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本編
第27話 屍の街道
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突然、カルニスの後方から馬蹄の響きと断末魔の悲鳴が上がった。
何事かと振り返り、目を疑った。
背後の丘の上から、騎兵の軍団が駆け下りながら矢を射かけて来ていた。
一千はいるだろう。
どう見てもノーマン領軍の新手だ。
なぜ?
どこから?
どうやって?
混乱する間にも状況は進む。
陣容を薄く横に広げた新手は、中央は丘の上の高所から矢を撃ち下ろし、両翼の部隊が近衛隊の左右へ駆ける。
拙い!
背筋が冷える。
「突撃!
正面に向けて突撃だ!
包囲されるぞ!」
正面に向けての突撃を準備してしていた近衛隊は、すぐにはそれ以外の行動が取れない。
となれば、それを完遂して突破口を切り開くしかない。
近衛隊が走り出す。
その間も左右と背後からは矢が飛び、先ほどまでとは比べ物にならない被害が出る。
近衛兵たちは、文字通り死に物狂いで走る。
だが、正面のノーマン領軍は、近衛隊が進んだ分だけ退く。
先刻までと同じ追いかけっこが始まった。
決定的に違うのは、すでに半ば近衛隊を包囲した敵兵の存在だ。
必死で走る。
だが、重装騎兵の突撃が全速力を維持できるのは、せいぜい二十秒でしかない。
先ほどの突撃ではスピードを落とせた。
だが、追い立てられている今は、それができない。
限界を越えればどうなるか。
速力が落ち始める。
馬の疲労が限界に達したのだ。
それでも全力で走らざるを得ない。
結果、減速では済まない馬が現れた。
足がもつれ、ついには転倒する。
重装騎兵が密集する突撃隊形では、それは周囲を巻き込まずにはいられない。
連鎖的な転倒。
投げ出され、大地に叩きつけられる騎手。
多くはその衝撃で絶命し、運良く生き延びた者も、あるいは転倒する馬体に押し潰され、あるいは後続の馬蹄に踏み躙られる。
重装騎兵にとって最も忌むべき物である、突撃中の転倒事故の発生だ。
それをノーマン領軍は冷静に見据えながら、淡々と矢を打ち込んでくる。
このような光景を、すでに見たことがあるかのように。
これが、意図した物であるかのように。
明らかに、重装騎兵の軍との戦いに慣れていた。
ギルバートは丘の中腹に留まり、全体の戦況を俯瞰していた。
ノーマン領軍において、兵達の中にあって細かい指示を出すのは百騎長の仕事だ。
指揮官は、可能であればこのような場所で、全軍の大きな動きをコントロールするものだった。
各百騎長から次々と伝令が来ては帰って行く。
ギルバートは自らの目と伝令の報告で状況の推移を読み取る。
順調だ。
近衛隊と戦うのは初めてだが、重装騎兵はドローニスとの戦いで何度も相手をした。
端的に言って、相性の良い相手、と分析していた。
何らかの戦術的な工夫で距離を詰められたり、機動力を発揮できない場所に追い込まれたりしない限りは、ほぼ被害を出さずに勝てる相手だ、と。
ましてや、今回はこちらが奇襲をかける側。
地形としても、アルスター中央部は多少の凹凸はあってもほぼ平らだ。
耕作を妨げるほどの急な高低は存在しないに等しい。
それは王都との行き来をする中で、自分の目で見て知っている。
眼下では、近衛隊の突撃が停止していた。
馬の疲労が限界に達したこと、中央部で大規模な転倒事故が発生したことで、突撃を続けることができなくなったのだ。
固まって盾で身を守ろうとしているが、ノーマン領軍はそれを苦もなく射落として行く。
盾という物は、向けている方向からの攻撃しか防げない。
オロスデン領軍の重装歩兵のように、全身を覆い隠せるほどの方形の盾を隙間なく並べるならともかく、重装騎兵の馬上盾では隙間だらけだ。
盾に隠れていない部分を狙うことは可能だし、斜めから見ればさらに隙だらけである。
アルバートの隊を含めても一千と百しかいないノーマン領軍だけに、包囲はごく薄いものだが、問題無い。
完全に停止した重装騎兵が再度突撃するには、助走距離が不可欠だ。
走り始めようとした兵は優先的に潰すように、周知徹底されている。
それでも前に出る敵部隊がいれば、包囲陣がその部分だけ下がって距離を維持し、処理後に元の場所に戻る。
軍制の高度な組織化と、百騎隊ごとの徹底した集団行動の訓練が、その柔軟な運動を可能にしていた。
このまま包囲して殲滅できるのであればそれでも良いが、仮にも近衛隊である。
もう一足掻きくらいはしてくるだろう。
窮鼠猫を噛むという言葉もある。
『囲師は欠くべし』
シノンの軍略家が言ったとされる格言を、ギルバートは知識としても経験としても知っていた。
なぜ、このようなことになった。
リオンは半ば自失状態で自問した。
ここは近衛隊の集団の中心部。
十重二十重に近衛兵に守られ、戦闘の様子の詳細は見えない。
だが、状況が悪いのは分かる。
いや、悪いなどという言葉では済まない。
これは戦闘ではなく、一方的な虐殺だ。
近衛隊に反撃の手段は無く、ただ弓の的になっているだけだ。
最初は三千名近くいた近衛兵も、今や二千名を超えるか否かというところだろう。
ノーマン領軍の方に、損失はほぼあるまい。
刀槍を武器とする近衛隊が、武器を振るうことはできていないのだから。
近衛隊は、武術指南役になったカルニスと出会って以来、自分の代のアルスター軍の主力と考えていた部隊だった。
ユヴェールから取り入れた冶金技術で質を高めた武装を配備し、厳しい訓練で練度を向上させてきた。
リオン自身、その訓練には何度も参加させてもらったことがある。
王子だからと言って手加減は要らぬ、という命令に従って容赦無く課された訓練は、実戦さながらの厳しさで、訓練後に何度も吐いた。
訓練の中で死者が出ることすらあった。
それだけに精強な軍団に仕上がっていた。
リオンとの絆も深く、お互いに主従であると同時に戦友のような感情を持っていた。
だから、現国王であるショーンに反旗を翻したリオンについて来てくれたのだ。
彼らが共にあれば、どんな強敵も打ち破れると信じていた。
それがどうだ。
あれほど鍛えた刀槍の技術は、発揮する機会すら与えられない。
国内随一であろうと自負していた馬術は、軽々と上を行かれる。
何物も寄せ付けぬかと思えた鎧は、易々と貫かれる。
敵に一兵の損害も与えられないまま、ただ近衛兵の屍が積み上がっていく。
不意に、幼い頃に一度だけ会った、先々代の将軍のことが思い出された。
アルフレド王のノーマン遠征に従軍していた人物だ。
『良いですか、殿下。
ノーマン軍と戦ってはなりません。
あやつらはアルスターの軍とは全く違います』
『もしどうしても戦わねばならぬのであれば、決して馬に乗らせてはなりません。
アルスターの兵でノーマンの兵に勝てる時があるとすれば、それは馬に乗っておらぬ時だけです』
ノーマン遠征を経験した最後の人物、と言われていた人だった。
父はその意見を重視していたが、あまりにもノーマン軍を恐れるため、煙たがられていた人だった。
平和になって、アルスター王国軍が編成されることもなくなり、今では将軍という職自体が有名無実の名誉職となっている。
そのことを嘆きながら亡くなった。
これではノーマン軍をアルスターの力として取り込むことができぬ、と。
リオンは、彼の進言を退け、いつしか忘れ、近衛隊を重用した。
それが、間違っていたというのだろうか。
リオンは頭を振って、浮かんだ思考を振り払う。
今はこのようなことを考えている場合ではない。
この場をいかにして切り抜けるか。
そこに集中しなければならない。
「カルニス。
何か切り抜ける方法はあるか?」
リオン、カルニス、エリオット。
この時、この軍の首脳部を形成する三人のそれぞれの頭の中には、「降伏」という言葉があった。
だが、三人ともが他の二人を憚って、それを言い出すことができなかった。
それが、最悪の結果を生むことになる。
「何とかして囲みを破り、撤退するしかありませぬ」
現在の戦況は絶望的だ。
これを覆す方法はあるまい。
ノーマン領軍には、余裕はあっても油断は無い。
ならば、わずかな可能性に賭けるしか無い。
「身を隠せる場所は見える範囲にはございません。
ならばいっそ、街道を進むべきでございましょう。
少しでも速く、少しでも長く走り、どこぞの集落でも見つけて駆け込むのです」
「分かった。
そのようにせよ」
「はっ」
カルニスはリオンに答えると、敵の布陣が見える位置へと移動する。
見たところ、王都へ向かう街道の方向は、敵の包囲網が薄い。
どう見ても罠にしか見えない。
だが、他の方向ではさらに望みが無いだろう。
「敵の包囲を突破する!
目標は王都方面!
敵中を突破し、リオン殿下を王都へ送り届けることを至上とせよ!
全軍進め!」
そうして、近衛隊は進軍を開始した。
神々の視点から見れば、それはレミングの群れの行進に見えたかもしれない。
近衛隊の進軍に合わせて、ノーマン領軍は道を明け渡す。
命を賭けて包囲を維持する意味など無い。
どうせ、近衛隊にはノーマン領軍を振り切る足など無いのだ。
近衛隊と並走しながら矢を放つアルバートに、リデルが馬を寄せてきた。
「ところで若」
「何だ?」
「そろそろアイツ殺して良いですかね?」
リデルが指した先に視線を向ける。
遊牧民の生活に極めて近い軍務を送るノーマン貴族は、総じて非常に目が良い。
アルバートも前世の視力検査を受けたら、二・〇は余裕で見える自信がある。
その目には、一際豪奢な鎧に身を包んだ男がはっきりと見えた。
周囲の近衛兵と比べて、明らかに身分が高いのが見て取れる姿だ。
兜で顔はよく見えないが、間違いなくリオンだろう。
隣には近衛隊長やローレン公爵らしき人物も見える。
先ほどから、狙おうと思えば狙えたのである。
それを生かしておいたのは、近衛隊の動きに方向性を与えるためだ。
下手に頭を潰してしまい、それぞれの兵士が個々の判断でバラバラに動くと、予測がしにくくなる。
「予想外」を発生させる要素は少ないに越したことは無い。
その点、一度「包囲を破って撤退する」という方向で動きが定まり、動き出してしまえば、それを変えるのは難しい。
どんな組織でも、一度決めたことを覆すには、決定者というモノが必要である。
理想を言えば、全軍が動き始めた少し後に決定者が死ぬという形が望ましい。
そうすれば、あとは近衛隊は逃げるだけの集団になるだろう。
「……もう少し待て。
敵の全体が走り始めて三十数えたらヤって良い」
「了解です」
満足気にリデルが頷く。
それを周囲の兵達もしっかりと聞いていた。
ノーマン領において、リオンは有名人である。
もちろん悪い意味で。
「ソフィア様を侮辱した」
「ソフィア様の卒業式をぶち壊した」
「ソフィア様をノーマン領から奪おうとした」
それらの噂は商人を通じてノーマン領にもたらされ、ギルバートもマリアもそれを肯定した。
ソフィアはノーマン領において、変人と思われる一方で愛されているし、多くの功績も知られている。
許可があるなら報復したい、と思うノーマン兵は多かった。
近衛隊の最後尾の部隊が走り始めると、リデルは楽しそうに、大声で、数を数え始める。
先ほどの会話を聞いていなかった兵が、駆けながらも何事かと近くの兵に尋ねている。
その伝言ゲームが、アルバートの周辺から広がっていった。
苦笑しながら、アルバートは自身も矢を取り出し、準備をする。
彼とて、リオンに対しては幾らかの私怨がある。
ソフィアと同時にオリヴィアのことが脳裏に浮かぶ。
十年に及ぶ彼女の献身を、リオンは裏切ったのだ。
そのおかげでアルバートとオリヴィアの間に縁が生まれたのも確かだが、それはそれ、これはこれである。
最後の機会に私怨をぶつけさせてもらうことにしよう。
リデルのカウントダウンが終わった瞬間。
数十本の矢が、宙を駆けた。
その後の戦いは、戦いと呼べるモノではなかった。
ノーマン領軍は、近衛隊を後方と両側面から追い立てつつ、矢を射かけ続けた。
あまりにも一方的なそれは、事情を知らない者が見れば、訓練にすら見えたかもしれない。
実際、ノーマン領軍にとっては、何度かドローニス王国軍に対してやったことの繰り返しに過ぎない。
例えば、逃れようとする者、一か八かで反撃に出ようとする者は優先的に射殺したり、敵の隊列の幅が狭くなってきたら、左手側の部隊は下がり、味方の流れ矢に当たらないようにしたり、といった細かいノウハウまで蓄積されている。
『挙兵した反乱軍を殲滅せよ。
一人も残す必要は無い。
共和政への移行に反対する者の心胆を寒からしめよ』
ノーマン領軍は、ショーンの最後の王命を忠実に実行した。
かくして、ローレン公爵領から王都への街道は、近衛兵の屍で舗装された。
何事かと振り返り、目を疑った。
背後の丘の上から、騎兵の軍団が駆け下りながら矢を射かけて来ていた。
一千はいるだろう。
どう見てもノーマン領軍の新手だ。
なぜ?
どこから?
どうやって?
混乱する間にも状況は進む。
陣容を薄く横に広げた新手は、中央は丘の上の高所から矢を撃ち下ろし、両翼の部隊が近衛隊の左右へ駆ける。
拙い!
背筋が冷える。
「突撃!
正面に向けて突撃だ!
包囲されるぞ!」
正面に向けての突撃を準備してしていた近衛隊は、すぐにはそれ以外の行動が取れない。
となれば、それを完遂して突破口を切り開くしかない。
近衛隊が走り出す。
その間も左右と背後からは矢が飛び、先ほどまでとは比べ物にならない被害が出る。
近衛兵たちは、文字通り死に物狂いで走る。
だが、正面のノーマン領軍は、近衛隊が進んだ分だけ退く。
先刻までと同じ追いかけっこが始まった。
決定的に違うのは、すでに半ば近衛隊を包囲した敵兵の存在だ。
必死で走る。
だが、重装騎兵の突撃が全速力を維持できるのは、せいぜい二十秒でしかない。
先ほどの突撃ではスピードを落とせた。
だが、追い立てられている今は、それができない。
限界を越えればどうなるか。
速力が落ち始める。
馬の疲労が限界に達したのだ。
それでも全力で走らざるを得ない。
結果、減速では済まない馬が現れた。
足がもつれ、ついには転倒する。
重装騎兵が密集する突撃隊形では、それは周囲を巻き込まずにはいられない。
連鎖的な転倒。
投げ出され、大地に叩きつけられる騎手。
多くはその衝撃で絶命し、運良く生き延びた者も、あるいは転倒する馬体に押し潰され、あるいは後続の馬蹄に踏み躙られる。
重装騎兵にとって最も忌むべき物である、突撃中の転倒事故の発生だ。
それをノーマン領軍は冷静に見据えながら、淡々と矢を打ち込んでくる。
このような光景を、すでに見たことがあるかのように。
これが、意図した物であるかのように。
明らかに、重装騎兵の軍との戦いに慣れていた。
ギルバートは丘の中腹に留まり、全体の戦況を俯瞰していた。
ノーマン領軍において、兵達の中にあって細かい指示を出すのは百騎長の仕事だ。
指揮官は、可能であればこのような場所で、全軍の大きな動きをコントロールするものだった。
各百騎長から次々と伝令が来ては帰って行く。
ギルバートは自らの目と伝令の報告で状況の推移を読み取る。
順調だ。
近衛隊と戦うのは初めてだが、重装騎兵はドローニスとの戦いで何度も相手をした。
端的に言って、相性の良い相手、と分析していた。
何らかの戦術的な工夫で距離を詰められたり、機動力を発揮できない場所に追い込まれたりしない限りは、ほぼ被害を出さずに勝てる相手だ、と。
ましてや、今回はこちらが奇襲をかける側。
地形としても、アルスター中央部は多少の凹凸はあってもほぼ平らだ。
耕作を妨げるほどの急な高低は存在しないに等しい。
それは王都との行き来をする中で、自分の目で見て知っている。
眼下では、近衛隊の突撃が停止していた。
馬の疲労が限界に達したこと、中央部で大規模な転倒事故が発生したことで、突撃を続けることができなくなったのだ。
固まって盾で身を守ろうとしているが、ノーマン領軍はそれを苦もなく射落として行く。
盾という物は、向けている方向からの攻撃しか防げない。
オロスデン領軍の重装歩兵のように、全身を覆い隠せるほどの方形の盾を隙間なく並べるならともかく、重装騎兵の馬上盾では隙間だらけだ。
盾に隠れていない部分を狙うことは可能だし、斜めから見ればさらに隙だらけである。
アルバートの隊を含めても一千と百しかいないノーマン領軍だけに、包囲はごく薄いものだが、問題無い。
完全に停止した重装騎兵が再度突撃するには、助走距離が不可欠だ。
走り始めようとした兵は優先的に潰すように、周知徹底されている。
それでも前に出る敵部隊がいれば、包囲陣がその部分だけ下がって距離を維持し、処理後に元の場所に戻る。
軍制の高度な組織化と、百騎隊ごとの徹底した集団行動の訓練が、その柔軟な運動を可能にしていた。
このまま包囲して殲滅できるのであればそれでも良いが、仮にも近衛隊である。
もう一足掻きくらいはしてくるだろう。
窮鼠猫を噛むという言葉もある。
『囲師は欠くべし』
シノンの軍略家が言ったとされる格言を、ギルバートは知識としても経験としても知っていた。
なぜ、このようなことになった。
リオンは半ば自失状態で自問した。
ここは近衛隊の集団の中心部。
十重二十重に近衛兵に守られ、戦闘の様子の詳細は見えない。
だが、状況が悪いのは分かる。
いや、悪いなどという言葉では済まない。
これは戦闘ではなく、一方的な虐殺だ。
近衛隊に反撃の手段は無く、ただ弓の的になっているだけだ。
最初は三千名近くいた近衛兵も、今や二千名を超えるか否かというところだろう。
ノーマン領軍の方に、損失はほぼあるまい。
刀槍を武器とする近衛隊が、武器を振るうことはできていないのだから。
近衛隊は、武術指南役になったカルニスと出会って以来、自分の代のアルスター軍の主力と考えていた部隊だった。
ユヴェールから取り入れた冶金技術で質を高めた武装を配備し、厳しい訓練で練度を向上させてきた。
リオン自身、その訓練には何度も参加させてもらったことがある。
王子だからと言って手加減は要らぬ、という命令に従って容赦無く課された訓練は、実戦さながらの厳しさで、訓練後に何度も吐いた。
訓練の中で死者が出ることすらあった。
それだけに精強な軍団に仕上がっていた。
リオンとの絆も深く、お互いに主従であると同時に戦友のような感情を持っていた。
だから、現国王であるショーンに反旗を翻したリオンについて来てくれたのだ。
彼らが共にあれば、どんな強敵も打ち破れると信じていた。
それがどうだ。
あれほど鍛えた刀槍の技術は、発揮する機会すら与えられない。
国内随一であろうと自負していた馬術は、軽々と上を行かれる。
何物も寄せ付けぬかと思えた鎧は、易々と貫かれる。
敵に一兵の損害も与えられないまま、ただ近衛兵の屍が積み上がっていく。
不意に、幼い頃に一度だけ会った、先々代の将軍のことが思い出された。
アルフレド王のノーマン遠征に従軍していた人物だ。
『良いですか、殿下。
ノーマン軍と戦ってはなりません。
あやつらはアルスターの軍とは全く違います』
『もしどうしても戦わねばならぬのであれば、決して馬に乗らせてはなりません。
アルスターの兵でノーマンの兵に勝てる時があるとすれば、それは馬に乗っておらぬ時だけです』
ノーマン遠征を経験した最後の人物、と言われていた人だった。
父はその意見を重視していたが、あまりにもノーマン軍を恐れるため、煙たがられていた人だった。
平和になって、アルスター王国軍が編成されることもなくなり、今では将軍という職自体が有名無実の名誉職となっている。
そのことを嘆きながら亡くなった。
これではノーマン軍をアルスターの力として取り込むことができぬ、と。
リオンは、彼の進言を退け、いつしか忘れ、近衛隊を重用した。
それが、間違っていたというのだろうか。
リオンは頭を振って、浮かんだ思考を振り払う。
今はこのようなことを考えている場合ではない。
この場をいかにして切り抜けるか。
そこに集中しなければならない。
「カルニス。
何か切り抜ける方法はあるか?」
リオン、カルニス、エリオット。
この時、この軍の首脳部を形成する三人のそれぞれの頭の中には、「降伏」という言葉があった。
だが、三人ともが他の二人を憚って、それを言い出すことができなかった。
それが、最悪の結果を生むことになる。
「何とかして囲みを破り、撤退するしかありませぬ」
現在の戦況は絶望的だ。
これを覆す方法はあるまい。
ノーマン領軍には、余裕はあっても油断は無い。
ならば、わずかな可能性に賭けるしか無い。
「身を隠せる場所は見える範囲にはございません。
ならばいっそ、街道を進むべきでございましょう。
少しでも速く、少しでも長く走り、どこぞの集落でも見つけて駆け込むのです」
「分かった。
そのようにせよ」
「はっ」
カルニスはリオンに答えると、敵の布陣が見える位置へと移動する。
見たところ、王都へ向かう街道の方向は、敵の包囲網が薄い。
どう見ても罠にしか見えない。
だが、他の方向ではさらに望みが無いだろう。
「敵の包囲を突破する!
目標は王都方面!
敵中を突破し、リオン殿下を王都へ送り届けることを至上とせよ!
全軍進め!」
そうして、近衛隊は進軍を開始した。
神々の視点から見れば、それはレミングの群れの行進に見えたかもしれない。
近衛隊の進軍に合わせて、ノーマン領軍は道を明け渡す。
命を賭けて包囲を維持する意味など無い。
どうせ、近衛隊にはノーマン領軍を振り切る足など無いのだ。
近衛隊と並走しながら矢を放つアルバートに、リデルが馬を寄せてきた。
「ところで若」
「何だ?」
「そろそろアイツ殺して良いですかね?」
リデルが指した先に視線を向ける。
遊牧民の生活に極めて近い軍務を送るノーマン貴族は、総じて非常に目が良い。
アルバートも前世の視力検査を受けたら、二・〇は余裕で見える自信がある。
その目には、一際豪奢な鎧に身を包んだ男がはっきりと見えた。
周囲の近衛兵と比べて、明らかに身分が高いのが見て取れる姿だ。
兜で顔はよく見えないが、間違いなくリオンだろう。
隣には近衛隊長やローレン公爵らしき人物も見える。
先ほどから、狙おうと思えば狙えたのである。
それを生かしておいたのは、近衛隊の動きに方向性を与えるためだ。
下手に頭を潰してしまい、それぞれの兵士が個々の判断でバラバラに動くと、予測がしにくくなる。
「予想外」を発生させる要素は少ないに越したことは無い。
その点、一度「包囲を破って撤退する」という方向で動きが定まり、動き出してしまえば、それを変えるのは難しい。
どんな組織でも、一度決めたことを覆すには、決定者というモノが必要である。
理想を言えば、全軍が動き始めた少し後に決定者が死ぬという形が望ましい。
そうすれば、あとは近衛隊は逃げるだけの集団になるだろう。
「……もう少し待て。
敵の全体が走り始めて三十数えたらヤって良い」
「了解です」
満足気にリデルが頷く。
それを周囲の兵達もしっかりと聞いていた。
ノーマン領において、リオンは有名人である。
もちろん悪い意味で。
「ソフィア様を侮辱した」
「ソフィア様の卒業式をぶち壊した」
「ソフィア様をノーマン領から奪おうとした」
それらの噂は商人を通じてノーマン領にもたらされ、ギルバートもマリアもそれを肯定した。
ソフィアはノーマン領において、変人と思われる一方で愛されているし、多くの功績も知られている。
許可があるなら報復したい、と思うノーマン兵は多かった。
近衛隊の最後尾の部隊が走り始めると、リデルは楽しそうに、大声で、数を数え始める。
先ほどの会話を聞いていなかった兵が、駆けながらも何事かと近くの兵に尋ねている。
その伝言ゲームが、アルバートの周辺から広がっていった。
苦笑しながら、アルバートは自身も矢を取り出し、準備をする。
彼とて、リオンに対しては幾らかの私怨がある。
ソフィアと同時にオリヴィアのことが脳裏に浮かぶ。
十年に及ぶ彼女の献身を、リオンは裏切ったのだ。
そのおかげでアルバートとオリヴィアの間に縁が生まれたのも確かだが、それはそれ、これはこれである。
最後の機会に私怨をぶつけさせてもらうことにしよう。
リデルのカウントダウンが終わった瞬間。
数十本の矢が、宙を駆けた。
その後の戦いは、戦いと呼べるモノではなかった。
ノーマン領軍は、近衛隊を後方と両側面から追い立てつつ、矢を射かけ続けた。
あまりにも一方的なそれは、事情を知らない者が見れば、訓練にすら見えたかもしれない。
実際、ノーマン領軍にとっては、何度かドローニス王国軍に対してやったことの繰り返しに過ぎない。
例えば、逃れようとする者、一か八かで反撃に出ようとする者は優先的に射殺したり、敵の隊列の幅が狭くなってきたら、左手側の部隊は下がり、味方の流れ矢に当たらないようにしたり、といった細かいノウハウまで蓄積されている。
『挙兵した反乱軍を殲滅せよ。
一人も残す必要は無い。
共和政への移行に反対する者の心胆を寒からしめよ』
ノーマン領軍は、ショーンの最後の王命を忠実に実行した。
かくして、ローレン公爵領から王都への街道は、近衛兵の屍で舗装された。
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領地へ嫁いだその翌朝。リディアは突如として思い出す——ここは自分が前世で書いた恋愛小説の世界。そして、リディアは本来のヒロインの相手役であるキースの〝死別した元妻〟キャラだったのだ!
このままだと『物語』が開始する2年後までに死んでしまう!その運命を変えるため、リディアは作者としての知識と、彼女自身の生きる意志を武器に抗い始める。
冷酷と噂の夫との距離も、少しずつ近づいて――?
死ぬ運命の〝元妻〟令嬢が、物語をぶっ壊して生き残る!運命改変ファンタジー!
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