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熱帯夜
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酷く寝苦しい夜だった。
肌に纏わりつく黄ばみがかったランニングが、男の汗の量を物語っていた。
何年も前から使い続けている、埃まみれの扇風機を見ながらふと、農作業で生計を立てて暮らしている田舎の両親のことを考えたが、次の瞬間には頭から消えていた。
枕元のひび割れたデジタル時計は午前1時32分 気温28度を示していた。
寝苦しいのを熱帯夜だけのせいにして、もう一度寝ようと試みたが、それ以上の理由が男の汗にまみれたランニングの様に脳に纏わりついて離れてくれそうになかったので、男は再び目を開けた。
何日か前から人の顔の様で気持ち悪いと感じ始めていた天井のシミと目が合って、気分が悪くなった。
落ち込んだ気分を少しでも回復させようと洗面所に向かい顔でも洗おうと思ったが、一度寝ようと決めた身体を起こすのがこんなにも難しかったかと、老いを感じて男は悲しくなった。「少年期はあれだけすんなり起きれていたのにな」と思うと同時に、そもそも少年期のこの記憶こそがニセモノなんじゃないかと記憶そのものを疑いたくなった。
思い描いていた理想の未来と対極にある人生を振り返りながら男はゆっくりと身を起こした。
軽い目眩を覚えながらも、埃まみれの傘を被った電気の紐に手を伸ばしかけて、一週間前から電気を止められていることを思い出し、やめた。
闇夜に慣れた目を擦りながら、六畳半の部屋を洗面所の方へと歩きだした。散乱する空き缶と弁当殻の中を派手に音を立てながら進む。
突然、足に鈍い感触を覚え、声にならない悲鳴をあげる。足の裏にじんわりと広がっていく不快感に全身の毛が逆立つ。
不快感の正体を確かめようかと一瞬思ったが、それに費やす気力すら湧いてこない。一瞬の不快感に襲われ表情を数日ぶりに一変させた男の顔からまた表情が消える。
顔と一緒に洗えばいいと思い、足の裏の不快感を押し殺して、洗面所まで進む。
洗面所といっても浴室と一緒になっているいわゆるユニットバスで、入浴後に洗面所を使う際には、濡れたタイルの上を歩かなければならず、とても不便だ。
更なる憂鬱を感じながら浴室の扉を開けて一歩踏み入れる。
一歩目に不快な感触が伝わってこないので、昨夜はシャワーを浴びなかったかと思いながら、洗面台の上の蛇口をひねって思い出した。水が出てこない。そういえば、水道も一週間前に止められていたのだ。
今日は何故だか記憶がハッキリしないと思いながら、快方に向かうはずだった不快感がどうしようもなく受け入れるしかないことを知って、男は更なる絶望を覚えた。
浴室のドアを閉める気力もなく、フラフラとした足取りで半年ほど前から、寝ている時間以外もその上で過ごすことが多くなった薄いマットレスへと倒れ込む。
倒れ込んだマットレスの中で男は「熱帯夜」と自分の人生を重ね合わせていた。
常態化する異常な熱帯夜が暮らしの中に日常として溶け込みつつあるように、自分の人生の中にも異常が常態化して、それが日常になり、今の暮らしができあがってしまったのだと。だとすると、自分の人生の中の「熱帯夜」は何だったのだろうと一瞬考えたが、今更考えても答えは出ないという半ば諦めの様な気持ちで考えることをやめた。
思考を止めるのと同時に疲弊しきった男は再び深い眠りについた。
眠る男の隣では、男に踏み潰された虫の死骸が月の光を反射して怪しく輝いていた。
肌に纏わりつく黄ばみがかったランニングが、男の汗の量を物語っていた。
何年も前から使い続けている、埃まみれの扇風機を見ながらふと、農作業で生計を立てて暮らしている田舎の両親のことを考えたが、次の瞬間には頭から消えていた。
枕元のひび割れたデジタル時計は午前1時32分 気温28度を示していた。
寝苦しいのを熱帯夜だけのせいにして、もう一度寝ようと試みたが、それ以上の理由が男の汗にまみれたランニングの様に脳に纏わりついて離れてくれそうになかったので、男は再び目を開けた。
何日か前から人の顔の様で気持ち悪いと感じ始めていた天井のシミと目が合って、気分が悪くなった。
落ち込んだ気分を少しでも回復させようと洗面所に向かい顔でも洗おうと思ったが、一度寝ようと決めた身体を起こすのがこんなにも難しかったかと、老いを感じて男は悲しくなった。「少年期はあれだけすんなり起きれていたのにな」と思うと同時に、そもそも少年期のこの記憶こそがニセモノなんじゃないかと記憶そのものを疑いたくなった。
思い描いていた理想の未来と対極にある人生を振り返りながら男はゆっくりと身を起こした。
軽い目眩を覚えながらも、埃まみれの傘を被った電気の紐に手を伸ばしかけて、一週間前から電気を止められていることを思い出し、やめた。
闇夜に慣れた目を擦りながら、六畳半の部屋を洗面所の方へと歩きだした。散乱する空き缶と弁当殻の中を派手に音を立てながら進む。
突然、足に鈍い感触を覚え、声にならない悲鳴をあげる。足の裏にじんわりと広がっていく不快感に全身の毛が逆立つ。
不快感の正体を確かめようかと一瞬思ったが、それに費やす気力すら湧いてこない。一瞬の不快感に襲われ表情を数日ぶりに一変させた男の顔からまた表情が消える。
顔と一緒に洗えばいいと思い、足の裏の不快感を押し殺して、洗面所まで進む。
洗面所といっても浴室と一緒になっているいわゆるユニットバスで、入浴後に洗面所を使う際には、濡れたタイルの上を歩かなければならず、とても不便だ。
更なる憂鬱を感じながら浴室の扉を開けて一歩踏み入れる。
一歩目に不快な感触が伝わってこないので、昨夜はシャワーを浴びなかったかと思いながら、洗面台の上の蛇口をひねって思い出した。水が出てこない。そういえば、水道も一週間前に止められていたのだ。
今日は何故だか記憶がハッキリしないと思いながら、快方に向かうはずだった不快感がどうしようもなく受け入れるしかないことを知って、男は更なる絶望を覚えた。
浴室のドアを閉める気力もなく、フラフラとした足取りで半年ほど前から、寝ている時間以外もその上で過ごすことが多くなった薄いマットレスへと倒れ込む。
倒れ込んだマットレスの中で男は「熱帯夜」と自分の人生を重ね合わせていた。
常態化する異常な熱帯夜が暮らしの中に日常として溶け込みつつあるように、自分の人生の中にも異常が常態化して、それが日常になり、今の暮らしができあがってしまったのだと。だとすると、自分の人生の中の「熱帯夜」は何だったのだろうと一瞬考えたが、今更考えても答えは出ないという半ば諦めの様な気持ちで考えることをやめた。
思考を止めるのと同時に疲弊しきった男は再び深い眠りについた。
眠る男の隣では、男に踏み潰された虫の死骸が月の光を反射して怪しく輝いていた。
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