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第七話 懊悩

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「水族館なんて何年振り・・・」

三成の横で巨大な水槽を見上げながら、姫鷹が呟いた。
ゆらゆらと水面の合間から光が差し込み、時折眩しくて目を細める。
隣を見ると三成も自分と同じく、上を見上げていた。
姫鷹が初めて三成にあったのは五つの頃だ。古くから続く武家のしきたりに沿って袴着の儀を終えた後、兄の後ろに隠れている姫鷹に向かって、笑顔で手を差し伸べ「三成とお呼びください、姫若」と言ったのは中学生になったばかりの三成だった。
それから三成が大学を卒業するまでの実に十年間、二人はいつも一緒だったように思う。我儘に振る舞う姫鷹に諫言をしては溜息を吐きながらも、真面目な三成は自分の出来うる限りの時間を姫鷹のために使っていた。
いつも一緒にいる、従者。はじめは姫鷹もそんな感覚だったと思う。それがいつからか恋慕に変わっていた。それがいつの頃かはわからないが。

「どうしました?」

姫鷹の視線に気付いた、三成が姫鷹へと視線を合わせる。
ふ、と姫鷹は緩く笑って見せた。

「いや、俺のお付きは随分と美形に育ったもんだと」

軽口を返すと、なんですかそれは、と三成が苦笑を漏らす。

「俺のご主人様も随分とお綺麗ですけどね」

三成もまた、そうした軽口を返した。

「ご主人様、ね」
「昔から随分と専制君主でいらっしゃいますけどね」
「冗談。虎道兄さんのような人を専制君主と言うんだよ。知っているか?先日、いきなり凪虎兄さんがバリに連行された話を。俺はああまではなれないね」
「恐ろしい・・・」
「それに比べたら、優しいご主人様だろう?」

少しだけ近づいて、姫鷹は三成を見上げる。三成はその顔を数秒見た後に、

「まあ、そうですね。いきなりバリはないな・・・」

静かな笑い声を漏らしながら、三成が姫鷹の頭を撫でる。
ご主人様とお付き。どうにもならないその関係に胸がツキンと痛む。
けれど、その関係はお互い、どちらかが死ななければ変わりない恒久的なものだ。
あの奇跡のようなキスだけで諦めるのが、良いのかもしれない。
じっと見つめる姫鷹を三成は、どうしました?ともう一度返した。
何でもないよ、と姫鷹は肩を竦める。
諦めるには、育て上げ過ぎた恋心は大きい。それも時間が解決してくれるのだろうか?水槽に向き直ると、姫鷹は三成に分からないように緩く長い溜息を吐き出した。



溝内とは週に幾度かの逢瀬を、その合間に三成と会い・・・そんな日々が続いて既に1ヶ月が経とうとしていた。季節は冬へと向かう最中だ。
姫鷹に悩みがあると思い込んでいるーー間違いではないが、それが言えるはずもないものだとは知らずーー三成は責務を全うせんと、自分の許す限りの時間で姫鷹を誘った。何度か、悩みなどない、言ったがどうにも信じない。その頑固さには困ったものだが、会える時間が増えるのはどうしても嬉しい。しかしその嬉しさの反面、真面目な部分が『不誠実じゃないか?』と姫鷹を責め立てた。
姫鷹にとって不本意な成り行きであっても、そこに別の目的が隠れていたとしても、いま付き合っているのは溝内で、三成ではない。
三成とだって、そういう関係でもない。疚しいことなどないはずだ。が、心のどこかで酔った三成とのことを思い出し、あれを望んでいる自分も確かに居た。
そういう心苦しさがあってか、ここ最近の姫鷹は二人と会う時、物静かだ。
尤も、元より煩く騒ぐ性質でもないが。

「体調悪いなら、連れて帰ろうか?」

運転をしつつ発せられた溝内の言葉に、姫鷹は我に返る。誰であれ、自分の何かで気を遣わせるのは苦手なことで、ふる、と意識を正すように、姫鷹は首を振った。

「あ、いや。大丈夫。今日は、どこに・・・?今日こそは払わせてもらわないと」
「真面目だねぇ。そっちも困ってないだろうけど、俺も困ってるわけでもないし大丈夫だよ。あーでも、連れて行こうとしてたのはちょっと重めな料理だし・・・俺の家にでも来る?」

なんてね、とおどけた溝内へと姫鷹は視線を向ける。

「・・・それでも、いいよ」

そう答えると、溝内は驚いたように「え」と漏らした。運転中であるから、姫鷹の方を振り向くことはなかったが。

「それってさ、意味わかって言ってる?俺、期待しちゃうんだけど?」

確かめるように、溝内は問いかけた。
少しだけ、姫鷹は考える。相手は自分を脅して付き合うことに持ち込んだ男である。しかし、始まりがどうおかしい方向であっても、この男が自分を好きなのは、今までを見るに真実ではあるように思えた。写真のことを含めたとしても、この男を少しずつでも愛せれば、物思いは一旦終止符を打つかもしれない。
これも欺瞞じゃないかと言われれば、それはそうだとは思う。けれど『不誠実な自分』から抜け出すには正解かとも思えた。姫鷹はゆっくりと息を吐き出して、助手席のシートに身を預ける。

「いいよ。優しくしてくれるなら、ね」

小さくそう返して、姫鷹は目を閉じる。
自暴自棄の選択では、ない。正解とは言えないが、間違いとも言えないだろう。

「俺、今までだって優しかったでしょ?」

ふは、と溝内が笑った。
その通りで、あの始まり以外、横にいる男が人の道に外れるような行為はなく、優しく気遣ってくるばかりだった。姫鷹も、そうだね、と笑って返した。



溝内が住むマンションは、タワマンとは違えど趣味の良い建物にある一室だった。デザイナーものと思わしきそこは、一室一室も凝った作りのようで、溝内の部屋もそれが色濃く現れている。
内装もそれに応じて酒然なもので、内装に合わせて揃えられた家具も小洒落ている。

「ソファにでも座ってて」

溝内はリビングまで姫鷹を案内した後、そう言ってキッチンの方に向かった。
言われるままにソファへと座り、室内をぐるっと見回す。
広めの室内はオフホワイトやブラウンといった温かみのある色で纏められており、初めてである場所なのに、落ち着く。ソファの背へと身体を預けながら、これは結構絆されていないか?、と心の中で苦笑した。
暫くすると、溝内がトレーを持って姫鷹の座るソファに前に戻ってくる。
トレーをソファの前にあるテーブルへと置いて、溝内もソファへと座った。
姫鷹の隣ではあるが、人一人分を空けた位置だ。
そして、どうぞ、と淡い灰色のマグカップを姫鷹へと差し出す。
受け取り、マグカップの中を姫鷹は覗き込む。

「ハーブティー。飲める?気休め程度だけど、ちょっとは落ち着くよ」

そう言いながら自分ももう一つのマグカップを取って、口にした。ありがとう、と一言告げてから姫鷹もそれに口をつけた。家でだと、二番目の兄がいれば出してくれるお茶とよく似ている。

「美味しいね・・・」
「そ?なら良かった。まあ、車の中ではああは言ったけど、気にしないでいいよ。部屋に来たからと言って、がっつきはしないし。映画でも見ようか?」

溝内がもう一口啜りながら、言う。姫鷹も同じようにもう一口飲んでから、マグカップをテーブルの上へと置いた。その手で、溝内の服の裾を摘んで、引っ張る。

「貴方は、俺とは、したくない?」

溝内が姫鷹の言葉に、目を見張った。少しばかり考えてから、溝内も、テーブルの上にマグカップを置くと、裾を掴む姫鷹の手を取った。そして、その手に口付ける。

「後悔、しない?君はまだ、俺のことをそう好きでもないよね?」

その場所から姫鷹を見上げながら、溝内は首を傾げた。姫鷹は言葉に、どきり、とする。自分は溝内に事あるごとにそう言ってきた。けれどこうして会い続けている以上、溝内が勘違いしている可能性も考えていたが、その予想に反して、溝内は自分のことを正しく理解しているように思えた。

「・・・しない」

小さく答えた姫鷹の手を引っ張り、溝内が抱き寄せた。
その後。
お互いにシャワーを浴びた。姫鷹は自分の準備も、自分で整えた。溝内は、手伝おうか?とふざけはしたものの、押し入ったりすることもなかった。姫鷹は潔癖だと言うわけではないが、やはり気になって必要以上に中の洗浄はしてしまったかもしれない。
長めのシャワーから出ると、脱衣所には柔らかい素材のバスローブが置いてあり、タオルで水気を拭いてから、それを羽織る。安いラブホテルのものとは違い、タオルにバスローブも姫鷹が好む肌触りだった。
そのままリビングへと向かうと、溝内はソファへと座っていた。姫鷹の気配に気付いて立ち上がり、姫鷹の前まで来た。

「ああ、似合ってるね。貰い物でたまたまあったから出したんだけど・・・あって、良かった」

さりげなく姫鷹を抱き寄せながら、溝内は満足気に落とした。姫鷹はその手に逆らうことなく、腕の中に入る。
その場所から見上げると、溝内が微笑んだ。手を上げて、ゆっくりと溝内の頬を撫でて、口端に自分から口付ける。

「・・・優しく、頼む・・・」

やっとのことで絞り出した言葉はそんなものだった。そのまま溝内の唇が重なり、姫鷹は目を閉じた。瞼の裏に一瞬だけ、三成の眩しい笑顔が浮かんで、消えた。



そうして始まった行為は、姫鷹が望んだように優しいものだった。
それなりに慣れている行為ではあるが、キスなし・挿入なし・後腐れなしを守り抜いてきた姫鷹は、当たり前だが後ろを使った事はない。ただ、一人でする時に触る事はあった。だから、真っさらかと言われるとそうではない。しかし、人に触らせたことがないので、緊張は拭えず、身体の力を抜くのはなかなかに難しかった。
その点も配慮してか、溝内が性急にことを進める事はなく、キスや愛撫を繰り返し、姫鷹が快感を拾えるように進める。

ーー本当に俺を脅した男か?

溝内のベッドの上で、手の中で、喘ぎながら姫鷹は何度もそう思った。
魔がさしたのか?本性なのか?でも、優しく誠実・・・溝内の真意は到底わからない。けれど自分に触れる手は優しく、甘い。
その剛直を受け入れるときになっても、溝内は自分本位で動く事はなく、全てを姫鷹に合わせる。

「あ・・・っ、やぁ・・・・・・っ!」

ぐ、と今まで知らない質量に押入られる感覚に姫鷹が息を呑み、苦しさに眉根が寄る。

「力を抜いて・・・息を、止めないで」

姫鷹の上で溝内が、言い聞かすように囁きつつ、ゆっくりとその指先が姫鷹の頬を撫でた。

「・・・辛いなら、ここでやめとこうか?」

苦しそうな姫鷹に溝内は、柔らかい声音で問いかける。
もっと自分勝手に振る舞ってくれれば、絆されることもないだろうに。苦しい中で、そんな風に思いながら、首を横に振った。

「そのま、ま・・・し、て・・・はぁ・・・・・・」
「・・・わかった。辛くなったら止めるから」

そう言いながら、姫鷹の足を抱え直す。正常位と言われるそれは互いの顔がよく見えた。どう見ても間違いようがなく、三成ではない。けれど、今、溝内の顔に『彼氏ごっこ』を始めた時のような嫌悪感は消え失せている。それに今更気づき、姫鷹は自分自身に驚いた。意味がわからない、と熱に浮かされながら思う。
少しずつ、少しずつ、溝内のものが、姫鷹の中へと入ってくる。それは少しずつ少しずつ姫鷹の心のうちに染み渡ってくる、溝内の存在そのものだった。

「ふ、ぁ・・・っ、あ、あ・・・」
「ね、名前、呼んでよ・・・」

姫鷹を抱きしめるように、上体を落としながら、溝内は首を傾げた。
この行為が始まって、溝内が初めて自分の希望を述べる。

「あ・・・、な、ま・・・え・・・っ・・・」
「そう。央亮。呼んで、姫鷹」

耳元で囁かれる。甘く低いそれが耳の中を擽り、背中に腰に快感がゆるゆると走った。姫鷹は自分から、近くにある溝内の首に両手を回した。

「央亮・・・お、うすけ・・・っ・・・ひぁっ・・・!」

姫鷹が名前を呼ぶと、溝内が腰を動かして、長い時間をかけて進めたそれを全部埋め込む。中の肉がひくり、と蠢いてそれを包み込んだ。互いに息を吐き出して、どちらともなく唇が重なり合った。
溝内は最中、自身の欲望に溺れる事なく、丁寧に姫鷹を抱いた。それは終わるまでまるで宝物を扱うような手つきで、その手をその身体を姫鷹は受け入れていた。


全ての熱が過ぎ去り、姫鷹は今、溝内の手の中で眠っていた。
初めての行為はそれなりに疲れたらしく、何度か溝内が声をかけたが、起きることはない。溝内が時計を見ると、まだ20時を過ぎたところだった。もう少し寝かせて起こせばいいか、と自己完結して、腕の中にいる姫鷹を見る。
起きていても、眠っていても、その顔は美しく、溝内の好みそのものだった。
初めて姫鷹に会った時の衝撃を、今でも溝内は忘れたことがない。
バーに入ってきた姫鷹の姿は、まさに自分が思い描いていた理想の具現化であって、初めて目にした時の衝撃は今も脳に焼き付いて、そのままだ。
少しずつ近付き、姫鷹の好みを把握して、自分を認識させた。
姫鷹を観察してわかったことは、選ぶ男の姿が一定していること。
関係に、キスなし・挿入なし・後腐れなし、と規制があること。
そして、性的な嗜好は周りに隠していると言う事実だ。
元々仕事のための装いではあったが、姫鷹の好みがそれであると知れば、仕事でない日もその姿でバーを訪れた。
結果は上々で、関係を持つことが出来た。姫鷹がこちらに難色を示している様が垣間見えたこともあり、多少強引な手段に出たものの、終わりよければ全てよし、だ。憂慮は残っているが、少しずつ潰せばいい。
幸いにも自分にはそこそこのカードがある。
それにしても、今日は気分が良いーー何せ、姫鷹の初めての相手を勝ち取ったのは自分だ。溝内は心が踊る気分だった。
バーでも少なくない人数がそれを狙っていたが、そこを勝ち得た優越感。そして何より、姫鷹が誰も許さなかった領域へと到達できた制圧感。自然と笑みが漏れるくらいに、溝内はとにかく気分が良かった。
けれど、身体を繋げたからと言って態度を崩す気は溝内にはない。そもそもの話、バーで得た関係の方が溝内にとっては好ましいものではなく、基本的には姫鷹と過ごしてきた今までの時間こそ、自分のペースだ。
なので、今後も自分が許す限りは姫鷹を甘えさせて、姫鷹の望む節度で触れ合い、こちらへの依存度を強めていく気ではある。いや、気分の良さを加味すればもっと優しくしても問題はない。
だから、溝内は腕の中で眠る姫鷹に微笑んで、

「・・・大濠三成クンとのことは、少しだけ見逃してあげるよ。少しだけ、ね」

溝内は起こさないように小さく呟きながら、眠っている姫鷹の唇を啄んだ。
大濠三成ーーその名を姫鷹が溝内に教えたことは、なかった。
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