イトムシ    〜 幼少期〜

夜束牡牛

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宮守と館士兵4

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 キイトは窓から身を乗り出し、体をほぐす彼らを見て、うずうずと指を動かしていた。
 人と馬車との競争。しかも、大好きな館士兵と、尊敬する宮守が選手として参加する。こんなに魅力的な試合を、ただ観戦しているわけにはいかない。
 キイトは目を輝かせ、ぱっと深山を見上げた。

「深山様、僕も走っていいですか? それに、二対一で公平じゃない。僕が宮側で走ります!」

 深山がにこりと笑った。

「駄目ですよ。イトムシの貴方は誰より足が速い。キイト様は、そうですね……」

 深山が眉間に皺をよせ、白い手袋の手を難しそうに口元に置く。『うーん』と分かりやすく考え込む唸り声に、キイトがはらはらと見つめている。
 そんなふうに間をとり、キイトの興味を最大限に引いてから、深山がパンっと手を叩いた。

「そうだ! キイト様は審判員です! 笛の合図で試合を始め、誰が一番だったかを見定め、終了の笛を吹く。……大変重要な役割ですよ」
「しんぱんいん……? 大変重要……」

 キイトが言葉を反芻し、その重みを噛み締める。
 夜の湖が跳ねるように煌めいた。

「っはい!深山様、僕は審判員です」
「よろしくどうぞ、審判員様」

 深山はそう言うと、外に飛び出さんばかりのキイトの両肩を捕まえ、対面に座らせた。そして自身の襟首を指で探り、銀の笛を取り出すと、それをキイトの首に掛けてやった。

「はい、お似合いです。馬車の中から観戦ですよ、審判員さま。……そして、宮側には同類と言うことで、ヌー、君が走りなさい」

 ちょうど馬車へと乗り込んできたヌーは、思わぬ飛び火に不平をあげた。

「嫌ですよ、深山。私はキイト様に仕える身として、常におそばに」
「ヌゥ、頑張ってね! ヌゥを一番応援する」
「えと、はい。キイト様」

 ヌーは、笛の練習をはじめるキイトの笑顔に押され、馬車を降りた。上から御者が一線へと加わったヌーを見て、笑いを押し殺した。

「シャテル様もご参加なさるのですか?」
「キイト様がそうお望みです。精一杯務めさせて頂きますよ」

 深山が窓から顔を出し、御者を見る。

「君、この者たちと並走出来るよう、安全に飛ばしなさい。宮仕様ならば、そのぐらい可能でしょ?」
「それぐらい……ですか。まったく問題ありません」

 深山の煽るような言葉に、御者はにやりと笑うと、制帽を目深に被り直した。
 皆がこの遊びに巻き込まれ、誰もが現状を楽しみはじめた。

 キイトが深山の横から身を出し、リリッと笛を吹くと、菊、イチヤ、宮守、ヌーの四人が、横並びに前を見つめ構える。
 四人の呼吸が静かになった所で、深山と御者に目で合図を送り、一呼吸置いてから、思い切り強く、開始の笛を響かせた。

 リィッ!

 筋肉を弾き伸ばし、石を蹴り上げ、四人が飛び出す。馬車もそれに合わせ動き出した。
 車輪が滑り蹄が鳴る。
 真剣な目で一心に走る者たちを見て、キイトも心が弾んだ。一緒に走れないのは残念だが、これはこれで楽しい。

 御者が足元の板を踏み、カーン、カーンと鐘の音を響かせ、早馬が通ることを知らせる。馬車道ではあるが、『安全に飛ばす』を忠実に守っているのだ。
 キイトは窓から身を乗り出し、御者が握る、手綱の先に視線を滑らせた。走る馬のなびくたてがみ、波打つ背の筋肉――。
 突然、キイトがその姿勢のまま、動きを止め呟いた。

「夜の匂い」

 高揚していた心臓を、何者かの手で違うリズムで叩かれたようだった。
 痺れが手首を伝い、指先へとやって来る。掴んでいた窓枠へと爪を立てる。
 昼さなか、夜の気配を感じた。

「キイト様、どうなさいましたか?」

 深山がキイトの異変に気付いた。
 小さな背に緊張が走っている。その背が不意に振り返った。

「あ」

 夜の目と視線がぴたりと合った。
 深山に夜が訪れた。

 すべてが黒に包まれ、底知れぬ恐怖心が湧き上がる。
 夜の湖へと精神が突き落され、黒い水に飲み込まれた。
 体の自由を奪われる。
 イトムシの目に沈められたのだ。
 しかし、隊で訓練を受けている深山は、すぐに態勢を立て直した。
 夜の湖と錯覚した、キイトの瞳から焦点をぼかし、水浸しになった精神を取り戻すため、唇を強く噛みしめる。赤い血が、じわりと唇を湿らせた。

(正しくあれ)

 国の信念を、鋭く自分の心に叩き入れる。
 唇が切れる痛みと共に、昼が戻って来た。
 陽射し、馬の息遣い、風の匂い、座席の感触、血の味――、素早く五感をなぞり、舌で血を拭う。

(これが『沈められる』と言うものか、なるほど、愉快じゃありませんね)

 奪われた感覚が戻ってきた。
 深山は汗を拭うと、すでに前へと向き直っているキイトの隣りへと寄った。そして、その目線の先へと目を凝らすと、外へ手を伸ばし、走っている四人と馬車の速度を落とさせた。

「安全に止まりなさい」

 各々が、青年隊士の令に従う。
 そこへと、足と馬車を止めた者たちに、早馬を知らせる笛の音が届き、正面の角から、館士兵を乗せた二頭の馬が駆けてきた。
 先頭の馬は真赤な布を首から下げている。

「赤! 追放者のお出ましだ、キイト行くぞ!」

 菊は横に伸びあがると、窓に手を掛けていたキイトの襟首を掴み、引きずり出した。

「こら! 丁寧にお取扱いなさいっ」

 深山が文句を言いながら、御者へと馬を外すよう指示をだす。その間に、イチヤが二頭の早馬を誘導し、馬は菊達の傍へとやって来た。
 馬は荒い息遣いで、落ち着かなげに首を振り歩いてくる。やって来た館士兵が、馬上から菊へと、怒鳴るように報告した。

「菊、追放者だ。予兆なしで来やがった、皮が溶けている牛みたいな奴だ。いまは水守共が雀通りに留めさせている。イトムシはまだ来ていない、あー、小石丸様の方な、って、おっと!」

 館士兵は説明しつつ馬から降り、菊へと手綱を渡す。その際に、菊の脇に抱えられていたキイトが顔を上げたので、イトムシの目に自信のない彼は、慌て目を逸らした。

「っあっぶね。小さくて見えなかったわ」
「んだよ、ビビるんじゃねぇよ。午後は飯食ったら、キイトを使って視力検査すっからな」

 菊は館士兵の背を強く叩くと、巨体に似合わぬ身軽さで、キイトを抱えたまま馬へと乗る。宮の御者が憐れむように、守護館の馬を眺めた。

「あんなデカブツに乗られちゃ、馬が可哀想だ」

 そう言われると、守護館の馬も、どこか哀れっぽく瞬く。
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