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愚者の構え
第6話
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王弟ジョイスが憤然と剣を抜いた。宮廷の若者たちがやあやあと声を上げながら駆け寄ってくる。これも台本どおりなのだろう。すべては演技。
「先の物言いを償うのだ。そこに直れ。女だからといって容赦はしないぞ」
若者が取り囲んだ。肩を、腕をつかむ。ベアはひざまずいた。剣の刃が喉に触れた。
王が肘掛けをつかんで身を乗り出した。猫なで声で言う。
「いまから旅籠に千の兵をやる。あの蛮族の女を捕らえたが最後、おまえはここで打ち首になるのだ。命乞いをしろ」
「先は商人の家に嫁げと言われたでしょう。花嫁が死人では親族も困るのでは」
ジョイスが頬を張った。思わず身を引いて急所を外した。イーフが目をぱちくりさせている。ベアはあわててよよと崩れ落ちた。若者たちが引き起こす。
面を上げる。王の瞳に怒りが宿っている。ふざけすぎたか。
「お聞きください、陛下。〈黒き心〉のかけらは王国に二つとない品でございます。わたしと同じ苦しみを味わっていただきたくはありません」
「どういう意味だ。どのような苦しみだ」
「人の汚さ、人の欲。人の悪のすべてでございます、尊き国王陛下」
王は口をつぐんだ。瞳がちらと動いた。ベアは押した。
「人の欲はおぞましいものでございます、陛下。友や兄弟の裏切り、ねたみ、策謀。〈黒き心〉は悪魔の落とし胤、いますぐ深海の底に沈めるべきでございます。陛下にお渡しするわけにはまいりません」
王はじっとベアを見つめる。見まわすわけにはいかないからだ。友情はなににも増して代えがたいもの。だが王の顔には刀傷ひとつない。王弟の顔にも。若者たちにも。
口の端を片方持ち上げて笑った。聖堂前で見た顔。
さっと手を振った。
「残らず去れ。聖女とふたりきりで話がしたい。酒と杯は残していけ」
ジョイスが意外そうに声を上げた。
「なにを言われる。わたしは残るぞ。ふたりきりなどだめだ。モディウスによると、この女は」
「弟よ、剣を収めてくれ。見ろ、心底おびえきっているではないか。おまえのような乱暴者がいるとろくに話ができん。長旅で疲れてもいる」
「話など。そもそもわれわれは、はじめから」
「わたしに免じてどうか引いてくれ。みなもはやく去れ。相手は弱いおなごだ。心配ない」
ジョイスは剣を下ろした。若者たちに命じる。男の手が離れる。南の袖廊にぞろぞろと去っていく。やはり深海の底に沈めるしかないだろう。独り占めしたいのであれば、人の心を。
残らず南に去っていった。主と聖霊以外はひとり残らず。
御前で言葉を待つ。王は肘掛けにもたれて顎に手を添えている。思案している。
「教会がわたしを聖別し、神の代理と認める。王の右手に癒やしの力が宿る。どうだ」
「大司教も人の子でございます、陛下。王の右手はかけらのおかげだとだれもが知るでしょう」
「そうなれば聖王の血統にけちがつくな。使えんものをもらっても仕方がないか」
王は体を起こした。背もたれに寄りかかる。あきらめたか。
「代官のミュレー、やつから話は聞いている。だが玉をぶら下げているとは言わなかった。王が怖くはないのか」
「あのような脅しに屈するのは愚か者だけです、尊き国王陛下」
「頭も切れる」
「しばらく都に留まり、民を癒やしてまわりましょう」
「馬鹿を言うな。聖女は癒やしの技を失ったのだ。台本を忘れたか」
「それでは民はついてこないでしょう。どなたが台本を書かれたのかは存じ上げませんが、民とは現金なもの、癒やしがあってこその熱狂でございます。やはり二兎は追えぬものです」
「なんの話だ」
「〈黒き心〉のかけらはおあきらめください。わたしが遠征に出なければ、フラニア侵攻は失意のうちに終わることでしょう」
王は金の杯を投げた。聖女の着物に当たった。ブドウ酒が飛び散って黒く汚した。
石の床に落ちた。からからと転がる。
「杯を取って酒を注げ」
ベアは屈んで杯を取った。樽に歩み寄る。栓をひねって酒を注ぐ。王は短剣を佩いているだろう。ベアは右の腰に触れた。素手でも殺せる。だが殺す理由がない。いまはまだ。
杯を渡した。王はもう一度投げつけた。顔にかかる。からりと杯が落ちる。ベアは震えを抑えた。挑発に乗ってはいけない。
「怒った顔も美しい。そう、熱狂が必要なのだ。カサの市長どもがフラニア侵攻に気づいたら面倒だからな。ならば聖都に向かうか。だがかけらは欲しい。どうにかならんか」
「港より価値のあるものでしょう。モディウスはわたしにお任せください」
「いまさら諸侯にどう言って聞かせる。イーフはすでに土地を担保に借金をしている。フラニアはどこも地味がいいそうだ。知っていたか」
「ほとんど手つかずだからです。民が寄りつかないせいで」
「モディウスの無策のおかげだな。父上は策を弄し、十二年も待った。フラニアの地と港は祖先の悲願なのだ」
「ではわたしはかけらを持ち、出立いたします。ご許可を」
「ならん。なぜならば、おまえはわたしに必ず牙を剥くからだ。鏡を見たか。悪魔の顔をしているぞ。奇跡によって民を煽り、諸侯を味方につけ、王を殺す腹づもりなのだ」
「すべては陛下の策謀です。策に溺れたのですよ」
「愚かな女だと聞いていた。あれは無為の好き者、政治のことはなにひとつ知りません、とな。つまりロベールのほうがよけいに愚か者だったということだ。おまえの許嫁は間者だった。驚いたか」
「春に殺しました。床で政治を語れる男をよこすべきでした」
肘掛けを指でたたく。フラニアはあきらめると思っていた。祖先の悲願というのは本当のことらしい。
「旅籠から兵を退くようご命令ください。陛下は恥をかかれるでしょう。わたしを信頼し、速やかに出立の許可をお出しください」
「おまえも練達の騎士か」
「国王陛下の忠実なるしもべでございます」
王はこつこつと肘掛けを打つ。鼻から息を吐いた。
「どうにかならんか」
「先の物言いを償うのだ。そこに直れ。女だからといって容赦はしないぞ」
若者が取り囲んだ。肩を、腕をつかむ。ベアはひざまずいた。剣の刃が喉に触れた。
王が肘掛けをつかんで身を乗り出した。猫なで声で言う。
「いまから旅籠に千の兵をやる。あの蛮族の女を捕らえたが最後、おまえはここで打ち首になるのだ。命乞いをしろ」
「先は商人の家に嫁げと言われたでしょう。花嫁が死人では親族も困るのでは」
ジョイスが頬を張った。思わず身を引いて急所を外した。イーフが目をぱちくりさせている。ベアはあわててよよと崩れ落ちた。若者たちが引き起こす。
面を上げる。王の瞳に怒りが宿っている。ふざけすぎたか。
「お聞きください、陛下。〈黒き心〉のかけらは王国に二つとない品でございます。わたしと同じ苦しみを味わっていただきたくはありません」
「どういう意味だ。どのような苦しみだ」
「人の汚さ、人の欲。人の悪のすべてでございます、尊き国王陛下」
王は口をつぐんだ。瞳がちらと動いた。ベアは押した。
「人の欲はおぞましいものでございます、陛下。友や兄弟の裏切り、ねたみ、策謀。〈黒き心〉は悪魔の落とし胤、いますぐ深海の底に沈めるべきでございます。陛下にお渡しするわけにはまいりません」
王はじっとベアを見つめる。見まわすわけにはいかないからだ。友情はなににも増して代えがたいもの。だが王の顔には刀傷ひとつない。王弟の顔にも。若者たちにも。
口の端を片方持ち上げて笑った。聖堂前で見た顔。
さっと手を振った。
「残らず去れ。聖女とふたりきりで話がしたい。酒と杯は残していけ」
ジョイスが意外そうに声を上げた。
「なにを言われる。わたしは残るぞ。ふたりきりなどだめだ。モディウスによると、この女は」
「弟よ、剣を収めてくれ。見ろ、心底おびえきっているではないか。おまえのような乱暴者がいるとろくに話ができん。長旅で疲れてもいる」
「話など。そもそもわれわれは、はじめから」
「わたしに免じてどうか引いてくれ。みなもはやく去れ。相手は弱いおなごだ。心配ない」
ジョイスは剣を下ろした。若者たちに命じる。男の手が離れる。南の袖廊にぞろぞろと去っていく。やはり深海の底に沈めるしかないだろう。独り占めしたいのであれば、人の心を。
残らず南に去っていった。主と聖霊以外はひとり残らず。
御前で言葉を待つ。王は肘掛けにもたれて顎に手を添えている。思案している。
「教会がわたしを聖別し、神の代理と認める。王の右手に癒やしの力が宿る。どうだ」
「大司教も人の子でございます、陛下。王の右手はかけらのおかげだとだれもが知るでしょう」
「そうなれば聖王の血統にけちがつくな。使えんものをもらっても仕方がないか」
王は体を起こした。背もたれに寄りかかる。あきらめたか。
「代官のミュレー、やつから話は聞いている。だが玉をぶら下げているとは言わなかった。王が怖くはないのか」
「あのような脅しに屈するのは愚か者だけです、尊き国王陛下」
「頭も切れる」
「しばらく都に留まり、民を癒やしてまわりましょう」
「馬鹿を言うな。聖女は癒やしの技を失ったのだ。台本を忘れたか」
「それでは民はついてこないでしょう。どなたが台本を書かれたのかは存じ上げませんが、民とは現金なもの、癒やしがあってこその熱狂でございます。やはり二兎は追えぬものです」
「なんの話だ」
「〈黒き心〉のかけらはおあきらめください。わたしが遠征に出なければ、フラニア侵攻は失意のうちに終わることでしょう」
王は金の杯を投げた。聖女の着物に当たった。ブドウ酒が飛び散って黒く汚した。
石の床に落ちた。からからと転がる。
「杯を取って酒を注げ」
ベアは屈んで杯を取った。樽に歩み寄る。栓をひねって酒を注ぐ。王は短剣を佩いているだろう。ベアは右の腰に触れた。素手でも殺せる。だが殺す理由がない。いまはまだ。
杯を渡した。王はもう一度投げつけた。顔にかかる。からりと杯が落ちる。ベアは震えを抑えた。挑発に乗ってはいけない。
「怒った顔も美しい。そう、熱狂が必要なのだ。カサの市長どもがフラニア侵攻に気づいたら面倒だからな。ならば聖都に向かうか。だがかけらは欲しい。どうにかならんか」
「港より価値のあるものでしょう。モディウスはわたしにお任せください」
「いまさら諸侯にどう言って聞かせる。イーフはすでに土地を担保に借金をしている。フラニアはどこも地味がいいそうだ。知っていたか」
「ほとんど手つかずだからです。民が寄りつかないせいで」
「モディウスの無策のおかげだな。父上は策を弄し、十二年も待った。フラニアの地と港は祖先の悲願なのだ」
「ではわたしはかけらを持ち、出立いたします。ご許可を」
「ならん。なぜならば、おまえはわたしに必ず牙を剥くからだ。鏡を見たか。悪魔の顔をしているぞ。奇跡によって民を煽り、諸侯を味方につけ、王を殺す腹づもりなのだ」
「すべては陛下の策謀です。策に溺れたのですよ」
「愚かな女だと聞いていた。あれは無為の好き者、政治のことはなにひとつ知りません、とな。つまりロベールのほうがよけいに愚か者だったということだ。おまえの許嫁は間者だった。驚いたか」
「春に殺しました。床で政治を語れる男をよこすべきでした」
肘掛けを指でたたく。フラニアはあきらめると思っていた。祖先の悲願というのは本当のことらしい。
「旅籠から兵を退くようご命令ください。陛下は恥をかかれるでしょう。わたしを信頼し、速やかに出立の許可をお出しください」
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