【一章完結】魂屋 奇譚蒐集録

宇野 肇

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其の一 華の香り

1-10 そして土砂降りの雨が降る(終)

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「……あら? わたくし何をしていたのかしら……?」

 流石にぼうっとするにしても場所は選ぶというものだ。千鶴は首を傾げた。
 確かに今後の進路を掴めたと思ったのに、霞のようにそれが何か分からない。
 じわりと胸に滲むのは温かな喜びと、それを失ったかのような寂しさ。かきむしりたくなるほどの焦燥感はなく、妙に凪いでいることも不思議だった。
 門をくぐり、勝手口へ回る。

「お嬢様、ご無事で」
「今帰ったわ」

 井戸で水を汲んでいた千代が頭を下げた。――普段あまり気にすることのない井戸から、妙に目が離せない。
 なにかを、忘れているような気がする。

「お嬢様? 奥様がえらく心配していらっしゃいますよ」
「……そうよね」

 千代の言葉にはっと我に返る。千鶴の帰宅にほっとしている様子と、彼女の口から漏れた内容に口が重くなった。
 まさか白昼、下校時間のことを覚えていないだなんて白状するわけにはいかなかった。

「千鶴さん。用事が済んだら早く帰るよういつも言っているでしょう。寄り道なんて不良はいけませんからね」
「申し訳ございません……以後気をつけます」
「せめて人を遣って連絡くらい入れてちょうだいね」
「はい、お母様」

 案の定、照子の小言が待っていた。
 幸い長引かずに済んだが、何か照子が切り出すはずの話題があったような気がして、その背を見ながらまたぼうと立ち尽くした。

「……千鶴さん?」
「あ、いえ。すみません、お母様」
「具合が悪いのだったら、無理はしないのよ」

 上手く言葉にできない以上、この胸の内をさらけ出す訳にはいかない。
 ままならず再び謝る千鶴に、照子が掛けた言葉も声も随分と優しかった。そのことが思いのほか嬉しかったが、千鶴にはそれがどうしてなのか、やはり分からなかった。
 その日千鶴は夢を見た。
 機嫌良さそうに何事かを書き付けながら、百合の香りを纏う男の姿を。


******


 魂屋の薄暗い室内で新たなコレクションを眺めつつ筆を走らせていた影守は、丁稚が茶を持って入って来たのを合図に一旦手を止めた。熱いうちに紅茶に口をつける。既に着替えは終わっており、千鶴が眉をしかめかねないズボラな格好だったが、足を組み、紅茶の香りを肺に入れる様は堂に入っていた。
 機嫌が良さそうな主人の姿の側で、丁稚が茶請けを置いた。

「『枕の白百合』、なかなか斬新な『おまじない』だったな」
「今回のは、一体どういう仕組みだったんです?」

 休憩は一人でするものではないというのが影守の言で、丁稚は影守の邪魔をしない机の端に自分の湯飲みを置くと、床に膝をついた。自分の分の茶請けとして、せんべいをかじる。ぽりん、と小気味よい咀嚼音が部屋に響いた。

「記憶ログ自体は呪いに関わった女学生たちの、亡くした人との思い出が大半だったな。どれも継ぎ接ぎで、連続性もなければ性別も年齢も全て異なるものだ」
「そんなものが玉になるってんですから、不思議なモンですねェ」
「いや。そうなるように予め仕込んだのがいるな。『おまじない』に手をつけた者の記憶を複写して蓄積するような仕組みが絡まっていた」
「旦那ァ、それって……」
「そうだ。これは願掛けや厄除けに類する『おまじない』じゃない。呪《のろ》いの一種だ。
 呪術的な仕組みと仕込みが先にあって、核は後から生成されるようになっている。真珠のように」
「はァ……」

 影守の相づちを打つ丁稚の声は全く得心のいかないものだったが、影守は続けた。

「本来、花はその香りでもって空間の浄化に使われるもので、寧ろ清浄さの象徴だ。墓に花を供えるのはそのためなのさ。特に白百合は死後の魂の安寧を祈るものとして好まれる。――つまり、死を連想させる。生きた人間の、それも枕元に忍ばせるなんて……その境を曖昧にするには充分だ。
 誰かが意図的に運用しなければ、こういった反転めいたやり口は出てこない。これを最初に吹き込んだのはその理屈を知っている者だろうな」
「悪い奴《やっこ》さんがいるモンですねェ」
「性質上、『死者に会える』じゃなく、『自分が死に向かう』が正しい表現だ。そこも伏せられているところを見るにまあ、これからも女学生が狙われる可能性は高い。しばらくこの手の話には事欠かないかもしれん」

 桐箱から微かに漂ってくる百合の香り。影守がそれさえ楽しげに鑑賞している姿を見て、丁稚はふと思い浮かんだ疑問を口にした。

「旦那ァ。だったらあのお嬢さんの記憶すっぱ抜いちまって良かったんですかィ? えらいべっぴんさんで、旦那の仕事に巻き込まれそうにないほど強い守護持ちだったって話じゃありやせんか。これからも女学院のお嬢さん方が狙われるってんなら、協力してもらった方が事は早く済むんじゃねェですか?」
「元々、一人一週限りのつもりだったんだ。その方が彼女たち個人が狙われる心配がないだろう?」
「じゃあ、婚約がどうのと自分から言ってたのも、さらさらそんな気は無かったって言うんですかィ?」
「嘘を言ったつもりはないがね。……こういうことを続ける限り、僕は遅かれ早かれ気が狂って目をえぐることになる」

 影守からの返事は淀みないものだった。躊躇いはとうの昔に振り切ったのだろうと思わせるだけの力強い声だった。
 手元の温もりを感じながら、彼の側に立てる人間がそう多くないことを寂しく思う。

「……旦那の片眼鏡、怪異妖怪なんでもござれで縁が見えるんでしたか」
「ああ。これで人の世の影ばかり見つめていたら、いつかはそうなる。……僕の兄もそうだった」
「それでもあっしは、人の身の幸福ってやつを手放す理由にはならねえと思いやすがねィ」
「次に彼女と会えたら、その時は観念するさ」

 影守が口にする言葉の殆どは嘘がない。だからこそ、『次』がない可能性の高さをしみじみと感じてしまうのだ。

「また帝都女学院に求人を出さねばな。折角、直接出向いてこういう手合いに適性のある者にしか見えない細工をしてるんだ。次もいい子が釣れればいいが」
「旦那ァ、その口ぶりはどうかと思いやす」
「あの子が例外だったのさ」

 嘯く姿に、丁稚は今度こそ口を噤んだ。再び筆を執った影守の邪魔はできない。静かに自分の湯飲みと茶請けを下げて彼の仕事場を去る。

「……新しいお嬢さんって言ったって、もう夏休みに入っちまいますよォ」

 口説くような言葉を吐いておきながらその人を遠ざける影守の行動を、理解することはできなかった。



 ――そしてきたる土曜日。
 からからと魂屋の玄関戸が引かれる。
 ごめんくださいと声を上げた女学生を見て、出迎えた影守は瞠目した。

「先生! お約束通り参りましたわ!」

 日登千鶴が眩しいほどの笑顔を向けてくる。その後ろで、彼女の表情に相応しくないほどの雨雲が立ちこめていた。
 直ぐに雨が降り注ぎ、退路が断たれる。夕立にしてはあまりにも早いものだった。

「ははは……これは参ったな……」
「年貢の納め時ってやつでさァ、旦那」

 丁稚は呆れ、影守は脱力する。
 二人の様子を見ていた千鶴は首を傾げたが、影守は約束通り彼女を招き入れた。

「雨が跳ねて濡れてしまう。早くお入りなさい」
「はい。お邪魔いたします!」
「……やれやれ、どうも僕は相当気に入られてしまったらしいな」

 そして玄関戸を閉める直前、こちらをみて笑った。



其の一 華の香り(終)
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