上 下
8 / 23

第八話 落花

しおりを挟む
「好きだよ」
「愛してる」

快感の海の中を揺蕩いながら、姫鷹は繰り返し聞いた。
そう繰り返すのは、慕い続けた男の声ではない。
けれど甘く包み込むそれは、とても心地良い。
しかしその水底は罪悪感で黒く濁っていて、目を向けるには苦しくて、姫鷹はいつも目を瞑る。

「姫鷹、姫鷹」

名を呼ばれて、姫鷹は目を開ける。
どうやら自分は意識を飛ばしていたらしい。心配そうに覗き込んでる顔は、今は見慣れた溝内のものだ。

「あ・・・」
「大丈夫?」

ゆっくりと溝内から頬を撫でられて、息を吐く。姫鷹が小さく頷くと、ほっとしたように溝内も安堵の息を吐いた。

「びっくりしたよ、きつかった?」

溝内は身体を起こすと、いまだ裸のままの姫鷹の上へと毛布をかける。
姫鷹はじっとその行為を眺めていた。
初めて溝内に身体を許してから、既に幾度目だろうか。もう違和感も感じないほどの、溝内との行為に身体も慣れた。それどころか、快感ばかりを与えられて、今日のように一時的に気を失うことさえある。
何度身体を重ねても、溝内は自身の思うままに振る舞うことはない。あくまで姫鷹を優先的に扱い、セックスの時だって無理はさせない。端的に言えば上手いのだ。
それに加えて、姫鷹は敏感すぎた。それでたまにこうして意識が飛ぶ。
その度に、溝内は心配そうにするが、体質的なものはどうしようもない。

「いつも言ってる・・・貴方が・・・・・・央亮が、うますぎるって・・・」

そう姫鷹が言うと、溝内は一瞬、動きを止めた。そして、ふは、と笑って姫鷹の隣に寝転んだ。柔らかく、姫鷹の頬へと口付けた。

「あー・・・駄目でしょ、直後にそんなこと言ったらさ。どうすんの?もう一度、とか俺が言い出したら」

互いの顔を近付けながら、溝内が首を傾げた。声音は明るいもので、それが本気でないことなんて姫鷹にもわかる。姫鷹はそんな男の首へと両手を回す。

「いいよ、もう一度でも・・・」

そう言いながら、近くにあった溝内の唇へとキスをした。
それは側から見れば幸せな恋人同士の一場面だ。
けれど、姫鷹の中にはいまだ初恋が渦巻き続けていて、拭っても拭っても拭いきれない想いをどうしていいかわからないままだ。
そんな姫鷹の元に、生真面目な大濠三成という男はせっせと通って来る。それだって本来であれば、兄に話を通して三成の訪問を止めればいいだけの話だ。
それをしないのは、矢張り三成に会いたい自分がいるからであって、そしてそれを責める自分もいる。その罪悪感と、もう一つの罪悪感は溝内が自分に与えてくれるだけの熱量はほとんど返せていない、ということだ。
その二つを償うように、溝内へと身を許す。それに触れ合えば触れ合うだけ、溝内を想う気持ちを育てられそうな気がした。しかし、結局はどちらにも振り切ることも出来ず、二人に甘えているだけだ。姫鷹にだってそれは嫌というほど分かっている。

「あのさ。気にしないでいいよ」
「え?」
「セックスをしたからって好きになるわけじゃないよ?だからさ、無理にする必要はないさ」
「あ・・・」

言葉に戸惑い、姫鷹は声が出せなかった。まるで自分の思考を読まれ切っているようで、息が詰まる。けれど溝内はそんな姿に怒るわけでも咎めもせず、ゆるりと、姫鷹の頬を撫でる。

「ま、とは言え。俺としては嬉しいけどね。少なくとも、俺とのセックスに嫌悪感はないってことだし?キスなし挿入なしの鉄壁の佳人がさ」
「なんだ、それ・・・」
「いやいや。姫鷹のことを狙ってた男は多かったよ。姫鷹が知らなかっただけでさ。それに、さ。強引に付き合わせて申し訳なかったと、俺も思ってるわけで」

溝内は苦笑を浮かべながら、もう一度、姫鷹の頬を撫でた。

「それは、どういう・・・」
「そのまんま。反省をしているんだよ、これでも。姫鷹のことが好きすぎて、やり方を間違ったな、って」
「そ、れは・・・」

まさか溝内からそんな言葉が出て来るなど、露ほども思っていなかった。姫鷹は困惑して瞬きを繰り返す。溝内は浮かべた苦笑をそのままに、上体を起こして姫鷹の手が外れると、その右手を取って甲に口付けた。

「あの写真、消すよ」
「・・・・・・!」

姫鷹が思わず起き上がると、溝内は手を離して、ベッドの上に無造作に置かれていたバスローブを手繰り寄せて、姫鷹の肩へとかける。
それは初めてのあの時から、姫鷹専用になった柔らかい肌触りのものだ。

「そろそろ解放してあげないと、と思ってたからね」
「解放・・・・・・」

溝内の言葉を繰り返す。解放ーー別れる、ということだろうか?そもそもの付き合う理由は『写真を消させるため』だ。それを消すというのだから、姫鷹にすれば願ったり叶ったりの話。なのに、姫鷹の中に嬉しいという気持ちが湧き上がっては来ず、代わりに生じたのは歯痒さだ。

「・・・それは、別れる、ということか?」

自分が出した声は予想以上に低く、驚いて、姫鷹は自分の口元を押さえた。
まるで怒っているような声だ。怒っている?何に?目の前の男は自分を脅した男であって、付き合う理由は写真を消させることに相違ない。それがひょんなことから達成されて、嬉しいはずだ。この様子ならばもう脅して来ることはないだろう。喜ぶべきところであって、怒ることではない。嬉しいこと、だ。そこまで考えて、

「・・・・・・ちがう」

と小さく小さく姫鷹は呟いた。それは小さなものではあったが、部屋は静かで互いの距離は近かった。溝内に聞こえないはずもない。

「姫鷹?」

名前を呼ばれて、姫鷹は顔を上げる。

「・・・セックスをしたら、もう、満足?」

姫鷹から出た声は矢張り低いものだった。溝内は何度か瞬きをした後に、困ったように眉を下げた。その顔に、苛立ちが募る。おかしい。どうして自分は怒っているような声が出る?喜ばしい事態のはずだ。好きなのは三成で、この男ではない。なのに、なぜ、心がこんなにモヤモヤとするのか。姫鷹は、まるでわからない。自分自身の感情を把握できないまま、姫鷹は口元にあった手で、溝内の腕を掴む。

「おかしなことを・・・俺はずっと姫鷹のことを好きだって言ってるよ?」
「でも、別れると」
「それはね。散々、俺に付き合ってくれたのだし。好きでもない俺に、さ」

ごめんね、と続けられた言葉は小さいものではあったが、ふざけたものではなかった。姫鷹は唖然として、溝内を見つめた。

「好きでも、ない・・・・・・」
「違う?ああ、いや・・・・・・責めてるわけじゃないんだよ。そんなことは分かっていたしね。だから、こういうのはもうやめて・・・せめて友人になれたら、って思うけど」
「友人・・・・・・」
「そう。駄目?」

好きじゃない。
友人。
ぐるぐるとその単語が姫鷹の中で回り続ける。これではまるで、別れを嫌がって追い縋っているのは自分みたいだ、と思った。

別れが嫌で?ーーーーどうして?喜ばしいはずだ。これで憂いはなくなる。
嬉しいはずだーーーー違う、嬉しくない。苛々とする。
どうして?嫌いだろう?ーーーーそうだ。嫌いだったはず、だ。

そうだ好きじゃない。自分が好きなのは三成であって、溝内央亮、ではない。
ではこの男が嫌いなのか?自分をあんなものを使って脅した男だ。なのに、何故。
反問が心の中でずっと続いた。

「姫鷹?」

もう一度、名前を呼ばれて、思考から呼び覚まされる。ゆっくりと、溝内は自分の腕を掴んでいる姫鷹の手を取って、握った。

「俺、は・・・・・・」
「うん」
「今のままが、いい・・・・・・」
「でも、それは・・・」

別れたくない、とはっきりと言葉に出来ないのは未だに混乱があるからだ。三成のことを思い切れないのに、目の前にいる男が離れていくのは、嫌だ、という気持ちが生まれている。相反するそれに、姫鷹は混乱していた。

「今のままが、いい・・・・・・」

もう一度言うと、溝内は握った手を引っ張り、姫鷹の身体を自分の方へと寄せる。そして抱きしめた。

「おかしなことを言うなぁ・・・俺のことなんて、好きじゃないよね?」

緩く息を吐き出しながら、溝内は表情と同じく困ったような声で、姫鷹に問う。姫鷹は答えることができず、腕の中で息を潜めた。

「姫鷹・・・教えてよ」

溝内の片手が姫鷹の背をゆっくりと撫でた。姫鷹は矢張り答えられないまま、口を噤む。好きじゃない、でも、嫌いじゃないーーその気持ちがせめぎ合い、そこに三成を引きずる自分が責めてくる。

「・・・・・・わからない・・・・・・」

どうしようもなくて、姫鷹は正直に答えた。溝内の手は変わらず、姫鷹の背を撫で続ける。

「嫌いでは、ない?」

問われたことに、頷く。

「そっか。じゃあーー・・・ちょっとは、好き?」

姫鷹は身体を僅かばかりに、揺らした。ちょっと。その曖昧な言葉。
今の姫鷹に取って、嫌いではなく、会うことにも前のように面倒だと感じることはなく、セックスだって嫌悪感はまるでない。
迷い続ける自分に「ちょっと」という曖昧なものは、敢えて溝内が与えてくれている逃げ道のようにも思えた。姫鷹は小さく、頷く。

「わかった。姫鷹の望むように」

ふ、と溝内は息を吐き出してそう言った。姫鷹はその場所から、溝内を見上げる。

「・・・今の、まま・・・?」
「それが、望みなら。ま、あまりおすすめはしないけどね」

肩を竦めて、溝内が微笑む。姫鷹も、息を吐き出した。
三成とも溝内とも、どちらとも離れようとしない自分に、唾棄する自分がいる。どこまで悲劇を演じるお姫様気取りだ?と。そう思う気持ちに蓋をしながら姫鷹は、ごめん、と溝内に告げて、両手を再びその首に回した。

「央亮・・・・・・もう一度、抱いて・・・・・・」

そう姫鷹が告げると、姫鷹の背にあった手が腰に周り、ゆっくりとお互いの体を横たえる。
姫鷹の額に口付けながら、お望みのままに、と溝内がーー央亮が呟くように告げて、身体が重なった。
自分の気持ちを抑えるために他人を利用するなんて汚い人間だな、と封じた蓋の隙間から自分の声がしたが、それを打ち消すように、姫鷹は快楽の海に沈んだ。
しおりを挟む

処理中です...