神よりも人間らしく

猫パンチ三世

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第九章 歪な夏

七十六話 悪だとしても

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 気分が良い、わけではなかった。
 さっきよりもずっと視界は鮮明になったが、それでも体はどこかだるい。

 血を流しすぎたのだろう、そんな事は素人目でも分かる。
 シェイクされたような頭も、ずいぶんすっきりした。
 だが、それでも万全とは言い難い。

 正常とも、万全とも言えない状態、だが不思議と負ける気はしなかった。

 正義は洋平の姿の変化に驚いていた、だがあくまで冷静にその変化を受け止め分析していた。
 腕と刃を血で覆い、切れ味を増すという戦い方はすでに見ている。
 それと同じように、脚部を血で覆う事により自らの能力を向上させているのは明らかだ。
 安易に敵の能力を判断し、こういうものであると思い込むのは敗北に繋がるという事を正義は理解している。
 だが彼の経験と今までの知識、それらを使って総合的に判断した結果、洋平の向上していると思われる能力は一つしかなかった。

 彼が銃口を向けた瞬間、洋平の姿は彼の視界から消え失せた。

「やはり……速さを強化したか」

 夜の森という視界条件の悪さ、そして地面が抉れるほど強化された脚力。
 それは小細工の無い、純粋な力として正義に襲いかかる。

 左側から聞こえた異音、それに反応し正義はガドリングガンを構える。
 そしてそれは、襲いかかる洋平の刃をすんでの所で受け止めた。

 乾いた金属音が響くと同時に、正義は反撃しようと拳銃を向けるが、その時すでに洋平の姿は消え、次に音が聞こえたのは彼の後ろだった。
 
「ぐっ……!」

 正義の背中に鋭い痛みが走る、反撃のため後方に弾丸をばらまくが、やはりそこには誰もいない。
 背中の傷は致命傷ではないが、鈍く痛む。
 
 速さが強化されたのは分かっていた、だがその上昇率を正義は完全に見誤っていた。
 洋平は、一撃離脱の戦い方を徹底している。
 速度で翻弄し、隙を突いて斬りかかる。決して深追いをせず、欲張らず、一撃を入れれば退き、止められても退く。
 
 その戦い方は、あまりにも効果的だった。
 確実に正義の体には傷が増え、姿をはっきりと捉える事ができないせいで反撃も思うようにできない。
 選択者になった事で動体視力が強化され、夜目も常人よりきくがそれでも今の洋平を捉える事は難しい。
 手当たり次第に弾丸をばら撒いても、当たらなければ意味がない上に、彼の出した音を聞き逃す原因にもなる。

 迂闊に攻撃はできない、だが反撃しなければ当然負ける。
 彼は攻撃を受けながら、この状況を打開する策を考えていた。


 洋平の体は、彼が思うように動く。
 いつもよりも、今までよりも、ずっとずっと動く。
 手足を動かす、飛ぶ、走る、それらの動作が滞りなく行われる。一つの不満もなく、彼の思考に体が追い付く。

 それは楽しさよりも、嬉しさよりも、薄気味悪さを彼に感じさせた。
 
 自分がしたい動きを脳内で想像するのは容易い、だがそれを実際に想像どおりに実現できる人間が一体どれほどいるのか。
 類まれなる才能と血の滲むような努力である程度はイメージに近づける、だが完全ではない。
 必ずどこかで限界がくる。

 それが今はない、手も足も自分のものであって自分のものではないように動く。
 イメージ通りに体が動く、それは本来であれば気持ちのいい、気分のいいことのはずだ。
 あのちょっとした不自由さが懐かしく、恋しくなるほどに彼の体は動く。
 それはいつもの自分とは、あまりに大きくかけ離れた感覚だ。彼が薄気味悪さを、違和感を感じるのは当然の事だ。
 だが今はそれに構っている余裕は無い、ただ一つの目的を果たすために彼は駆けていた。


 戦いの展開は洋平が圧倒的に優勢だった、地形も状況も彼の有利に働いている。
 だがそれでもなお、彼は勝負を決めきれない。

 正義は攻撃を喰らってはいるが、致命傷に至らないように彼の攻撃を受けている。
 どうしても避けきれない浅い攻撃は受け、喰らってはいけない深い攻撃を全力で防ぐ。
 洋平は脚部に血を使っているからか、刃を血で覆う事ができない。
 強化されていない刃では、正義のガドリングガンを斬る事ができない。
 追い詰められているのは正義に間違いないが、洋平もまた必死に決定的な一撃を斬り込む瞬間を探していた。

 拮抗していた状況の中で、正義は途端に走りだした。
 洋平に背を向け、脇目もふらずに走る。

 それを見た洋平は、一瞬だが正義が逃げ出したと考えた。
 だがすぐにその考えを捨てた、彼は正義の事をほとんど知らない。だが少なくとも、ここで逃げ出すような人間では無いという事はわかっていた。

「待て!」

 彼の背中を洋平が追う、距離はそれほど開いていない。
 瞬間、走っていた正義が彼の方へ体を向けた。

 やばい、そう思った洋平は横にあった木を蹴り飛ばす。そのお陰で体は銃口から外れた、だが撃ち出された弾は彼の左肩を撃ち抜いた。
 
「くそ……!」

 ミスった、洋平は自分の迂闊さが恨めしくなる。
 銃相手に直線勝負を挑む、それがどれだけ愚かしい事かなど少し考えれば分かる事だ。
 先ほどまで優勢だったせいか、無意識の内に彼の着は緩んでいたらしい。
 
 正義は追って来ない洋平を置いて、また走り出す。
 当然逃げているわけではない、彼には考えがあった。
 木々が生い茂る森、夜、それらは全て彼に不利に働く。
 視界も悪く、障害物の多い場所で戦い続ければ負けは必至だった。

 そこで彼は一つの結論に至った、それは戦う場所を変えるというあまりにもありきたりな方法だった。
 ありきたりで単純な方法、だがそれは最善の策だ。
 彼が今向かっているのは、森を抜けた先にある広場だ。障害物も無く、開けた場所ならば森と違って視界も良くなる、確かに速いが洋平のスピードは全く目で追えないほどでもない。
 
 やがて正義は森を抜け、公園の広場に出る。
 簡単なベンチや、ちょっとした遊具があるだけで人の隠れられるような場所はない。
 ぽつぽつと立っている街灯のおかげで、森の中とは比べ物にならないほど視界もいい。

 彼は広場の中央に立つ、辺りはしんと静まりかえっている。
 体に刻まれた傷は痛み、流れ出た血は腕を伝って地面に落ちていく。
 
 彼は待っていた、手傷を負いながら、痛みを感じながら、洋平が来るのを待っていた。
 正義は洋平の事を知らない。だがこの広場で戦う事が、自分にとって不利だと理解できないほど馬鹿ではないという事は知っている。
 そしてこのまま退くわけがない、という事も知っていた。

 愚者には違いない、どうしようもなく愚かで分かり合う事はできない。
 だからこそ、正面から叩きたかった。全力で彼の存在を、思想を破壊したかった。

「……来るはずだ、逃げるはずがない」

 期待に似た思いが込められた言葉が、彼の口から漏れる。
 ほんの少しの間を置いて、洋平は暗い森の中から、正義の真正面に現れた。

「来ると思っていた」

「そうかよ」

 洋平は声の届くギリギリの距離で足を止め、正義の言葉に返事をした。
 
「なあ、なんでお前はそんななんだ? 本当にもう何も信じたくねえのか?」

「なぜそんな事を聞く? 丁寧に説明すれば、私の考えを理解してくれるのか?」

「……多分無理だな」

「ではどうして?」

「聞いてみたかったんだよ、どっちが勝ってももう話す事はないんだから」

 正義の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。
 清廉潔白、善人そのものだった父、そして底抜けに優しかった母の姿。
 血に染まる家、孤独な時間。
 その全てが、彼の脳内に溢れ出した。

「……話す必要はないだろう、私も君もそれぞれの願いのためにこの場にいる。だが……一つ私から言えるのは、悪を許す行為は悪に他ならない。だから私にとって君は、裁くべき、滅ぼすべき悪人だ」

「なら……もう終わりにしようぜ」

 洋平は静かに刃を構える。
 正義もまた、それに応えるように銃口を彼に向けた。

 一陣の風吹く、洋平の足元の芝生が宙を舞った。
 正義のガドリングガンが、弾を吐き出す。尽きる事の無い、正義の弾丸を。

 一発でも体に当たればそこが吹き飛ぶ、先ほどのような軽い銃弾ではない。
 それを躱すため、洋平は横の動きを多用した軌道で正義へ向かう。狙いを定められないよう、大きく細かく縦と横の移動を織り交ぜた動き。
 その動きは効果的だが、著しく体力を削る。だが足は止められない、勝つために生き残るために。

 外れた弾丸は地面を抉り、ベンチを吹き飛ばす。
 洋平はもう近くまで来ている、すでに逃げる事は叶わない。正義はただ最大火力で、それを押し潰すしかない。
 遮蔽物はない、速度にも慣れてきた、弾丸は尽きない。
 勝つ、勝ってみせる、己の正義を為すために。

 洋平は弾幕を抜けた、そして彼の横薙ぎの刃が正義の右脇腹に向かった。

「見えているぞ!」

 刃の軌道を、正義は読んでいた。
 銃身に刃は弾かれ、乾いた音が響く。

 勝った、正義は左手に構えた拳銃を洋平に向けた。
 引き金を引くその瞬間、彼の左脇腹に重く鈍い痛みが走る。視線をそこへ向けると、血で覆われ硬化した洋平の足が、彼の腕ごと左脇腹にめり込んでいる。

「かっ……は……!」

「うおおおおお!」

 そのまま正義は、蹴りの方向へ吹き飛ばされた。
 地面に倒れた彼の口からは血が溢れ、体は痛みに跳ねる。
 左腕は完全に折れ、痛みを通り越して感覚がない。

 刃の方を囮にし、蹴りで勝負を決めにかかった洋平の判断は正しかった。
 彼は気づいていた、自分の強化された脚力が十分相手を倒しうるものだと。今までの攻防の中で、彼は一度たりとも刃以外の攻撃をしていない。それが功を奏した、正義の意識は刃に向けられ、足は強化されたとしてもそれは速度を上げるという目的にしか使われないと彼は思いこんでしまっていた。

 結果として彼は刃を防ぐ事には成功したが、ノーマークだった蹴りをまともに受けてしまったのだ。
 
 重い一撃を叩きこむ事に成功した洋平にも、余裕はなかった。
 凄まじいまでの運動量、強化されているとはいえ元々手傷を負っていた足を無理矢理動かしているような形で戦っていた。

 肺は破裂したのかと思うほど痛み、口の中に溜まる唾液はにわかに血の味がする。
 足も小刻みに震え、そのまま地面に倒れこんでしまいたいほどの疲労が彼を襲っていた。

 だが今の彼には、最後の仕事が残っている。
 刃を強く握りしめ、正義の元へ歩き出した。

 地面に倒れた正義は、すでに抵抗する力ももなく、ただ洋平を見るばかりだった。

「俺の……勝ちだ」

「その……ようだな、残念だ」

「悔しくは……生きたいとは思わないのか?」

「悔しくはある、だが君という悪を否定できない私に思い描いた正義を為すための力はない。もう生きていてもしかたがないんだよ」

「……悲しいな」

 洋平は刃を振り上げる。
 抵抗できず地面に倒れている相手に向かって、刃を振り下ろす。
 その姿だけを見るなら、洋平は悪にしか見えない。

 だがその姿を、彼は受け入れていた。
 それでもいいと、思っていた。

 例え悪になっても、悪だとしても、それでいいと。

 振り下ろした刃は、美しい弧を描いて正義の胸を切り裂いた。
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