荒井良治は医師である

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キリト

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 水底に仰向けの状態で見上げる水面に思考が揺れてる感じ。
「ゆうかい……きりと……」
 無意識に手を伸ばす。
「荒井さん?」
 おわりさん……終わりなのか始めなのかどっちなんだよ。そういえば獅堂さんも獅子吠ししおうって凄いよな。あのキャラであの名前って凄いよな。野島さんはあのキャラで普通の名前だし。いや小太郎って古風かな。小太郎……昔、そんな名前の犬がいたような……。

「荒井さん!」
 暴風雨の音に混ざって聞こえる声に目を開けると30センチくらいで天井。左右は肩から5センチくらいのベッド。両腕は胴体と一緒に縛られている。頭を上げて足の方を見るとつま先が当たっているハッチバック。右側には横歩きで人が通るような通路の向こうにカウンターのようなキッチン。
「荒井さん! 大丈夫ですか?」
 天井の上から聞こえる尾張さんの声。二段ベッドだ。っていうかこれ、俺が欲しくていつもユーチューブで見てるキャンピングカー!
 そんな状況じゃないと分かっていても密かにテンションが上がる俺に、尾張さんは心配そうな声を大きめに出した。
「すみません。どう考えても俺が巻き込んでしまったんです」
「そんなことより具合は? 発作の時はいつもどうしているんですか?」
「驚かせてすみませんでした。もうニトロもお守り替わりに持ち歩いているだけで、在宅ですが普通に働いています。さっきのは多分精神的な物です」
「本当に?」
「はい。あんな風になったのは日本に帰ってきてから初めてです」

「それならいいですけど。
 ところでこれ、俺が欲しかったキャンピングカーです。ユーチューブでいつも見てるから間違えません」
「そうなんですか? 叔父さんが持っているのは知っていましたが乗ったことはないんです」
「叔父さんはアウトドア派なんですか」
「いえ。従弟も体が弱くて仙台の病院に通ってたんですよ。道中や仙台で休めるようにと無理して買ったって言ってました」
「じゃあお金に困ってキリトの居場所を問い詰めるために尾張さんを?」
「それはないかと。従弟はもう、凄い名医のいる仙台まで通わなければいけないほどではないどころか、むしろこれを運転しているくらい元気です。
 下の子もここで十分治療できますし、手術は必要でしたがそれも今回の売却代で十分に賄えたと聞いています。
 それに水族館を買い取ってくれたのが遠い親戚で、お金はいいから消えたトリックだけでも知りたいと言っていました。水族館は年の利益とかから割り出した一括購入で、警察に動いてもらうために300万円と言っているだけだとこっそり教えてくれたくらいです。何が目的なのか俺にもさ」

 光とほぼ同時に地割れみたいな音。
「うわあっ!」
「しぃ!」

 雷と誰かの声に、たぶん「さっぱり」という言葉がかき消された。
 「しぃ!」が俺の従弟とまったく同じものだった。あの背格好はやっぱり似てるどころか本人だったのか。

 尾張さんも聞き覚えのある声だったらしい。
文美あやみ?」
 どっちも男の声だったけど?

 俺の疑問を察したのか尾張さんが説明してくれる。
「今の驚いた声、たぶん従弟です」
「ボーイッシュなんですね」
「男ですよ。文美のお母さんが、体の弱い子は逆の性別の名前を付けると長生きするからと言って」

 それから少し声を大きくした。
「文美? 文美なんだろ?」

 静寂。

 尾張さんは更に声を大きくした。
「文美は小さい頃~!」
「うわああああ!」

 叫び声とともにハッチバックが開いた。顔を起こして足元を見ると、そこには病弱と言われても健康と言われても納得できるような高校生。慌てようからしてこの子が文美くんだろう。そしてそのとなりには俺の従弟。せっかくきれいな顔にスマートな背格好なのにがり勉臭が滲み出ていて、首から聴診器をさげている今はヤバイオタクかマッドサイエンティストみたいだ。
煌葵こうき?」
 煌葵はバツが悪そうに、会釈とも言えない程度に頭をさげた。
「ちす」

 言いながら車に上がってきて文美くんも続く。それぞれ縄をほどいてくれた。

 そうしている間も尾張さんの落ち着かない声がする。
「キリトは? キリトに何が……」
「ごめん知らない。むしろ俺が会いたかったからこうしたんだ」
「じゃあ完全に口から出任せの嘘なんだな?」
「うん。ごめんなさい」
 文美くんの手を借りながら床に降りた尾張さんはまっすぐ立てないままソファに座って息を大きく息を吐いた。
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