やさしい咀嚼

加藤

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第二話 サタン

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 早朝。
 小さな湖の周りを背の高い木がぐるりと生い茂っている公園で、若い人間の影がひとり走っていた。辺りは薄暗く、空の縁が白みだしている澄んだ空気の中ではまだ、他の人の姿はまず見受けられない。その人間はジョギング用の服装をしていた。ひとしきり朝の運動をしたあと、林の影からきらきら揺れる湖の水面を眺め、一息つく。腰に手を当て、清々しい気持ちで胸をいっぱいにする。
 三月がそこを通りかかったのは偶然だったが、そのとき求めていたものがなかったと言ったら、嘘になる。
 彼は、湖の開放的な背景をバックにこちらに背を向けて休憩している人間の影に、静かに近寄っていった。地面に広がる落ち葉や枯れ枝を踏まないよう慎重に距離を詰め、すぐ背後にまで迫ると、音もなくバッと腕を伸ばして、人間の口を塞いだ。そして、伸びてきた牙の先端を自分の手の平にツッと滑らせて分泌する毒をつけ、それを鼻に押し付けて吸わせ、眠らせた。まるで無害なシマウマを狙うハイエナだった。
 人間は全身から力を失い、糸を切られた操り人形のように地面に崩れ落ちそうになったので、三月は人間の体を正面から木の幹に押し付けて、立った状態を維持させた。多少面倒に感じながらも、人間の後ろ側から鎖骨の上の動脈に指を当てて、具合を確かめた。
 汗のにおいに混ざって、濃くてなめらかな血液の香りがした。首裏に鼻を寄せ、すんすんと嗅ぐと、魅惑的な血の温度を感じた。迷うことなくガッと大きく口を開き、勢い良く噛みつき、頸動脈に穴を開けた。
 健康的な食生活をしていそうな血の味だった。何度か喉を鳴らして飲み込んで、気が済んだあと、手の中に収まるくらいの小さな瓶を取り出し、鮮血がどくどく流れ出る傷口に押し当てて容器の中を満たした。それを数本作る。
 そうして用事が終わったら、舌の腹でじっくり舐めて傷を塞いで止血した。吸血鬼の唾液には、自然治癒力を高めて傷を即時に治す効果が、実はある。傷はほとんど残らないだろう。
 意識のまだない人間を地面に横たわらせ、三月は傍にしゃがんだ。人間の腰に固定してあった鞄の中をあさり、財布を見つけ出す。そこにあった運転免許証を見ると、この人間の年齢や性別がはっきりわかった。
 二十三歳、男性。
「ビンゴ」
 上機嫌に小声で言い、免許証はすぐに鞄へ戻した。
 彼が目を覚ますまで待って、無事を確認するのは面倒だった。急に興味をなくしたように立ち上がって、三月は未練なく立ち去って行く。



 目を覚ましてから数秒はぼんやりしていたものの、すぐに昨夜のことを思い出し、陽は飛び起きた。
 勢い良く隣を見る。
 と、シーツがくしゃくしゃになったシングルベッドには普段のように自分しか寝ていなかったので、一瞬夢だったかなと疑った。しかし視線を移すと、床に転がった下着や使用済みのコンドーム、量がかなり減ったローションのチューブなどが、午前の健康的な日光に照らされていて、本当に現実だったのかもしれないと思わせぶりをしてきた。
 あの人はどこへ?
 焦って起きようとしたらベッドから転げ落ちてしまって、ただでさえ怠い体に鈍痛が走った。しかし、そんなことはどうでもよくて、慌てて携帯電話を手に取り、画面を明るくした。メッセージの通知などはない。時刻は午前九時。今日は月曜日だ。一限目に遅刻した。
 床に転がったまま、うなだれてのっそり顔を起こした。すると、テレビの前に置いてあるローテーブルの上にメモが見えたので、陽は全裸のまま四つん這いで這って行って急いで内容を読んだ。
 仕事行ってくるね、と、ひとこと走り書きされていて、隅には猫のようならくがきが描かれていた。名前は書かれていなかったが一人しかいない。その下段には、携帯電話の電話番号が書き足されてあった。陽は、目から数センチメートルのところに紙を持って凝視した。
 夢じゃなかった! しかも電話番号。ラインすら知らないのに急に重いものを知ってしまった。電話をしてもいいということだろうか?
 うわああ、と声を上げて床に倒れ込む。
 同刻。
 カフェには、モーニングを目的にやって来る客が集まってきていた。
 三月が出勤し、大きな欠伸をしながらレジに釣り銭を用意する作業をしていると、カフェエプロンを腰に巻いて準備を終えた後輩が、すっと隣にやって来た。
「寝不足ですか? 三月先輩」
 理人りひとは今日も朝から爽やかで、年下らしく愛らしい目を輝かせていた。
 三月はもう一度欠伸を伸ばした。
「久しぶりに朝帰りしちゃった」
「朝がえ」
 理人は言葉を切った。そして、目頭に力を入れ、コーヒー豆を収納するガラスケースを拭き始めた三月をチラチラ見る。
「それって、その、泊まってきたってことですか。女の人の家とかに?」
「うん。男だけどね」
「あっ、そう……、なんですね」
「変に気遣わなくていいよ。バイなんてそこらへんにうじゃうじゃいるから」
「バイ?」
「バイセクシュアル。男も女も好きなんだ」
「そうなんですね。それで男の人の家に。わー……先輩は大人ですね……」
 理人はへなっと笑う。
「僕なんか、サークルの綺麗な先輩方と喋るのもやっとだし、それ以前に、もう、毎日一限目に遅刻しないようにするだけで必死ですよ。今日みたいに午前中に授業がない曜日は天国です。早く大学生活に慣れたいなあ」
「すぐ慣れるよ。お前はすごく器用じゃん」
 三月はふきんを絞った。蛇口をキュッと捻り、湯を止める。
「ほら、お客さんが来たよ」
 理人は肩越しに振り向いて、レジに並んだ客が丁寧なメイクをしたニ、三人の大人の女性だと知ると、「勘弁してくださいよ」という表情を三月に向けながらもレジへ向かった。



 その日の陽は、勉強に全く身が入らなかった。
 講義を受けていても、昨夜のことをありありと思い出して、勝手に一人で赤面してジタバタしてしまうし、キャンパス内でちょっと赤っぽい髪色をした姿を見かけただけで心臓が口から出そうになるし、散々だった。
 経験は、人並みより少し多いくらいはあった。ゲイを自覚した高校生の頃からインターネットで情報収集をしてきたこともあって、都内の大学に進学したら、絶対に仲間が集まる場に行きたいと思っていたから、引っ越したその晩にはもう新宿二丁目に足を運んでいた。家族にはカミングアウトしていなかったから(というより、とてもできるような環境ではなかった。陽は母子家庭で育ったが、母は同性愛者を排除する方針の宗教に心酔していたし、母を少しでも刺激すると、文字通り大怪我をする恐れもあった。)、背筋を伸ばして同性を好きでいられる空間の解放感には、涙が出た。
 彼氏がいた時期もある。特定の人と恋人にはならずに、一晩だけの関係を繰り返していた時期もあった。セックスもそれなりにしてきて、慣れてはいるはずだった。
 だから、昨夜は事件だった。
『初めて中だけでイけちゃって、失神しそうになった』
 図書館でレポートを仕上げる合間に、ゲイバーで知り合った仲間に、そうラインした。
『あんなセックス初めてした。ドタイプ過ぎて一瞬で好きになっちゃったのに、おまけにエッチもいいってやばくない?』
『やばい。絶対逃がさない方がいい』
 と、すぐに返事がくる。
『ていうか、相手、タチで良かったね。これだけ好きになったあとに逆だったら大変だったんじゃない?』
『そうだったら僕が頑張ってタチやってたけど、違くてほんと良かった』
『付き合うの?』
『わかんない。僕はそうしたいけど、相手がどう思ってるか』
 図書館を後にして、教授にレポートを届けて帰路につく。ハイネックニットの首部分を上に伸ばして、顎を引っ込め、頬を撫でる冷たい外気から肌を守りながら歩いた。
 正門の傍に、一台の車が停まっていた。どこかの国の車種で、なんでもない道路にあると非常に目立つ真っ赤なものだったが、それそのものよりも、中に乗っている人物の横顔に見覚えがあった。運転席がちょうど正門側のほうにあったので、姿が見えた。窓を下げて、枠に肘をかけている。影になっていてよく見えないが、あれは確かに。
 しばらく立ち往生していたが、結局、陽は足を踏み出した。キャンパスから帰宅する他の学生たちも、普段見ないものに興味を引かれてその車を振り返っていた。
 陽が近付いて行くと、気付いた三月は顔を上げ、サングラスを外して「や」と手を挙げ、挨拶した。
「お疲れさま。今日の授業は終わり?」
「どうしてこんな所に……」
 陽は咳払いし、かすれた声を直した。
「瑛次先輩でしたら、向こうのキャンパスにいると思います。僕達、いつもはキャンパスが違うんです」
 そう言うと、三月は目を丸くしてきょとんとしたあと、眉を下げて困ったように笑った。
「まいったな。それは俺とはもう会ってくれないってこと?」
「え」
「お前を迎えに来ちゃだめだった?」
「ぼ、僕?」
 今度こそ本当に声が裏返った。まさかと思っていた展開がきて、動揺する。
 三月は運転席から降りると、ぐるりと車体を回り込み、助手席のドアを開けた。
「乗るか乗らないか、お前に任せるよ」
 そう言って穏やかに微笑む。
 答えなど決まり切っていたが、慌てて乗り込むのもかっこ悪いと思い、陽は少々迷ったような素振りを見せてみてから、三月のほうへ寄った。そして、まだ扉を開けた格好で待ってくれている姿を横に、バッグを膝に乗せながら助手席に座った。ばたんと、外からドアが閉められる。
 緊張して一瞬、目眩がした。車内は綺麗で、埃ひとつない。三月の香水ではない、芳香剤か何かの別のいい匂いがした。地面にリズムを乗せて小さく響いているのは、聞いたことのない英語のラップ曲だった。陽だって運転免許証はあるし、車も持っているが、学生の持つそれより桁がいくつか違いそうなものだった。
 三月がまた車体を回り込んで運転席に戻ってくるまでの時間が、永遠に感じられた。彼は、よっこらせ、などと言いながら朗らかに座り、窓を上げて閉めた。
「今朝は勝手に出ちゃってごめんな」
「あ……いえ。仕事だったんですよね」
 仕事、と言いながら、アルバイト程度のシフトで気楽に働いていそうなカフェの業務を思い出し、この車とのギャップに多少の違和感を覚えた。
 そういえば三月はいつも、誰でも知っているようなブランドの靴や服を着ているし、いかにも高価そうな腕時計を輝かせている。しかしそんな考えも、彼が静かにエンジンをかけた瞬間、吹き飛んだ。
 三月は運転席から腕を伸ばし、陽のシートベルトを肩上から伸ばして、腰でカチリと閉めた。ふわりと彼の香水が匂う。急接近した距離にびっくりして動かずにいると、ベルトを見ていた目線がふと上がり、視線が絡んだ。
 唇で軽く唇をつままれて、チュ、という小さなリップ音と一緒に離れられる。
「ホテル行こうか」
 鳥肌が止まらない。
 陽はこくこくと頷いた。



「あ……――っ!」
 陽の手が、逃げ場を求めるように壁にしがみついた。
「む、無理、もう無理です、おかしくなっちゃう……っ」
「煽ってるの?」
 シャワールームの一角だった。といっても、ベッドのある場所からガラス一枚でしか区切られていないため、実質ベッドルームだ。
 全身鏡に向かって手をついて立ったまま、後ろから何度も深くまで貫かれ、陽は息絶え絶えになっていた。膝が笑い、立っていられなくなる。が、背後から三月に腰を支えられ、終わらない快楽に体力と思考が奪われる。
 イく、と言う前に追い上げられて、鏡に額を押し付けたまま達してしまった。全身から脱力して、隣にあった広い洗面台に突っ伏す。頬をつけた大理石調の台は、最初はひんやりと感じたのにすぐに熱くなった。
 三月は後ろから手を伸ばして、陽の顔のすぐ前で、中に液体が入ったコンドームの口を縛って手放した。それは、白濁の重さで洗面ボウルの曲線を伝って下に滑り落ちていった。そして彼は新しいコンドームの小袋を拾うと、わざとなのかまた陽の目の前で開封し、綺麗な形状の輪っかを取り出した。
 それが視界から消えて、おそらく三月の下半身のほうへ連れていかれる。う、と、喉の奥から声が出た。すぐにアナルに触れる熱を感じて、声はしめった吐息へと変化していった。
「陽」
 呼ばれて、腰を掴まれる。
「立たないならこのまま入れちゃうよ?」
「っだめ、です……休憩、」
「休憩?」
 軽く笑う三月の声がした。
「休憩してもいいけど、その間に萎えちゃうかもよ」
「う……」
 頼りない足に力を込めて上体を起こし、陽は再び鏡の前に立った。
 三月は後方から陽の背中に口付けると、背骨の堀を舌の先でつうっと舐め上げた。陽が感じ入った声を上げた。三月はそうして再び陽の後ろの穴に手を伸ばすと、丁寧に指を挿入させた。
 三月が顔を上げると、鏡を通して三月を見つめていた陽と目が合った。陽が逃げないよう背後から腰を片手で抱き込め、にやりとする。
「鏡見ながらするの、興奮する?」
「っ、こんなの、誰だって興奮します」
「確かに」
 三月はいったん全ての指を引き抜くと、自分の性器を陽の尻の割れ目に這わせてあてがった。陽が息をつく。
「陽の顔が俺に丸見えだね」
 三月は、首裏まで真っ赤にして鏡から顔を反らす陽の顎を後ろから掴み、正面を向かせた。驚いて見開かれた陽の目が、しっかり鏡越しに自分を見た。同時に三月は腰をぐっと進め、性器の先端を穴に押し当てた。
 顎を固定されたまま、開かれていた陽の目がくにゃっと垂れた。眉を寄せ、はあっ、と、熱い息を吐く。日中は美しい微笑みを絶やさない三月の眼差しが、今こうして、真っ赤な欲と興奮に燃えているところから目が離せない。意地悪で、ゾクゾクする。
 三月は鏡で陽の表情を見つめながら、性器を穴にぐにぐにと擦って、耳やうなじに唇を押し当てた。挿入されそうでされないいじらしさに、陽が表情を歪める。
 三月は手を自分の性器に添えると、陽の尻の割れ目に何度もそれを擦りつけながら目を伏せた。挿入している時のように腰を揺らし、息を吐く。すぐ目の前にあった陽の白いうなじに唇を触れさせ、舌を這わせ、名前を囁いた。
 ぞわぞわと、陽の肌に鳥肌が立った。
「は、あ……せんぱ……っ」
 先ほどからの入りそうで入らない感覚がたまらないのか、または肌の敏感な部分を唇や舌で撫でられる感覚が気持ち良いのか、陽の鼻から抜ける声が隣のシャワールームにまで響いた。
「かわいいよ、陽。でも、エロいことしてくれたらもっとかわいい」
「っえろ、いこと……?」
 目を上げると、陽と鏡の中の陽の目が合った。汗でびっしょりに濡れた前髪の間から、涙で潤んだ瞳が見返してくる。鏡越しに三月に見つめられていることも、わかっていた。
 陽は顎を上げ、目の前の鏡に唇をつけた。目を伏せて何度も食んで、舌も使い、時折鼻から息を漏らしながら続ける。
「陽が陽とキスしてるみたいだ」
 三月が、たまらないといった様子で軽く笑った。
「お前、本当に最高だよ……」
 と、三月は何度も、陽の背後から首裏に唇を押し付けた。耳の裏まで隈無く舐め上げ、耳朶を甘噛みする。ぞくぞくする感覚が泊らなくて、熱風のような息が漏れた。
 三月は「でも」と続けた。
「俺、これあんまり好きじゃないな」
「え……?」
「この形、苦手なんだ」
 三月は、陽がつけていた十字架のピアスの片方に歯を立てた。そしてなんと、そのまま真っ二つに噛み砕いた。陽が肩で息をしたまま驚いて固まっていると、器用に前歯でピアスのチャッチを引き抜き、砕けたピアスを床に落とした。空になったピアスホールに犬歯を通すように軽く、噛む。陽は肩をびくつかせた。
「そっちはどうするの?」
 言われた意味がわかってしまい、陽は背筋をゾワゾワさせながら、綺麗なほうのピアスに触れた。そして、三月が鏡越しにじっと見てくる前で、抜き、片側と同じように床に落とす。三月は足でそれを踏み潰した。
「新しいの買ってあげるよ。クロムハーツ以外でね。ところでさ」
 三月は陽の何もかもを見透かしているような調子で、裸になったピアスホールをもう一度噛んだ。上体をぴくりとさせるのと同時に、「ぁ」と小さく声を出してしまう。
 陽は急いで口を塞いだ。
 しかしもう、遅い。
「ちょっと痛くされるの好き?」
 と、三月。
 陽はブンブンと強く、首を横に振った。
 三月は微笑んだ。
「恥ずかしがらなくていいよ。セックスは気持ち良いほうがいいし、セックスに気持ち良さを求めることは恥ずかしいことでもいけないことでもない」
 そう言い、彼は着ていたパーカーの、フード部分を締める紐を引き抜いた。ついでにパーカーは脱いでしまう。紐を下に伸ばすと先端が床に触れる。幅が太めの紐だった。
 三月はそれをくるくると緩く手首に巻き付けると、その一連の動作を鏡越しに見ていた陽と目を合わせた。
「もう一回聞くよ、陽」
 と、陽が前の壁についていた両方の手首に、背後から触れる。
「痛くされるの好き?」
 彼が何をしようとしているのか予想ができた陽は、つい、熱い息をついてしまった。
「……。……少し、興奮します……」
「うん。わかるよ」
 手首をしっかり掴まれ、両方を背中側に回される。そして三月は、陽の両手首を紐でゆるく縛り、背中側の腰のあたりで固定した。
 今まで、それなりに性行為はしてきたし、経験人数も少なくはないほうだと思う。しかし、このような行為に及ぶのは全く初めてだった。自分の奥底に秘めていたものをじっくり暴かれるようで、どうしようもなく熱が上がった。
 この人に全てを見られる、全てを知られるのは、一体どんな感覚なのだろうか?
 硬いものが肉を割って入り込んでくる感覚に、陽は身震いした。
「……あ」
 一度ぎりぎりまで引き抜かれた性器がゆっくり割り入ってきて、奥をぐりっと抉る。三月は陽のうなじに歯を立て、軽く引っ掻くように滑らせた。両手の自由を奪われた陽は、腕で壁に寄りかかることもできず、顔を鏡に押し付けて自分の体重を支えた。
 肌と肌がぶつかる音が再び始まって、もう冷静になどなっていられない。おまけに、三月がすぐ耳元で心地良さげな息をつくので、肌の裏側まで鳥肌が響くようだった。みっともない嬌声と一緒に、唾液が顎を伝っていった。
「っあ、あ、あ……っ、三月、せんぱ、」
 歯がガチガチ鳴る。目の周りにチカチカと星が飛ぶ。
 紐が手首に食い込む感覚が、脳天を痺れさせる。
「気持ちい?」
「っき、きもちい……やだ、や」
 三月は、陽の肌にぷつぷつ浮いてくる汗を全て舐め取った。舌をいっぱいに使って体液を舐めながら、
「何がやなの?」
 と聞く。拒否の言葉を聞いた三月は、陽の手首の縛りを解いて性器をずるりと抜いた。
 陽は壁にもたれかかってしゃがみ込み、口元を手で覆い、呟いた。
「気持ち良すぎて、こわいんです」
 細い手首が線状に薄く充血している。はだけたシャツから覗く肩や鎖骨の窪みは、上気して真っ赤だった。その青い皮膚の下に血液が通っている証だった。
 三月は、へたり込む陽の前にしゃがんだ。
「俺の体をそんなに気に入ってくれたならよかった」
 いっそ優しげに微笑み、ぐっしょり濡れた陽の前髪をかき上げるように撫でる。
「ベッド行こうか? そろそろちゃんと動きたいんだけど」
 陽が指の間から息を漏らした。何かを予感してか、何もされていないのに、ふ、と声を出す。舌先で自分の歯をなぞる三月の仕草に、催眠術にでもかけられたかのように頭がぼうっとする。
 立ち上がった三月が、ゆっくり背を向けて歩いて行く。彼の行く先には、趣味の悪い血の色のベッドが待っていた。
 陽はそのとき初めて、三月の背中に大きな傷痕が残っていることを知った。ちょうど羽でも生えていたかのような肩甲骨の位置に、左右にふたつ、生々しい縫合の形跡があった。
 彼が歩くたびに手に持った紐が床に垂れて、尻尾のようにくねくねと動いた。
 羽と、尻尾と、あと角でもあったら、この血の色の髪をした黒い影はまるで――
 この悪魔について行ってしまって良いのか、立ち止まって考える時間はあった。いくらでも引き返す機会はあったはずだった。一度落ちてしまったらもう二度と戻れない予感が、ずっとしていたのだ。
 しかし、陽は立ち上がった。
 裸足で、ふらつく足で進み出す。
 先にシーツに腰掛けた三月の元に着くと、優しい力で手を引かれて導かれた。腫れ物を扱うようにそうっと、清潔な布地の上に寝かされて、シャツを剥がされて全裸にさせられた。対して三月はまだスラックスを履いていたから、恥ずかしくなって顔を反らした。
 ふっと、部屋の明かりがしぼられる。三月は仰向けに横になった陽に跨がり、ホテルに準備してあったテープを一巻きと、新しい避妊具を持った。深いキスが降ってきて、そのまま、両方の手首を頭の上でシーツに押し付けられる。万歳のような格好になってしまい、その無防備さが少し不安だった。
「ちょっと縛ってみようか?」
 三月は穏やかに微笑んだ。
「手、上げてて」
 囁くと、陽は従順に両腕を頭上に上げ続けた。メッシュ素材でできた柔らかいボンデージテープで、陽の目元をぐるりと覆う。それから頭上の手首も合わせて縛り、縛った先をベッドヘッドに結んで固定した。
「大丈夫? 痛くない?」
 と、三月は陽の額に口付けた。
 陽は早くも胸を上下させ、細かいペースで呼吸していた。
「っ、はい、でも、何も見えない……」
「そりゃあそうだろ。何も見えなくしてるんだから」
 布一枚羽織っていない肢体を、舌先でつーっと撫でる。陽がおもしろいくらい敏感に反応して呼吸を乱すので、愉快で可愛くてどうしようもなかった。触るだけで絶頂を迎えてしまいそうだ。
「陽」
 三月は手のひら全体で陽の脇腹を撫で上げた。
「縛られるの、好きなんだ? 目隠しも?」
「……っ、知らなかっ……」
「知らなかった? 自分でも」
 陽が細かい息をしながら小さく頷く。
 三月は微笑んだ。
「じゃあ、一緒に知っていこうか。運良く俺はこっち側が好きだ。こうやって縛ったり、」
 と、陽の手首を結ぶテープを握る。
「目隠しさせたりするほうが」
 と、今度は陽の両目を覆うテープにキスをする。
「あとは何をしてほしい?」
「……っ」
 陽は胸を大きく上下させていた。もう抑えきれないほど興奮しているようで、シワの寄った眉間に汗を浮かべて、覆われた目を三月の声がするほうに懸命に向けている。
「ぜ、全部、全部してください」
「全部?」
「っ先輩、に、めちゃくちゃにされたいです……」
 蚊の鳴くような声だった。
 三月はその唇を軽く噛んで(陽が鼻から高い声を上げた。)、ぺろりと舐め上げる。
「ご褒美みたいなことを言ってくれるんだな?」
 掠れそうに低い声でそう言われると、陽は全身に鳥肌を立てて、どこにも触られていないのに短い嬌声を漏らした。
 陽の視界がしっかり塞がれていることを確認し、三月はいったんベッドから離れた。傍から人の気配がなくなったことに不安になったのか、陽がぎしりとベッドを揺らす。
 三月は静かに隣の部屋へ行き、冷蔵庫へ向かった。奥に冷やしておいた小瓶を取り、手にして部屋へ戻る。陽がシャワーを浴びている間にしまっておいたものだった。さらに言うと、以前、よく知らない公園で入手してきたものだった。ラベルの記載を確かめる。
 二十三歳、男性、首。
 三月が近くに戻ってきたことを察して、ほうと息をついた陽に跨がり、瓶を開けた。そして、その胸の上で瓶を横に倒し、中身をとろりと垂らした。小麦色の肌に鮮やか過ぎる赤が伸びて、滑り落ち、赤いシーツにさらに赤く、染みを作った。
 ヒヤリとした何かの液体を垂らされたことを感じた陽が、びくりと身じろぐ。鎖骨の窪みにできた血溜まりが揺れて、それを見下ろしているとじわじわと高揚してきた。伸びてきた犬歯が唇に触れたのを感じる。
 陽が、見られている羞恥に耐えるように足をもぞもぞさせた。
「先輩……何してるんですか、これ、なに」
 三月は答えない。
 上体を倒し、覆いかぶさる。軽くキスをしてから唇を滑らせ、首から下へ移動していくと、さっきこぼした血液に舌が触れてビリッとした。
 三月の肩が揺れる。体中が痺れる。爪から肌から何もかも、新陳代謝が急激に進むような電撃が走り、つい声が漏れた。はああ、と吐いた息が陽の肌に当たって跳ね返り、自分の口に当たった。舌の腹を存分に押し当てて液体を舐め、飲んで、余すことなく吸い取った。
 この肌を切り裂けば、こんな似た他の誰かの血よりももっと、細胞の一つ一つまで酔わせてくれるほど素晴らしいものが溢れ出すことは、わかっている。確実に。陽の血は絶対に何よりも極上のはずだった。こんな匂いを他で嗅いだことがないのだ。他人の血を皮膚にこぼされようと、その奥できらめく宝石みたいな甘さ。匂いだけで恍惚とするのに、実際に舌でこれを感じたら、一体どうなってしまうのだろうか。
 人間の血には当然、旨い不味い、好みの違い、与えてくれる力量の差などがあるが、吸血鬼にとってのヒトの血液はまさに、生命の源なのだった。人間で例えるなら、水だ。肉体の維持のためには野菜や肉を摂取する必要があるが、水も毎日のように飲まなくてはならない。
 ただ、透明無色のように思える水にも味はあるし、まるでお伽話の中の若返りの水のように、口をつけただけで驚くほどのいのちを与えてくれるものも、ある。
 三月は、自分にとって陽の血がそれなのではないか、という思いがどうしても拭えない。
 それを飲んだ暁には、気が触れるほど興奮して、陽を死体にするほど喉を潤す自分の姿が、容易に想像できる。それはそれはもう、他にない幸福だろう。百年に一度巡り会うかわからない、腹の底から欲してしまうものを自分の血肉の一部にした陶酔感、を、正気のまま受け入れられるはずがない。
 上半身をこれでもかというほど舐められて喘いでいた陽が、上がった呼吸の合間に弱々しく、声をかけた。
「先輩、」
「ん……?」
 人間の血液がもたらす興奮状態でどっと汗をかいた三月は、湿気で額に貼りついた前髪をかき上げ、再び陽に覆いかぶさった。射精も何もしていないのに、息が上がって仕方ない。
「触ってください……あの、下……」
 言われて見てみれば、陽の性器は完全に持ち上がっているだけでなく、先走りが竿を伝ってぴくぴく動いていた。手のひらで包み込み、漏れた液を利用して親指の腹で先端をぐりぐり擦ると、待っていた快感が与えられた陽が大きく息をついた。
 その吐息が顔にかかる距離で、テープをしっかり巻かれた彼を見つめる。髪の影で妖しく光る三月の目は、深いルビー色に染まり、下唇に当たる犬歯は鋭利に尖っていた。
「あ……っ、ん」
 腫れたアナルに指を入れると、陽はひときわ大きく鳴いた。脚を開かせて、その間に腰を収める。飲んだ血液のせいでこれまでにないほど昂ぶり、硬くなった性器にコンドームをかぶせ、じりじりと腰を進める。根元まで飲み込むと、陽は満ち足りたように息をついた。
「先輩、せんぱ……」
 いつ飲める? いつ食べようか?
 この人間を。この絶品を。
「三月先輩……、すき、好きです……」
 三月の手が止まった。
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社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。 無表情・無駄のない所作・隙のない資料―― 完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。 けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。 イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。 毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、 凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。 「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」 戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。 けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、 どこか“計算”を感じ始めていて……? 狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ 業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!

【完結】社畜の俺が一途な犬系イケメン大学生に告白された話

日向汐
BL
「好きです」 「…手離せよ」 「いやだ、」 じっと見つめてくる眼力に気圧される。 ただでさえ16時間勤務の後なんだ。勘弁してくれ──。 ・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・: 純真天然イケメン大学生(21)× 気怠げ社畜お兄さん(26) 閉店間際のスーパーでの出会いから始まる、 一途でほんわか甘いラブストーリー🥐☕️💕 ・:* ✧.---------・:* ✧.---------˚✧₊.:・: 短期でサクッと読める完結作です♡ ぜひぜひ ゆるりとお楽しみください☻* ・───────────・ 🧸Twitterもぜひ遊びに来てください🫧 ❥❥❥ https://x.com/ushio_hinata_2?s=21 ・───────────・ 応援していただけると励みになります💪( ¨̮ 💪) なにとぞ、よしなに♡ ・───────────・

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