巡る季節に育つ葦 ー夏の高鳴りー

瀬戸口 大河

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芒種 【part Ⅰ 】

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 六月六日の芒種。来週から水泳の授業が始まることもあり日曜日にもかかわらず夏木海斗(なつきかいと)は朝九時にプールまで来るように水泳部顧問から呼び出されていた。海斗は学校に着くなり、階段を登って屋上のプールへ向かう。まだ、六月だというのに気温は三十度近くあった。東向きの窓を貫く日差しは階段を登る海斗の全身を照らしていた。海斗は手庇(てひさし)で視界を守りつつ階段を登りながら窓の外に目をやる。空には太陽に近づき強い光を受けた雲が虹色に輝いている。海斗は神々しくも温かい雲と太陽の戯れに心を奪われた。
 人生で初めて見た美しい光景に「何か良いことがあるに違いない」と浅はかな自信を胸に宿していた。いつになく鮮やかな光を放つ雲は恍惚(こうこつ)とした表情の海斗を踊り場に数秒間とどまらせ彼の視線をしばらく独り占めしていた。
 海斗が屋上前の踊り場に着いた時、拡声器を通して響く顧問の声がかすかに耳に入ってきた。引き戸のガラスからプールを覗くと顧問がコースに背を向けながら、二列横隊に体育座りをする二〇人の水泳部員を相手に掃除の説明を出している。部員は各々、汚れてもよい服を着てきたのだろう。皆不揃いなTシャツやパーカー、ハーツパンツを着用していた。学校指定のものなど誰も着ていない。しかし、海斗だけは兄弟も多かったため汚れてもよい服など持っておらず、古くなった服は弟に譲っていたため学校指定の体育着だった。海斗は細かいことは気にしない性格だったためか、自分だけが周りと違って浮いていてもさして恥ずかしがる様子などなかった。
 海斗が時計を確認すると時刻は九時五分だった。遅刻することに抵抗などない海斗はちょっと遅れたけど、問題ないでしょと何も考えずに引き戸を開けた。
「ガガガッ」と立て付けの悪い引き戸が鈍い音を立てると、顧問と水泳部員は「ざっ」と音が聞こえてきそうな勢いで入口に目をやった。海斗が入ってきたことに全員が気づく。部員からは笑い声がちらほら上がった。
 顧問は拡声器越しに「海斗、やっときたか。列に入って説明を聞きなさい」と優しい笑顔で迎えた。顧問はいつもおおらかで滅多なことじゃ怒らない。海斗はいつもの調子で「すんません。早めに起きたんですけど、部屋のドアが今日はなぜが重くって閉じ込められてました」と頭を押さえながら冗談を口にした。顧問は「はいはい」と流したが、部員の半分ほどは声を上げて笑っていた。
 後列の端に腰を下ろし、正面を見ると顧問の後ろには既に水が抜かれて一年分の苔や砂をふんだんに溜め込み汚れきったプールの床が海斗の目に入った。四レーンに区切られた二十五メートルの底はさまざまな色の混ざった迷彩色のキャンバスとなり果てていた。海斗は高校三年生。三度目のプール清掃となれば説明など聞かなくても要領はわかっている。今年もこの汚くなったプールをきれいにしようと海斗はやる気に満ち溢れていた。わかりきった顧問の説明を聞き流しながら、ふと太陽に目をやるともう先程の雲はいなくなっていた。
 顧問の説明は海斗が到着して三分ほどで終わった。海斗を入れて総勢二十一人の部員がテキパキと動き出した。海斗を含めた三年生五人の男子部員は大きなワイパーでプールの底に巣食う黒く湿ったチリを集める。顧問は仕事があるのかプールから出てどこかへ行ってしまった。三年生の女子部員三人は海斗たちが集めた汚れを回収するため、ゴール地点で九〇リットルの黒いポリ袋を持って待っている。一、二年生十二人は総出で床を磨くためのデッキブラシと中性洗剤、ホース、バケツを準備する。
 海斗がワイパーを手に取り、足を滑らせないよう入水用の手すりからゆっくりとプールに降りようとしたとき、二年生で水泳部マネージャーの高橋由依(たかはしゆい)が海斗の目に入った。肩まである髪を一つ結びにし、ブルーのパーカーにハーフパンツを着用していた。四コース沿いのプールサイド真ん中から三コースに目をやる。その視線の先には汚れしかないが、由依の目は注意深く何かを探していた。笑顔の多い由依がいつもとは違う一面に違和感を感じ、気を取られていた海斗はプールの床に足を滑らせた。
 海斗の豪快な転倒に三年生の男子部員たちは声を上げた。「大丈夫か?」
 皆足元がおぼつかず、その場から離れられなかった。
「大丈夫。大したことないよ」と海斗は答えた。もう一度由依に目を向けると他の女子部員と話していた。先ほどの光景が嘘のように自然な笑みを浮かべ話している。すると由依は女子部員とともに掃除の準備へと向かった。
 
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