お命ちょうだいいたします

夜束牡牛

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けがれ2

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 不穏な空気を感じ取り、阿形が前足へと力を入れた。
 後ろ足で石畳をき立ち上がる。びしゃびしゃの巻き毛が重く、飲んだ水で胸が痛んだ。

(ヘビの気配が濃くなった、気が荒れておる。主は何を考えているんじゃ……。吽形……気付くな。カワセミ、この場に来るな。阿呆ほど正直者のあやつと、素直すぎて短気なあの娘は、場の渡り方を知らん。もし、あるじのお怒りを買って、同じ目にでも合わされたら……)

 阿形の中でぽつりと続く。

(もう、きっと、『守る』はできない)

 立ち上がる獅子を見て、ミヘビはゆるりと身を滑らせた。自身への掛け合いが続く。

「ヘビの狩りは一瞬だ。獅子の忌々しい程に甘ったるい声も、聞かずに絞められる」

 その狩りの気配に阿形は鞠の目を歪めた。

(荒れる気に呑まれ、生前の記憶と混同しておられるな。まいったな、白蛇の祟り神に絞められて、どこまでこの体が耐えられるか。それとも主は、本当にわしを殺してしまうのか。そんな殺生せっしょうをして、主の神格はどうなってしまう? どうなる? どうする……知らん、そんな事、知るか)

 阿形の中に投げやりな気持ちが芽生える。

『賢い猫』

 そんな阿形の痛む胸のうちで、カワセミの声がふと、凛と響いた。

 千里眼で帰りの無事を確かめた時、カワセミがそう褒めてくれた。知らぬ所で褒められる誇らしさ、くすぐったさを初めて知った。人に褒めてもらうのは、自身の行いをねぎらってもらえるのは、何とも嬉しい。
 阿形は考えを放棄したがる頭を振り、水を散らした。

(そうだ、わしは賢い。賢いんだから考えろ、考えろ)

 石畳にじりりと爪を立てる。

(そうじゃ、ヘビの狩りは一瞬だ。一度失敗すればあきらめる。しかし、もし捕えられれば絞められ、きっと持たぬこの体は穢れとなり、主の神格をおとしめ、ミヘビ様は神ではなくなる)

 少年神の紅い目が、惑わすように獅子を見つめて来る。

(祟り神を祀り損ねたこの地は穢れ、田も、水も、生き物も、皆枯れる)

 阿形は前足に力を入れた。

(そんな事をしてはいけない。させてはいけない。守らなくてはいけない。土地も人も主の神格も、すべて守る。それがわしのお役目じゃ)

 ミヘビの半身がどろりと溶け、両足が白く長い大蛇の胴へと変わった。目の前には水濡れの哀れな獅子。

「肉は久しい。獅子肉は初めてだ」

 麗しい少年のままの口から、ちろりと舌が出る。

「あぎょう、こうべをたれよ」

 紅い両目だけが動かず、大蛇の胴がざっと地を払う。

「はい、いま……っ」
「!」


 一瞬だった。


 答え、屈む様子を見せた阿形へとミヘビが飛び掛かった。その姿は完全な白い大蛇へと変わっていた。大人の腕でも届かぬ丸太の胴が波打ち、身の丈は、獅子の身を四頭分伸ばしたほどもある。少年の器は溶け消えていた。

「っ?!」

 しかし、飛び掛かった大蛇の顎が捕らえたのは、空。獅子の赤毛の一束として、む事は叶わなかった。

「っあっぶな」

 主の頭上へと跳び逃れた阿形は、空気がえぐられるさまを見て思わずこぼした。
 風を受け、一瞬で舞い上がる鳶のように、四肢をしならせ跳んだ獅子は、身をひねると大蛇から少し離れた場所へと着いた。大蛇の白い背が見える。

(なんとか避けられたな、わしほど高く跳べる獅子もそうそうおらんじゃろ。蛇の狩りは一瞬。それが失敗に終わった主は、いつもの『つまらぬ』で社に帰るはず……)

 そう思い、ふぅと息を吐く阿形へと、大蛇がぶんっと鎌首を向けた。

「え」

「逃がすか、獅子肉」

「まじか」

 ぎょっとし、片前足を浮かせる阿形へと大蛇が身を滑らせ迫りくる。
阿形は慌てて土煙を巻き駆けだした。

「これだから、はじめっからの知識は役に立たん! だれじゃ! シマヘビの狩りは一度切りなどと……間違った入れ知恵をした奴はっ」

 怒鳴る阿形の後ろで空気が震え、大蛇の顎がばくりと鳴った。咄嗟とっさに、流れたなびく尻尾を巻き、逃げる獅子。

「あの世に行ったらこの待遇を、高天原に直談判してやるっ……ヘビ、しつこい!」
 
 天上の神も主さえも、罵り、獅子は走った。

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