お命ちょうだいいたします

夜束牡牛

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手負い、のけもの5

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「塩……」

 ぽつりと吽形が呟いた。阿形の耳が、ぴっと吽形へと向く。

「わし、あれ大好物」

 阿形が言えば、カワセミは目尻を下げる。

「そうか、」
「それだ!」

 吽形が膝を打った。

「場の力を強める盛り塩。石工の親方が捧げてくれたあれで、阿形は強められた、と言っていた。あの盛り塩で阿形の神格が強められるやも知れん。わしが石像へと本体を下してもらう前の事、狛犬と獅子の魂だけが、石像に宿っていた時だから確かだ」

 カワセミは、話についていけない苛立ちと焦りのまま、吽形の胸倉を掴んだ。

「細かい事をぐちぐちつねるなっ! 盛り塩があればいいのか? その塩、どこにあんだよ」

商町あきないまち……だが、石工の場所をよく覚えていない。ちくしょう」

 吽形が眉を寄せ、何とか思い出そうと苦し気にする。

「わし、覚えている」

 大型の犬ほどになった阿形がけろりと答える。

「賢いな! ねこ。さぁ、いい子だ。教えておくれ」

 カワセミは吽形を殴ってでも思い出させようとしたのか、こぶしを振り上げたままで優しく聞いてきた。
 阿形は振り上げられた拳の硬さを感じたのか、少し身をすくめると、あきらめて殴られようとしている吽形を見た。

「うーさん、頭かせ。わしの思い出を見せてやる」

「よし、覗かせてもらうぞ。あーさん」

 吽形はするりとカワセミの手を解き逃れると、伏せたままの獅子の頭へと額を寄せた。
 獅子が少し顔を上げ、こつんと額をぶつけて来る。すると、吽形の脳裏へとこまが走った。
 青田を渡り、白い道を行き、橋をわたる早朝の商町、辻、石工の長屋、目前の皺を刻んだ顔、厳しい眼差しの親方がふっと笑い、齣が止む。

 阿形あぎょうは吽形の目の中に思い出をみとめ、続けた。

「そしてそれを、カワセミに写してやってくれ」

「おう。……ん? いや、まて」

 吽形うんぎょうが写し見た思い出をこぼさないようにか、片手で額と顔をおおった。

「その必要は……」

 写し方に難があるように、言い淀む吽形。
 気の短いカワセミが弾けた。

「阿形の一大事だというのに、いつまで初心うぶな真似事をする! 馬鹿者っ」

 カワセミは怒鳴ると、吽形の肩を掴み、ぐいと顔を寄せた。
 寄せられる娘の顔に、逃げ場を無くし観念したのか、吽形は片手を顔から下しカワセミを見た。
 吽形の清涼な眼差しに一瞬飲まれそうになったカワセミが、吽形の肩から手を離し、少し身を引く。そこへと吽形が間を詰めた。
 カワセミの黒輪を隠す膝へと手を置き、娘を追うと、こつん、と優しく角を頂く額を当てた。
 無言のうちに交わされる視線。娘と狛犬は、互いの吐息を肌に感じた後、そっと身を離した。

 阿形が獅子の前足を器用に立て、頬杖をつき言った。

「良かっただろう」

「「!?」」

「わしの生まれた作業場」

 カワセミは、吽形の胸板を乱暴に蹴り体を離すと、阿形へと笑みを向けた。

「あぁ、良い所だな。商町ならば私の遊び場だ。あそこも見当がつく、すぐに塩を持って来てやる」

 蹴られた吽形が、すまなそうにカワセミを見る。

「悪いがお頼み申す。主と阿形を置いてはいけない」

「水臭い。ちゃちゃっと取って来る。それまで、ねこが本当の猫にならないよう、なんとか食い止めておけ」

 そう言うが早いか、カワセミは弱々しい阿形の首元に抱き付き、「頼んだ」と頭を下げる吽形へと一瞥をなげくれ、百石階段を駆けて行った。

 その背を見送ったあと、吽形は阿形の傍へと寄り、伏せる体に両手を当てた。
 娘の気配が、一陣の風のように去ってしまう。それだけで、境内がしんと寂しく感じる。

「なぁ、あーさん」
「なんだ、うーさん」

 吽形が少し迷った後、言った。

「思い出写し……わしがカワセミにする必要は、」
「なかったなぁ」

 甘ったるい声で獅子が言うと、にやりと笑って吽形を見上げた。
 思い出は、直接阿形の頭からカワセミの頭へと写し見せれば済むこと。神獣の情報共有を、対の阿形が出来ないはずがない。ましてや、自分の思い出を。
 くくくっと笑う阿形に、吽形が頭を掻いた。

「あーさんには敵わない」

「知っている、わしは賢い。ほら、次は主の元へ行くんだろ? 働け狛犬……わしは少し寝る。この難儀なんぎな身でも、二人の恋路を世話してやらなくてはいけなかったんだぞ? 手がかかる。早く、互いに素直になれ」

 小柄な獅子が、あっと欠伸あくびをした。


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