Blackheart

高塚イツキ

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世は強い者が得る

第5話

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 日曜の朝。カイは村のみんなと城に向かった。雄鶏を抱いて平野を歩く。父さんも抱いている。悪いほうの脚を引きずっている。アデルは後ろのほうで卵の入った籠を抱えている。あれから一度も口を利いていない。
 父さんと母さんは明けの前に戻ってきた。心配してくれた。騎士になれると言っても信じなかった。自分も信じていない。次の日、従士が村にやってきた。巻物を読み上げた。みんなが驚いた。
 丘を上る。フラニアの城はすぐ先だ。みんなで歌をうたう。領主にものを収めるときはいつもそうする。なぜかはわからない。ずっとそうしてきたからつづけている。
 頂を越えた。窪地に畑が広がる。農奴が長い畝に種をまいている。左手の川沿いには建物が集まっている。長屋に倉、水車小屋、礼拝堂。こちらで働くときは長屋で寝泊まりする。
 さらに向こうには急な丘がある。丘の上に灰色の城がそびえている。どれだけ大きな城なのだろう。騎士たちが大勢いるにちがいない。家族と別れて城で暮らす。まだ信じられない。
 歌いながらあぜ道を行列する。先に主人がぽつんと立っていた。黒い着物を着ている。種を狙う烏みたいだった。
 主人の前で立ち止まる。先頭の父さんが雄鶏を放り投げた。雄鶏は羽根をばたつかせる。主人は腰を落としながら見上げる。前に進んで手を差し伸べた。うまく捕まえた。みんなで歓声を上げる。雄鶏を収めるときはいつもこうする。主人が落とすと春小麦が穫れなくなる。
 カイも放った。主人はしっかりと抱き留めた。アデルは卵入りの籠を渡した。
 主人は父さんのそばに寄って北の小丘を指した。
「休みの土地で燕麦をつくりたいのだが。一年でははやいかな」
「おととしもほとんど穫れませんでした」
「とにかく必要だ。それはそうと、息子を預かる。おまえと妻はフラニアの司教殿に売った。町にはたくさん仕事があるぞ。もちろんこちらの仕事もする」
 父さんは頭を振った。
「これ以上は働けません。女房もくたびれきってます」
「それでも働く。すぐにフラニアの町に行け。小僧は来い」
 カイは命令どおり進み出た。父さんも母さんも死んでしまう。
 主人は屈んで顔をのぞき込んだ。緑の瞳が見つめる。
「まずは風呂に入れ。悲しいか」
 うなずいた。
「ひどい女だと思うか」
「いいえ、ご主人様」
「おまえの親は不幸だが、わたしは幸せだ。おまえの親は戦に出ないが、わたしは出る。死ぬかもしれん。腕を失うかもしれん。だがいまは幸せだ。幸せになりたいか」
 何度もうなずいた。
「ならばおのれのことだけを考えろ。強い者は得る。弱い者は失う。世はそれだけだ」

 主人につづいて跳ね上げ橋を渡った。アデルはうれしそうに空壕をのぞき込んでいた。男の格好をして肩に弓をぶら下げている。どうしても聞きたいことがある。
 門をくぐった。広場に出た。目の前に高い石壁がそびえ立っていた。カイは見上げた。壁の向こうにも壁があった。ここよりも高いところに立っている。奥には塔と、三角屋根の先っぽがのぞいている。十字架が立っている。礼拝堂だ。
 広場には小屋が立っていた。屋台もあった。百姓が長椅子に腰かけて飯を食っている。鶏がたくさんうろついている。男と女が働いている。どれも騎士ではなさそうだった。裸足か木靴で、自分と同じ羊毛の着物をかぶっている。
 主人は雄鶏を婆さんに渡した。カイも屈んで雄鶏を置いた。地べたをほじくりながらうろつきはじめた。アデルは卵入りの籠を抱えながら困った様子で見まわした。主人が男を呼んだ。アデルは渡した。
 左を指した。上り坂になっている。外側の壁に沿って右に緩く曲がっている。
「正門は裏手にある。いまの外壁は先代が拡張した。世は年追うごとに物騒になっていくということだ」
 急な坂を上る。壁に沿って右に曲がる。内側の壁が地面の中に消えた。広場のようなところに出た。井戸と、鉄の柵のようなものが地面に埋まっている。だれもいない。
 主人は広場を突っ切った。さらに坂があった。今度はかなり狭い。
 少し上ると外側の壁も消えた。代わりに木の柵が巡っている。向こうは絶壁だ。風が渦を巻いて髪をもてあそんだ。おそるおそる見下ろす。奴隷が畑仕事をしている。自分のために麦を育ててくれている。
 門はまだ見えない。思い切ってアデルに話しかけた。
「怪我は、しなかったのか。木から落ちただろ」
「しょっちゅう落ちてる。わたしは身軽なの。豚は話しかけてこないで」
「これからはどっちも従士だ。同じだ」
「わたしはすぐに騎士になる。あんたは弱音を吐いて奴隷に戻るの」
 くすくすと笑う。あの口から感謝の言葉を聞きたい。訓練して力をつければ無理やり押さえ込める。頬を殴って、ありがとうと言え、と怒鳴る。男は女にそうするものだ。
 いつの間にか平坦になっていた。小さな広場に出た。正面に門が口を開けている。人が出入りしている。鎧を着ている人は見かけない。騎士はどこにいるのだろう。
 門に近づく。壁の穴から声がした。
「お帰りなさい、ご主人様。村の英雄ってのはそいつですか」
「きっと強い騎士になる。後世に名を残すぞ」
 門をくぐった。薄暗くなった。はじめの門より壁が分厚い。カイは落とし格子を見上げた。いまにも落ちてきそうだ。アデルはお下げ髪を揺らしながら蝶のように主人にまとわりついている。
「弓の腕を見てください。百発百中ですよ」
「その前に挨拶だ。騎士は礼儀を重んじる」
 中庭に出た。奥に向かって細長く延びている。突き当たりには巨大な塔と三角屋根の礼拝堂があった。下の広場で見たやつだ。右手の厩に大きな馬が二頭いた。桶に鼻面を突っ込んでいる。馬番の男が柱に寄りかかってじっとこちらを見ている。
 井戸の脇を通り過ぎる。女が洗濯をしていた。左には大きな倉に木の家、右には石の壁に差し掛けた長屋がある。男と女がうろついている。騎士らしい人はまだ見かけない。思っていたより広くない。それにごちゃごちゃしている。
 長屋から男が出てきた。こちらを見るなり立ち止まった。中に向かって怒鳴った。
 ぞくぞくと出てきた。連れ立ってやってくる。どれも背が高い。
 一人が主人に話しかけた。
「なんですかあいつ。汚い小僧ですね」
「任せる。強くしろ。礼儀のほうは任せない」
 いっせいに笑った。どんどん近づいてくる。カイは気づけば立ちすくんでいた。
 男たちが取り囲んだ。主人とアデルは行ってしまった。振り返りもしなかった。
 一人が口をつかんだ。揺すりながら言った。
「糞虫。名はなんだ」
「カイ」
「おまえはおれと喧嘩する」
 手に力がこもった。頬がつぶれて勝手に口がひらいた。
 いきなり腹を殴った。げっと声が漏れた。口からよだれが垂れる。息ができない。
「次はおまえの番だ。おれを殴れ」
 喧嘩をしたことは一度もない。怒られると謝った。それで済んだ。
「だめだな。見込みなしだ」
 今度は口を殴った。歯が舌の上に落ちた。気持ち悪さにぞっとした。死ぬ。戦わないと死ぬ。
 男にむしゃぶりついた。見よう見まねで腹を殴った。硬い。臓腑の奥まで届かない。男は目を殴った。顔が痺れてなにも見えなくなった。殺さないと死ぬ。
 顔をつかんで掻きむしった。知らずに金切り声を上げていた。自分でも聞いたことがない声だった。
 妙なものに触れた。なんだろう。目だ。爪で引っかいた。男の悲鳴が聞こえた。気持ちよかった。指を突っ込んだ。目がつぶれて壊れた。ねじって掻きまわす。だれかがやめろと叫んだ。おまえらがはじめたんだ。おまえらのせいだ。
 だれかが腕を取った。もう片方の腕も。足を振りまわした。だれかが足を押さえた。もがいた。目の前に喧嘩の相手がいた。うずくまって泣き叫んでいる。ぼくは強い。大きな男に勝った。
「ご主人様は獣を連れてきたな。礼儀ってのはたしかに必要なようだ」
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