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1 プロローグ
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ここは、高級ホテルの一室。
五井園潤は、これから始まる時間を想像すると胸が勝手に高鳴る。潤が二十歳の時、大好きな男と恋人になった。それからもう十年経つというのに、恋人はたまにサプライズのようなことをして潤を甘やかす。あの頃から彼の熱量はひとつも変わらない。それどころか年を増すごとに、どんどん深く愛されていく。
きっと今夜は甘い夜になるだろう。そう思うとたちまち熱くなる顔で、潤はホテルの窓際に立つ恋人を見つめていた。二人は夜景が広がる窓際でワイングラスを手に持っている。潤は彼の手を熱い目で見ていると、思いもよらない言葉を聞いた。
「俺、結婚する」
「え……」
突然、恋人からそう告げられる。
これから始まるのは甘い時間……ではなく、別れのための儀式だとでもいうのだろうか。今の今までそんな雰囲気が全くなかったので、潤は一瞬言葉を理解できなかった。
二人は食事を終え、部屋に入り窓辺で夜景を楽しみながら口づけを交わしていた。少し休み、ワインを飲んで窓の外を見ていた時、その甘い時間は終わりを告げたのだった。
潤は手に持っていたワインを窓際に置く。彼が冗談を言う人間ではないことを深く知り尽くしている潤は、このままグラスを持っていたら、この部屋の高そうな絨毯に落とす未来しか見えない。
彼が言う結婚する相手が潤ではないことは確かだ。
今の日本で同性婚は認められていない。
では一体誰と……言葉が出ず黙ってしまう。すると五歳年上の彼は、潤の頬を触り優しく口を開く。
「俺の戸籍に違う女の名前が入って、血が繋がった子どもの親になるだけだ。これで結婚しろと周りから言われることなく、お前と一生一緒に過ごせる」
自信たっぷりなのは相変わらずだが、その言葉に自信を持つ時点でどうかしている。潤は、彼の堂々と言う姿に苛立ちを覚えた。とにかく説明がないままに、結婚するという話を進めている。そして、女と言った。
「なに……言っているの?」
「ただの契約だから。嫁がいるほうが仕事がやりやすくなるし」
潤には言っている意味がわからない。
いや、わかる。こんなにも愛されているのに、たちまち他の誰かと結婚すると聞かされて素直にそれを信じたのは、潤には心当たりがあるからだった。いつかこんな日が来ると何度となく考えてきた。
彼は企業の跡取り息子。男性と付き合っていては、後継を作ることができない。付き合い始めた頃はそんなことを思いもせず、潤は初めての恋人に夢中になった。しかし、年齢を重ねると周りの雰囲気を肌で感じてくる。彼と同じ会社に勤める潤は、彼の仕事ぶりを見ているし、女性たちから羨望の眼差しを送られていることも知っている。
それでも自分だけを愛してくれている。その自信があった。だから見ないふりをしてきた。
しかし次期社長がいつまでも独身でいては体裁が悪い。だから結婚? 彼は「契約」と言ったが、子どもと言うからにはその行為がないはずがない。そもそも彼は、潤と付き合うまでは女性と付き合ってきていたのだから、性の対象が男だけではない時点で勝ち目がない。
それでは自分は愛人となるのだろうか。いや、ありえない。恋人が他の人と関係を持った時点で、この関係は終わる。潤の常識では、他の人との交わりは許せない行為であった。
そもそも女の影なんて見えていなかった。そんな素振りなど、全く見えなかっただけに、結婚という言葉に驚きを隠せない。
「ごめん、ちょっと無理」
「え?」
潤はそう伝えると、くつろぐために脱ぎ捨てた靴を再び履く。
結婚する……その言葉を理解できないが、とにかく今は無理だった。恋人の前で泣き出す数分後の自分しか見えない。いや、もうすでに元恋人で、愛人という立場のほうが正しいかもしれない。
惨めな姿を見せたくない潤は、最低限の言葉しか言えない。
「ちょ、ちょっと待て。潤、まだ話が――」
そこで焦る恋人は、潤の腕を掴んだ。
「触るな! どんな気持ちで今日僕をここに連れてきたの? 前に言ったよね。結婚するなら別れるって。その時、一生結婚しないって言った。だから僕はそれを信じて一緒に生きてきたのに。ううん、もういい。会社のためにも奥さんが必要なのは知っていたから、だから、もういいよ。解放してあげる」
「解放ってなんだよ!? お前そんなこといまだに思っていたのか!」
恋人は潤の手を強く掴む。
潤は、裏切った彼に怒鳴られるのが癪にさわった。それ以上に恋人として十年も付き合ったのに軽んじられたことが悲しくなる。本気の愛だと思っていたのは潤だけだったのかもしれない。後継者を作る義務だって彼にはある。彼がいずれはそういう未来を選ばなければいけないことをわかっていたはずなのに、どうして潤はそんな現実を見ずに、今日まで甘い囁きを信じてきてしまったのだろう。
潤の瞳から涙が零れる。それを見た恋人の力が緩んだ。そのすきに手を振り払い、精一杯の言葉を伝える。
「……さよなら」
潤は出てきた涙を隠すことなく、その部屋を飛び出した。
五井園潤は、これから始まる時間を想像すると胸が勝手に高鳴る。潤が二十歳の時、大好きな男と恋人になった。それからもう十年経つというのに、恋人はたまにサプライズのようなことをして潤を甘やかす。あの頃から彼の熱量はひとつも変わらない。それどころか年を増すごとに、どんどん深く愛されていく。
きっと今夜は甘い夜になるだろう。そう思うとたちまち熱くなる顔で、潤はホテルの窓際に立つ恋人を見つめていた。二人は夜景が広がる窓際でワイングラスを手に持っている。潤は彼の手を熱い目で見ていると、思いもよらない言葉を聞いた。
「俺、結婚する」
「え……」
突然、恋人からそう告げられる。
これから始まるのは甘い時間……ではなく、別れのための儀式だとでもいうのだろうか。今の今までそんな雰囲気が全くなかったので、潤は一瞬言葉を理解できなかった。
二人は食事を終え、部屋に入り窓辺で夜景を楽しみながら口づけを交わしていた。少し休み、ワインを飲んで窓の外を見ていた時、その甘い時間は終わりを告げたのだった。
潤は手に持っていたワインを窓際に置く。彼が冗談を言う人間ではないことを深く知り尽くしている潤は、このままグラスを持っていたら、この部屋の高そうな絨毯に落とす未来しか見えない。
彼が言う結婚する相手が潤ではないことは確かだ。
今の日本で同性婚は認められていない。
では一体誰と……言葉が出ず黙ってしまう。すると五歳年上の彼は、潤の頬を触り優しく口を開く。
「俺の戸籍に違う女の名前が入って、血が繋がった子どもの親になるだけだ。これで結婚しろと周りから言われることなく、お前と一生一緒に過ごせる」
自信たっぷりなのは相変わらずだが、その言葉に自信を持つ時点でどうかしている。潤は、彼の堂々と言う姿に苛立ちを覚えた。とにかく説明がないままに、結婚するという話を進めている。そして、女と言った。
「なに……言っているの?」
「ただの契約だから。嫁がいるほうが仕事がやりやすくなるし」
潤には言っている意味がわからない。
いや、わかる。こんなにも愛されているのに、たちまち他の誰かと結婚すると聞かされて素直にそれを信じたのは、潤には心当たりがあるからだった。いつかこんな日が来ると何度となく考えてきた。
彼は企業の跡取り息子。男性と付き合っていては、後継を作ることができない。付き合い始めた頃はそんなことを思いもせず、潤は初めての恋人に夢中になった。しかし、年齢を重ねると周りの雰囲気を肌で感じてくる。彼と同じ会社に勤める潤は、彼の仕事ぶりを見ているし、女性たちから羨望の眼差しを送られていることも知っている。
それでも自分だけを愛してくれている。その自信があった。だから見ないふりをしてきた。
しかし次期社長がいつまでも独身でいては体裁が悪い。だから結婚? 彼は「契約」と言ったが、子どもと言うからにはその行為がないはずがない。そもそも彼は、潤と付き合うまでは女性と付き合ってきていたのだから、性の対象が男だけではない時点で勝ち目がない。
それでは自分は愛人となるのだろうか。いや、ありえない。恋人が他の人と関係を持った時点で、この関係は終わる。潤の常識では、他の人との交わりは許せない行為であった。
そもそも女の影なんて見えていなかった。そんな素振りなど、全く見えなかっただけに、結婚という言葉に驚きを隠せない。
「ごめん、ちょっと無理」
「え?」
潤はそう伝えると、くつろぐために脱ぎ捨てた靴を再び履く。
結婚する……その言葉を理解できないが、とにかく今は無理だった。恋人の前で泣き出す数分後の自分しか見えない。いや、もうすでに元恋人で、愛人という立場のほうが正しいかもしれない。
惨めな姿を見せたくない潤は、最低限の言葉しか言えない。
「ちょ、ちょっと待て。潤、まだ話が――」
そこで焦る恋人は、潤の腕を掴んだ。
「触るな! どんな気持ちで今日僕をここに連れてきたの? 前に言ったよね。結婚するなら別れるって。その時、一生結婚しないって言った。だから僕はそれを信じて一緒に生きてきたのに。ううん、もういい。会社のためにも奥さんが必要なのは知っていたから、だから、もういいよ。解放してあげる」
「解放ってなんだよ!? お前そんなこといまだに思っていたのか!」
恋人は潤の手を強く掴む。
潤は、裏切った彼に怒鳴られるのが癪にさわった。それ以上に恋人として十年も付き合ったのに軽んじられたことが悲しくなる。本気の愛だと思っていたのは潤だけだったのかもしれない。後継者を作る義務だって彼にはある。彼がいずれはそういう未来を選ばなければいけないことをわかっていたはずなのに、どうして潤はそんな現実を見ずに、今日まで甘い囁きを信じてきてしまったのだろう。
潤の瞳から涙が零れる。それを見た恋人の力が緩んだ。そのすきに手を振り払い、精一杯の言葉を伝える。
「……さよなら」
潤は出てきた涙を隠すことなく、その部屋を飛び出した。
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