やさしい咀嚼

加藤

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第六話 ヘル

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 夢を見ていたような数ヶ月間だった。
 三月が陽の人生に現れてからというもの、時計の針の進み具合が遅くなったのではないかと感じるほど、濃密で非現実的なときを過ごした。それが過ぎてしまうと空虚な日々しか残らない。
 今週最後の講義を受けたあと、陽はぼんやりキャンパス内を歩いていた。帰るつもりだったが、足はその方向へ向かいたくなさそうだった。空腹なのに何も食べたくない。寒いのに温まりたくない。……
 辺りはもう暗い。隣の学部の棟から友人らと連れ立って出てきた同級生とすれ違ったが、その会話が、彼氏がどうのこうの、バイトがどうのこうのと盛り上がっているようで、陽は妙に沈んだ気持ちになりながら通り過ぎた。
 その後、たまたま准教授と鉢合わせて、楠木さんは相変わらず成績優秀で大変素晴らしい、と褒めちぎられたが、心が晴れることはなかった。勉強に打ち込んで気を紛らすしかできないだけなのだ。
 まるで、たったひとりで、似た見た目の全く別の世界に来てしまったようだった。吸血鬼がどうだとか、血液がどうなんていう話のほうがよっぽど作り物めいているのに、戻ってきた正常な日常のほうがむしろ、間違っていると感じてしまう。
 大学の学期が移り、時間割が変動して履修科目も変わったせいで、陽と瑛次が一緒に受けていた授業がなくなった。だから陽が主に通うキャンパスで瑛次の姿を見ることはなくなった。もともと学年が違うし、お互いどこかのサークルに所属しているわけでもないし、こうなってしまうと共通の教授もいないし、繋がりはぷつりと切れたように思われた。
 三月は、ラインで連絡しても既読になることはなかった。カフェのシフトがないはずの時間帯に一度だけ電話もしたが、コール音が延々と鳴り響くだけだった。
 カフェに行ってみたこともあった。三月だけでなく理人の姿も見当たらなかったから、前に彼らと同じシフトで働いていたのを見たことがある女子大学生に声をかけ、三月や理人のことを聞いてみたら、二人ともバイトを辞めてしまったと言っていた。
 三月のマンションに行ってみようかと思ったこともあった。実際、記憶を頼りに近くまで向かったこともあったが、あと少しのところで場所の判断に迷い、辿り着けなかった。
 本当に夢を見ていたのだろうか。
 生活に必要な行動全てに気力をなくした陽は、そんなことまで真剣に考えるほど参っていた。
 気付けば自宅のアパートの玄関に立っている。はっとして、扉を閉めて施錠したものの、鍵を回した格好のまま氷のように動かなくなった。
 ――これで終わりってこと?
 眼球だけが徐々に上向きに動き、玄関の扉を見つめる姿勢になった。
 僕は一体なにをやっているのだろう。
 陽は突然シャキシャキと動き出し、参考書やレポートの類いが詰まっている鞄をベッドに放り投げると、財布と携帯電話だけ持ち出し、クローゼットからダウンジャケットを取り出して羽織った。洗面所の鏡を見る。目の下にクマができていた。
 数秒後には家を後にしていた。情緒が安定しないことには自覚がある。それでも良かった。三月を諦めて生命の色をなくすよりは、三月を追い求めて狂気に飲まれるほうがずっと、ずっと良かった。
 ヒスンのクラブは営業時間前だった。当然、誰もいないし人の気配すらない。
 何も考えずに来てしまった自分が悪い、時間を改めてまた来ようと思い、引き返そうとすると、頭上からおいと呼び止められた。
「お前、こないだ三月といた奴だろ。なにしてる?」
 ヒスンだった。
 彼は、クラブの建物のすぐ隣に建っている雑居ビルの外付け階段の、一階と二階の間の踊り場に立っていて、柵に肘をかけて煙草を吸っていた。髪をセットしていないうえ、疲れたパーカーを雑に来ていたから、仕事前の一服でもしていたのかもしれない。
 陽はヒスンを見上げ、声を張り上げた。
「あなたに会いに来ました」
「俺に?」
 ヒスンは怪訝な表情を隠しもせずに言った。
「俺はお前に用なんてねえけど」
「僕はあるんです。三月先輩のことで」
 ヒスンは苛立っているのも隠さず、ムカムカと紫煙を伸ばした。片方の眉を吊り上げたまま何も言わないので、陽は続けた。
「先輩、元気ですか。どこに行けば会えるでしょうか」
「どこに行こうが会えねえよ。お前は」
「……は?」
「大体、三月の謹慎はお前のせいなんだろ? おとなしくしといたほうが身のためだぞ」
 ヒスンは煙草の火を柵に押し付け、消した。
「これ以上首を突っ込むなって話だ」
 吐き捨てるようにそう言い、ヒスンは背中を見せて手をひらひら振り、二階のほうへ去っていってしまった。あとから、バタン! と、ドアが勢いよく閉められる大きな音がした。
 取り残された陽は口をきつく結んだまま、じっくりと首を下げて、不服そうにしばらくそこに立ち尽くしていた。
 また当てがなくなってしまった。
 どうしよう。
 どうにかして、どんな手段を使ってでも構わないから三月にたどり着きたかった。しかしもう、頼れる先がない。ヒスンには相当嫌われているようだし、壱依の居場所なんて検討もつかない。瑛次の通うほうのキャンパスに、週明けにでも行ってみようか。それか、もう一度三月のマンションを目指してみるか。
 考えをぐるぐる巡らせていて、大勢の人が溢れる空気に触れたくなかったので、電車には乗らず歩いて帰ることにした。時間はかかるが大した距離ではない。
 明るい満月の夜だった。
 ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで歩いていると、やがて人気ひとけのない道に差し掛かった。線路に沿った道を歩いていたので、常に横を電車が往来してはいたが、頼りない街灯だけでは足元は暗く、心細かった。
 パキ、と、背後で音がした。
 つい、ぎくりとして振り返る。誰かの気配がない夜道だったから恐怖を感じたが、音の正体は猫だった。排水溝の上に散乱している小枝を踏み、折った音が、パキパキと鳴っていた。
 やがて猫はすっと闇夜に消えていった。
 そういえば、初めて二人で食事に行ったとき、三月に
「陽ってなんか猫みたいだもんな」
 と言われたことがあった。
 初めて名前を呼ばれてどぎまぎしていたっけ。懐かしい。もう随分と遠い昔の記憶のようだ。
 あのときも、三月先輩は吸血鬼だったわけだ――陽は下唇を噛んだ。最初から僕の血を狙って、僕の誘いに乗ったのだろうか? あの笑顔も、あの夜も、全部が僕の血を飲むためだった? ……本当に?
 瑛次にはああ言われたが、陽は本心から三月に裏切られた気持ちにはなれないでいた。
 だって血を飲めるタイミングなんていくらでもあったはずだった。何度も二人きりで会ったし、セックスだって何回もした、それにどう見ても陽は最初から三月に夢中だったのに、三月もそれを知っていたのに、それを利用しなかったのは他ならぬ三月なのだ。
 最後に夜のカフェで見た三月の、思い詰めた横顔が忘れられない。
 そのとき突然、道端の茂みから成人大の影が躍り出てきて、陽の行く手をバッと阻んだ。街灯の逆光で顔は見えない。ただ、筋肉質な腕を大きく広げながらじりじりと距離を詰めてこられているのはすぐにわかった。
 咄嗟に足を止める。
 直感がまずいと告げていた。
 不審者から逃げようと振り返ると、背中のすぐ後ろにぴったりと張っていた別の男がいた。
 陽は恐怖で息を飲んだ。足が竦んで動けない。逃げ道を探って横を見ても、騒音を立てながら走り去る電車が見えただけで、反対側を見ると、なんともう一人違う影がこちらに向かって来ていた。囲まれた。
 男の一人に背中側から腕を回され、封じ込まれた。喉を絞められて息が詰まる。苦しくて男の腕を叩いたが、びくともしなかった。
 涙で歪む視界の中、正面から飛びかかってきた男が、陽の反応を楽しむように口角を上げたのが見えた。男は刃物を持っていた。
「――っ!」
 殺される、と目をつむった瞬間、音もなく時が止まった。
 ゴン、ドサ、という重量のある鈍い音がして、「なんだ!」と男のうちの一人が叫んだと思ったら、ボキッという嫌な音がすぐ背側で聞こえた。男たちの悲鳴が上がる。次の瞬間には、三人は一目散に駆けて逃げ去っていた。
 急に呼吸ができるようになって、陽は咳き込みながら地面に膝をついた。その背中をさすってくれる手がある。
 隣を見た瞬間、陽は目を見開いたまま、ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「……みつ、き……先輩……っ」
「ここのテリトリーの奴らじゃないな」
 三月は陽の横にしゃがんで、何度も背中を撫でてくれながら、男たちが逃げていった方向を睨んでいた。
「吸血鬼と会ったあとは、吸血鬼から狙われやすいから気をつけたほうがいい。ああやって他の縄張りの奴らが襲ってきて、人間を殺して、関係性を口実にこっちの縄張りのせいにするんだ」
 三月は重く語った。
「知識は積み重なっていくけど、認識は上書きされるものだ。――って、瑛次がよく言うけど。ああいう乱暴なことは元人間じゃない奴か、壱依兄さんみたいに人間だった頃の感覚をすっかり忘れた奴しかしない。俺たちがみんなああいう風なわけじゃないから……って、聞いてる? 陽」
「っ、聞いてません」
 陽は歩道にへたり込んでしまった。意思に反して次々にあふれ出てくる涙が、口に入り込んできてしょっぱかった。鼻の奥がキンと痛い。
 三月は複雑な顔で薄く微笑んで、陽の背中を撫でていた手で今度はえりあしを撫でた。
「三月先輩……っ」
 会いたかったと言ってしまえたら楽だった。
 それより、会ってしまってはだめだったと強く感じた。
 狂うほど会いたかったのに、会うと、自分はこの人から離れられるわけがないのだという真実を突きつけられて、その凶暴な結果に対峙せざるを得ないのだった。
 三月はしばらく見ないうちに、ずいぶん窶れていた。頭上から静かに降り注ぐ街灯の蛍光灯と、満月の明かりに照らされて、彼の顔は非常に青白くも見えた。外出を禁じられているからだけにしては、異常な衰弱の仕方だった。
 まさか病気だろうかと思い、怖くなって、何も言わないまま三月の肩を抱き寄せた。体温は確かにあったが冷えていた。
 三月はちょっとだけ陽を抱きしめ返したが、すぐに体を引き離した。
「汚れる」
 と、自分の服を指差す。三月の上着には返り血が撥ねていた。さっきの男たちのものだった。よく見ると、頬や額にも赤い点がついていた。
「きったな。同族の血なんて浴びても何も嬉しくないよな」
 そう言い、三月は迷いなく上着を脱いだ。
「僕の家、来ますか」
 小声で陽がそう言うと、三月は乱れた髪を直していた手をピタッと止めた。
「シャワー、貸せます。……」
 沈黙が流れた。
 大泣きして鼻の詰まった声でこんなことを言って、みっともないや情けないなどとごねる余裕はなかった。ただ、いま傍に三月がいることが奇跡のように有り難くて、この時間が一秒でもいいから長くあってほしいと、それだけだった。
 三月は、しゃがんでいた姿勢を崩して陽のように地面に尻をつき、目の前で胡座をかいた。
「お前は、……」
 陽はじっと三月の言葉を待った。
「……お前は逃げないの? 俺から」
「逃げ……? どうして?」
「人間じゃないから?」
 三月は自嘲的に笑った。
 こんなときでも、残酷なほど美しかった。
「瑛次が全部話したんだろ。壱依兄さんがそう頼んだって言ってた」
「頼まれてたんですね。だから瑛次先輩、あんなになにもかも教えてくれたんだ」
「兄さんは今、俺からお前を引き離すのに必死だから」
 と、胡座をかいた膝に肘をかけて、頬杖をつく。
「今のこの状況だって、兄さんに見つかったら殺される」
「そんなことする人には見えませんでしたけど」
「恐ろしいよ、あの人は。すごい人だけど」
 三月は遠い目をした。
「人間の頃の考え方とか感覚は、百年くらいじゃ全然消えない。俺はまだ怪物になりきれてないから、兄さんを見てるとたまに本気で怖くなるよ。お前に対してだって、いつ何されるか予想できたもんじゃない。……」
 三月は陽を見つめて口を閉ざした。
 陽も三月を見つめ返した。
 終電も過ぎたのか、もう電車は通り抜けなくなった。
 人も、猫も、何もいない。
 世界に二人だけ取り残されたみたいだった。
「さっきは助けてくれてありがとうございました」
 陽が囁くように言うと、三月は鼻息だけで吹き出した。
「今言う?」
「言いそびれてたと思って」
「うん」
 陽の指と三月の指が触れた。ピリと電流が走る。
 それからどちらともなく指先を触れ合わせて、絡めた。
「本当に人間じゃないんですね」
「うん」
「本当に、吸血鬼なんだ」
「そうだよ」
「ずっと僕の血を飲みたいと思ってたんですか」
「うん」
「だから僕と一緒にいたの?」
「……」
「だから僕に良くしてくれたの?」
「……」
「先輩?」
「……。確かに最初はそのつもりだった。お前は美味しそうだったし、俺は今までも恋人ごっこみたいなことしながら人間を食ってたから」
「今は? 今も僕の血を飲むために、それだけを狙って、こうして現れたんですか?」
「それに答える前に、俺からも聞いていい?」
「なんですか?」
「陽は俺が好きなの?」
 陽は押し黙った。
 そして数秒の間のあと、じっとりと答える。
「伝わってなかったんですね」
「いや、前そうだったのはわかってるよ。今の話」
「今?」
「俺が吸血鬼だって知ってもそうなの?」
「はい」
「……」
「あなたは、僕の人生の中のあなたのことを見くびりすぎです。ついさっきまで、先輩にどうにか会おうとしてストーカーみたいになってたのに」
 三月は笑った。
 そして、よっこらせと呟きながら立ち上がり、尻についた汚れを手で払った。陽も立った。泣き腫らした目と頭が痛くなってきて、少しふらついた。
「さっきの質問の答えだけど」
 三月が、陽の家の方向に歩き始めながら言った。
「今は違うよ」



 陽の部屋は、大学から一瞬だけ帰ったときの状態のまま放置されていたから、ベッドには参考書やタブレットが飛び出た鞄が放り出してあったし、洗面所の照明もつけっぱなしだった。
 三月には几帳面なところがあるが、この散らかし具合については、今回は見逃してくれた。
 シャワールームの扉を閉めた音がした。
 寝室に入ってきた下着だけの姿の三月が、無言のまま陽をぎゅうと抱き寄せた。陽も同じように腕を回して、頬を寄せた。まだ湯で濡れている肌が内部からほんのりあたたかくて、安堵感に包まれる。背中をさすった指先が、三月の肩甲骨にあるもがれた翼の傷口に触れた。濡れた三月の髪から水滴が垂れ、陽の服の肩口を濡らした。
 陽は、瑛次から聞いた話を思い出していた。
 ――この人が噛みしめてきた孤独は、一体、人間何人分に相当するのだろう。
 生まれた瞬間に捨てられて、拾ってくれる手があったと思ったら、迷路のような大海原にひとり放り出されて、それで、自分の中の人間性を自分で殺しながら這いつくばって生きてきた。百年もの生涯を。
 どうして誰かが隣にいてくれなかったのだろう。陽は、これまで三月が彼自身の百年の人生において会ってきたあらゆる存在の、全てを憎んだ。どうして彼を一人にさせたのか。どうして彼を傷付けたのか。どうして誰か、彼に明るくて広い場所を用意してあげなかったのか!
 いつか言われた「お前だけは俺を裏切っちゃだめだよ」という言葉が、今は痛烈に響く。
 この人を絶対に裏切りたくない。そう強く誓いながら、同時にどうか僕に傷付いてくれと思う。
 陽は、静かに言った。
「僕も吸血鬼になりたいって言ったら、どうしますか」
 三月は陽を抱き締めた格好のまま、しばらく動かなかった。声も発しなかった。
 彼はやがて、体を離すと、床に落ちていたタオルを思い出したように拾いながら言った。
「……何を言い出すのかと思えば」
「そうすれば一緒にいられます。僕が吸血鬼になれば、先輩は僕の血を飲みたいとは思わなくなるでしょう? 我慢して苦しむこともなくなるはずです」
「そりゃそうだけど」
「瑛次先輩も言ってたんです。先輩の傍にいられる方法がひとつないわけじゃないって。それがこの方法だって。僕はそれを望みます。先輩の仲間になって、共に生きていきたいんです」
 三月は数秒間、一切の動きを止めた。高速で何かを考えたようだった。
 そのうち、濡れたタオルを首に引っかけて、口の端を片方持ち上げて笑いながら言った。
「人間のままでいいだろ? 俺が他の人間を食って、お前の血を飲みたいのを我慢すればいいだけなんだから」
「それって、我慢できるものなんですか?」
「ん? できない」
 三月は冗談に笑いながらそう言い、陽に一歩近付いて唇を奪った。
 そして、腰を抱いて爪先を浮かせて横にずれてから、陽の体を仰向けになるよう後ろに倒した。倒された場所にはベッドがあったようで、背中がふわりとシーツに包まれた。
 すぐにその体に跨がって、三月はキスを深めた。陽は三月の首に腕を回して、しっとりと何度も唇をすり合わせて、食んだ。ん、と、鼻から湿った声が漏れる。
 こうしているときだけは、この平安が永遠に続く確信が持てた。数分が一時間に感じる。一生が永遠に感じる。そもそも、ただ人間がそう認識して勘違いしているだけで、時間なんてものは本当は存在しないのかもしれない。
 やがて三月のほうから離れていった。
 陽はそっと目を開けた。冷たい水滴が三月の髪から頬に落ちてきて、肌を伝った。三月はそれにまでキスをして、陽の輪郭を手のひらでそっと撫でた。
 見上げる陽のシャツのボタンをひとつずつ外しながら、首や鎖骨にキスを落としていく。三月が冗談で陽の首筋に歯を立てると、陽の体がピクリと小さく跳ねた。
「怖い?」
 陽は首をぶんぶんと横に振った。
 しかし、しばらく間を置いて、弱く縦に振り直した。
「噛んだら痛みますか?」
「最初だけね」
「あとは痛くない?」
「後半は気持ちいいよ。お前はイきっぱなしになっちゃうんじゃない?」
「えっ?」
「やってみる?」
 もちろん本気ではない。
 しかし、三月をじっと見上げる陽の表情は、本気だった。
「先輩にだったら飲まれてもいいです」
「え?」
「血。僕の血があなたのエネルギーになれるって、普通に幸せだから」
「……そういうことは冗談でも言うな」
 三月は陽に覆い被さったまま、こうべを垂れた。
 二、三度息をつく。
 そして、
「考えただけでこうなるんだから」
 と、再び陽の目を直視した。
 見上げた先を陽がよく見てみると、三月の瞳は見たことのない色素を浮かべていた。
 真っ赤な虹彩だった。髪と同じワインレッド、いやそれよりも濃く深く、充血したようでもあるが、濁ってはおらずむしろ透き通っていたので、ルビーの宝石をそこに埋め込んだかのようだった。縦に長く切れ込んだような瞳孔は、猛禽類の眼球のよう。
 そして、いつの間にか存在していた牙は伸び、下の唇に触れて食い込んでいた。
 三月は元から端正な甘い顔立ちをしていて、ときに可憐な少女のように見える瞬間すらあるほどだったが、今はそれが鋭利な刃になって、その美しさで他人を薙ぎ殺すような攻撃性があった。
 確かに、恐怖は抱いた。
 現に、彼の目尻に触れて横に滑らせた親指は小刻みに震えていたし、逃げたくなって呼吸が乱れた。人間だったはずの姿が人間に近い別の物に突然変異したようで、その異様な存在を前に、これが現実だと飲み込みたくない抵抗感が湧き上がった。
 しかし、逃げるという行為に至るには、これが三月であるという現実の前では理由が足りなかった。
 陽は下から、三月の頬を両手で包んだ。
「綺麗」
 なんて恐ろしくて、哀しくて、きっと綺麗な。
 陽は自分の胃の底のほうから、言い難い感激がじわじわと起きてくるのを感じ取っていた。
「冗談なんかじゃないですよ。僕、本当に、先輩にだったらいいんです」
「……」
「あなたが何者だろうと、あなたがあなたである限り、愛してます」
 その言葉を聞いた三月は何度か唾液を飲み込んで、何度も、言葉を選んで発言をためらった。ようやく声になって出てきた台詞は、吐息だった。
「陽。お前がかわいい。誰よりも。こんなに飲み干したいと思うのに、それよりもっと、お前が健康で生きてるほうがずっといい」
 絞り出すような声だった。
 陽はこの吸血鬼を引き寄せて、できる限りやさしい力で抱擁した。
 それからそっと体を横にさせる。
「今日はこのまま寝ましょう。ね。ゆっくり休んで」
 陽の安いシーツに沈む窶れた三月は、まるで億の価値がつくクラシカルな芸術品が人知れぬ里に置き去りにされた宵のように、背徳的で、退廃的な甘美をたたえたまま動かなくなった。呼吸で上下する胸が痛々しいくらいで、睫毛が小さく震える様は、見つめているこちらも息苦しくなってくるほど弱々しかった。
 どうして三月が衰弱し続けているのか、瑛次からは何も聞かなかった。
「陽」
 三月が呟く。
 もう瞼を持ち上げる気力さえ残っていないようだった。
「おやすみ」
「……おやすみなさい。三月先輩」
 たとえあなたが灰になっても傍にいよう。
 陽は寝ずに、三月の寝顔を見つめ続けた。



 夢にまで陽が出てくるようになって、三月は狼狽する。
 愛しています、僕も吸血鬼になりたいです、なんて、言葉で言われてしまったからには、もう逃れられなかった。金でも永遠の命でもない、他でもないこの俺と一緒にいたいがためだけに、陽は人間を捨てようとしている。呪縛だった。
 ……。
 いいのだろうか?
 こんなに俺に都合が良くて?
 三月は神経質に爪を噛んだ。
 吸血鬼となった陽はどんな調子だろう。きっとあの聡明な雰囲気はそのままに、今以上に色気を湛え、ときに愛らしくときに冷酷なヴァンパイアとなることだろう。
 瑛次のように勉学を続けたがるだろうか。それとも優雅に働くか。長寿の分だけ金は貯まる。三月が趣味程度に気楽にカフェに通勤していたのも、瑛次と二人で遊び歩いていられるのも、全ては貯蓄がたっぷりあるからだが、陽が共に生きるとなると彼もそれで暮らすはずだ。贅沢をさせてやりたいし、望む時間の使い方をさせてやりたい。
 二人で世界旅行なんかに行くのもいいかもしれない。吸血鬼は年齢を重ねるたびに日光に弱くなるから、ビーチや砂漠などには早いうちに行ってしまって、あとの人生でのんびりと行きたい国へ全部行こう。ルーマニアに渡って、元祖吸血鬼の故郷を案内するのもいい。
 きっとあっという間に多言語話者にもなるだろう。記憶力だけではない、体力も跳ね上がるから、これまでは陽が先にへばってしまって三月がいつまでも元気だったセックスも、何時間も続けられるようになるだろう。
 しかし、それらがどんなに喜ばしい進路だろうと、陽に人間としての人生を諦めさせたいとは全く思わなかった。
 それが困った。
 自分はもっと身勝手な性格だと思っていた――三月はのろのろと道を進みながら、ぼんやりと物思いに耽った。
 ここ五十年くらいは欲しいものを我慢した覚えはないし、特に人間に対しては、故意に乱暴な行為を加えることはないにしろ、丁寧に丁重に扱ってきたわけでは全くないのだ。
 それなのに、だ。
 陽に対して、お前も一緒に怪物になってくれとはとても言えなかった。例え愛してると言われても、共に生きたいからそうしてほしいと言われても、彼に短く儚くも尊い人間の命を捨てさせるなんて、耐えられない。
 血を飲み干して殺したくはない、それなのに吸血鬼にもさせたくない、ああ、確かに俺は身勝手だ。……
 一体どこまで続くのかと思われた長すぎる廊下を進み、扉を開くと、広いダイニングルームのテーブルには、ひとりの男性が座っていた。
 ちょうど今、夕食を終えたところのようで、空になった食器を前に白いナプキンで口元を拭いていた。ワイングラスに注がれた血液の赤ワインをくっと飲み干す。上品で美しい男性だった。
「ああ、三月」
 壱依は来客に気付くと顔を上げ、自分の向かい側に座るよう促した。
「よく来たねえ。待ってたよ」
 彼は瑛次や三月、そしてヒスンと比べると日光がずっと苦手で、数分と直射日光を浴びると肌が爛れてしまう。それなので、どの国に滞在していようとこうして地下に住まいを構えて暮らしていた。
 ここに三月を呼び出したのは、他ならぬ壱依本人だった。こっそり陽に会ったことがもうばれたのだろうか、と、三月は気落ちした状態で足取りも重くここへ来た。
 壱依にはとことん敵わない。世界中に目があるようだ。きっと耳もある。兄さんは瞬間移動やタイムリープさえ本当はできるのではないかと、真剣に瑛次と話したことすらあった。
 三月が椅子を引いて腰掛けると、壱依は口元に穏やかな微笑みを浮かべたまま、グラスに赤々とした液体を注いだ。三月は一瞬、嬉々として手を伸ばそうとしたが、思い直して手を引っ込めた。
 壱依はそれを見逃さなかった。
「あれから大丈夫だった? あの子は」
 聞かれているのが陽のことだというのは、すぐにわかった。
「説明できるところまでは話して、黙っててくれるように伝えました。大学には瑛次がいるし、理人とも仲良くなったみたいなので、まあ大丈夫だと思います」
「うん」
「理人はもうすぐ成人しますし、近々――」
「それより、楠木陽の話がしたいんだけど」
 話を反らそうとしたことすら見破られたのか、壱依は即座に話題の軌道を戻した。
「単刀直入に聞くけど、あの子のことはこれからどうするつもりなの?」
 返答に困り、三月は視線を横に追いやった。テーブルに置いてあったフォークの柄を意味もなくいじり、貧乏揺すりを止めない。
「どうって」
「知られたからには野放しにしておけないって言ったよね」
「殺すつもりはないです」
「傍で働かせるってこと? 他のそうしてる人間みたいに、血をくれる契約をして?」
「そうじゃなくて……普通に」
 答えると、壱依は目を伏せてふっと笑った。
「陽とはもう会ってません」
 三月が慌てたように弁明する。
 しょうがない弟だなあ、とでも言うように、壱依はもっと微笑んだ。
 そして、
「重要なことをこれから話すよ」
 と、壱依は小さく話し出した。
「あのね、三月。結論から言うけど……、俺たち吸血鬼は、人間を愛してしまうと、その人の血しか飲めなくなるんだ。他の人間の血を飲もうとしても、どれもまずく感じたり吐いたりして受け付けなくなる。好きになればなるほど、愛せば愛すほど、他の血への拒否反応は強くなって、反対に、愛する相手の血はますます強く欲しくなっていって、いつか堪えきれなくなって全て飲み干してしまう。飲み干して殺したくなければ、吸血を我慢して自分が餓死するしかない。だから俺たちと人間の恋は例が少ないんだ。みんな、最後にはどっちかが死ぬからね」
 壱依の声がずいぶん遠くに聞こえた。
 つむじから爪先まで全てが凍りついた。
 三月は、もう指一本動かせなくなった。
 無理やり目線だけを上げると、壱依がじっと静かにこちらを見つめていた。優しい眼差しが、逆に怖かった。
「心当たりがあるんだね?」
 と、テーブルの上で三月の手の甲に触れる。
「どうりでここのところずっと弱ってると思った。いつから飲めてないの?」
「……」
「じゃあ、つまり、これは採って良かったってことだね」
 トン、と、テーブルの目の前に小瓶が置かれた。
 波打つほどもない少量の赤い液体が、小さな瓶にとっぷり入っていた。しっかり封がしてあるにも関わらず、瞬時にわかった。
 これだ。自分が今、何よりも求めてやまない生命の源。宝石。お伽話の中の若返りの水。
「お前はずっとこの味が知りたかったんでしょ」
 そう言い、壱依は数センチしかない小瓶のコルクを爪で引き抜き、再びテーブルに置いた。
 そして、先ほどは置かなかった他の何かを横にカランと転がす。
「誰の血だと思う?」
 見ると、小瓶の隣にシャネルのピアスが置いてあった。血痕がついている。
 三月は絶句した。
 嘘だろ。――三月の口を使って誰かが言う。
「ちょっ……と、待ってください。これは、」
「食事の時間だよ、三月。ちゃんと座って」
「兄さん!」
 急に言うことを聞いて動くようになった体が、立ち上がり、壱依に噛みつきでもしそうな勢いで叫んだ。
 しかしその声量も威勢も、長男に厳かに目で咎められるとすぐに詰まった。
「座って。三月」
「陽に何をしたんですか」
「三月」
「答えようによっては、いくら兄さんでも許さない」
「聞こえてる? 三月。座りなさい」
 三月は従うしかなかった。
 腰を下ろしながら壱依を睨む。
「答えてください。陽は生きてるんですか」
「必要ない殺しはしない。それが俺たちの決まりなのは、お前もよく知ってるはずじゃない?」
 壱依は椅子に深く寄りかかり、ため息をついた。
「驚いたな。ただの人間の血だよ?」
 そして続ける。
「あの子が自分で俺に会いに来たんだよ。どうやってここを突き止めたのか知らないけど、人間が自分から来るなんて、いい度胸だよね。『注文の多い料理店』かと思った。知ってる? 宮沢賢治」
「よ、陽が、来た?」
「うん」
 壱依は退屈そうに、空の皿の縁を指でなぞって手遊びを始めた。
「僕を吸血鬼にしてくださいって、言いに来たよ」
「え……? それで兄さんは、何て」
「三月に頼みなって言った」
 三月は愕然として口をあんぐり開けた。
「あの子はお前が好きすぎるあまり、どうしてもこの先も一緒にいたくて吸血鬼になりたいんだって。食糧としてじゃなくて、仲間として傍にいたいって言ってたよ。あの子はちょっと変わってるね。頭がいいのに野生動物みたいだし、俺みたいに挑戦的だ」
「だからってなんで俺が」
「逆に聞くけど、瑛次とかヒスンを楠木陽の兄にしても、お前はいいの?」
「陽を吸血鬼にするとは決まってない……」
「そうだね」
 壱依は今度は、鈍く輝くフォークと鋭利なナイフで手遊びし始めた。
「ねえ、俺のかわいい三月」
 ナイフとフォークに目を落としたまま、壱依が言う。
「お前は、楠木陽を吸血鬼にするのが怖いんじゃないの?自分の気持ちが愛なのか食欲なのか、わからないから。楠木陽を吸血鬼にしたとたん興味を失うかもしれない」
「……」
「お前は本当にかわいいねえ」
「からかうのはやめてください、兄さん」
「やだなあ、からかってなんかいないさ」
 壱依は片肘で頬杖をつくと、少し身を乗り出して、もう片方の腕を伸ばして人差し指で三月の顎に下から触れ、軽く持ち上げた。
「俺はね、」
 壱依は切れ長の、毒気があるほど美しい目を細め、三月を見つめた。
「お前のこの綺麗な顔が、人間に敗北して朽ちていく様なんて見たくないんだよ。お前は今みたいにちょっと痩けてても綺麗だけど、もっとはつらつとしていたほうが、もっと愛らしい。人間にうつつを抜かすのもスリルがあって楽しいだろうけど、もうよしたらどう? 自分のあるかわからない愛に懸けて弟を作るより、さっさと食って吸血鬼らしく堂々とすることだ。たった一人の獲物も噛めないなんて、お前らしくない」
 壱依は話し終えると三月を離して立ち上がり、自分の役目は終えたと言わんばかりに歩き始めた。
「どうなろうと、俺はお前を見捨てたりしないよ。兄弟だからね」
 と、扉に手を掛ける。
 壱依はそこで振り向き、思い出したように「そうだ」と呟くと、微笑んで囁くように言った。
「三月、夜の間中ずっと楠木陽の様子を見張るのは本当にやめなさい。ストーカーとやらで人間の警察に逮捕なんて、されたくないでしょ? わかったね?」
 言い残して、彼は靴の音を響かせながら立ち去った。
「……はは。何もかもお見通しってか」
 ひとりになったダイニングルームで、三月は独り言つ。
 小瓶の中で大人しくじっとしている僅かな陽の血が、目に留まる。



 午後の講義の全てを終え、図書館に寄ってから帰ろうと思いながらキャンパスを歩いていると、陽を呼び止める声がかかった。
 キャンパス内にある噴水の向こう側から、大きく手を振って大股でやって来るのは、瑛次の姿だった。角がバラバラに重ねられた書類をたくさん腕に抱えていて、走る動きに合わせて、いつも講義の間だけかけている眼鏡が揺れている。
「陽、久しぶり。よかった。追いついた」
「どうしたんですか」
 二人は並んで歩き出した。夕方のキャンパス内にはぽつぽつ人の姿があり、日暮れの明かりが周辺をオレンジ色に染め上げていた。
「三月から聞いたよ。壱依兄さんのところに行ったんだって?」
「はい。行きました。吸血鬼にしてほしいって言いに」
 陽は瑛次の表情を見た。
「壱依さんには、三月に頼みなって言われました。兄になるなら三月だろうからって。兄になるって、どういうことですか?」
「陽を吸血鬼にするってこと。俺にとっての兄が壱依兄さんなように」
 瑛次は慎重に続けた。
「陽。俺もうっかり、君が吸血鬼になれば三月も君を食べようと思わなくなるなんて言っちゃったけどさ……よく考えたことなんだよな? 後悔はしてほしくなくて」
「そりゃあ考えましたよ、もちろん」
「でも陽、吸血鬼になるってことは、人間に戻れないってことだ。正体を明かすわけにもいかないから、家族とか友達とか、人間だった頃に関わってた人とは縁を切らなきゃいけなくて、もう会えなくなるよ」
「そうですよね」
「いいの? それで」
「はい」
 陽はまっすぐ前を見たまま言った。
「瑛次先輩は気付いてるでしょうけど、僕、友達なんていないんです。昔から、親のことが理由でいじめられてたから、ずっと一人で生きてきました。母にもう会わなくていいなんて、こんなに嬉しいこともない」
 陽の聞いたことのない低い声と内容に、瑛次は言葉を失った。
 陽は一瞬隣を見て、瑛次の様子を窺ったが、彼の様子を見て我に返り、取り繕って続けた。
「確かに先輩たちは人間よりも賢くて、体力もあって、五感も冴えてるかもしれませんけど、人間にだって脳はあるんです。ものを考えることができるのは、吸血鬼だけじゃありません。後悔はしませんよ」
「うん……」
 それでも瑛次は釈然としない様子だった。
 それから、陽は瑛次と一緒に彼らのマンションへ向かった(三月の言っていた同居人が瑛次だったことは、瑛次が教えてくれた)。
 三月は相変わらず家から出られないようで、ダイニングルームのテーブルには瑛次用の夕食がすでに綺麗に並べられていた。お腹をさすり、そこにはいない三月に礼を言いながら席でナイフとフォークを持った瑛次をよそに、陽はまっすぐ階段を上っていった。
 久しぶりの三月の部屋だ。しっかり閉められている三月の寝室の扉を、数回ノックする。すると、中から返事が聞こえてきたので、陽はノブを回して戸を開けた。
 部屋に入った途端、時間が止まったような気がした。吸い込んだ息が震えた。先輩、と呟いた声が、吐息に変わって消えた。
 三月はまるで別人だった。
 クッションにだらりと背中を預けてベッドの上に座っていたが、ただのその姿が、時を忘れて見惚れるほど美しかった。宝石のような肌は露をも弾くようで、後ろへ流した髪は発光しているよう。つい先日に見た今にも枯れそうな荒廃からは程遠く、溢れんばかりの活気と瑞々しさと生命力を湛え、人間離れした艶麗さは、そこに存在があるだけで周囲の命の輝きを吸収しているほどだった。
 陽は、いつかの瑛次の「満たされてる吸血鬼は、きっと人間の目で見てもわかるよ」という台詞を思い出した。もしかして、これが、飢えの状態にない三月の姿なのか。
 一体どれくらい放心していたかわからない。ハッと我に返り、陽は三月に近付いた。
「先輩、先輩」
 ベッドに乗り出し、詰め寄る。
「あなたをそんな風にしたのは誰ですか。誰の血を飲んだの?」
 三月は、陽が連絡もなく自宅にやって来たことには全く驚かず、壱依を気にして陽に会わないようにすることもせず、陽の姿を見遣るとゆっくり瞬きをしただけだった。そのたった一つの動作だけでもう、正面から強風の煽りを受けたような衝撃だった。
 三月は陽の耳朶に触れ、指先で弄んでいたシャネルのピアスを穴に通した。
「せんぱ……」
「どうしたの。ぼーっとして」
「っだって、先輩、が……誰の、誰の血を飲んだんですか」
「わからない?」
「え? わかるわけ……」
「いま俺の目の前にいる人間の血だよ」
 と、うっすら微笑む。
「……まさか」
 陽はまた思い出した。
 壱依の元へ行ったとき、研究のためだとか何とか言われ、少量の血液を採取されたのだった。
「ほんの少ししか採ってないのに。あれだけじゃ満腹になんてなれないんじゃ」
「量だけの問題じゃなかったってことだ。それだけお前の血は最高なんだよ。俺にとって」
 三月は身を起こした。
 体勢を逆転させて、陽を仰向けに寝かせてしまう。枕元にあるつまみを回して照明を落とすと、ダウンライトから僅かに降ってくる明かりで、陽の瞳の中に小さな光の玉ができた。三月はそれを気が済むまで眺めてから、彼に口付けた。
 指を絡ませてシーツに押し付け、沈める。それから、着ていたシャツを脱がせて床に放り投げた。
「壱依兄さんがなんでお前にいい顔しないか、よくわかった。兄さんは俺がかわいいんだ。兄弟だから」
「え……?」
「でも、俺だってお前がかわいい」
 三月は、陽の唇から顎、喉、胸元からヘソまで、肌に触れるか触れないか程度の弱さで舌先をつーっと滑らせた。陽はびくびくと体を跳ねさせた。
「っ、先輩、」
「陽。愛してるよ。お前は俺を綺麗だって言ってくれるけど、俺にしてみれば、お前のほうが何倍も綺麗だ。お前を綺麗で、健康なままにしておきたい」
 そのまま、スラックスの上から陽の性器に口付けて、ジッパーを下ろして下着の上からも同様に触れた。勃起し始めたそこが、じわじわ濡れてきて染みを作っている。身につけていた服を全て剥がしてしまって、脚の間に顔をうずめた。
「陽、もっと脚開いて」
 言うと、陽は照れ臭そうにしながらもそろりと膝の力を緩めた。自分の脚の付け根に舌と唇を滑らせる三月を、顎を引いて見ようとする。
 それから三月は陽のペニスを口と指でたっぷり愛撫して、陽の体から余計な力が抜けて声も漏れ出すと、腰にクッションを敷いてさらに開脚させた。下半身が溶けてしまいそうなほど、執拗に快感を与えられる。
「んん……っ、ぅ……、ん、」
 下の階に瑛次がいることが気になっていたので、陽は手の甲で口を押さえた。
「ここ持って。自分で広げて見せて」
 と、三月が尻を押さえるよう陽の手を誘導する。陽は自分の臀部をふたつ両手で持って、左右にぐっと広げて固定した。恥はもうなかった。首に力を入れて三月を見ると、彼はべろっと舌を出して唾液を下に垂らし、陽のアナルをじっくり濡らしているところだった。官能的すぎる光景にくらくらする。
「んんっ……!」
 唇を噛んで声を抑えるが、もう限界に近かった。顎が上がる。
 口呼吸を許してしまうと制御できなくなり、嬌声が勝手に漏れ出した。一瞬にして全てがどうでもよくなった。久々に受ける全身への愛撫はたまらなくて、気が遠くなりそうだ。今、この人と抱き合うことしか考えられない。
 ローションとコンドームのぬるつきで散々に解されて、焦らされて、陽が「入れてください」と懇願するとやっと、三月が奥まで挿入された。
 以前、三月に「お前の体はドラッグみたいだ」と言われたことがあったが、陽にとっては三月の体こそがドラッグだった。初めて行為をしたときからそうだった。正気なんてすぐに溶けてしまう。毒。
 正面から突かれながら手を伸ばして、シーツに手をつく三月の腕を握った。
「先輩……っ、きもち、きもちぃ……っ」
「っは、うん、きもちいな? 陽……」
 腰を止めないまま、三月が口の片端を持ち上げて妖艶に微笑む。
「あーやばい、陽ぉ、もうイっちゃいそ」
「っだめ、だめ、せんぱいお願い、気絶、させないで」
「ん……? 今イったら飛んじゃいそう?」
 陽はこくこく頷いた。
「そう。じゃあ……」
 三月はスピードを落として腰を止めると、陽の背中を抱えて体を起こした。
「陽が動いて」
 よろつきながら、陽は前髪を掻き上げて、座る三月に跨がるとゆっくり腰を落とした。
 最初はゆるゆると動いていたものの、徐々に、陽の首元に顔を埋めて息を荒げていた三月の様子が普段と違うことに気付き、陽は動きを止めた。
 三月の頬に触れる。見上げてくる瞳は燃えるように真っ赤で、薄く開いた唇から上の牙がチラと光っていた。いつの間にこうなっていたのだろう。首がずっと傍にあったから、その皮膚の下の太い血管に魅せられたのだろうか。
 三月は物欲しそうな表情を隠せていなかった。眉根を寄せて切ない表情をしているのがどうしようもなく愛おしく見えて、陽は迷わず囁いた。
「飲みたいんですね? 僕の血を」
 一度知った味を、舌は忘れられない。
 陽は悟った。
 多分、この人の中で僕はもう、餌になった。
「いいですよ」
 いつかこうなることはわかってはいた。わかっていたし、それなりに怖かった。しかし、それでも微笑んでみせることはできた。
 本能が全面に顔を出している赤い瞳の三月には、もう、陽の手が恐怖で震えていることや、緊張で息が上がっていることは、届かなかった。
 首筋に吐息がかかる。陽はぎゅっと目をつむった。
 ぶつ、と、肌が切れた音を聞いた気がした。
「――…っ」
 膝ががくがく震えて、堪えているのがやっとだった。目眩が襲ってきて、一瞬の急な吐き気を乗り越えると、今度は声を我慢できないほどの性的快楽が全身に走り渡った。オーガスムに今にも達しそうで達しないギリギリの快感がずっと続いて、耐えられなくて体が震える。
 声にならない声が脳天を直撃した。掴まっていた三月の肩に爪が食い込む感覚がした。全身から汗が吹き出して、マグマが血管を走っているかのよう。
 直接吸血されると、こうなるのか。壱依に採血されたときは、病院や健康診断などでよく見る注射器のようなもので採られたから、このような感覚は当然なかった。
 ああ。こんな風に死ねるなら、これでいい。愛する人に見つめられながら、命を摘まれる。愛する人の血肉となって現世を一緒に歩めるのなら、それ以上の幸せがあるだろうか?
 譫言のように三月の名を呟く陽の体をそっとシーツに倒しながらも、三月は血を飲むことをやめなかった。喉仏が何度も何度も上下する。
 やがて、陽は息絶えたようにふっと意識を手放した。
 しばらく三月の上がった呼吸だけが寝室に響いていた。
「陽」
 気絶した陽を前にしてやっと正気を取り戻した三月は、慌てて止血してしゃがみこむと、彼の首筋に指を当てて脈を確認した。正常だった。
 どっと安心して、へなりと座り込む。
 三月は額を抱えた。
 こんなことが、これから何度もあるのか。
 こんなことに、これからずっと耐えなければいけないのか。
 しかし本能は誠に正直で、体が、細胞のひとつひとつが、満たされて喜んでいるのがわかった。みるみるうちに頭が軽くなり、視界が晴れ、聴覚も冴えて遠くを走る車のタイヤの音も聞こえる。嗅覚は、もっともっととこちらを誘ってくる陽の血液の甘い香りを捉えて、離さない。
 三月は、自分の手のひらに目を落とした。皮膚を透視して血管が見えるようにさえ感じる。今なら電車に轢かれようが、地上五階から飛び降りようが、へっちゃらでいられる気がする。宇宙の法則を計算できる気がする。
 陽の血の威力は計り知れなかった。これまで百年間、このような人間の血液に巡り会ったことは一度だってなかった。
 だからか、前提や過程を通り越して瞬時に理解してしまったことがあった。自分はもうこの血以外の血は、本当に飲めない。この血しか欲せない。次に陽の肌に口をつけるとき、それをただのキスで終えられるとはとても思えない。
 耐えられるのだろうか。
 静かに目を閉じる陽の横顔を見つめる。
 殺してから我に返ったのでは遅い。
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