすほど好意を寄せてくれていることは喜ばしい事実だが、同時に彼女を傷付けてもいる。だとしたら自分を満たす感情を手放してでも彼女を傷付けずに済む道を選び取りたい。
ドノヴァに至っては彼女の親友を挟んで、すでにやらかしてしまっている。同じ轍を踏むわけにはいかない。
「失礼。ミラベルト様への取り次ぎを願えますか?」
「お約束は?」
「本日伺う旨は伝えてあります」
第二執務室のプレートを掲げた扉の前で、ちょうど出てきたばかりの文官に声を掛けた。ソフィアの一件もあってよく訪れているためか、文官は「お待ちを」と言い置いて引き戻っていく。しばらく待った後、入室を許可された。
「やぁ、レグデンバー」
「急な訪問、お許し下さい」
「いや、話は聞いていたから問題ない。どうしたね?」
騎士団の灰色に染まった執務室とは全く異なる豪勢な造りの部屋で、一際立派な椅子に腰掛けているのが人事管理部門を統べるミラベルトその人だった。機嫌は悪くなさそうだ、と相手の様子を観察して切り出した。
「個人的なお願いがございます。少々お時間よろしいでしょうか?」
そう告げて脇の扉に目を向けた。個室で二人きりの話を、そう暗に示唆して。
「構わないよ、来なさい」
もったいつけて立ち上がったミラベルトに続いて個室に入る。四人も入れば手狭なこの部屋は密談に向いており、ソフィアの護衛に関しての話し合いもここで行ったものだ。
「で、お願いとは?」
「こちらをご覧いただいてご署名いただければ、と」
立派な口髭をひと撫でして椅子に腰掛けた貴人に、胸ポケットから取り出した紙をそっと差し出す。眉を大袈裟に持ち上げたミラベルトは畳まれた紙を開いた後、その文面に走らせた目をすっと細めた。
「あのお嬢さんと婚約、ね」
「はい。空いた証人欄にミラベルト様以上のお名前はないのではないか、と思いまして」
「ふうん」
鋭い眼差しのまま、視線はドノヴァに移る。
「劇場でソフィアと共に待ち受けていたのがカッツェだったのはそういうわけか。どちらの差し金だ?」
「差し金だなんて人聞きの悪い。私がレオに頼んだ結果です」
「誰のために?」
「それをお聞きになりますか?」
あの日、勤務時間外という言葉を使いはしたが、観劇そのものは護衛任務の延長線上に発生したものだ。そこにドノヴァ個人の感情を優先することは許されない。
しかし彼の孫娘ソフィアとドノヴァの利害が一致したならば。
「ソフィアさんにも私にも等しく選ぶ権利はありますから」
無理に別の相手を宛てがえば、ミラベルトはまた同じ過ちを繰り返すことになる。そう匂わせると鼻に皺を寄せて渋面を作る。言い負かしたい気持ちがあるわけではないが、カレンが彼の思惑に巻き込まれた意趣返しをしたくないと言えば嘘になる。だから敢えて言葉を続けた。
「その書類が存在するのは、ソフィアさんがカレンを後押しして下さったお陰でもあります。我々の婚約に問題が生じればソフィアさんは心を痛められるでしょうね」
豪胆でやり手な彼の目下の生命線は、カレンの親友でもある孫娘だ。そこを突くことが今のミラベルトには一番効果的であることをドノヴァは熟知している。
「レグデンバー侯爵家と縁続きになれば面白いと思ったんだがなぁ」
「周囲には煙たがられるでしょうね、間違いなく」
これみよがしに大きな溜息を吐いてみせるが、次の瞬間にはけろりと笑っている。この老人はしばしば演技掛かった態度を見せるので内心でレオと似ているな、などと思ってしまう。
「うん、あのお嬢さんなら異論はない。両親には難ありだがね」
「元両親です」
まだカレンを不幸の渦に巻き込もうとする元母親から彼女を守るためにも、ミラベルトの署名が必要なのだ。
「彼女は働きぶりも考え方も王城に勤める者として良いものを持っている。まさか屋敷に閉じ込めるつもりじゃあるまいな?」
「カレン本人が食堂勤めに誇りを持ち、続けていきたいと願っております」
「そうか、それならいい」
得心したように何度も頷くミラベルトの口は止まらない。
「で、いつからお前はお嬢さんに目を付けていたんだ?」
「その言い方は好みませんが、惹かれたきっかけを上げるならば初めてお会いした日です」
「そんなに前から? お前のような男が片恋を患っていたのか」
また大袈裟に眉を上下させて演技じみた表情を浮かべている。
お前のような男、という言葉に釈然としないし、正解であっても片恋患いと決め付けられていることが若干腹立たしい。
「カレンを第一に考えられない日々はなかなかに辛いものでしたよ」
「ソフィアの護衛がなければそんな贅沢な悩みも生まれなかっただろうにな」
皮肉に皮肉で返される。
ソフィアの護衛を請け負ったからこそカレンの側にも立つことが出来た。ソフィアが食堂勤めをしていなければカレンと出会うことさえなかったかもしれない。反論の余地もない正論だった。
「お嬢さんと出会ってソフィアが良い影響を受けたのは紛れもない事実だ。得難き出会いをお互い大事にしなくてはな。お前も励んでカレン嬢を守ってあげなさい」
「はい、それはもちろん」
ミラベルトの言葉の裏にカレンへの思いが込められていることに感謝し、ドノヴァ自身も誓う。
同じ気持ちで側にいられるように、と。
「署名はあちらで行おう」
かくしてドノヴァの手元には二人分の証人欄が埋まった婚約証明書が帰ってきた。再びポケットに大事に仕舞い込んで第十二執務室へと舞い戻る。
頼まれていたゼーラの書類をカッツェに返却し、改めて上司に申し出た。
「団長、今一度席を外します」
「今度は何だ?」
「こちらを提出しに」
訝しげに面を上げるカッツェの目の前にひらりと婚約証明書を開いて見せる。「はーん」と鼻を鳴らしてドノヴァを見上げたカッツェは清々しく笑っていた。
「許可する、行ってこい」
「ありがとうございます」
友の後押しを背に改めて回廊に出る。
そんなドノヴァの視界の端で見逃せないものが揺れた。
「それでは後ほど食器の回収に伺います」
「うん、ありがとう」
紺青の制服を纏う騎士に向けて丁重に頭を下げるその拍子にはらりと垂れた紫黒色の髪束。他の誰かと見間違うわけがない相手だ。
姿勢を正して第三騎士団員ににこりと微笑みを浮かべる横顔は彼女の性格をそのまま映し出したかのように穏やかで、見ているこちらの心を優しくしてくれる……と思っていたのだが。
「カレン」
思わず声に出して名を呼んでいた。
「ド……いえっ、レグデンバー副団長」
ドノヴァの存在に気付いたカレンが驚きに肩を震わせ、戸惑う唇で自身の名を呼び返す。
公の場では家名を呼ぶように心掛けているのか、近頃は王城内で会うといつもこんな調子になっている。慌てた様子も可愛らしいが、いつかは必ずその呼び方も変わってしまうのだろう。その鍵は今、ドノヴァの胸ポケットに収まっている。
「配達ですか?」
「はい、少し早めの配達をお願いされまして」
カレンが第三騎士団員に会釈をしたことで二人の会話は終わったと判断して話を続けた。彼女が食堂へ戻る道筋を辿るので同じ速度で隣を歩く。元よりドノヴァの行き先も同じ方向だ。
「私は今、団長に許可をいただいて休憩に入っているのですが」
カレンが低い位置からこちらを見上げ、うん?と首を傾げている。
例の書類を取り出して彼女の方に広げて見せた。
「今からこれを提出しに行くところです」
「これは……あっ」
ぱちりと瞬いた灰色の瞳は上部に大きく記された婚約証明書の文字を捉え、瞬時に言葉の意味を理解したらしい。俄に頬を朱に染めていく。
「……ミラベルト様の署名もあるのですね」
「つい先程いただいてきたばかりです」
「あの、全てお任せしてしまって申し訳ありません」
何と甘い言葉だろうか。そう思うと笑みが溢れてしまった。
「私の行いに反対するつもりはない、そういうことでしょう?」
「そう、ですね」
「であれば、いくらでも喜んで」
二人の関係を盤石にするためならば、どんな手続きも路傍の石と変わりない。一息に跨いでみせるだけだ。
「ねぇ、カレン。わかっていますか?」
「はい?」
「これを提出してしまえば我々の関係は変わってしまいます」
国に認められ、婚約者という明確な立場になる。
「……はい、もちろんわかっています」
耳まで紅潮させながらも決意を含んだ返答。
だと言うならば。
他の男にあんな風に微笑みかけないで欲しい。
(……そうか、こういうことか)
隣に立ち、自身に向けられるからこそ優しい気持ちになれる彼女の笑顔。
別の誰かに向けられると心を乱してしまうのは、自分だけのものであって欲しいから。
ドノヴァが騎士職に身を置く者に等しく接するのと同じく、彼女もまた食堂職員として利用客に等しく接しているにも関わらず、だ。
(留意しておかなくてはな)
相手が騎士であろうとも男と女を切り分けて考えること。ほんの少しの心掛けがきっと彼女の負担を軽くする。
あとは……周りの意識も変えることだろうか。
「あなたにお願いがあります」
「はい、私に出来ることでしたら」
「カレンにしか出来ないことですよ」
真っ直ぐに見上げてくる無垢な瞳をいつまでも見つめていられたらいいのに。
けれどもドノヴァの目的地である第一執務室は、もうすぐそこだ。
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一方で、彼女を捨てた黄金の国は、聖獣の加護を失い崩壊の危機に直面していた。
慌ててアデリーンを連れ戻そうとする身勝手な王族たち。
しかし、彼らの前には「復讐」の準備を終えたアデリーンの兄たちが立ちはだかる。
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