もう殺されるのはゴメンなので婚約破棄します!

めがねあざらし

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55、欠片の魂が触れ合う場所

歌が途切れた瞬間、世界の輪郭がひとつ分ずれて見えた。

立っているはずの足元の感覚はそのままなのに、意識だけが、ひどく静かな深みへ落ちていく。
落ちるというより、誰かにそっと抱えられて沈められるような、
そんな優しい下降だった。

「……イリィ?」

アルバートの声が、遠くで水越しに響く。

けれど僕の身体は倒れない。
膝も折れない。
息さえ乱れず、まるで何事もなく立っている。

ただ、そこにいるのはもう僕だけではなかった。

(……イライアス、ありがとう。貸してくれて)

胸の真ん中に、触れるように声が落ちた。
その響きは、僕自身よりも僕の奥深くに馴染んでいて、拒絶の余地を残さないまま、静かに僕を包み込んだ。

リセル。

その名が形になるより先に、僕の視界がわずかに揺れ、そして――二重になった。

僕の見ている部屋の光景の手前に、もうひとつの像が重なる。
透明で、淡く、光の粒子でできたような影。
それが、僕と同じ位置に立ち、僕と同じように息をしている。

ただ、それを見ているのは僕ではなく――
ラディウスだった。

彼の瞳だけが、僕ではなく“僕の中のリセル”を捉えていた。

「……リセル」

呼ぶ声が震えていた。
さっきまでの冷徹さも、狂気も、そこにはなかった。
あるのはただ、喪失を埋めようと手探りで闇をかき分ける人の声。

リセルの意識が僕の身体をそっと動かした。
僕の指先がわずかに上がる。
呼吸が変わる。
熱が違う。
僕の身体なのに、僕ではない。

「ラディウス」

僕の喉を使って、僕の声ではない響きで、その名が呼ばれた。

ラディウスが泣き出しそうな顔をした。
相手の気配が掴めない幼子のように、手探りで近づきながら。

「リセル……戻って、きたのか……?」
「違うよ」

リセルは微笑んだ。
僕の唇に乗るその笑みは、
穏やかで、哀しくて、どうしようもなく優しかった。

「戻ってきたんじゃない。
ほんの欠片が残っていただけ。
魂の端っこみたいなものだよ」

「嘘だ。そんなはず……あるものか……!」

ラディウスの声が、剥がれ落ちるように崩れる。
その必死さが痛いほど伝わった。

リセルはそれを見つめ、まるで迷っている子供の頭を撫でるように、僕の身体のまま、ゆっくりと言葉を落とす。

「もうやめよう。ね?」

その声が部屋の温度を変えた。
ラディウスの呼吸が止まる。

「俺は――向こうで待ってる」

静かな一言。

その瞬間、ラディウスの足元から崩れたのは、魔力でも、殺気でもなく、“希望”だった。

「……待ってる……?」
「うん。あなたが生きて、償って……それで、全部終わったら。その時、迎えに来るよ」

ラディウスの指先が震える。
掴みたいのに掴めないものを前にした震え。

「リセル……嫌だ……嫌だ……!そんな……そんな終わり方……!」
「違うよ」

リセルはそっと首を振った。
僕の髪が揺れる。

「終わりじゃない。始まりだよ」

その優しい声は刃だった。
ラディウスは胸の中央を素手で抉られたような顔をした。

「……戻ってこい……お願いだ……ここに……今すぐ……!」
「戻れないんだ」

リセルの声が薄く揺れた。
そこにあるのは嘘でも慰めでもなく、
ただ静かな事実だけ。

「俺はもう、向こうへ片足が沈んでる。残っているのは、本当に小さな欠片だけ。イライアスの中に……たまたま引っかかってただけなんだ」

ラディウスの唇が音にならない声を漏らす。
リセルはそっと近づき、ラディウスの頬に触れようと手を伸ばした。
けれど、その指は彼に触れない。
光がこぼれるみたいに、すり抜けていく。
それでもラディウスは、その幻の手に自分の頬を寄せようとした。
涙をこらえるように、肩を震わせながら。

「リセル……リセル……!」
「泣かないで。ごめん、ずっと伝えられなくて」

リセルは微笑み、僕の身体をつかって、ラディウスにゆっくり顔を寄せた。
光の唇が、触れられないはずの頬へ――ほんの一瞬だけ、重なった。

「ようやく、伝えられた。何回も繰り返す中で、ようやくラディウスと話せた」

ラディウスの目が大きく見開かれる。
崩れていく、というより、やっと壊れることを許されたような表情。

「ラディウス。ありがとう。愛してくれて。俺もずっと――愛してる。俺の番」

その言葉は祈りに近く、呪いにも似ていて、
救いだった。

光が揺れた。
影がほどけるように、リセルの気配が薄くなる。

(……イライアス)

最後に、僕の中へそっと触れる声。

(返すよ。大事にしてあげてね。君の世界を)

温度がふっと離れる。
胸の奥の欠片が、風に溶けていくみたいに消えた。

リセルは、
消滅したのではない。
ただ、向こう側へ返っただけだと――本来の魂がある場所に戻っただけだと、そう確かに感じた。

視界がひとつに戻る。
僕の身体が僕のものへ戻る。

ラディウスが膝から崩れ落ち、掠れた声で名を呼んだ。

「……リセル……」

もう誰も、答えなかった。




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本日全話アップする予定です。
ただし出来上がり次第になるので、まとめて読みたい方は明日の夜に覗いてみてください。
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感想 7

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