1 / 19
1 彼のいない世界
しおりを挟む僕の目の前には夫がいる。
「どうした? そんなにまじまじと見て」
「えっ、僕、見てた?」
消防士をしている逞しい彼が、屈託ない笑顔で答える。
「うん、なんか心ここにあらず? みたいな。お前にしては珍しいから、ちょっと可愛くてさ、ううん、だいぶ可愛くて抱きしめたくなった。ほら、おいで?」
「うん!」
夫に抱きついた。はぁ、幸せ。彼の香りに包まれて、いつまでもこうしていたい。
「好き、大好き」
「ああ、知ってる」
彼が笑いながら言う。
「本当に? 僕死ぬほど好きだよ」
「死ぬなんて軽く口にするなよ、死なれたら俺は悲しい。でもその気持ちは死ぬほど嬉しいかな」
「うん!」
夫は僕をもっとぎゅっと抱きしめる。いつもより強い抱擁に、僕はふいに不安になる。彼を見上げると、僕を見て悲しそうな顔をした。
「どうしたの?」
「蓮、お前はいつまでも俺の光でいてくれ。決して色あせないように」
「え?」
「俺は、お前が幸せになって、それで心残りのない生き方をして全うしてほしい」
どうしてそんな悲しい顔でそんなことを言うの?
「僕は幸せだよ、僕の隣にいてくれて、あなたと番になれて。幸せしかないから。何をそんなに不安そうな顔をするの?」
「俺も、そう言ってくれるのが嬉しかったんだけど、でもお前、俺がいない世界で生きていけないんだろ」
「当たり前でしょ、僕の唯一なんだよ。あなたのいない世界なんて考えられない」
夫はそっと僕にキスをする。いつだって僕たちはずっと一緒、キスも、抱擁も、当たり前にある世界。当たり前にある……?
――え?
僕は夫の言葉に、今の状況がありえない世界だということに気づいてしまった。
「わかってるだろ、もう俺はいないって」
「やだ、やだ、それ以上言わないで……」
僕の瞳からは涙が零れる。それを夫が手でそっとぬぐった。
「愛してる、蓮。俺の大事な光」
「僕だって愛してる!」
涙が止まらない。どうして嬉しい言葉をもらっているのに、悲しい涙が出てくるの?
「それは、お前がそろそろ現実に向き合う時間だからだよ」
まるで僕の心の声が聞こえたかのように、僕の思考に続く言葉を口にする夫。
「現実でしょ、ねぇ、そう言ってよ! 僕を置いていったなんて嘘だよね?」
「蓮……、俺たちはいつだって一緒だ。だからお願い、俺を想うならごはん食べて? ちゃんと寝て、元気な体でいて欲しい」
「無理だよ、無理。僕はもう、こんな世界に生きられない!」
僕の頬を両手で包み込む大きな手、この手が好き。顔が近づく、彼の全てが好き。彼なしで生きられない。そんなの初めからわかっていたじゃないか。彼は、僕を真摯な目で見つめる。
「蓮……愛してる」
「じゃあ、僕を置いていかないで……お願い。あなたの元に行くことを許してよ」
「うーん。そうだな、じゃあ俺が迎えに行くから、それまで待っててくれる?」
本当に迎えにきてくれるの? 夫は、今年やっと雪が降ることを知って、今日はこんなにはっきりと話してくれるのかな。
「もし、クリスマスに、もしも雪なら……」
「そうだ! 俺、今夜は生姜焼きが食べたい。蓮の生姜焼きはスタミナがつくし、とにかくうまいし! ねぇ、久々にもし、作ってよ」
僕の言葉を最後まで聞かずに、話を変えてきた。急に子供みたいな顔で、今夜のおかずの話をする。
――そんなこと言ったって、もう食べられないじゃないか!
それとも、この夢の世界にずっと僕をいさせてくれる?
「食べられるよ。お前いつも俺の分までごはん作ってくれるの、ありがたいって思ってる。お願い、今日は絶対生姜焼きな!」
そう思ってくれるなら、なんでいつも食べてくれないの。
「食べてるよ、マジで俺の嫁の飯は最高なんだって、こっちで自慢ばかりしてる!」
まるで本当に経験したかのように楽しそうに笑う夫。僕の心の声に普通に答えているし。
「わかったよ、今夜は生姜焼き沢山つくるね」
「ああ、期待してる! さぁ、俺の可愛い蓮。お前も一緒に食ってくれよな。それ以上痩せるのは禁止だからな」
「もう! わかったよ」
いつの間にか笑顔になる僕。こうやって彼はいつでも悲しみの僕を喜ばせる。それを見たら満足した顔で、いなくなるんだ。
いつもその繰り返し。
そして僕の瞳は開く。
彼のいない現実に戻る時間だった。目を開くと、大きなダブルベッドに横たわっていた自分を確認する。一人で寝るには大きすぎる。いつも目覚めると隣を見る癖は、彼が生きている頃から変わらない。
「今日はやけにリアルに僕の夢に出てきたね」
ぼそっと独り言をつぶやく。
「僕の願いを知って、それを止めに来たの?」
もちろんもう返答はない。それは……僕が現実の世界に戻って来たから。夢から覚める時間だった。いつも空しくて悲しくてしかたない。
夫がこの世を去って、いつからか僕の夢に出てくる彼と幸せな時間を過ごしていた。でもそれは僕が見る願望であって、現実世界に彼がいないことを毎朝思い知る。
今日も、この世界で僕は生きている。
輝きを失った――彼のいない世界で。
163
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
番解除した僕等の末路【完結済・短編】
藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。
番になって数日後、「番解除」された事を悟った。
「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。
けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
8/16番外編出しました!!!!!
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
3/6 2000❤️ありがとうございます😭
4/29 3000❤️ありがとうございます😭
8/13 4000❤️ありがとうございます😭
お気に入り登録が500を超えているだと???!嬉しすぎますありがとうございます😭
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる