恋した君は、嘘のキミ──それでも、好きにならずにいられなかった──

めがねあざらし

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第15話:好きかも

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レオンがネクタイを緩める仕草を、目で追ってしまった。
そんなつもりはなかったのに、視線が勝手にそこへ行く。白いシャツの襟元がわずかに開いて、香水の残り香がふっと零れる。喉の奥が乾いて、息が浅くなる。

「どうしたの?」

目が合った。心臓が跳ねる。誤魔化すようにグラスへ手を伸ばしたけれど、指がすこし震えて、氷が小さく跳ねた。

「……別に」

言い終わらないうちに、レオンはコースターを俺の方へひと押しして、グラスの結露を親指で拭った。さりげない所作ひとつが、どうしていちいち胸に刺さるのか、理解はできない。できないけど、刺さる。

「今日は軽めでいこう。明日、レポートだろ?」

「なんでそれ……いや、話した……?」
「この前、少しね。だから無理はさせない」

目の端がかすかに笑っている。営業だ、って頭のどこかで鳴る。けれど、その音はやけに遠い。
運ばれてきたカクテルは、昨日より色が薄い。最初の一口で舌の奥がほどける。レオンは対面じゃなく、斜めに座る。距離は、手を伸ばせば触れられるくらい。

「昨日の制服、似合ってた」

喉がひゅっと鳴った気がした。カフェのことだ。あの小さな世界に、レオンが来た時間を思い出す。ストローが氷をかき混ぜる音。視線。低い声。

「……仕事中だったから、ごめん」
「謝るのは俺のほう。邪魔、しちゃったから」

邪魔、という言い方が妙にやわらかくて、胸の奥がきゅっとなる。言い訳を探すみたいに、グラスの水滴を指でなぞる。指の腹に冷たさが移る。それでも中身の熱は引いてくれない。

「ところで、文献の整理どうなった?」
「……まあ、その。なんとか形には」
「よかった。困ったら連絡して。学術用の検索、ちょっとだけ詳しいから」

「……ホストの仕事と関係あるの、それ」
「あるよ。君が楽になれるなら、どんな職業とも繋がる」

冗談みたいな口ぶりのくせに、目の色だけはふざけてなくて、視線が外せない。息を吸うたび、柑橘が混じった香りが薄く胸に落ちていく。

他愛ない話題をいくつか往復して、笑ったり、頷いたり。会話の波がふっと引いた、その隙間に、レオンは肘をテーブルに置いて、頬杖をついた。角度が少しだけ変わって、顔が近い。近いのに、やたら落ち着いた眼差しで、まっすぐにこちらを見てくる。

「陸くん」

名前で呼ばれるたび、身体のどこかに見えないスイッチが押される。何度だって同じ反応をしてしまう自分が嫌だ。嫌なのに、止め方も知らない。

「この前、言ったよね。俺だけ見てよ、って」
「……まあ、うん」
「覚えてて、うれしい」

さらりと言って、指先でコースターの縁を一周なぞる。小さな円の軌跡を追うみたいに、俺の視線も引っ張られる。その指が、テーブルの上でそっと止まった。次の瞬間、今度は俺の手の上に重なる。冷えた皮膚の上に、体温がゆっくりと乗る。反射的に引っ込めようとして、動けない。

「……どうして、そんなにからかうかなぁ」

口が先に動いた。自分でも情けないくらい、頼りない声だった。

「違うよ」

間髪入れず、低く、まっすぐに。
先日と同じ返答なのに、今日は逃げ場がなかった。指に重ねられた体温のせいか、視線のせいか、言葉のせいか。たぶん全部だ。

「違う、って……」
「うん。違う」

手の甲を親指で一度だけ撫でられて、心臓が余計な跳ね方をする。
そんな小さな触れ方ひとつで、呼吸の仕方を忘れる自分が、馬鹿みたいだ。

「ねえ、陸くん」

呼ばれる。逃げられない。目が逸らせない。

「もし、俺が――」

レオンの声が、ほんの少し落ちた。
耳の奥で鳴っているジャズのベースより、低い。
その高さは、あの洗面所の記憶を呼び出す。額に置かれた手、触れないまま残された熱。

「……好きかも、って言ったら、困る?」

空気が止まった。
店全体の音が遠ざかって、氷の音だけがやけに鮮やかに跳ねる。血の音がそれに重なる。

好きかも。

好き、の手前にとどまる一文字。
なのに、十分足りてしまう破壊力。
困る?困らない?困るに決まってる。
でも、困るって言った瞬間、何かが本当に終わってしまう気がして、口が動かない。

「……そ、そんなの」

声が出た。出てしまった。続く言葉が見つからない。
喉の奥に並ぶのは、全部の反対語。違う。営業だ。男同士。勘違い。落ち着け。無理だ。無理――だよな?

「困らせたいわけじゃない」

レオンは、握っていた手をいったん離して、代わりにテーブルの縁にそっと置き直した。距離を半歩だけ戻す。逃げ道を残すやり方が、逆に心臓を締めつける。

「でも、覚えておいて。俺は、君を困らせたいんじゃなくて……」

言い淀む。視線だけが動かない。
続きが来るまでの一秒が、やけに長い。

「……君が楽になるほうへ、押すつもりだよ」
「楽って、なにそれ……」
「君が決めるほうに。俺はその背中を、ほんの少しだけ」

笑う。やわらかい笑顔だ。けれど、目は笑いきらない。
その目が、嘘をついてない、と言う。
信じるな、と別の自分が言う。
その二人が胸の中で殴り合いを始める。やめろ、静かにしろ、順番に話せ。無理だ。無理だって。

「……だって、俺は」

絞り出すみたいに言葉を探す。何を言いたいんだ。断りたいのか、受け取りたいのか。
受け取ったらどうなる。断ったらどうなる。断れたことなんて、まともにあったか。
膝枕。頬のキス。手の温度。声。
全部が頭の中で同時再生されて、脳が過負荷を起こす。

「陸くん」

低い声が名前を呼ぶ。その一音で、思考がまた白く点滅する。

「答え……今はいらないよ」

テーブルの上で指がすれ違う。
触れない距離で、ぎりぎりをなぞる。
逃げ道を残すやり方。優しいのに、ひどい。優しいから、ひどい。

「ただ――」

レオンの視線が、すこしだけ落ちた。俺の口元と目の間、聞き分けのない場所に、静かに焦点を合わせる。

「君の鼓動が、俺の声で速くなるなら……それだけは、覚えておいて」

耳の奥で、自分の心臓が正直に鳴る。
やめてくれ、と言いたい。うるさい、とも言いたい。
でも、止まらない。
ジャズのベースが遠い。氷の音が近い。呼吸が浅い。視界の端が明るい。
脳内で赤い非常灯がくるくる回る。
好きかも。好きかも。好きかも――違う。違うだろ。違うに決まってる。

「……俺は」

言葉が続かない。舌が重くて、口の中で転ぶ。
レオンはそれ以上、何も言わなかった。ただ、穏やかに笑って、グラスの水滴をまた親指で拭った。俺の代わりに、濡れた輪郭を片付けるみたいに。

グラスの底で氷が、からん、と鳴った。
その音に合わせて、心臓がまた、間抜けみたいに跳ねた。
どうしてこんなに単純なんだ。どうして、こんなに単純にされる。

視界の中心で、レオンが静かに瞬きをする。
俺は、グラスを持つ指の震えをごまかす術を探しながら、何も言えないまま、うなずくことすらできなかった。
店の照明がゆっくりと色を変える。時間が進んでいるのに、俺だけが置いていかれているみたいだ。

――好きかも、なんて。
そんな言葉ひとつで、どうして世界がぐらつくんだよ。
いや、俺はその理由を知ってる。

だって、俺が──……。
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