もう殺されるのはゴメンなので婚約破棄します!

めがねあざらし

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57、沈んだ余韻と、身体の兆し

王宮の白い廊下を離れてアルバートの屋敷に戻ったあの日から、
気づけばもう一週間以上が過ぎていた。

あの夜の緊張や騒ぎは遠い出来事のように沈み、
僕の周囲は何もなかったようにもとの静けさが戻っているはずなのに、なぜか胸の奥だけが、ずっとゆっくりと波打っている。

夕刻が沈みきった窓の外は、金でも藍でもなく、
疲れた誰かのため息が空へ溶けていくような曖昧な色をしていた。
そのぼんやりした光景に寄り添うように、ここ数日、僕の意識もまた、どこか定まらず揺れ続けている。

胸の奥が、ずっとおかしい。

痛いわけではない。
熱い、と言えばそうだし、冷たい、と言ってもあながち嘘ではない。
喉の奥に残ったリセルの歌の震えが、まだどこかで鼓動を真似していて、それが鼓動と混ざり合うたび、息が浅くなる。

(……なんだろう、この感じ)

思考はまだ保っている。
術痕が蘇ることもない。
けれど、感覚の方が僕よりも先にどこかへ落ちていく。
階段を下りているつもりが、足元が二段飛ばしで沈むような、そんな奇妙な空白が胸に生まれて、そこへ熱が満ちる。

アルバートはここのところずっと、まるで決まった時刻を告げるように僕の部屋を覗きに来ては、起きている僕を見るたびに小さくため息を漏らした。
そのため息に叱責はなく、ただ僕のことを気遣う温度だけが、静かに滲んでいた。

そして今も、ほとんど同じ時間に扉が開き、その気配が、普段より強い。
普段なら僕より一歩引いて見守る彼が、まるで逆で――僕のすぐ側にいたいと言っているような、そんな近さで。

(……ちょっと、変だ)

そう思ったのは、アルバートを見る目でも、彼の態度でもなく、彼に触れられた僕の身体の方だった。
手首に触れた彼の指先が、ただそれだけで胸の奥をざわつかせる。
さっきまで冷たかったと思っていた自分の皮膚が、まるでずっと前から温度を欲しがっていたみたいに急に反応してしまう。

「……熱いな」

アルバートの手が僕の額に触れる。
それは看病のための、ごく普通の手つきなのに――身体が、びく、と跳ねる。

「え……?」

自分で驚いて一歩引こうとするのに、足がうまく動かない。
逆に、引いた一歩を埋めるようにアルバートの手が腰を支える。

「イリィ、どうした?」

その声が心臓に落ちた瞬間、胸の奥の熱が一段と強くなる。
呼吸が乱れるほどじゃない。
もっとずっといやらしい形で、深いところが温まる。

(これ……なんで……)

答えられない沈黙を悟ったのか、アルバートが僕の肩を抱いて、ベッドの縁に腰掛けさせた。

「疲れてるんだ。忙しない日々だったし……身体も心も限界で当然だ」
「……そう、なのかな」

言いながら、喉の奥にかすかな疼きが走る。
疼きというより、呼吸の隙間に滑り込む熱のようで、気を抜けば声が漏れてしまいそうな危うさがあった。

アルバートは僕を寝かせ、また一つ息を吐いた。

「……大人しくしていてくれ」

(休んではいるんだけど……)

僕が俯くと、ふわりと鼻先をくすぐる匂いがした。
アルバートの、いつもの落ち着いた匂い。
なのに今日は、妙に鋭く感じられて、喉の奥で何かがきゅっと縮まる。

「アルバート……?」

彼は返事をせず、ふと僕の首元に顔を寄せた。
髪に触れもしない、ただ距離を測るような仕草。

そして、はっきりと息を止めた。

「……イリィ。この匂い……」

その言い方が怖くて、思わず布団を掴む。

「な、に……?」
「違う。言わなくてもいい。分かった……」

アルバートは目を閉じ、呼吸を乱した。
自制しようとしているのがわかった。
抑え切れていない何かが、彼の中からこぼれそうになっているのも。

「イリィ、大丈夫か。どこが苦しい?」
「どこって……なんか……へんな……熱くて……」

言った瞬間、下腹がきゅっと締め付けられ、奥が疼いた。
声がまた漏れそうになるのを歯でかろうじて止める。
アルバートが僕の手を包む。
その手の温度ひとつで、身体がいちいち反応してしまう。

「違う……今は、だめだ。落ち着け……」

彼の声が震えていた。
落ち着かせるための声なのに、どこか獣のような低さが混じっている。
いつもなら気づかないはずのその揺らぎが、今の僕には痛いほど分かる。

(アルバートも、変だ……違う、っぱりこれ……)

分からない。
分からないのに、手を伸ばしてしまう。
胸元に指をかけると、アルバートの肩がひどく大きく上下した。

「イリィ……それ以上触るな……俺が……抑えられなくなる……」

必死の声。
けれど、その必死さが逆に胸を震わせる。
怖くない。
むしろ、安心する。

「アルバート……やだ……熱い……」

言葉が自分のものじゃないみたいな響きだった。
額が彼の胸へ落ち、ひとつ呼吸するだけで、熱が一気に下腹へ広がる。

アルバートが僕を抱きしめる。
落ち着かせようとしているのに、その腕は震え、呼吸は荒い。

「……イリィ……もう少しで落ち着くはずだ……薬を持ってくるから」

恐らくそれは抑制剤のことだ。
僕は、発情、している。

(落ち着かないよ……こんなの……)

胸の奥が、心臓と違う拍動を刻む。
下腹の疼きが、脈と一緒に広がる。
身体が欲している。
アルバートから――離れたくない。

アルバートの頬が僕の耳元に寄り、熱い息が触れた瞬間、全身の力が抜けた。

「イリィ……これは……発情期の……前兆だ……」

耳元で震える声。
アルバートも気付いていた。そして、反応してくれていた。

「……僕……こんな……」

言いかけた言葉が熱に溶け、喉で途切れる。
アルバートは僕を抱き締め、額を合わせる。

「大丈夫だ。ここにいる。絶対に離れない」

静かだった部屋が、ゆっくりと熱を孕み始めた。
そして――身体の奥で、何かが静かに、確実に目覚めた。




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本日は最終話まで2ー3回に分けて投稿を行います。
リアクションやコメントいただけると嬉しいです♪
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