8 / 9
第七話 ユダ
しおりを挟む
「陽」
ゆさゆさと肩を揺らされ、陽は眠りから浮上した。
「陽。起きてくれ」
瑛次だった。
彼は、陽がまだ寝ぼけているうちに早口で続けた。
「今すぐ来てほしいんだ」
起こされた場所は三月のベッドだったが、隣には誰も寝ていなかった。状況が理解できないまま、とりあえず服を着て寝室を後にする。瑛次と一緒にタクシーに乗り込んでやっと気付いたが、まだ深夜だった。
連れて来られたのは、いつか三月や瑛次と一緒に来たクラブだった。まだ人の姿はあり、泥酔した様子の若者が道に座り込んでいたり、歌ったり踊ったりしている集団もいたが、店舗自体は閉店に近付いているようだった。
正面から入り、瑛次の後に続いて、陽も階段を下りていった。そして、地下二階のクロークの目の前を通り過ぎ、スタッフオンリーと書かれた扉をくぐり抜ける。入っていいものか迷ったが、瑛次に手招きされたので先に進んだ。
奥へ行くと、人知れないVIPルームの扉があった。そこが開き、部屋の中が見えた。暗く、赤い照明が点っていた。
陽は、部屋へ入ったすぐの場所で立ち止まった。思わず口元を手で覆う。そこには数人の姿があったが、意識がありそうなのは二人だけだった。ソファーに座ってぐったり咳き込む三月と、心配そうに彼の背中をさするヒスンだ。
吸血鬼二人の手は真っ赤だった。彼らの足元に転がる人間には、手首や首筋に新しい噛み痕があった。
ヒスンは瑛次達の到着に気が付くと、急いで駆け寄ってきた。
「なんで連れて来た!」
と、瑛次に詰め寄りながら、陽を外に出そうとする。
「三月から陽を連れて来るように連絡があった。一体何が」
「いいから今すぐ帰ってくれ。あいつは――」
「陽?」
部屋の入り口で揉み合っていた動きが止まり、声がツンと抜けてくる。
三月は、数時間前に陽の血を飲んだことで満たされて、嗅覚や聴覚が冴え渡っていた。
「そこにいるの? 陽の血のにおいがする」
ヒスンが止めようと伸ばした手をするりとかわし、陽は部屋の奥へと入っていった。ぼんやり赤い暗がりの部屋だったのでわからなかったが、三月はよく見ると、すっかり憔悴した様子だった。髪が乱れて真っ青な顔をしている。
ついさっきまでの、あんなに溌剌としていた彼はどこへいったのか。この短時間で一体なにがあったのか。
気を失っている誰かの体を怖々避けながら、陽は三月に近付いていった。近寄ると、三月は弱った笑顔で陽の手を引いて、血で汚れたソファーの隣に座らせた。
そして、そのまま首に噛みついた。
「先輩……!」
たった数時間前、愛されながら飲まれたときとは、具合が全然違った。ただ体中の血管がビリビリ痛くて、呼吸困難になりそうなほど苦しい。視界が緑や黄色にチカチカ光って、吐きそうになった。
ヒスンが駆け寄ってきて、物凄い力で三月を引き剥がした。
「そんな飲み方したんじゃ、この人間が死ぬぞ」
さすがに、助かった、と思った。どくどく血液が流れ出る首を押さえて、陽は驚いたままよろよろと、三月から距離を取る。
ヒスンが止血してくれた。彼は陽を離れた場所にあった椅子に座らせると、自身は三月の向かいのソファーに座り、重苦しく口を開いた。
「三月、もしかして」
と、額を抱えている三月に言う。
「こいつの血しか飲めなくなったのか?」
こいつと言って差す指が自分に向いていたので、陽は狼狽した。
「えっ?」
「……」
三月には聞こえていないようだった。頭痛に苦しんでいるかのように、額とこめかみを抱えて動かない。
「閉店直前に急に来たと思ったら、手当たり次第代わる代わる血を飲んで、全部吐いて、それでこいつに対してはそれって。こいつの血しか飲めなくなったから、抵抗してこんなことを? だったらもう手遅れだぞ。いくら他の血を飲もうとしたって飲めない。余計に弱るだけだ」
「僕の血しか飲めないって、どういう……?」
「吸血鬼は」
ヒスンは、陽のほうを見ようともしないまま、戸惑う陽の声にかぶせて言った。
「人間を愛してしまうと、その人の血しか飲めなくなるんだ」
つん、と、空気が痛むような沈黙が流れた。
瑛次でさえも動揺して、目を丸く見開いてぽかんとしていた。
三月が、頭を抱えたまま力なく短く笑い、
「壱依兄さんの入れ知恵かよ?」
と言う。
ヒスンは思い詰めた表情でしばらく黙っていたが、やがて、そっと口を開いた。
「俺も人間を愛してたことがあるから、わかるんだ」
その瞳はかつての深い情熱を取り戻したかのように、一心に三月を見つめていた。
「もっとも、俺はその誘惑に耐えられなくて、月に一回くらいこっそり血をもらってた。その子が寝てる間に、痛みがないほど細い針を指先に刺して数滴だけ採ってたんだ。飲み干す誘惑に耐えるのはすげーきつくて、理性を保つために自分で自分の指を噛みちぎったこともあったけど……たった数滴でもすごいんだ、愛する人間の血って。一ヶ月ほかの血を飲まなくてもピンピンしていられた」
三月がゆっくり顔を持ち上げると、ヒスンと目が合った。
ヒスンは複雑な表情筋の使い方をして微笑んだ。
「気付かなかっただろ? 指先の小さい傷なんて」
「……は」
三月が低く掠れた声で言う。
「今さら俺の味方ぶるのはやめてくれ。ヒスン兄さん」
「三月、」
「俺はお前が、俺を食うために人間だった俺を育ててたのを知ってる」
「それは違う。確かに口ではそう言ったけど、俺は――」
「だったら殺してくれればよかった!」
三月が勢い良く立ち上がったので、ソファーの前に転がっていた人間の形をした影が少し飛び上がった。
「人間のうちにさっさと飲み干して、殺せばよかったんだ。なんでそうしなかったんだよ。俺を愛してたから殺せなかったとか言うなら、俺が刺されて死にそうになるまで待たずに、とっとと吸血鬼にしてくれればよかった。俺の意思を確認する時間はたっぷりあっただろ? 俺はお前を本当の兄みたいに思ってたのに、お前が裏切ったんだ」
「三月、落ち着け」
瑛次が三月の震える肩を支え、もう一度ソファーに座らせた。そして隣に腰かけ、背中をさする。
「そう単純な話じゃないのは、お前もわかってるはずだよ。ずっと一人で生きてきたお前とは違って、ヒスンは仲間に助けられながら生きてきたんだ。それも異国の地で。大切な仲間と愛する人間との間で苦しんでたのは、簡単に想像つくだろ」
「……っ違う……。そんなことはどうでもいい……終わったことだ……」
三月は憔悴しきっていた。必死に、陽を視界に入れないようにしている様子だった。
しかし、口では陽の名前を呟いたり、意識が朦朧としているのか、幻覚でも見ているのか、「俺が、俺が悪かったんだ」とか「陽を連れてきてくれ」とか「もうやりたくない、もういやだ……」などと支離滅裂なことを言っていた。
蹲って苦しんでいる三月をただ見ていることに耐えられなくて、介抱したくて、陽が一歩近寄ると、瑛次がそっと首を横に振って見せてきた。
そして、彼は親友に向かっていっそ優しげに言う。
「三月。お前、もう無理だろ」
「……」
「どこかで観念しないと、お前も陽もだめになる」
「……」
「三月」
「……」
「俺が陽を吸血鬼にしようか」
「瑛次」
静かに呼ばれた声に瑛次が振り向くと、いつの間にか、部屋には壱依の姿があった。
彼は重そうなブラックのコートを着込んで、すっかり外出用の準備が整った姿をしていた。腕を組んで、扉を背中で閉めながら、ゆっくりと首を横に振る。
しかし今回ばかりは、壱依相手とはいえ瑛次も折れなかった。
「無害な人間が一人死ぬより、吸血鬼が一人生まれるほうがましです。こんな状態の三月に陽を近付けたら、すぐ飲み干すに決まってます。だったら俺が」
「お前らしくないね、瑛次。あんなに人間を吸血鬼にすることを嫌がってたのに」
「今回の話は別です。このままじゃ三月が陽を殺すか、陽を食うのを我慢した三月が死ぬことになる。それに、陽も仲間になることを望んでるんです。それならどっちかが死ぬ前に……」
瑛次が言葉を止めた。
何かに気付いたように、目を見張る。
「……待ってください」
ただでさえ白い顔をさらに青白くして、低く言った。
「もし三月が陽を飲み干して殺したとして、そのあともずっと三月が陽を忘れられなかったら、三月はどうなるんですか。飲める血を持つ人間がいなくなったら」
沈黙が流れた。どこか遠くで走る救急車の音だけがしている。
三月も顔を上げて、縋るような目で壱依を見た。
「気付いちゃった?」
壱依はわざと軽い調子で言った。
「だから人間には近付きすぎるなって散々言ってきたんだよ。どっちにしろ身の破滅なんだ。最悪ふたりとも死ぬんだから」
「でも、僕が吸血鬼になれば、先輩は……僕は……」
と、陽。
壱依は頷いた。
「吸血鬼同士で愛し合ってる仲間ならたくさんいる。それと同じになるだけだよ。ヒスンだって同じ立場だったでしょ。三月を人間の頃から思ってたけど、吸血鬼になったあとも何も変わらなかったはずだ」
そう言われ、ヒスンはこっくり頷いた。
「俺は三月を吸血鬼にした瞬間、他の人間の血が欲しくなって飲めるようにもなった。多分、同じようになるだろう」
「三月先輩」
陽は三月のほうに向き直り、必死に言った。
立ち上がって背後に来ていたヒスンに、これ以上三月に寄らないようがっちり腕を押さえられていたが、どうでもよかった。
「僕を吸血鬼にしてください。僕だって、意味がわからないまま吸血鬼になりたいなんて言ってるわけじゃない。これは僕の意思です」
「そんな意思、聞いてらんねえよ」
三月は苦渋に満ちた話し方をした。
陽は言い返した。
「先輩だって、人間だった頃、ヒスンさんの仲間になれるんだったら吸血鬼になりたいと思ってたんでしょう?」
三月が息を飲んだのが聞こえた。
陽の声が震える。
「だからさっき、意思を確認する時間はあっただろって言ったんだ。それなら僕の意思だって無視はできないはずです」
「お前が人間の人生を捨ててまでそうする必要がある?」
今度は陽が息を飲む番だった。
「そういうこと……? 死にたいほど愛してるって、僕を綺麗なままにしておきたいって、そういう意味だったんですか? あなたが僕のために餓死するのを、僕が喜ぶとでも思ったんですか? それで、先輩のいない人間としての人生を、僕が幸せに生きていけるとでも? あなたをすっかり忘れて?」
「それに、吸血鬼にされるのは、血を吸われるのとはわけが違う。毒を全身に回さなきゃならないからすごく痛いし、苦しいし、なにより、俺がお前を飲み干すかもしれない」
「覚悟の上です」
「頼むよ、わかってくれ。陽……。俺の牙を見て、それでも愛してると言ってくれた人間はお前だけだ。同じ思いをさせたくない……」
「でも、同じにしてくれないと、もう傍にいられないんです。あなたが死ぬなんて、僕が耐えられない。そうなったら僕はすぐに後を追います。あなたは僕を吸血鬼にしない限り、どちらにしろ僕を殺すことになるんです」
「人を惑わせて騙して食うたびに人でなくなる、あの苦しみを、お前にも味あわせろと? 俺の手で?」
「だったら苦しまないやり方を、先輩が僕に教えてください。やさしい血の飲み方を」
「……そんな……でも」
「そんなに僕を仲間にしたくないなら、あなたに出会う前の僕に戻してください。それができるならの話ですけど!」
陽は今にも泣き出しそうだった。悲愴にも聞こえる声でそう言うと、三月はついに、長いため息をついた。
もう大丈夫だと、陽は思った。ヒスンや瑛次もそう感じたのか、ヒスンは陽を摑まえていた手からすうっと力を抜き、背を軽く押してソファーのほうへ近寄らせ、瑛次は三月の隣のスペースをひとり分、空けた。
陽はゆっくり、三月の隣に腰を下ろした。
乾いて固まってきた血液で汚れた三月の手に触れて、顎に一本垂れていた赤色を拭った。すっかり下りている前髪を指先で避けて、目を合わせる。三月のルビーの目は潤んでいた。
「なんで出会っちゃったんだろ」
三月は笑った。
細かいシワの寄った目尻から透明の液体がつうっと伝って、頬へ滑った。赤い虹彩から透明な液体があふれ出てくるのが不思議で、呪われたように美しかった。
「ごめんな。陽……」
謝らないでほしかったが、謝らないでくださいと言うのも違うと思った。
それなので、されるがままの三月をただ抱き寄せる。
「あなたはもう、僕がいないと生きていけないんですから」
それは「僕はあなたがいないと生きていけない」に同義だったし、「あなたは僕がいないと生きていけない」だって、何も他人の感情に対して確信を持って言ったわけではもちろん、なかった。
しかし、背中に回ってきた三月の手はあたたかく血が通っていて、もうそれ以降、彼が動物のように牙を剥いてくることは二度となかった。
そのとき、バーンと大きな音が響き、扉が勢い良く開いた。
理人だった。
前髪を全開にして息を切らし、そこに立っていた。彼は、思っていたより多くの人物が揃っている状況にびっくりした表情をしたものの、すぐに鋭く告げた。
「ここがバレました。朝には警察がここに来ます。証拠を消して逃げてください」
それを聞くと、ヒスンはすぐさま立ち上がった。そして、すぐに部屋から出て行きどこかへ向かった。
瑛次はズカズカと部屋の奥に踏み入るなり、壁に埋め込んである冷蔵庫を次々に開けて、中に陳列されていた血液の瓶をひとつ残らず鞄にしまい始めた。
「なんでバレたんだ?」
慌ただしくしながら瑛次が怒鳴る。
「ヴァンパイアハンターが警察に情報を漏らしたみたいです」
「ハンター? お前……?」
「まさか、違います!」
理人も手伝いながら声を上げた。
「僕は吸血鬼になりたいんだって、何度も言ってるじゃないですか! この件は、僕を勧誘に来たハンターが話してるのを聞いただけです。あいつら、先輩たちの居場所を突き止めたからって警察にすぐ告げ口したくせに、自分たちはリーダーに知らせたらすぐに突撃するって言ってました。だから知らせるために、僕が急いでここに」
展開についていけない陽は、ソファーに積み上がっていく鞄を落ちないよう支えながら、瑛次に聞いた。
「どこかへ行くんですか?」
「うん」
瑛次が答える。
「俺たちは人間に知られちゃいけない存在だからね。こうなったら毎回、ほとぼりが冷めるまでしばらく海外で姿をくらませるんだ」
「海外? しばらくって、どのくらい……」
「数十年かな」
理人が、壱依のほうを振り向いた。
「警察は朝頃になるでしょうけど、ハンターは今まさに動き出しているはずです。すぐここへ来ます。皆さんは逃げないと」
「逃げないよ」
壱依はそう言い、立ち上がった。小綺麗に着込んでいた上質なコートを脱いで、なんとも優雅にハンガーに肩部分を通してから、入り口付近に配置されていたラックに引っかける。
「ハンターは人間の警察とは違う。俺たちの種族の根絶のために本気で殺してくるんだ。戦うしかないんだよ」
部屋を片付け終えた瑛次も、同様に体を動かす準備を始めた。
ついさっきまで弱り切っていた三月が、いつの間にかしゃんと立って真っ直ぐに陽を見つめていた。
「ちゃんと見てて。陽」
「え……?」
「本気で仲間になろうと思うなら、これから俺たちがすることをちゃんと見てて」
何を、と思っていると、開け放したままの扉の向こうから、数人の足音が駆けて来るのが聞こえてきた。慌ただしい叫び声。鈍い打撃音と、人の呻き声も伸びてくる。それから銃声さえした。応戦しているのは、まさかヒスンだろうか。
まず動き出したのは瑛次だった。膝をバネにして力強く走り出す。目にも留まらぬ速さで動くのを必死に視界に捉えようとしていると、横から誰かにぐいと腕を掴まれて、肘掛け椅子の影に隠すように体を押し込まれた。
三月だった。彼は陽を安全な場所に退避させ、すぐに走り去った。
慌てて、椅子の影から部屋の中のほうへ目を向けると、そこではすでに死闘が繰り広げられていた。
ハンターの誰かしらが持って飛びかかった槍のような長い物を、壱依が奪って折り、背中を蹴り落とす。その手前では瑛次が、首を絞めようとしてきたハンターの腕に噛みついていた。心臓を貫こうと振り上げられた杭を、ヒスンが身軽にかわす。陽以外の血を飲めない三月は、脚を回して蹴ってハンターを倒し、攻撃のために噛み付いては肉片をプッと吐き出し、次の獲物に取りかかっていった。部屋の四方の壁が鮮血で汚れていく。人の姿をした物体がいくつも倒れ、床に伸びた。
息を吸い込んだ喉がひゅうと鳴った。こんな光景は、これまで映画でしか見たことがなかった。映画での表現ですら苦手だった。しかし、目をそらしてはいけないことを、陽は重々わかっていた。これから飛び込もうとしている世界は、まさにこれなのだ。
恐ろしい。むごい。苦しい。逃げたい。
叫び出しそうな口を手で押さえて、涙腺が壊れたようにだらだら流れる涙で咽せながら、陽は精一杯呼吸だけをし続けた。隣に来ていた理人も肩で息をしながら、しかし、ひとときも目をそらさなかった。彼の場合は、見慣れている部分もあったのかもしれない。
永遠に続くかと思われたその時間は、あっという間に終わった。部屋が再び静かになったとき、ハンター側は誰ひとり立っていなかった。
「この死体はどうする?」
と、飛び散って手についた誰かの血を舐めながら、瑛次が言う。
「血液だけ集めたいけど、時間がないな」
すると、少しだけ呼吸を乱したヒスンが言った。
「俺が片付けるよ。店があるからどうせここに残るつもりだったし。お前らは警察が来る前に早く逃げろ」
「ヒスン」
三月が言う。
ヒスンは、自分の名前を呼んだのが三月だと気付くと、くしゃりと笑って肩を叩いた。
「どうせまた会えるだろ。五十年後くらいかな」
そしてヒスンは、三月の背後、数メートル離れた壁際で座り込んでいる人間のほうへ視線を投げた。
促された三月が振り返った。
陽と視線が絡み合う。
理人がじっと見上げる中、陽は立ち上がり、血の溜まったほうへ歩き出した。靴の底に、まだあたたかい血液が染みてくる。雨上がりの午後のように、ぴちゃぴちゃと軽快な音が鳴る。このむごすぎる惨状に不釣り合いなその音が、きつく心臓を締め上げるようだった。
一直線に進む先には三月が、返り血を服の方々に散らした姿で待っていた。
濃厚な赤色を口元から胸あたりにまで伝わせて、向かってくる陽を静かに見つめたまま、血溜まりの中心に立っている。背中に黒い翼が見えるようだった。もがれて傷になっているはずのそれが、カラスの羽が舞うように周囲に黒色を降らせて、ゆっくり羽ばたいている。
この悪魔について行ってしまって良いのか、立ち止まって考える時間はあった。いくらでも引き返す機会はあったはずだった。一度落ちてしまったらもう二度と戻れない予感が、ずっとしていたのだ。だってこの人の瞳には毒があった。出会いをなかったことにするには、この因果性の中であまりにも存在が強烈で、寂寥的すぎた。
陽は足を止めなかった。
ぼうっと妖しく光るルビーの瞳が見える位置まで近付き、悪魔をぎゅうと強く抱きしめた。
「一緒に行きます」
しぼり出した声でそう告げる。
それを聞いた三月は、一度深呼吸をして体を離すと、泣き出しそうな顔で陽にキスをした。
そのまま唇を下へ滑らせる。三月の唇と歯を汚していた血液が陽の顎に、首筋に伸びて、そこを汚した。陽は目を閉じた。後頭部を後ろに倒し、喉を反り返らせる。三月は牙を立てて、思い切り、陽の動脈に噛みついた。
陽が大きく息を吸う。
両肩がびくりと大きく跳ねた。
瞬時に息が上がる。すぐに痙攣し始めた。
陽は血管を中から針で刺すような全身の痛みと、悪寒、三半規管が狂ったほどの目眩と、脳が急激に膨張して中から頭蓋骨を割りそうになっているかのような頭痛に襲われた。心音だけがやけに落ち着いているのを感じ、気持ちが悪くて吐き気がした。どくどくどくと鳴っていた鼓動が、次第に、と……、と……、と遅く弱くなっていき、このまま心臓の動きが止まるのではないかという耐えられない恐怖に陥った。指先まで痺れてきて、筋肉に力が入らなくなってくる。自分が叫び声のような呻き声のような、悲痛な声を出しているのはわかったが、何をどうすることもできなかった。
三月は、立っていられなくなった陽の体を、支えながら床に横たえた。その間も、首に噛みついたまま決して離さなかった。
真っ赤な髪が汗でぐっしょり濡れる。こめかみから汗がにじみ、垂れる。ぐっと眉間に寄ったシワにも汗が伝い、睫毛に伝った。ごく、ごく、と嚥下音が鳴る。陽の爪が三月の背中に食い込んで、血を流させた。
やがて、その爪がふっと落ちていった。
陽は全身から力を失い、失神した。
十分そうしたと判断した三月は、陽の四肢をゆっくり床に下ろして噛み痕を塞ぎ、止血した。全力疾走してきたかのように、呼吸が荒くなっていた。頭部を金槌で叩かれるような頭痛が引かず、吐き気がする。
ふらついて仕方ないので、陽の横たわるすぐ傍の床に手をつくと、そこに溜まっていた血液で手の平が濡れた。目眩のひどい視界で見てみれば、陽の髪は血に浸っていて、グラデーションのように先端が血の色に染まっていた。
「あの子は還ってきたんだね」
遠目に二人を眺めていた壱依が、顎に手を添えてその目を細めながら、隣にいた瑛次にしか聞こえない程度の声量で呟いた。
瑛次はその横顔を見た。
「あの子は、なんですって?」
「ううん」
壱依は瑛次に話しているというより、その場にいる見えない誰かに思考の方向性を確認しているかのように話し続けた。
「俺には変化させることも、抵抗することもできないんだ。こうなるのは、もう在ることだったんだから。あの子も感じていたのかもしれないね」
「……壱依兄さん?」
「瑛次」
壱依は不可解なほどすっきり微笑み、言った。
「あとは理人だね」
「それはつまり、理人のことも仲間にしろと?」
「あの子、もう成人したんでしょ?」
「はい」
「じゃあ早めに。ハンターを殺す手間は少ないほうがいいからねえ。それに、三月は今後しばらく、つきっきりで陽の教育係をやるだろうし、今から日本を離れるとなると人手は多くあって困らないよね」
「あの子は俺がやります」
瑛次はすぐ応答した。
「理人は俺のせいで吸血鬼になるって決意したんだ。俺が兄になるのが一番理にかなってる。それで、五人で出発しましょう」
壱依は満足そうに頷いた。
「三月」
出発の合図を言おうとして三月を振り向いた時には、彼はすでに苦痛の時間を乗り越えたようだった。しかし、さっきまでと同じ格好のまま、倒れている体を見つめ、地面に手を突いていた。
陽が気がついたのだ。
「陽」
ゆっくりと、重い瞼が上がる。
そこから覗いた濡れた陽の虹彩は、じんわりと充血したような赤に染まっていて、何度か瞬きを繰り返すうちにそれはどんどん透き通っていった。燃えるルビーだった。
彼はしばらくぼんやりと天井を見上げていたが、やがて頭ごと横にずらして、自分を覗き込む姿を捉えた。
「気分はどう?」
三月が聞く。
陽は何度か唾液を飲み込み、口内の細胞が何を欲しているのか探るように舌を動かした。
そして、薄く微笑む。
「喉が渇きました」
ゆさゆさと肩を揺らされ、陽は眠りから浮上した。
「陽。起きてくれ」
瑛次だった。
彼は、陽がまだ寝ぼけているうちに早口で続けた。
「今すぐ来てほしいんだ」
起こされた場所は三月のベッドだったが、隣には誰も寝ていなかった。状況が理解できないまま、とりあえず服を着て寝室を後にする。瑛次と一緒にタクシーに乗り込んでやっと気付いたが、まだ深夜だった。
連れて来られたのは、いつか三月や瑛次と一緒に来たクラブだった。まだ人の姿はあり、泥酔した様子の若者が道に座り込んでいたり、歌ったり踊ったりしている集団もいたが、店舗自体は閉店に近付いているようだった。
正面から入り、瑛次の後に続いて、陽も階段を下りていった。そして、地下二階のクロークの目の前を通り過ぎ、スタッフオンリーと書かれた扉をくぐり抜ける。入っていいものか迷ったが、瑛次に手招きされたので先に進んだ。
奥へ行くと、人知れないVIPルームの扉があった。そこが開き、部屋の中が見えた。暗く、赤い照明が点っていた。
陽は、部屋へ入ったすぐの場所で立ち止まった。思わず口元を手で覆う。そこには数人の姿があったが、意識がありそうなのは二人だけだった。ソファーに座ってぐったり咳き込む三月と、心配そうに彼の背中をさするヒスンだ。
吸血鬼二人の手は真っ赤だった。彼らの足元に転がる人間には、手首や首筋に新しい噛み痕があった。
ヒスンは瑛次達の到着に気が付くと、急いで駆け寄ってきた。
「なんで連れて来た!」
と、瑛次に詰め寄りながら、陽を外に出そうとする。
「三月から陽を連れて来るように連絡があった。一体何が」
「いいから今すぐ帰ってくれ。あいつは――」
「陽?」
部屋の入り口で揉み合っていた動きが止まり、声がツンと抜けてくる。
三月は、数時間前に陽の血を飲んだことで満たされて、嗅覚や聴覚が冴え渡っていた。
「そこにいるの? 陽の血のにおいがする」
ヒスンが止めようと伸ばした手をするりとかわし、陽は部屋の奥へと入っていった。ぼんやり赤い暗がりの部屋だったのでわからなかったが、三月はよく見ると、すっかり憔悴した様子だった。髪が乱れて真っ青な顔をしている。
ついさっきまでの、あんなに溌剌としていた彼はどこへいったのか。この短時間で一体なにがあったのか。
気を失っている誰かの体を怖々避けながら、陽は三月に近付いていった。近寄ると、三月は弱った笑顔で陽の手を引いて、血で汚れたソファーの隣に座らせた。
そして、そのまま首に噛みついた。
「先輩……!」
たった数時間前、愛されながら飲まれたときとは、具合が全然違った。ただ体中の血管がビリビリ痛くて、呼吸困難になりそうなほど苦しい。視界が緑や黄色にチカチカ光って、吐きそうになった。
ヒスンが駆け寄ってきて、物凄い力で三月を引き剥がした。
「そんな飲み方したんじゃ、この人間が死ぬぞ」
さすがに、助かった、と思った。どくどく血液が流れ出る首を押さえて、陽は驚いたままよろよろと、三月から距離を取る。
ヒスンが止血してくれた。彼は陽を離れた場所にあった椅子に座らせると、自身は三月の向かいのソファーに座り、重苦しく口を開いた。
「三月、もしかして」
と、額を抱えている三月に言う。
「こいつの血しか飲めなくなったのか?」
こいつと言って差す指が自分に向いていたので、陽は狼狽した。
「えっ?」
「……」
三月には聞こえていないようだった。頭痛に苦しんでいるかのように、額とこめかみを抱えて動かない。
「閉店直前に急に来たと思ったら、手当たり次第代わる代わる血を飲んで、全部吐いて、それでこいつに対してはそれって。こいつの血しか飲めなくなったから、抵抗してこんなことを? だったらもう手遅れだぞ。いくら他の血を飲もうとしたって飲めない。余計に弱るだけだ」
「僕の血しか飲めないって、どういう……?」
「吸血鬼は」
ヒスンは、陽のほうを見ようともしないまま、戸惑う陽の声にかぶせて言った。
「人間を愛してしまうと、その人の血しか飲めなくなるんだ」
つん、と、空気が痛むような沈黙が流れた。
瑛次でさえも動揺して、目を丸く見開いてぽかんとしていた。
三月が、頭を抱えたまま力なく短く笑い、
「壱依兄さんの入れ知恵かよ?」
と言う。
ヒスンは思い詰めた表情でしばらく黙っていたが、やがて、そっと口を開いた。
「俺も人間を愛してたことがあるから、わかるんだ」
その瞳はかつての深い情熱を取り戻したかのように、一心に三月を見つめていた。
「もっとも、俺はその誘惑に耐えられなくて、月に一回くらいこっそり血をもらってた。その子が寝てる間に、痛みがないほど細い針を指先に刺して数滴だけ採ってたんだ。飲み干す誘惑に耐えるのはすげーきつくて、理性を保つために自分で自分の指を噛みちぎったこともあったけど……たった数滴でもすごいんだ、愛する人間の血って。一ヶ月ほかの血を飲まなくてもピンピンしていられた」
三月がゆっくり顔を持ち上げると、ヒスンと目が合った。
ヒスンは複雑な表情筋の使い方をして微笑んだ。
「気付かなかっただろ? 指先の小さい傷なんて」
「……は」
三月が低く掠れた声で言う。
「今さら俺の味方ぶるのはやめてくれ。ヒスン兄さん」
「三月、」
「俺はお前が、俺を食うために人間だった俺を育ててたのを知ってる」
「それは違う。確かに口ではそう言ったけど、俺は――」
「だったら殺してくれればよかった!」
三月が勢い良く立ち上がったので、ソファーの前に転がっていた人間の形をした影が少し飛び上がった。
「人間のうちにさっさと飲み干して、殺せばよかったんだ。なんでそうしなかったんだよ。俺を愛してたから殺せなかったとか言うなら、俺が刺されて死にそうになるまで待たずに、とっとと吸血鬼にしてくれればよかった。俺の意思を確認する時間はたっぷりあっただろ? 俺はお前を本当の兄みたいに思ってたのに、お前が裏切ったんだ」
「三月、落ち着け」
瑛次が三月の震える肩を支え、もう一度ソファーに座らせた。そして隣に腰かけ、背中をさする。
「そう単純な話じゃないのは、お前もわかってるはずだよ。ずっと一人で生きてきたお前とは違って、ヒスンは仲間に助けられながら生きてきたんだ。それも異国の地で。大切な仲間と愛する人間との間で苦しんでたのは、簡単に想像つくだろ」
「……っ違う……。そんなことはどうでもいい……終わったことだ……」
三月は憔悴しきっていた。必死に、陽を視界に入れないようにしている様子だった。
しかし、口では陽の名前を呟いたり、意識が朦朧としているのか、幻覚でも見ているのか、「俺が、俺が悪かったんだ」とか「陽を連れてきてくれ」とか「もうやりたくない、もういやだ……」などと支離滅裂なことを言っていた。
蹲って苦しんでいる三月をただ見ていることに耐えられなくて、介抱したくて、陽が一歩近寄ると、瑛次がそっと首を横に振って見せてきた。
そして、彼は親友に向かっていっそ優しげに言う。
「三月。お前、もう無理だろ」
「……」
「どこかで観念しないと、お前も陽もだめになる」
「……」
「三月」
「……」
「俺が陽を吸血鬼にしようか」
「瑛次」
静かに呼ばれた声に瑛次が振り向くと、いつの間にか、部屋には壱依の姿があった。
彼は重そうなブラックのコートを着込んで、すっかり外出用の準備が整った姿をしていた。腕を組んで、扉を背中で閉めながら、ゆっくりと首を横に振る。
しかし今回ばかりは、壱依相手とはいえ瑛次も折れなかった。
「無害な人間が一人死ぬより、吸血鬼が一人生まれるほうがましです。こんな状態の三月に陽を近付けたら、すぐ飲み干すに決まってます。だったら俺が」
「お前らしくないね、瑛次。あんなに人間を吸血鬼にすることを嫌がってたのに」
「今回の話は別です。このままじゃ三月が陽を殺すか、陽を食うのを我慢した三月が死ぬことになる。それに、陽も仲間になることを望んでるんです。それならどっちかが死ぬ前に……」
瑛次が言葉を止めた。
何かに気付いたように、目を見張る。
「……待ってください」
ただでさえ白い顔をさらに青白くして、低く言った。
「もし三月が陽を飲み干して殺したとして、そのあともずっと三月が陽を忘れられなかったら、三月はどうなるんですか。飲める血を持つ人間がいなくなったら」
沈黙が流れた。どこか遠くで走る救急車の音だけがしている。
三月も顔を上げて、縋るような目で壱依を見た。
「気付いちゃった?」
壱依はわざと軽い調子で言った。
「だから人間には近付きすぎるなって散々言ってきたんだよ。どっちにしろ身の破滅なんだ。最悪ふたりとも死ぬんだから」
「でも、僕が吸血鬼になれば、先輩は……僕は……」
と、陽。
壱依は頷いた。
「吸血鬼同士で愛し合ってる仲間ならたくさんいる。それと同じになるだけだよ。ヒスンだって同じ立場だったでしょ。三月を人間の頃から思ってたけど、吸血鬼になったあとも何も変わらなかったはずだ」
そう言われ、ヒスンはこっくり頷いた。
「俺は三月を吸血鬼にした瞬間、他の人間の血が欲しくなって飲めるようにもなった。多分、同じようになるだろう」
「三月先輩」
陽は三月のほうに向き直り、必死に言った。
立ち上がって背後に来ていたヒスンに、これ以上三月に寄らないようがっちり腕を押さえられていたが、どうでもよかった。
「僕を吸血鬼にしてください。僕だって、意味がわからないまま吸血鬼になりたいなんて言ってるわけじゃない。これは僕の意思です」
「そんな意思、聞いてらんねえよ」
三月は苦渋に満ちた話し方をした。
陽は言い返した。
「先輩だって、人間だった頃、ヒスンさんの仲間になれるんだったら吸血鬼になりたいと思ってたんでしょう?」
三月が息を飲んだのが聞こえた。
陽の声が震える。
「だからさっき、意思を確認する時間はあっただろって言ったんだ。それなら僕の意思だって無視はできないはずです」
「お前が人間の人生を捨ててまでそうする必要がある?」
今度は陽が息を飲む番だった。
「そういうこと……? 死にたいほど愛してるって、僕を綺麗なままにしておきたいって、そういう意味だったんですか? あなたが僕のために餓死するのを、僕が喜ぶとでも思ったんですか? それで、先輩のいない人間としての人生を、僕が幸せに生きていけるとでも? あなたをすっかり忘れて?」
「それに、吸血鬼にされるのは、血を吸われるのとはわけが違う。毒を全身に回さなきゃならないからすごく痛いし、苦しいし、なにより、俺がお前を飲み干すかもしれない」
「覚悟の上です」
「頼むよ、わかってくれ。陽……。俺の牙を見て、それでも愛してると言ってくれた人間はお前だけだ。同じ思いをさせたくない……」
「でも、同じにしてくれないと、もう傍にいられないんです。あなたが死ぬなんて、僕が耐えられない。そうなったら僕はすぐに後を追います。あなたは僕を吸血鬼にしない限り、どちらにしろ僕を殺すことになるんです」
「人を惑わせて騙して食うたびに人でなくなる、あの苦しみを、お前にも味あわせろと? 俺の手で?」
「だったら苦しまないやり方を、先輩が僕に教えてください。やさしい血の飲み方を」
「……そんな……でも」
「そんなに僕を仲間にしたくないなら、あなたに出会う前の僕に戻してください。それができるならの話ですけど!」
陽は今にも泣き出しそうだった。悲愴にも聞こえる声でそう言うと、三月はついに、長いため息をついた。
もう大丈夫だと、陽は思った。ヒスンや瑛次もそう感じたのか、ヒスンは陽を摑まえていた手からすうっと力を抜き、背を軽く押してソファーのほうへ近寄らせ、瑛次は三月の隣のスペースをひとり分、空けた。
陽はゆっくり、三月の隣に腰を下ろした。
乾いて固まってきた血液で汚れた三月の手に触れて、顎に一本垂れていた赤色を拭った。すっかり下りている前髪を指先で避けて、目を合わせる。三月のルビーの目は潤んでいた。
「なんで出会っちゃったんだろ」
三月は笑った。
細かいシワの寄った目尻から透明の液体がつうっと伝って、頬へ滑った。赤い虹彩から透明な液体があふれ出てくるのが不思議で、呪われたように美しかった。
「ごめんな。陽……」
謝らないでほしかったが、謝らないでくださいと言うのも違うと思った。
それなので、されるがままの三月をただ抱き寄せる。
「あなたはもう、僕がいないと生きていけないんですから」
それは「僕はあなたがいないと生きていけない」に同義だったし、「あなたは僕がいないと生きていけない」だって、何も他人の感情に対して確信を持って言ったわけではもちろん、なかった。
しかし、背中に回ってきた三月の手はあたたかく血が通っていて、もうそれ以降、彼が動物のように牙を剥いてくることは二度となかった。
そのとき、バーンと大きな音が響き、扉が勢い良く開いた。
理人だった。
前髪を全開にして息を切らし、そこに立っていた。彼は、思っていたより多くの人物が揃っている状況にびっくりした表情をしたものの、すぐに鋭く告げた。
「ここがバレました。朝には警察がここに来ます。証拠を消して逃げてください」
それを聞くと、ヒスンはすぐさま立ち上がった。そして、すぐに部屋から出て行きどこかへ向かった。
瑛次はズカズカと部屋の奥に踏み入るなり、壁に埋め込んである冷蔵庫を次々に開けて、中に陳列されていた血液の瓶をひとつ残らず鞄にしまい始めた。
「なんでバレたんだ?」
慌ただしくしながら瑛次が怒鳴る。
「ヴァンパイアハンターが警察に情報を漏らしたみたいです」
「ハンター? お前……?」
「まさか、違います!」
理人も手伝いながら声を上げた。
「僕は吸血鬼になりたいんだって、何度も言ってるじゃないですか! この件は、僕を勧誘に来たハンターが話してるのを聞いただけです。あいつら、先輩たちの居場所を突き止めたからって警察にすぐ告げ口したくせに、自分たちはリーダーに知らせたらすぐに突撃するって言ってました。だから知らせるために、僕が急いでここに」
展開についていけない陽は、ソファーに積み上がっていく鞄を落ちないよう支えながら、瑛次に聞いた。
「どこかへ行くんですか?」
「うん」
瑛次が答える。
「俺たちは人間に知られちゃいけない存在だからね。こうなったら毎回、ほとぼりが冷めるまでしばらく海外で姿をくらませるんだ」
「海外? しばらくって、どのくらい……」
「数十年かな」
理人が、壱依のほうを振り向いた。
「警察は朝頃になるでしょうけど、ハンターは今まさに動き出しているはずです。すぐここへ来ます。皆さんは逃げないと」
「逃げないよ」
壱依はそう言い、立ち上がった。小綺麗に着込んでいた上質なコートを脱いで、なんとも優雅にハンガーに肩部分を通してから、入り口付近に配置されていたラックに引っかける。
「ハンターは人間の警察とは違う。俺たちの種族の根絶のために本気で殺してくるんだ。戦うしかないんだよ」
部屋を片付け終えた瑛次も、同様に体を動かす準備を始めた。
ついさっきまで弱り切っていた三月が、いつの間にかしゃんと立って真っ直ぐに陽を見つめていた。
「ちゃんと見てて。陽」
「え……?」
「本気で仲間になろうと思うなら、これから俺たちがすることをちゃんと見てて」
何を、と思っていると、開け放したままの扉の向こうから、数人の足音が駆けて来るのが聞こえてきた。慌ただしい叫び声。鈍い打撃音と、人の呻き声も伸びてくる。それから銃声さえした。応戦しているのは、まさかヒスンだろうか。
まず動き出したのは瑛次だった。膝をバネにして力強く走り出す。目にも留まらぬ速さで動くのを必死に視界に捉えようとしていると、横から誰かにぐいと腕を掴まれて、肘掛け椅子の影に隠すように体を押し込まれた。
三月だった。彼は陽を安全な場所に退避させ、すぐに走り去った。
慌てて、椅子の影から部屋の中のほうへ目を向けると、そこではすでに死闘が繰り広げられていた。
ハンターの誰かしらが持って飛びかかった槍のような長い物を、壱依が奪って折り、背中を蹴り落とす。その手前では瑛次が、首を絞めようとしてきたハンターの腕に噛みついていた。心臓を貫こうと振り上げられた杭を、ヒスンが身軽にかわす。陽以外の血を飲めない三月は、脚を回して蹴ってハンターを倒し、攻撃のために噛み付いては肉片をプッと吐き出し、次の獲物に取りかかっていった。部屋の四方の壁が鮮血で汚れていく。人の姿をした物体がいくつも倒れ、床に伸びた。
息を吸い込んだ喉がひゅうと鳴った。こんな光景は、これまで映画でしか見たことがなかった。映画での表現ですら苦手だった。しかし、目をそらしてはいけないことを、陽は重々わかっていた。これから飛び込もうとしている世界は、まさにこれなのだ。
恐ろしい。むごい。苦しい。逃げたい。
叫び出しそうな口を手で押さえて、涙腺が壊れたようにだらだら流れる涙で咽せながら、陽は精一杯呼吸だけをし続けた。隣に来ていた理人も肩で息をしながら、しかし、ひとときも目をそらさなかった。彼の場合は、見慣れている部分もあったのかもしれない。
永遠に続くかと思われたその時間は、あっという間に終わった。部屋が再び静かになったとき、ハンター側は誰ひとり立っていなかった。
「この死体はどうする?」
と、飛び散って手についた誰かの血を舐めながら、瑛次が言う。
「血液だけ集めたいけど、時間がないな」
すると、少しだけ呼吸を乱したヒスンが言った。
「俺が片付けるよ。店があるからどうせここに残るつもりだったし。お前らは警察が来る前に早く逃げろ」
「ヒスン」
三月が言う。
ヒスンは、自分の名前を呼んだのが三月だと気付くと、くしゃりと笑って肩を叩いた。
「どうせまた会えるだろ。五十年後くらいかな」
そしてヒスンは、三月の背後、数メートル離れた壁際で座り込んでいる人間のほうへ視線を投げた。
促された三月が振り返った。
陽と視線が絡み合う。
理人がじっと見上げる中、陽は立ち上がり、血の溜まったほうへ歩き出した。靴の底に、まだあたたかい血液が染みてくる。雨上がりの午後のように、ぴちゃぴちゃと軽快な音が鳴る。このむごすぎる惨状に不釣り合いなその音が、きつく心臓を締め上げるようだった。
一直線に進む先には三月が、返り血を服の方々に散らした姿で待っていた。
濃厚な赤色を口元から胸あたりにまで伝わせて、向かってくる陽を静かに見つめたまま、血溜まりの中心に立っている。背中に黒い翼が見えるようだった。もがれて傷になっているはずのそれが、カラスの羽が舞うように周囲に黒色を降らせて、ゆっくり羽ばたいている。
この悪魔について行ってしまって良いのか、立ち止まって考える時間はあった。いくらでも引き返す機会はあったはずだった。一度落ちてしまったらもう二度と戻れない予感が、ずっとしていたのだ。だってこの人の瞳には毒があった。出会いをなかったことにするには、この因果性の中であまりにも存在が強烈で、寂寥的すぎた。
陽は足を止めなかった。
ぼうっと妖しく光るルビーの瞳が見える位置まで近付き、悪魔をぎゅうと強く抱きしめた。
「一緒に行きます」
しぼり出した声でそう告げる。
それを聞いた三月は、一度深呼吸をして体を離すと、泣き出しそうな顔で陽にキスをした。
そのまま唇を下へ滑らせる。三月の唇と歯を汚していた血液が陽の顎に、首筋に伸びて、そこを汚した。陽は目を閉じた。後頭部を後ろに倒し、喉を反り返らせる。三月は牙を立てて、思い切り、陽の動脈に噛みついた。
陽が大きく息を吸う。
両肩がびくりと大きく跳ねた。
瞬時に息が上がる。すぐに痙攣し始めた。
陽は血管を中から針で刺すような全身の痛みと、悪寒、三半規管が狂ったほどの目眩と、脳が急激に膨張して中から頭蓋骨を割りそうになっているかのような頭痛に襲われた。心音だけがやけに落ち着いているのを感じ、気持ちが悪くて吐き気がした。どくどくどくと鳴っていた鼓動が、次第に、と……、と……、と遅く弱くなっていき、このまま心臓の動きが止まるのではないかという耐えられない恐怖に陥った。指先まで痺れてきて、筋肉に力が入らなくなってくる。自分が叫び声のような呻き声のような、悲痛な声を出しているのはわかったが、何をどうすることもできなかった。
三月は、立っていられなくなった陽の体を、支えながら床に横たえた。その間も、首に噛みついたまま決して離さなかった。
真っ赤な髪が汗でぐっしょり濡れる。こめかみから汗がにじみ、垂れる。ぐっと眉間に寄ったシワにも汗が伝い、睫毛に伝った。ごく、ごく、と嚥下音が鳴る。陽の爪が三月の背中に食い込んで、血を流させた。
やがて、その爪がふっと落ちていった。
陽は全身から力を失い、失神した。
十分そうしたと判断した三月は、陽の四肢をゆっくり床に下ろして噛み痕を塞ぎ、止血した。全力疾走してきたかのように、呼吸が荒くなっていた。頭部を金槌で叩かれるような頭痛が引かず、吐き気がする。
ふらついて仕方ないので、陽の横たわるすぐ傍の床に手をつくと、そこに溜まっていた血液で手の平が濡れた。目眩のひどい視界で見てみれば、陽の髪は血に浸っていて、グラデーションのように先端が血の色に染まっていた。
「あの子は還ってきたんだね」
遠目に二人を眺めていた壱依が、顎に手を添えてその目を細めながら、隣にいた瑛次にしか聞こえない程度の声量で呟いた。
瑛次はその横顔を見た。
「あの子は、なんですって?」
「ううん」
壱依は瑛次に話しているというより、その場にいる見えない誰かに思考の方向性を確認しているかのように話し続けた。
「俺には変化させることも、抵抗することもできないんだ。こうなるのは、もう在ることだったんだから。あの子も感じていたのかもしれないね」
「……壱依兄さん?」
「瑛次」
壱依は不可解なほどすっきり微笑み、言った。
「あとは理人だね」
「それはつまり、理人のことも仲間にしろと?」
「あの子、もう成人したんでしょ?」
「はい」
「じゃあ早めに。ハンターを殺す手間は少ないほうがいいからねえ。それに、三月は今後しばらく、つきっきりで陽の教育係をやるだろうし、今から日本を離れるとなると人手は多くあって困らないよね」
「あの子は俺がやります」
瑛次はすぐ応答した。
「理人は俺のせいで吸血鬼になるって決意したんだ。俺が兄になるのが一番理にかなってる。それで、五人で出発しましょう」
壱依は満足そうに頷いた。
「三月」
出発の合図を言おうとして三月を振り向いた時には、彼はすでに苦痛の時間を乗り越えたようだった。しかし、さっきまでと同じ格好のまま、倒れている体を見つめ、地面に手を突いていた。
陽が気がついたのだ。
「陽」
ゆっくりと、重い瞼が上がる。
そこから覗いた濡れた陽の虹彩は、じんわりと充血したような赤に染まっていて、何度か瞬きを繰り返すうちにそれはどんどん透き通っていった。燃えるルビーだった。
彼はしばらくぼんやりと天井を見上げていたが、やがて頭ごと横にずらして、自分を覗き込む姿を捉えた。
「気分はどう?」
三月が聞く。
陽は何度か唾液を飲み込み、口内の細胞が何を欲しているのか探るように舌を動かした。
そして、薄く微笑む。
「喉が渇きました」
10
あなたにおすすめの小説
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
マンスーン
BL
王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
俺以外美形なバンドメンバー、なぜか全員俺のことが好き
toki
BL
美形揃いのバンドメンバーの中で唯一平凡な主人公・神崎。しかし突然メンバー全員から告白されてしまった!
※美形×平凡、総受けものです。激重美形バンドマン3人に平凡くんが愛されまくるお話。
pixiv/ムーンライトノベルズでも同タイトルで投稿しています。
もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿
感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_
Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109
素敵な表紙お借りしました!
https://www.pixiv.net/artworks/100148872
入社1ヶ月のワンコ系男子が、知らずのうちに射止めたのはイケメン社長!?
monteri
BL
CM制作会社の新入社員、藤白純太は入社1ヶ月で教育係の先輩が過労で倒れたため、特別なクライアントの担当を引き継ぐことになる。
そのクライアントは、女子禁制ミーハー厳禁の芸能事務所だった。
主人公の無知で純なところに、翻弄されたり、骨抜きにされるイケメン社長と、何も知らない純太がドキドキするお話です。
※今回の表紙はAI生成です
※小説家になろうにも公開してます
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
異世界オークションで売られた俺、落札したのは昔助けた狼でした
うんとこどっこいしょ
BL
異世界の闇オークションで商品として目覚めた青年・アキラ。
獣人族たちに値踏みされ、競りにかけられる恐怖の中、彼を千枚の金貨で落札したのは、銀灰色の髪を持つ狼の獣人・ロウだった。
怯えるアキラに、ロウは思いがけない言葉を告げる。
「やっと会えた。お前は俺の命の恩人だ」
戸惑うアキラの脳裏に蘇るのは、かつて雨の日に助けた一匹の子狼との記憶。
獣人世界を舞台に、命の恩人であるアキラと、一途に想い続けた狼獣人が紡ぐ、執着と溺愛の異世界BLロマンス。
第一章 完結
第二章 完結
竜帝陛下の愛が重すぎて身代わりの落ちこぼれ薬師は今日も腰が砕けそうです 〜呪いを解いたら一生離さないと宣言されました〜
レイ
BL
「死ぬ覚悟はできています。でも、その前に……お口、あーんしてください」
魔力を持たない「無能」として実家で虐げられていた薬師のエリアン。
彼に下されたのは、触れるものすべてを焼き尽くす「死の竜帝」ヴァレリウスへの、身代わりの婚姻だった。
伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい
マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。
最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡)
世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。
経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!
中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。
無表情・無駄のない所作・隙のない資料――
完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。
けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。
イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。
毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、
凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。
「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」
戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。
けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、
どこか“計算”を感じ始めていて……?
狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ
業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる