荒井良治は医師である

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キリト

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 二階に上がると、お兄ちゃんは病院と居住スペースとを分けるドアのカギを開けながら俺に背を向けた状態で言った。
「お湯を沸かしていて下さい。僕は毛布を届けてきます」

 作ってる声に聞こえる。俺たちをここに移動させるのにヒスイみたいな石を使った。今は転移に制約みたいなのがあるのか? 違う。きっと。
「直接持っていくのは、あの時のみんなの目が嫌だったから?」

 お兄ちゃんが振り向いて固まったあとで俺の両肩を掴んだ。何か言いそうに唇が動くのに声が出てない。

 俺はお兄ちゃんの手の甲をそっと掴んで肩から離す。
「先に毛布を届けてきましょう。ゆっくり話したいんです」
 お兄ちゃんは目を閉じて、また俺の肩に手を置いた。
「届けました」
 お兄ちゃんの手が俺の二の腕に移動する。
「思い出したんですか?」

 俺の顔を見るように屈んだことで近づいた首に思わず抱き着いた。抱っこもおんぶも、俺が頼むと必ずしてくれたお兄ちゃんのあの感触。間違いなくお兄ちゃんだって感じて嬉しさが広がる。
 お兄ちゃんの体重が掛かった後に足が浮いたから驚いて目を開けると、またお姫様抱っこされていた。
「え? なんで?」
「え? ベッドに行く流れですよね?」
「違います!」

 お兄ちゃんはまだ俺を降ろそうとしない。
「え? だって術が解けたんですよね? 僕への思いが溢れ出して抱き着いたんですよね? 僕も同じ気持ちです。つまりベッドに」
「違います! そうだけど違います。落ち着いて下さい」
 それでも動かないお兄ちゃんに続ける。
「術が解けたって言うのも気になりますし色々話したいんです。降ろして下さい」
 降ろしてはくれたものの、すぐドアに壁ドンされて右手で俺の左頬を包んできた。

 俺は流されまいと話を続ける。
「まずキリトがよく転んでた理由って」
 俺の頬を包んでいた手がストンと落ちた。
「まあ、聞かなければいけないことではありますね。
 地下のみんなも飲まず食わずというわけにもいきませんし、お湯でも沸かしながら聞きましょうか」
 お兄ちゃんは微妙に不機嫌そうな空気でドアノブに手を掛けた。

 ヤカンを火にかけて、大きなお盆にカップとコーヒーやスープの素を乗せながら話す。
「イルカって超音波で会話するじゃないですか。その機能が残ってて、尾張さんの不安を感じ取ってバランス感覚が狂っていたんじゃないですか?」

 お兄ちゃんはローブの袖に手を入れて腕を組んだ。
「キリトくんに超音波のセンサー部分は残っていません。ですがイルカでなくても、人間にも似た能力はありますからね。赤ん坊が突然笑ったり泣いたりするのは近しい人の感情を読み取っているからな時もあるんですよ。徐々に失われていく能力ですが、キリトくんの体はあれでいて生まれて半年。『はじめが泣いてる。呼んでる』ってうちに駆け込んできたことを考えるとその線が濃厚ですか。
 なんだ。僕の施術ミスではなかったんですね」
「これから様子を見て、もう転ばないならそういうことじゃないでしょうか」

 お兄ちゃんが立ち上がって俺の隣のイスに座りなおして、左腕を俺の背もたれに置いた。
「では本題ですね」
 手つきや声や空気は気になるけど、俺も話したかったことだ。
「術ってなんですか? 俺と会うまでとあの後、どこでどうしていたんですか?」

 野島さんは俺から視線を逸らして伏せた。
「術はあの男が、僕を表の社会から消すために掛けたんです。でもりょうちゃんは」
 そこまで言って俺の頭を包むように抱きしめてきた。
「ずっとあの頃のようにこう呼びたかった。術を刺激しないように他人行儀にして、でもじゃあどう呼んだらいいのかも分からなくて」
 だからずっと俺を呼ばなかったのか。

 さすがにこの腕を引きはがすのは酷な気がして、そのまま話す。
「あの男? あの時急に現れた黒ローブの人ですか?」
 お兄ちゃんが頷いたのを後頭部で感じる。
「一応僕の師匠ということになっていますが、許せなくて基礎を学んだらすぐに旅に出ての修行を始めました」
 ローブを見せるように少し腕を広げるお兄ちゃん。
「これは国から支給されている制服です。あの男が昇進したので今はお揃いではありません。そうでなければこれを着るのも腹立たしいくらいです」
 制服なのか。国のセンスってどうなんだ?
「術を刺激しないようにというのは?」

「良ちゃんは何度も僕を思い出そうとするから、その度にあの男が術の上掛けをしていたんです。そのせいで術は複雑で強固なものになり、あの男ですらこれ以上手を加えたら良ちゃんが危ないという状態になってしまったんです。
 例えるなら洒落た歩道のようなもので、敷き詰められたレンガを土は傷つけずに取り除くことはできないでしょう? でも街路樹が育てば根が持ち上げて自然とはがれていきます」

 お兄ちゃんがもう一度俺を抱きしめる。と思ったら体がくっつく直前で止まった。
 嬉しそうに、ほんの少しだけ意地悪そうに俺を見つめる。
「僕への良ちゃんの気持ちが、術を押し上げて取り払ったんですよ?」
 俺は慌てて、お兄ちゃんから逃げるようにテーブルの向こうに回ってイスの背もたれを盾にするように持った。
「な、なんか惚れ薬みたいな術を掛けたりしてないですよね!?」

 お兄ちゃんは一瞬きょとんとしてから余裕のような興奮してるような空気で近づいてきて、俺の腕とイスを持って離そうとする。
「薬ですか? 術ですか?
 そんなに動揺するほど、普通に考えたらおかしいと思うほど、僕のことが好きってことですね?
 分かりました」

 俺はお兄ちゃんに向かって落ち着けという手の動きを見せてから、流し台側のイスに座った。
「話はまだ終わっていません。お兄ちゃんはどこから来て、あの後どこにいたんですか?」
 お兄ちゃんは胸あたりのローブを右手で握りしめて、顔を天井に向けて目を閉じた。
「お兄ちゃん……!」
 それから少しは落ち着いてくれたようで、さっきまで俺が持っていたイスに座った。
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