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恋中さんとの休日1

恋中さんと夜更かし 前編

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 午後10時30分頃。
 部屋の前に辿り着いた俺は、驚愕した。

「……恋中、さん?」

 見慣れた隣人が、ドアの前に立っていた。

「おかえりなさい」

 彼女は嬉しそうな声で言った。
 
「……ただいま」

 その顔を直視できなくて、そっぽを向きながら返事をする。

「どうしたの? ちょうど出かけるところだったとか?」

「いいえ、君を待ってました」

「え?」

 トン、と音がした。
 ふわりと揺れた空気が鼻先を掠め、甘い香りで脳が揺れる。

 息を吐けば届くような距離感。
 彼女は風呂上りなのか少し頬が紅潮している。

 互いの身長は同じくらい。
 ちょうど顔を真っ直ぐ向けた先に、彼女の目がある。

 猫のように丸い瞳と長い睫毛。
 こんなにもジッと見たのは初めてだ。

 いつもなら直ぐに逸らしていたと思う。
 だけど今の俺は、身動きひとつできなかった。

「触っても、良いですか?」

「……え?」

「ダメですか?」

「……べつに、良いけど」

 訳が分からないまま返事をする。
 その直後、恋中さんの顔が耳の横を通り過ぎて、夜にベランダから取り込んだ枕か何かを押し当てられたみたいな感覚が、上半身に伝わった。

「……」

 俺は呼吸すら忘れて、キョロキョロと目を動かす。
 恋中さんと正面を交互に見るけれど、もちろんそれで何か分かるはずもない。

「恋中さん、いつから外に?」

 どうにか普通に声が出せた。
 彼女は、俺の耳の後ろで囁くように返事をした。

「……忘れました」

「風邪ひくよ」

 彼女は返事をする代わりに俺の背を強く握った。
 まるで何かに怯えているような態度。その理由が気になって、押し当てられた胸の感触さえも忘れられる。嘘だ。ギリギリだ。他の感情が性欲を上回っているだけだ。

「私、独りが怖いです」

 微かに震えた声。
 俺は雑念を封じて耳を傾ける。

「君のせいで、もっと怖くなりました」

「……そっか」

「そっかじゃないです」

 彼女は拗ねたような声を出して、さらに体を密着させる。

 俺は心の中で悲鳴を上げる。
 状況が上手く呑み込めない。

 初バイトが終わって帰宅しました。分かる。
 部屋の前にお隣さんが立ってました。まだ分かる。
 密着されました。分からない。なんでだ。
 
 いや、落ち着け。答えを聞いた気がする。
 そうだ。彼女自身が言っていた。

 独りが怖い。
 俺のせいで、もっと怖くなった。

「ごめんなさい」

 その声を聞いて思考を中断する。
 どうして急に謝られたのだろう。
 疑問に思った直後、彼女は次の言葉を口にした。

「……迷惑、ですよね」

 言葉とは裏腹に、彼女はより強く体を密着させる。

「私に優しくすると、こうなるみたいです」

 まるで他人事のように彼女は言う。

「今さら後悔しても、もう遅いですからね」

 俺は返す言葉が浮かばなくて、そのまま抱き枕に徹した。

 普通じゃない。
 何か特別な理由が無ければ、こうはならない。

 聞けば良い。簡単なことだ。
 だけど、できない。羽よりも軽いはずの唇が異常に重たい。

 賭けても良い。
 もしも理由を聞いたら──彼女の心に踏み込んだら、二度と戻れない。

 要するに、覚悟が足りない。
 我ながら情けない気持ちになるけれど、きっと何か背中を押されるような出来事が無い限り、このままなのだと思う。

「……やっぱり、安心します」

 恋中さんが呟いた。

「……少し、眠くなってきました」

「待って」

 俺は彼女の肩を摑み、少し強引に距離を取る。
 ダメだ。それはダメなんだ恋中さん。ダメなんだ。

「一旦、部屋に戻ろう」

「……やだ」

 かわいい……でもダメだっ!

「シャワーで汗を流したい。恋中さんも、体が冷えてる。入りなおした方が良い」

「……今は少し、温かいです」

 やめろ意識させるな。
 俺だって体温が残ってることを感じてる。

「後で、そっちに行くよ」

「……約束ですよ?」

「もちろん。だから恋中さんも、温かくして待ってて」

「……はいっ!」

 その後、互いの部屋に戻った。
 俺は着替えを用意してから浴室に入った後、シャワーを浴びながら言った。

「背中を押されるような出来事って、そうじゃねぇだろ……っ!」
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