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芒種【partⅡ】
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海斗は左半身を真っ黒に汚した。勢いに首が振れ左側頭部を軽く打ち、一瞬だけ顔面を貫く鈍痛に襲われた。さっきまで、心配の眼差しを向けていた男子部員たちが一斉に笑い出す。
海斗は周囲に心配させまいと「お前ら笑いすぎだろ」と繕った笑顔で返した。ひと笑いした後、普段深く物事を考えない海斗でも女子生徒に目を奪われ足を滑らせ、挙句豪快に転倒した自分が急に恥ずかしくなった。
海斗は早く立ち上がろうと四つん這いになり、四肢で力強く床を押そうとするがうまく力が入らない。
転倒した海斗に気づいた由依が「大丈夫ですか。今行きます」とプールサイドから手すりに向かう。
周囲の男子生徒は「海斗なら大丈夫だよ。そう簡単に怪我なんてしないんだから」と明るい調子で由依に伝える。しかし由依は男子生徒の声を無視し、手すりをつたって、足早にプールへと降りていった。
プール内にいる三年生の部員たちはうまく起き上がれない海斗をよそに助けるどころかワイパーを使ってスタート地点からゴールに向かって力強く汚れを寄せていく。プールに着地した由依は、手すりの下で徐々に体の感覚を戻しつつある海斗の右側にしゃがみ込む。すると由依は真剣な表情で海斗の顔を覗いた。
由依が何か言おうとしたのを察知した海斗は恥ずかしい気持ちを悟られまいと低い声でぶっきらぼうに「このぐらい大丈夫だよ」と口にした。
由依は何も言わずに右手で海斗の右手首、左腕を右の脇の下から抱え込み、立ち上がろうとする海斗の動きに合わせてゆっくりと優しく力を貸す。海斗はなぜか由依の顔を見れずに目線を逸らした。
由依は顔を海斗の耳元まで近づけて「わかってますよ。でも心配なんです。頭…打ち付けてましたよね」と透き通る小さな声で囁いた。
海斗は耳に当たる柔らかい吐息を感じ頬を赤らめた。立ち上がる頃には由依の優しさに感情が上書きされ恥ずかしさも薄れていた。由依の細い腕に助けられた海斗はどことなくあったかい気持ちになるのが自分でもわかっていた。
立ち上がると海斗は緩みそうな口元を強い力で引き戻して「もう大丈夫だよ。ありがとう」と由依に礼を言った。
「せーんぱい。気をつけてくださいね」
さっきまでの真剣な表情とは打って変わり、いつもの由依のはつらつとした笑顔だった。
「おう」
海斗はコロコロと表情の変わる由依に見惚れて、不甲斐ない生返事をしていた。
海斗は一度校内に戻り、更衣室のシャワーで汚れを落とすことにした。プールを出て男子更衣室に行くまでの間、自分の汚れから出るひどい匂いに耐えながら早足で更衣室に向かった。着替えなど持ってきていないためシャワーを浴びてもまた悪臭漂う体操着に袖を通すことになる。海斗は不快な気分になっていた。
すると後ろから顧問の大きな笑い声が聞こえた。
海斗が立ち止まって振り返ると「お前派手にやったな。怪我はないか」と歩きながら顧問は近づく。
「ちょっと滑っちゃって。でも、大丈夫です。更衣室のシャワーで身体洗ってきます」と海斗も砕けた表情で答えた。
顧問は「待て待て。海斗。タオルもなけりゃ着替えもねぇじゃねぇか。更衣室の中で待ってろ。その格好でうろうろしてるのも恥ずかしいだろうし。俺のタオルとジャージ持ってってやるよ。さすがににパンツは貸せないけどな」と気遣った。海斗が礼をいうと顧問は元来た道を戻り、職員室へ向かう。
更衣室に着いた海斗は汚れが他の場所につかないように立ったまま待っていた。
すると一分も待たずに顧問がやって来て「これジャージとタオル。返さなくていいぞ。デザインに飽きちゃって捨てようと思ってたんだ。タオルもおまけにしとくからな」と言い放ち直ぐに更衣室を出た。
顧問はせっかちな部分もあるが、いつも笑顔で面倒見が良く、今年五十歳の気のいいおっちゃんだった。顧問は海斗に兄弟が多く、お金がないことを知っていた。海斗が入部手続きをした時もお金がなくて水着が買えないことを伝えていたからだ。「一回も使わずに家に残ってる水着があるから、あげるよ」といい次の日にビニール袋に入っていた競泳水着を海斗に渡した。海斗がビニール袋にから水着を出すと一枚の紙切れが落ちた。きっと顧問が購入した時にそのままビニール袋に突っ込んだであろうレシートだった。レシートには海斗がお金がないことを相談した三時間後の日時が印刷されていた。きっと海斗のために買いに行ってくれたのだろう。海斗は顧問をどんな大人よりも信頼していた。
海斗は早速、タオルを持ってシャワーの蛇口をひねる。シャワーで上半身を洗いながら、由依の華奢な腕の感覚を思い出し無意識に由衣が触れていた場所を撫でていた。強い温水に弾かれていく肌から、由依の温かさが消えていくようで海斗は寂しさを覚えるようになっていた。海斗は一時のドキドキに流されて由依に好意を抱いている自分に気づいていた。
海斗は中学三年で初めての恋をしてから高校二年生の秋までに三人の女性と付き合った。海斗は情に厚く、真っ直ぐな男である反面、自分の納得いかないことや気に入らないことに目をつぶれない性格であった。その真っ直ぐすぎる性格ゆえ約束を守らない、嘘をつく、人をいじめる。そんな彼女たちを許せず、別れ際に長い説教をして泣かせてから別れる。夏木海斗という男はそんな一本気な男だった。
海斗は過去の恋を振り返りながら、
―自分が由依に恋しているのかも、由依が自分を好きかもわからない。仮に両思いだったとして、付き合ってもその先で嫌いになるのが関の山なのであればただドキドキした記憶に残しておくほうが俺にとっては良いのかもしれない。―
海斗は上半身を洗い終えると次に足を洗った。
固定式シャワーで自由にヘッドが動かないため、海斗はしゃがみ込みながら足の汚れを流す。さっき転んだせいか左足の何箇所かにあざができていた。あざを見ながらまた由依のことを思い出す。由依はプールサイドから何を探していたのだろうか。落とし物なのだろうが、なぜプールになんだろう。しかも、水泳がない期間にプールに行く理由などあるのだろうか。強い水圧で噴き出るシャワーの温水がしゃがみ込む海斗の身体に触れる頃、心地よい振動を海斗に与えていた。温水の優しい刺激の中で考えを巡らせるが答えなど出なかった。
海斗は周囲に心配させまいと「お前ら笑いすぎだろ」と繕った笑顔で返した。ひと笑いした後、普段深く物事を考えない海斗でも女子生徒に目を奪われ足を滑らせ、挙句豪快に転倒した自分が急に恥ずかしくなった。
海斗は早く立ち上がろうと四つん這いになり、四肢で力強く床を押そうとするがうまく力が入らない。
転倒した海斗に気づいた由依が「大丈夫ですか。今行きます」とプールサイドから手すりに向かう。
周囲の男子生徒は「海斗なら大丈夫だよ。そう簡単に怪我なんてしないんだから」と明るい調子で由依に伝える。しかし由依は男子生徒の声を無視し、手すりをつたって、足早にプールへと降りていった。
プール内にいる三年生の部員たちはうまく起き上がれない海斗をよそに助けるどころかワイパーを使ってスタート地点からゴールに向かって力強く汚れを寄せていく。プールに着地した由依は、手すりの下で徐々に体の感覚を戻しつつある海斗の右側にしゃがみ込む。すると由依は真剣な表情で海斗の顔を覗いた。
由依が何か言おうとしたのを察知した海斗は恥ずかしい気持ちを悟られまいと低い声でぶっきらぼうに「このぐらい大丈夫だよ」と口にした。
由依は何も言わずに右手で海斗の右手首、左腕を右の脇の下から抱え込み、立ち上がろうとする海斗の動きに合わせてゆっくりと優しく力を貸す。海斗はなぜか由依の顔を見れずに目線を逸らした。
由依は顔を海斗の耳元まで近づけて「わかってますよ。でも心配なんです。頭…打ち付けてましたよね」と透き通る小さな声で囁いた。
海斗は耳に当たる柔らかい吐息を感じ頬を赤らめた。立ち上がる頃には由依の優しさに感情が上書きされ恥ずかしさも薄れていた。由依の細い腕に助けられた海斗はどことなくあったかい気持ちになるのが自分でもわかっていた。
立ち上がると海斗は緩みそうな口元を強い力で引き戻して「もう大丈夫だよ。ありがとう」と由依に礼を言った。
「せーんぱい。気をつけてくださいね」
さっきまでの真剣な表情とは打って変わり、いつもの由依のはつらつとした笑顔だった。
「おう」
海斗はコロコロと表情の変わる由依に見惚れて、不甲斐ない生返事をしていた。
海斗は一度校内に戻り、更衣室のシャワーで汚れを落とすことにした。プールを出て男子更衣室に行くまでの間、自分の汚れから出るひどい匂いに耐えながら早足で更衣室に向かった。着替えなど持ってきていないためシャワーを浴びてもまた悪臭漂う体操着に袖を通すことになる。海斗は不快な気分になっていた。
すると後ろから顧問の大きな笑い声が聞こえた。
海斗が立ち止まって振り返ると「お前派手にやったな。怪我はないか」と歩きながら顧問は近づく。
「ちょっと滑っちゃって。でも、大丈夫です。更衣室のシャワーで身体洗ってきます」と海斗も砕けた表情で答えた。
顧問は「待て待て。海斗。タオルもなけりゃ着替えもねぇじゃねぇか。更衣室の中で待ってろ。その格好でうろうろしてるのも恥ずかしいだろうし。俺のタオルとジャージ持ってってやるよ。さすがににパンツは貸せないけどな」と気遣った。海斗が礼をいうと顧問は元来た道を戻り、職員室へ向かう。
更衣室に着いた海斗は汚れが他の場所につかないように立ったまま待っていた。
すると一分も待たずに顧問がやって来て「これジャージとタオル。返さなくていいぞ。デザインに飽きちゃって捨てようと思ってたんだ。タオルもおまけにしとくからな」と言い放ち直ぐに更衣室を出た。
顧問はせっかちな部分もあるが、いつも笑顔で面倒見が良く、今年五十歳の気のいいおっちゃんだった。顧問は海斗に兄弟が多く、お金がないことを知っていた。海斗が入部手続きをした時もお金がなくて水着が買えないことを伝えていたからだ。「一回も使わずに家に残ってる水着があるから、あげるよ」といい次の日にビニール袋に入っていた競泳水着を海斗に渡した。海斗がビニール袋にから水着を出すと一枚の紙切れが落ちた。きっと顧問が購入した時にそのままビニール袋に突っ込んだであろうレシートだった。レシートには海斗がお金がないことを相談した三時間後の日時が印刷されていた。きっと海斗のために買いに行ってくれたのだろう。海斗は顧問をどんな大人よりも信頼していた。
海斗は早速、タオルを持ってシャワーの蛇口をひねる。シャワーで上半身を洗いながら、由依の華奢な腕の感覚を思い出し無意識に由衣が触れていた場所を撫でていた。強い温水に弾かれていく肌から、由依の温かさが消えていくようで海斗は寂しさを覚えるようになっていた。海斗は一時のドキドキに流されて由依に好意を抱いている自分に気づいていた。
海斗は中学三年で初めての恋をしてから高校二年生の秋までに三人の女性と付き合った。海斗は情に厚く、真っ直ぐな男である反面、自分の納得いかないことや気に入らないことに目をつぶれない性格であった。その真っ直ぐすぎる性格ゆえ約束を守らない、嘘をつく、人をいじめる。そんな彼女たちを許せず、別れ際に長い説教をして泣かせてから別れる。夏木海斗という男はそんな一本気な男だった。
海斗は過去の恋を振り返りながら、
―自分が由依に恋しているのかも、由依が自分を好きかもわからない。仮に両思いだったとして、付き合ってもその先で嫌いになるのが関の山なのであればただドキドキした記憶に残しておくほうが俺にとっては良いのかもしれない。―
海斗は上半身を洗い終えると次に足を洗った。
固定式シャワーで自由にヘッドが動かないため、海斗はしゃがみ込みながら足の汚れを流す。さっき転んだせいか左足の何箇所かにあざができていた。あざを見ながらまた由依のことを思い出す。由依はプールサイドから何を探していたのだろうか。落とし物なのだろうが、なぜプールになんだろう。しかも、水泳がない期間にプールに行く理由などあるのだろうか。強い水圧で噴き出るシャワーの温水がしゃがみ込む海斗の身体に触れる頃、心地よい振動を海斗に与えていた。温水の優しい刺激の中で考えを巡らせるが答えなど出なかった。
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