やさしい咀嚼

加藤

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序章

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 車を回してほしい。
 と、依頼があったので現場へ駆けつけたが、指定された住所に待ち人の姿はなく、特に変哲のない夜道が冷たく佇んでいるだけだった。街灯から降り注ぐ白い明かりは、閑散とした夜の歩道の狭い範囲をぼんやり照らしていて、物の輪郭を淡く浮かび上がらせていた。暗い宵だった。
 区の中でも高層マンションが立ち並ぶ路地を、数本裏に入った場所にある、影のような区域だった。深夜でも声の絶えない表通りとは違い、人通りも数人ぱらぱらあるだけだ。
 住所は合っているか? 不安になり、ナビゲーションを確認した。マップ上に示されているピンの位置と現在地はぴったり重なっている。時間は? 数十分の遅れがある。運転席の窓を下げ、外の空気を入れる。あまり長いこと路上駐車をしていて通報などされるのも面倒だし、どうしたものかと迷っていると、不意にそれらしい人影が現れた。
 点滅するハザードランプの灯りに照らされ、その姿が見えてくる。彼は、グランドホテルの裏口から出てくると、道路を左右見回してこちらの車体を見つけた。そして背後を振り向き、後から出て来たもう一人にあの車だと合図した。
 今夜の客は、どうやらあの二人で間違いなさそうだ。
 エンジンをかける。開けていた窓を元に戻し、外に出る。荷物はほとんどないようなので意味があるのかはわからなかったが、とにかく車の横に立った。扉を開けて待つ。二人は並んでこちらへ歩き始めた。
 横を他の車が通り、ヘッドライトに当たった彼らの姿がよく見えた。後から出てきたほうと、まずは目が合った。
 彼は、重厚なロングコートの裾を膝下で翻した聡明そうな男性で、図鑑のような厚さの本を小脇に抱えていた。逞しい肩でそれを持たれると、まるで鈍器だ。しかし歩く姿は上品なモデルのようで、堂々と、すらりとした背格好をしていた。ゴールドとシルバーの中間のようなプラチナブロンドの、丈夫そうな質感の髪を上げて額を見せている。虹彩の小さい鋭い瞳だ。彼は大股で歩きながら顎を引き、上目でこちらを睨むような表情をしていたが、ゆっくり隣を見ると、大きな口をにっと横に伸ばした。
 彼の視線の先に歩くもう一人の男は、隣の男とは正反対の容姿をしていて、細身で、ゆるいシルエットのフーディとスウェットパンツを着たカジュアルな格好をしていた。闇夜に溶ける赤色の髪を、額の中心から左右に無造作に分けている。やわい目尻で薄く微笑む、アンドロジナスで甘いマスクの持ち主ではあったが、眉は凜々しく、どこか隙のなさそうな雰囲気があった。顎を少し上げてこちらを見下ろす鼻は高い。彼は笑みを強くすると、「ハァイ。運転手?」と陽気に挨拶をしてきた。
「連絡したイサナです。イサナミツキ。こっちは親友のエイジ。……って、紹介いらないか。よろしくお願いしまあす」
 と、慣れた身のこなしで車に乗り込む。
 私が運転席に着くと、後部座席にゆったり座った彼らに、動物でも観察するかのように眺められた。落ち着かない。なんだかなと思いながらシートベルトを締める。
 フロントミラーの角度を調整しているうちに、細身のほうの男性の携帯端末から行き先が共有された。カーナビの地図に新たなピンが立つ。発車すると、音楽を流して良いかどうか問われた。ブルートゥースを接続して、彼らはよくわからない英語の女性ラッパーの曲をかけた。
 珍しいタイプの客だったので、そちらのほうが気にかかり、彼らが予定の時間に遅刻してきたことなど忘れてしまった。これは都内をそこらじゅう走っている一般的なタクシーではない。たいていの夜の客は、庁舎から帰宅する政治家か報道から逃げる著名人、または見知った富裕層の人間だったから、彼らは初めて乗せた妙な客だった。
 目的地に向かう。フロントミラーからそっと窺うと、どちらも思ったより若そうだった。しかし、持っている携帯電話は最新の端末で、ピアスや指輪の宝石の輝きは本物のそれだ。着ている服はどれも、大学生がアルバイト代で買えるような価格帯のものではない。一体どんな生業の男達なのか知らないが、金にはずいぶん困っていなさそうである。
 二人で十分に楽しそうな様子だった。酔っているのかもしれない。ミツキと言ったか、カジュアルなほうの男が隣に耳を寄せ、エイジと呼ばれていたコートのほうの男から何かを囁かれる。彼は体を揺らしてケラケラ笑いながら、コートの男の膝を叩いた。
 会話の内容はよく聞こえない。ラップのせいだ。
 そのとき、フロントミラー越しにバチッと目が合った。エイジと、だ。まだ愉快そうに爆笑しているミツキの隣で、コートの襟で口元を隠す。
 どきりとして目を反らした。なにもかも見透かしているような瞳だった。わけもわからず恐怖を覚えるほど。何も悪いことをしているわけではないのに。
 やがて最初の目的地に到着したとき、私は救われた気さえした。着いてみると、そこは若者が集う賑やかなクラブのようだった。ストロボライトやミラーボールの明かりが漏れ、ズンズンと地を這う低音が、厚いリズムになって聞こえてくる。
 そのあとに指定された数か所の行き先も、全てクラブかパーティー会場だった。彼らはどこにも長居しなかった。すぐに車に帰ってきては、次の目的地へ行く。徐々に酔いが回ってきているようではあったので、中で飲んではいるのだろうが、踊りが目的というわけでもなさそうだった。
 つくづくおかしな男達だった。
 最後の行き先は、最初のグランドホテルに戻っただけだった。今度は裏口でも正面でもなく、地下の駐車場で降ろすよう注文があった。支払いは、触るのも緊張するような種類のカードだった。
 私は車から降り、彼らが途中の目的地で積んだ荷物を、トランクから下ろした。最初に乗せたときには持っていなかった大きな鞄だ。持ってみると想定よりずっと重く、つい、地面に落としてしまった。
 重い衝撃音が響いた。薄暗い駐車場の冷たいコンクリートに当たり、バッグの中に入っていた何かが割れたガラス音がした。謝罪を口走りながら慌ててしゃがむと、レザー生地の鞄の口から、じんわりとゆっくり、液体が漏れてきているのが見えた。
 ツンと鼻を突く臭い。鉄の臭いだ。赤黒く染まっていくコンクリート。
 一体これはと思って固まっていると、見下ろしていた地面にふっと影が落ちた。
「あーあ」
 ミツキだった。
 彼は私の隣にしゃがむと、今も地面に伸び続けるねっとりとした液体を眺めた。
「もったいない……」
 ゴテゴテした指輪のついた骨張った指でその液体をすくい、舐める。彼はべろりと出した舌に人差し指を押し当てたまま、くっと、私を見た。
 背筋が凍った。
 目が、赤い。
 舌に触れている犬歯が長い。
 そういえばようやくまともに近くで見た彼は、それはそれはひどく綺麗な顔面の造形をしていて、とてもこの世のものとは思えないほどだった。見つめられると冷や汗が滲むほどの緊張感が走るのに、不思議と、目を逸らすことができなくなる。
 コツ、コツ、と踵の音がして、エイジもやって来た気配がした。ミツキが目を上げ、私の背後を見上げる。
 後ろでため息をつかれた。
「あなたには何もしないつもりだったのに」
 振り向く前に、視界がぐらりと揺れた。
 怯みそうなほど強い力で後ろから肩を掴まれ、おそらく、私は噛まれた。確かに自分の肌が切れる音を聞いた。首の裏に激痛が走り、全身がかっと熱くなる。膝が笑い出したと思ったら、次には射精感に似た性的快感がぐわりと襲ってきて、前のめりに倒れそうになった。
 意識が遠のく。浮遊感。嬌声のような自分の甲高い声が、遠くに聞こえた。震える手で地面に手をつく。見下ろしたコンクリートの灰色に唾液が垂れて、ぽつぽつと濃く染まった。
 唾液だけではないと気付いた頃には、もう遅かった。急激な貧血で寒気が止まらず、体中がどうしようもなく震えた。ミツキが、横から私の顔を覗き込んできて、にっこり笑う。
 そうして、私は死んだ。
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