『通知音のない夜、僕らは存在していた』

会社員と時々オトン

文字の大きさ
6 / 6
第6章 消えた部屋、残る温度

消えた部屋、残る温度

しおりを挟む
翌朝、団地が少しだけ静かだった。

 音が消えたわけじゃない。
 車も走っているし、遠くで子どもの声もする。

 それなのに、
 一部だけ、ぽっかりと抜け落ちた感じがあった。

 俺は、無意識のうちに隣の部屋の前に立っていた。

 霧島 澪が
 最後に契約していた部屋。

 ドアは閉まっている。
 表札は、ない。

 当たり前の光景のはずなのに、
 なぜか胸がざわついた。

 ドアに手を伸ばす。
 触れた瞬間、指先が少しだけ温かい。

「……まだ、ある」

 何が、とは言えなかった。

 ただ、
 **誰かが確かに“いた痕跡”**だけが、そこに残っている。

 管理人に会った。

 昨日までの管理人とは違う人だった。

 いや、違うように見えるだけかもしれない。

「すみません」

 声をかけると、彼は顔を上げた。

「はい?」

 俺の顔を見て、
 一瞬だけ、首を傾げる。

 ——覚えていない。

 それが、すぐにわかった。

「……昨日、隣の部屋の件で話したんですが」

「隣?」

 管理人は、名簿をめくる。

「……ああ、空室ですね。ずっと」

 ずっと。

「三年前から?」

 俺が聞くと、
 管理人は、はっきり言った。

「いえ。最初から」

 血の気が引いた。

「最初から……?」

「この棟は、建ってから一度も入居がなかった部屋がいくつかあります」

 淡々とした説明。

「その一つですよ。
 最初から、誰も住んでいない」

 ——上書きされた。

 現実が、
 丸ごと書き換えられている。

 俺は、それ以上何も言えなかった。

 外に出る。

 空がやけに高い。

 スマホを見る。

 連絡先にあったはずの
 「霧島 澪」の名前が、消えていた。

 履歴も、写真も、音声も。

 まるで——
 最初から存在しなかったみたいに。

 手が、震えた。

「……消えたのか」

 呟いた声は、
 誰にも届かない。

 その夜、ベランダに出た。

 彼女はいない。

 当然だ。
 もう、いない。

 それでも俺は、
 柵の向こうを見続けた。

 風が吹く。
 街灯が揺れる。

 その時。

 足元に、何かが落ちているのに気づいた。

 拾い上げる。

 指輪だった。

 彼女が、いつもつけていたもの。

 未来の、と言っていた指輪。

 指輪は、ちゃんとした重さを持っていた。
 冷たくて、硬くて。

「……残るんだな」

 全部が消えるわけじゃない。

 世界は、
 都合のいいところだけ消す。

 スマホが震えた。

【通知:写真が1件追加されました】

 嫌な予感がしても、
 もう目を逸らせなかった。

 開く。

 写っていたのは
 空室のベランダ。

 誰もいない。
 何もない。

 でも、
 写真の中央だけ、
 わずかに空気が歪んでいる。

 そこに、
 立っていた“はず”の形。

 俺は、膝から崩れ落ちた。

「……俺が」

 喉が、うまく動かない。

「俺が、選んだ」

 母の既読。
 増えた写真。
 固定された存在。

 代わりに
 霧島 澪は、消えた。

 その時、
 誰かの声がした。

「……やっと、わかったか」

 顔を上げる。

 佐久間が、立っていた。

 いや
 立っている、ように見えた。

 彼の体は、半分ほど透けている。

「お前、まだ見えるな」

 彼は苦笑した。

「俺はもう、ほとんど無理だ」

 俺は、立ち上がれなかった。

「……ごめん」

「謝るな」

 佐久間は言う。

「これは、構造だ」

 構造。

「誰かが残るためには、
 誰かが消える」

 彼は、空室のベランダを見た。

「霧島さんは、
 それを知ってた」

 胸が締め付けられる。

「でも、最後は——」

 佐久間は、俺を見た。

「お前を、生かすほうを選んだ」

 息が止まった。

「……嘘だ」

「嘘じゃない」

 彼は静かに言った。

「最後の写真、
 彼女が写ってなかっただろ」

 俺は、頷いた。

「あれはな」

 佐久間は続ける。

「彼女が、自分の線を切った証拠だ」

 頭が、真っ白になった。

「……じゃあ、俺は」

「生き残った」

 佐久間は言った。

「でも」

 彼は、一歩下がる。

「次は——お前が選ぶ番だ」

 その言葉を残して、
 佐久間の姿は、風に溶けるように消えた。

 ベランダには、俺一人。

 指輪を握りしめる。

 冷たさが、
 確かな現実を伝えてくる。

 スマホを見る。

 母からのメッセージは、
 まだそこにあった。

 既読も、ついたまま。

 生きている。

 その事実が、
 こんなにも重い。

 俺は、初めて理解した。

 存在とは、奪わずに保てるものじゃない。

 そして
 奪ったことを、忘れられる人間だけが、
 普通に生きていける。

 俺は、忘れない。

 指輪が、
 その証拠だ。


第6章 終わり
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

処理中です...