philophilia

宇野 肇

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それから

Your happiness is always wished.

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 ヒトにとって獣というのは食べるものであり、愛でるものであり、飼いならすものであるので、ヒトよりも立場が下である、と言うのがヒトの考え方です。どんなに凶暴な獣でも、それを殺したり、それよりも上の立場であろうとするのがヒトであると言った方が正しいかも知れません。
 ですから、ヒトは獣の特徴を引き継いでいる獣人と言う存在はヒトよりも劣っていて、ヒトに使役されるものであるという考え方をしてきました。あるいは、獣とヒトが交わった証であったり、もしくは、罪深き人間の変わり果てた姿なのだと、だから生まれながらにして奴隷なのだと、長い間思われてきました。
 アトリ様はヒトというのはこの世界に存在する、とても多くの生き物の一つであって、そこに優れているとか劣っているということなどないのだと仰っていました。獣人の多くが奴隷から解放されたことは、たくさんの問題を抱えながらも、基本的にはよいことなのだと。
 僕にはそう言った難しいことがまだ分からないのですが、ただ、獣人には入ってはいけない場所が多くあるということはよくよく分かっていました。僕は馬車には乗れませんし、黒猫亭以外の宿や酒場、レストランなども利用できません。入ると、酷い場合には殺されてしまいます。暴力が嫌なら、近寄らないのが良いのです。それが自分の身体と命を守ることだと、僕はアトリ様からしっかりと言いつけられています。
 僕たちが死んでしまうと、記憶や感覚、こうして今考えていることの全てを失くして、いつも僕たちの様子をご覧になっている女神様の所へ行くのだそうです。そして女神様の手で綺麗に洗われて、またここへ生まれてくるのだそうです。それはアトリ様との、本当のお別れをすることを意味していました。僕はまだ一緒に居たいので、死なないようにすることはとても大事なことでした。
 ですが、それでも、僕にはどうしても一度、入ってみたい場所がありました。それは、女神様へのお祈りが一番届くと言われている教会の中です。そこでは女神様への感謝のお祈りや、結婚の時、女神様へ、愛する人を見つけ、共に生きてゆくことをご報告するのです。僕は一度でいいので女神様に、アトリ様とお会いできて嬉しいこと、幸せなこと、アトリ様が大好きなこと、とてもとても、愛していること、そしてそのことを感謝しているのだとお伝えしたかったのです。
 だから、きっと無理だろうということは分かっていながらも、アトリ様にこう言いました。結婚は同じ性別ではできませんが、それでも、女神様へお祈りがしてみたいと。

 ある日の晩、アトリ様は街が静かになった頃に僕を連れて黒猫亭から出られました。僕は一番上等な服を着るように言われてその通りにしましたが、これからどこへ行くのかは一切わからず、ただ、黒い馬車に乗せられました。僕は驚きましたが、アトリ様は「大丈夫だよ」と僕を抱きしめて落ち着かせてくださいました。その時ばかりは、僕が馬車に乗ることは許されているようでした。
 驚いたのはそれだけではありませんでした。馬車が止まった先はとても大きなお屋敷で、僕はアトリ様に手を引かれて、そのお屋敷の隣にある建物の前へ歩いていきました。それも立派なもので、月の光に浮き上がるそれはどっしりとそこに建っていました。
 アトリ様は周囲を窺っておられましたが、その建物の扉には鍵はかかっておらず、直ぐに中へ入ることが出来ました。
 入ってすぐは小さな部屋のような、とても短い廊下でした。左右の壁にはろうそくが灯され、その明かりに照らされながら、穏やかな表情の女性の石像が僕たちを見下ろしていました。
「これが女神だよ」
 アトリ様はそう教えてくださいました。僕はじっと女神様の石像を見上げましたが、勿論動いたり、喋ったりするようなことはありませんでした。
「女神はこの世のすべての母だ。この世で生き物を新たに生むことができるのが女だけなのは、この世界を創った神が女性だからだと言われている。男はその手伝いが出来るだけで、あまねく男女は女神の好きな『愛』を育む世話人である、と。……女神は全ての命と世界を見渡すことが出来るが、俺達は遥か天上にいる彼女を見ることが出来ない。彼女の所へ行けるのは死んでからだし、その時の記憶は綺麗に洗われて、俺達が女神を覚えていることは無い。この石像は、そんな俺達がしっかりと女神を思えるようにと作られているものだ」
 アトリ様の優しい声。それが終わると、アトリ様は奥の扉を開けられ、僕にその中へ入るよう促されました。
「……!」
 僕は息を吸って、そのまま止めてしまいました。建物の中はとても広くて、天井はとても遠くて、そして僕の目の前には、月の光に透けて見える大きな女神様の絵がありました。
 建物の中は白く塗られ、少しの明かりでもとても明るく思えました。左右には長い椅子がいくつも置かれていて、僕は扉から続くその中央の道から女神様を見上げていました。とても美しく、様々な色で描かれた女神様に見下ろされる部屋の中、僕はそっと、息を吐き出しました。そして、後ろから僕の腰を引き寄せられたアトリ様を仰ぎ見ました。
「アトリ、ここは……」
「礼拝堂だ。……この間、会わせたい人がいると言っただろう? その人の家族が持っている建物で、聖堂と同じように女神に祈る場所だ。構造もほとんど変わらない」
 アトリ様の、僕に会わせたいという人。アトリ様の初恋の人。
 僕は嫌な感じに胸が跳ねましたが、けれどアトリ様が「流石に街の聖堂へは行けなかった」と仰って微笑まれたのを見て、その感じは直ぐに消えました。月の光に照らされたその顔はとても優しくて、僕はぎゅっと、アトリ様の手に自分の手を重ねました。
 アトリ様から頂いたたくさんのもの。それは僕の持ち物だけではなくて、僕の中にあるたくさんのアトリ様との思い出で、また一つそれが増えたことが嬉しくて、僕は背伸びをしてアトリ様にキスをしました。僕はどうしてか背が高くならないので下唇までしか届きませんでしたが、アトリ様は頭を下げてくださって、改めて僕にキスをしてくださいました。
 女神様はいつも僕たちの様子をご覧になっていらっしゃいますが、その中でもとりわけ、愛と言うものがお好きなのだそうです。ですから、愛する者同士の間に子どもが生まれることもとても喜ばれるそうです。残念ながら僕とアトリ様は同じ男ですから赤ちゃんは生まれませんが、それでも、僕がアトリ様を特別に大好きなこと、アトリ様もまた僕をとても愛してくださることを、女神様もきっとお喜びになるだろうと思いました。そして、キスをしたいと思う気持ち、キスをして湧き上がる気持ちもまた、ここでなら女神様に届くだろうと。
 キスを終え、アトリ様は僕の頬を撫でられました。
「行こう」
 そうして、僕の手を引いて歩きだされます。大きな、綺麗な女神様の絵のところへ。その下には大きな机があって、そして、……そこには誰かがいました。
「ようこそ、我が家の礼拝堂へ」
 膝を曲げて礼をしたその人は、とても美しい人でした。アトリ様も美しい人ですが、その人は女で、そして黒く真っ直ぐな髪を首の中ほどまで伸ばしていました。瞳も黒く、メノウさんのようです。けれど、肌は白くすべらかで、ゆったりとした服から見える手足はメノウさんよりもずっと細く、ふっくらと胸の辺りが膨らんでいました。少し高い場所から僕を見下ろしているその人の顔はとても優しくて、アトリ様のようにも、女神様のようにも思えました。丁度僕からはその人が女神様の絵の前にいるように見えるので、その人と絵とを見比べて、それから、アトリ様を見上げました。
「アトリ、僕今、女神様が見えています」
 僕たちは、女神様の姿は分からないものらしいのに。これはとっても大変なことなのではと、僕は途端に落ち着かない気持ちになりました。
 僕がおろおろとしているのがよくよく分かったのでしょう、アトリ様は僕の肩を優しく叩かれ、「落ち着け」と仰いました。僕がじっとしてアトリ様の海色の目を見上げると、僕の胸の辺りでうるさくしていたものが落ち着くのを感じました。その眼が細められて、微笑みに変わります。そうしてそっと、アトリ様の目が女神様の方へ向き、僕はもう一度そちらへ目を遣りました。
 そこにはやっぱり、変わらずに綺麗な人が、僕を見て微笑んでいました。
「初めまして、フィロン」
「!」
 その人は僕の名前を知っていました。僕は驚きましたが、その後すぐに声が続きました。
「私はアデラ。アデラ・サンチェス・カスティーリャ・オルティス。アトリの……姉、と言った所かな?」
 とても長い名前でした。僕はその名前を繰り返しましたが、女の人は「アデラでいい」と仰ったので、僕はアデラさんと言い直しました。
「アトリ。今まで彼を紹介してくれなかった不義理については、この子が女神と言ってくれたから不問としよう」
 アデラさんはにっこりと笑ってアトリさまにそう言いました。アトリさまは珍しく言葉に詰まられたようでしたが、アデラさんが僕を見たので、僕はそちらへ視線を動かしました。
「本物の神父様を呼びつけるのはまだ出来ないが、なに、フィロンのお墨付きだ。私でも問題はないだろう。何より、女神は等しく我らをご覧になっておいでだしな」
 アデラさんはそう言うと、アトリ様に目配せをしました。アトリ様は一つ頷かれて、その場に跪かれました。僕もするように言われて、アトリ様を真似てみます。すると、アトリ様は僕をぎゅっと片腕で抱き寄せられました。そして僕を見てそっと微笑まれてから、アデラさんの足元を見つめ、口を開かれました。
「天にまします我らが母よ。わたくしたちが育む愛が、どうか貴女の御心の慰めとなりますように」
 それは祈りの言葉でした。僕はどんなふうに祈るかまでは知らなかったので、アデラさんを見上げながら、アデラさんが僕を見て、優しい顔をしているのを視界に入れながら、感謝の言葉を呟きました。
 今、僕がアトリ様の隣に居られること。そこへ繋がる全てのことに。
 少し長くなりましたが、僕が女神様にお伝えしたいことを全て言い終えると、僕はそっと、頭を下げました。
 そして、その後アデラさんが静かな声で話しだされました。
「天にまします我らが母よ。貴女の放たれた命はこの庭にまた一つ、愛を生みました。彼らの愛が大きく響き、貴女の御心とこの庭を安寧へ導きますように」
 言葉が終わると、不思議な沈黙がありました。本当に何も聞こえないのです。聞こえるのは僕たちの気遣いばかりで、外の音は一切ありませんでした。犬の遠吠えさえもです。
 僕がそっと目を閉じて頭を下げたままでいると、僕を片腕で抱きしめられていたアトリ様が、その腕を放されました。手を引かれて立ち上がり、アデラさんを見るアトリ様にならって、僕もまたアデラさんを見上げます。
「……これでフィロンの願いは叶えられたか?」
「ああ。ありがとう」
「なに、これくらい何かした内には入らん」
 アデラさんは変わらず微笑んでおられましたが、優しさの中にもどこか、それだけではない何かが混じっていました。
「結婚おめでとう、アトリ、フィロン」
「え?」
 アデラさんはそう言って、僕たちを祝福してくださいました。けれど、僕たちは男同士ですから、結婚は出来ないはずです。
 僕が目を瞬いていると、アデラさんは説明してくださいました。
「大事なのは書類上の手続きや法律上出来るか否かではない。お前たちの心の在り方だ。勿論、社会的に認められるという点においては課題であり、これから取り組んでいかなければならない問題だが」
 それを聞き、僕はアトリ様と一緒に居られればそれでよいと言うと、アデラさんは満足そうに笑いました。
「いい子といい出会いをしたな。フィロン、今度は是非明るいうちに、堂々と我が家へ遊びにおいで」
「はい」
 僕が今まで見てきたどんな女の人よりも綺麗なその人はにっこりと笑いかけてくれて、僕は少し緊張しながら返事をしました。
 この人が、アトリ様の初恋の人。
 でも、アトリ様を取られるかもしれないという怖さはあまりありませんでした。それよりも僕もとってもどきどきとしてしまって、勿論アトリ様は特別なのですが、アトリ様が恋をしたという気持ちもこんな風だったのかと、そしてそれを、そんな風になるのはきっと誰もがそうなのだろうと思ってしまうほどの『魅力』というものがありました。
「遅い時間まで悪かった。でも、本当に助かった。ありがとう」
「どういたしまして。ふふ、私もフィロンに褒めてもらえて気分が良いからな。フィロンも気にしなくていいんだぞ」
 アトリ様のような口調で話されるアデラさんは、けれどとても可愛らしく、僕はただただ頭を縦に振って返事をしました。そうして、ゆっくりしてもいいと言ってアトリ様に鍵を渡されると、アデラさんはそのまま、礼拝堂を出て行ってしまわれました。
「……よかったのですか?」
 僕はアトリ様を見上げてそう言いました。特別な人と一緒に過ごせることは、とても幸せなことです。アトリ様はアデラさんと離れがたく思われているのではないかと、僕はそう思ったのです。
 ですが、アトリ様は「いいんだ」と言って、女神様の綺麗な絵をご覧になりました。
「これはステンドグラスといって、ガラスを着色して作られたものだ。礼拝堂と言っても流石にここまで立派なものになると大きさも美しさも段違いだな」
「はい、とてもきれいです。月の光が入ってきて、夜なのに明るいです」
「満月だからな。夜に忍び込むには明るすぎるが、これを見せるには明るくなければ意味がないし」
 アトリ様は僕の手を取って、僕の薬指にはめた指輪に唇を寄せられました。
「女神への誓いは済ませた。派手でも、昼間でもないけど、これが俺とフィロンの結婚式だ」
 こっそりと唇を緩ませて微笑まれたアトリ様は、女神様の見下ろす前で、僕にキスを下さいました。僕はアトリ様にしがみつくようにして、揺れる尻尾もそのままに、そのキスに応えました。
 どうか僕たちのこの気持ちが、女神様まで届きますように。
 愛することを好まれる女神様が、笑って、その心を満たされていらっしゃいますように。

 ステンドグラスに描かれたとても綺麗な女神様は、変わらず、キスをし続ける僕たちを優しく見下ろしておられました。
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