『通知音のない夜、僕らは存在していた』

会社員と時々オトン

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第4章 既読にならない名前

既読にならない名前

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スマホの画面に表示された名前を、俺はしばらく見つめていた。

 霧島 澪

 連絡先に追加されたはずなのに、
 電話番号も、メールアドレスも表示されていない。

 ただ、名前だけがそこにある。

「……これ、どういうことだよ」

 彼女は、ベランダの柵にもたれたまま答えた。

「“繋がった”ってこと」

 あまりにも軽く言う。

「普通はね、名前があって、番号があって、通知が来る。でも私たちは逆」

 逆?

「先に名前だけ、残るの」

 胸の奥が、ざわついた。

「じゃあ、これ……」

「生きてる人の連絡先じゃない」

 彼女は、はっきり言った。

 スマホが、少し重くなった気がした。

 試しに、メッセージを送ってみた。

【こんばんは】

 送信マークは表示された。
 でも、既読にならない。

 数秒。
 数十秒。
 画面は変わらない。

「見てないのか?」

「見てるよ」

 彼女は、すぐ隣で言った。

「でも、“既読”はつかない」

 それが、普通のことのように。

「……なんで」

「まだ、完全にこちら側じゃないから」

 こちら側。

 その言葉が、静かに刺さる。

「ねえ」

 彼女は、少しだけ声を落とした。

「今日、誰かと話した?」

 思い返す。

 管理人。
 佐久間。
 それ以外は——

「……ほとんど、誰とも」

「でしょ」

 彼女は頷いた。

「見える人はね、だんだん“話しかけられなくなる”」

 昨日の自販機の前。
 俺を通り越した視線。

「あれ、偶然じゃない」

 胸が締め付けられる。

「存在ってさ」

 彼女は夜空を見た。

「声をかけられることで、固定されるの」

 固定。

「でも、声が減ると——揺れる」

 俺は、自分の手を見た。

 輪郭が、少し曖昧に見えた気がした。

 その夜、夢を見た。

 誰かが、俺の名前を呼んでいる。

 声は聞こえるのに、顔が思い出せない。

 目が覚めると、胸が苦しかった。

 スマホが、震えている。

【着信履歴:1件】

 番号は、表示されていない。

 名前だけが出ている。

 霧島 澪

 着信時間は、午前3時14分。

 俺は、通話履歴をタップした。

 再生される音声。

『……聞こえる?』

 彼女の声だった。

『これは、練習』

 練習?

『誰かに、ちゃんと届くようになるための』

 背中に、冷たいものが流れる。

 翌日、佐久間に会った。

 昨日よりも、彼は少し薄く見えた。

 比喩じゃない。
 本当に、薄い。

「……お前」

 俺が声をかけると、彼は少し驚いた。

「今日は、見えるんだな」

 今日は。

「昨日より、線が増えた」

 彼は俺のスマホを見た。

「名前、呼ばれたろ」

 俺は、黙って頷いた。

「……やったか」

 責めるような声ではなかった。
 むしろ、諦めに近い。

「これで、後戻りは難しい」

「でも、消えないんだろ」

「すぐにはな」

 佐久間は、ベンチに腰を下ろした。

「でもな、“線”には重さがある」

「重さ?」

「強い線ほど、重い」

 嫌な予感がした。

「重くなりすぎると……?」

「引っ張られる」

 どこへ?

 聞かなくても、わかる。

 夜。

 彼女は、昨日よりも近かった。

 距離の問題じゃない。
 存在感が、はっきりしている。

「ねえ」

 彼女は言った。

「今日は、あなたの名前……何回呼ばれた?」

 俺は答えなかった。

 答えられなかった。

「大丈夫」

 彼女は、優しく言う。

「最初は、増えるのが怖いだけ」

 彼女は、俺のスマホに触れた。

 画面が、勝手に点く。

【通知:新しい写真が追加されました】

 写っていたのは——
 昼間、佐久間と話している俺。

 背後に、ぼんやりと写る影。

 彼女。

「……盗撮かよ」

「違う」

 彼女は首を振った。

「これは、“記録”」

 記録。

「覚えてもらうための」

 俺は、初めて強く言った。

「やりすぎだろ」

 彼女は、一瞬だけ黙った。

「……ごめん」

 その謝罪は、本物だった。

「でも」

 彼女は続ける。

「やめたら、あなたも危ない」

 俺は、息を吐いた。

「なあ」

「なに?」

「……俺は、どっちなんだ」

 生きてるのか。
 消えかけてるのか。

 彼女は、はっきり言った。

「境界」

 その言葉が、妙にしっくりきた。

 その夜、スマホに通知が来た。

【メッセージ:1件】

 差出人は——
 母

 心臓が、跳ね上がった。

 母からの連絡なんて、何ヶ月ぶりだ。

 震える指で、開く。

『久しぶり。
 最近、あなたの名前を思い出したの』

 思い出した。

 それだけの文章なのに、
 胸がいっぱいになった。

 画面の端に、
 既読の文字が、初めて表示された。

 同時に、背後で声がした。

「……よかったね」

 彼女の声は、少し遠かった。

 振り向くと、彼女の輪郭が——
 ほんの少し、薄くなっていた。

 俺は、その意味を理解してしまった。

 誰かに覚えられると、
 誰かが、薄くなる。

 ——線は、奪い合いだ。

 その夜、俺は初めて思った。

 生き残るって、こんなに苦しいのか。


第4章 終わり
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