荒井良治は医師である

いつ

文字の大きさ
上 下
4 / 33
キリト

しおりを挟む
 困っているようなのに抵抗に遠慮があって、あっさり獅堂さんに中へ入れられてしまった。
「いえ、ちょっと様子を見に来ただけで」
「ええやん! ちょうど今日からちゃんとした医者が来たんやって! 話してったらええやん!
 ほなな!」
 尾張さんを閉じ込めるように自分だけ外に出てドアを閉めてしまった。その瞬間、隙間から見えたのは申し訳なさそうな波路くん。

 野島さんは動じていない。
「様子とは?」
 待合室に出て長椅子に座る野島さんが俺に向かって自分の隣をぽんぽんとした。次に尾張さんを見て手で向井の長椅子へと促す。
 近くに立ってみると尾張さんは儚げで細くはあるけど骨はしっかりしてるっぽい。ちなみになんか賢そう。
「あの、一昨日もキリトが来たんですよね? 自転車の傷が増えてることで今朝気付いて問い詰めたんです。
 それでまたケガしたこと俺に知らせずに治療してるんじゃないかって心配になって。
 今日は休診だったんですよね? 来てないならいいんです。それじゃ」
 勢いよく立ち上がってお辞儀をして、帰ろうとする尾張さん。

 どうしたらいいのかと野島さんを見ると、意外とよく通る声で「送ってあげて下さい」と言った。こんな声も出せるんだ。

 その声は尾張さんも意外だったのか、振り向いて戸惑っている。
「いえ、一人で帰れます」
「いえ、こちらの彼をです。今日初めてここへ来たので、帰り道を教えてあげて下さい」
「ああ、はい」

 言われて立ち上がった俺の手を、野島さんが絵本の騎士みたいに取って見上げてきた。
「ゆっくりお話しするくらいならいいですが、少しでも何かされそうになったら僕を呼んで下さいね」
 どう見ても俺の方が強そうなんだけど。

 あ。
『ゆっくりお話しするくらいなら』
 聞き取りをしろってことか。

「分かりました」
 頷いて受付ブースに置いていた鞄を持って、ドアのすぐそこで待っていた尾張さんに並ぶ。
「それじゃあ、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。明日は9時にそのドアから入ってきて下さい。これが合鍵です。あと緊急に備えて着替えを少しここに持ってきておいて下さい」
「はい、分かりました」
 さすが黒魔術師。普通の建物に見えても鍵はアンティーク調なんだな。本体は落ち着きのある金で持ち手にはヒスイっぽい飾りが嵌められてる。

 尾張さんの歩き方は落ち着いてしっかりしている。
「どこまで送りましょうか?」
 歩きながらでも安定した話し声だから悪いのは呼吸器系ではないのかな?
「荒井総合病院から来たんです。大通りまで出られればたぶん帰れます。
 それよりも実は今日のお昼に初めて野島さんに会ってそこから驚きの連続で。
 ゼロからお話を聞けせていただいてもいいですか?」

 尾張さんは一瞬も嫌そうな顔をせずに穏やかに頷いた。
「野島さんについては僕もよく知らないんです」
 思い出すように少し目線を上げて遠くを見てから続けた。

「うちは水族館だったんですよ」
「え! すご!」

 思わず出た俺の声に驚かずに静かに首を振った。
「イルカの他はクラゲや金魚だけですから。アートアクアリウムって言った方が近いかもしれません」
「もしかして港南駅の? 俺よく行ってますよ」
「両親が事故に遭って、副館長だった叔父が売却してしまったんです。両親個人の生命保険金の受け取りは俺でしたけど、水族館に関しては叔父に一任するという遺言状があって。

 キリトは一昨年、俺がアメリカでの療養を終えて帰国したのと同時期にうちに来たイルカです。両親は水族館最優先で俺は中学生の時に一人で渡米してずっと向こうでしたから、慣れない環境で同時期にここに来たキリトは心の支えでした。一緒に頑張ろうって。
 俺はいつも勝手に話し掛けてただけだと思ってたらキリトは俺が水槽越しに話した相続のことも理解していて、たまたま来館した野島さんに俺と離れたくないってお願いしたそうです。
 キリトは突然行方不明になり、1週間後に人の姿で現れてそう教えてくれました。元気づけようと思って踊ってたのに聞いてないと思ってたでしょって」

 色々あり過ぎてどう反応したらいいのか分からない。もうご両親の事故さえ怪しく思えてくる。

 尾張さんが立ち止まって気持ちを切り替えた表情になった。
「俺もそれまではこういう世界が本当にあると思っていませんでした。1番詳しいのは獅堂さんでしょうけど、分かりやすく話してくれるのは波路くんです。施術院によく来るので少しずつ教えてもらっているところです。何か分かったら共有し合いましょう」
「はい。よろしくお願いします
 あ、ここからは自分で帰れます」
「そうですか?
 じゃあ、これからよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ」

 尾張さんの背中を温かい気持ちで見送る。はあ、半日振りの普通の人。むしろ良識のある人。

「すみません。ちょっとお話いいですか?」
 振り向くと野島さんくらいの身長のスーツの人が立っていた。その人の胸の高さで開かれている縦長の手帳に体が固まる。

 気持ち彫りの深い顔写真の下には「警部補」と「富士 太陽」の文字。警部補はたしかキャリアなら22歳、ノンキャリアならその10くらいは上。どっちともとれる顔だ。あとめちゃくちゃ明るい名前とは程遠い、セクシーっていうかアンニュイっていうかとにかく刑事っぽくない雰囲気。

「今ご一緒だった方とはどういった関係で?」
 警察ってだけでなんだか緊張してしまう。
「新しく勤める病院で……帰りの、道案内を……お願いしました」

「そうですか。
 実はキリトというイルカが水族館から突然行方不明になったんです。海に逃がしたのか横流ししたのか、彼は何らかの関りがあるかもしれません。どんな些細なことでもいいので気が付いたことがあったらこちらへ連絡していただけますか?
 この件を担当している者に24時間いつでも繋がります」

 渡されたのはスマホの番号が掛かれた手書きのメモ用紙。
「はい。分かりました」
「ご協力感謝します。では」

 かっこいい背中を見送って少ししてからはっとなった。
 キリト! キリトってあのキリトのことだよな? 刑事さんと話してる間はぜんっぜん頭に無かった。

 ああ、でも見つかったら尾張さんと引き離されちゃうのか。いやでも勝手に売買されてるだけでキリトくんの意志は無視されてるし本人には1円も入らないんだよな。
しおりを挟む

処理中です...