26 / 38
マルコシウス、お留守番をする
しおりを挟む
(大分……寒くなってきたな)
いつものようにリュリィミタラを鳴らしながら、マルコシウスは朝陽ののぼってきた空を見上げた。月の数こそ違うものの、この世界の季節や暦の考え方はマルコシウスの慣れ親しんできたものとよく似ていた。
もし元の世界でも同じように季節が過ぎているなら、今頃はきっとファールエリリア祭の頃合いのはずだ。かつて大飢饉をその「芽吹きの歌声」で救った、豊穣の聖女の名を冠された収穫祭。この時期は、彼女にちなんで各地で演劇や歌唱会が催される。
普段は離れに住まわされていたマルコシウスも、この時は邸内に呼ばれて客人たちに歌を披露したものだ。劇を観に外出できる、数少ない機会でもあった。
(あまりいい思い出ではないけれど、懐かしくはあるのか……)
いつの間にか演奏の手は止まっていた。戻りたいとは思わないが、それでもどこか苦しい。
(ガルームメル、食べたいな)
祭のときにだけ出てくる、甘い糖蜜漬けの果物と木の実がたっぷり入った焼き菓子に思いを馳せる。出てくるものを口にするだけだったからマルコシウスは作り方を知らないし、だからもう二度と食べられないのだろうけれども。ため息をついて見下ろした指には、いくつもの絆創膏が貼られている。
ガタガタと上の階から音がした。珍しく滋ヶ崎が早起きしているらしい。階段下で待っていると、しばらくして硬い髪を手櫛で撫でつけただけの滋ヶ崎が下りてくる。
「やっと私の言葉を聞く気になったんですか? いいことですよ、正しい行いこそが正しい精神を……」
そこまで言いかけて、いつもと違う滋ヶ崎の格好にマルコシウスは続く言葉を飲み込んだ。マントの下から覗く、胸部だけを覆う簡単な鎧。履いているズボンはいつもの太い蛮族風のものではなく男根の形まで分かりそうなほどぴったりとしていて、腰にはレイピアのような細身の剣を差していた。
軽騎兵か、あるいは旅人のような――マルコシウスにはそんな格好に見えた。
「あー……」
面倒くさそうな顔をしてマルコシウスをちらりと見た滋ヶ崎は、そのまま黒いブーツの中に足を突っ込んだ。
「えっ、もう出かけるんですか、ちょっと待ってください私も」
「お前はいい。来んな」
「えっ」
マルコシウスが立ち尽くしていると、とんとんとブーツの爪先を地面に打ち付けた滋ヶ崎に前髪をくしゃりと掴まれた。
「後で祝が来るから準備しとけよ」
「えっ」
理解が追いつかない。そのまま頭を引き寄せられて、軽くキスをされた。
唖然としているうちに、玄関の引き戸が閉まる。
「……えっ?」
◇◆◇
そっと玄関の扉を開ける。しん、と初冬の光が降り注ぐ道には、滋ヶ崎どころか誰の姿もない。敷地内を一回りすると、車が残されていた。門の外に出るのは怖いので、そのまま引き返して家の中へ。滋ヶ崎の部屋に入ると、マルコシウスが部屋の隅に畳んだ布団だけが残されていた。自分の分はしまっていったのだろう。
自分にあてがわれたほとんど使っていない部屋、空き部屋、洗面所、風呂場、全部確認してからまた居間に戻る。
今までも滋ヶ崎がマルコシウスを置いて出かけることはあった。あった、し、何をしに行くかいつ帰るか、とかを言っていくこともそんなになかった。
でも、あんな旅装でもなかった。「来るな」ということもなかった。
(出かけるときにキスだってしてったことないし……)
なんとなく、いつもと違う気がした。
ざわざわと心の奥が嫌な感じに波立つ。
(いや、でもここは滋ヶ崎の家だし……?)
滋ヶ崎の家だから何なのだろう。少なくともヴァグリキオス家には複数の邸宅があった。使用人もいないような貧しい人間というものは複数の住居を持たないものだと思うが、その常識がこの世界でも通用するのかマルコシウスには分からなかった。それにいくら貧乏でも雨期用と乾期用の家くらいはあるかもしれない。
それに自分を買えたところから考えて、滋ヶ崎は単に貧しい暮らしをしているだけで、資産がないわけではないのかもしれないという気もしていた。そういう信念の神官はマルコシウスの知り合いにもいた。別に滋ヶ崎は神官じゃないけど。
考え込んでいるうちに空はすっかり明るくなっていた。朝ごはんでも食べようか、と立ち上がる。最近は電子レンジくらいは一人でも使えるようになったのだ。
「いや……でも」
もしかしたら滋ヶ崎が帰ってくるかもしれないし、とまた座り込む。別に先に食べていたところで何か言ってくるわけでもないだろうが、何となく嫌だった。
段々と部屋の中が暗くなっていく。これは気分の問題ではないはずだ、と窓の外を見ると、案の定どんよりとした雲が立ち込めていた。
「さむ……」
座布団を枕にして小さく丸まる。見るともなしにそのまま庭を眺めていると、やがてさぁ、と細かな雨が降り始める。
滋ヶ崎は、この雨の範囲にいるのだろうか。
「ううううううやっひーーーーーーーーい!!!! ひょおおおおおおお!!!!! お迎えに来たよおおおおお」
「!?」
突然の奇声と玄関の開く音にマルコシウスが飛び起きると、あたりは薄暗くなっていた。
「やだー真っ暗じゃーんひょっとしてマルちゃんオナるときは暗くしたい派なの? 見せて見せて!!!」
「!!??」
何事だ。反射的に短杖を構えたところで居間の電気がつき、びしょ濡れの袴姿が転がり込んでくる。コロコロコロとどこから出ているのかよく分からない音を発しながらマルコシウスの前に這ってきた祝は、伏せの姿勢になって尻尾を振った。
「あっ今から? 今からするとこだった?? じゃあ一緒にしよ! 触りっこでもいいよ!!」
「いえ……」
祝はよくてもマルコシウスはよくない。構えていた杖を下ろし、畳に座りなおす。窓の外を見ると雨はまだ降っていて、蛍光灯の光がガラスに白く反射していた。玄関から居間まで水の染みがべっちゃりとできていて、こんなことしたらまた滋ヶ崎が怒るだろうと思って、目の前が滲んで。
「……うぅ」
気づいた時には、マルコシウスの目から熱いものがこぼれていた。
いつものようにリュリィミタラを鳴らしながら、マルコシウスは朝陽ののぼってきた空を見上げた。月の数こそ違うものの、この世界の季節や暦の考え方はマルコシウスの慣れ親しんできたものとよく似ていた。
もし元の世界でも同じように季節が過ぎているなら、今頃はきっとファールエリリア祭の頃合いのはずだ。かつて大飢饉をその「芽吹きの歌声」で救った、豊穣の聖女の名を冠された収穫祭。この時期は、彼女にちなんで各地で演劇や歌唱会が催される。
普段は離れに住まわされていたマルコシウスも、この時は邸内に呼ばれて客人たちに歌を披露したものだ。劇を観に外出できる、数少ない機会でもあった。
(あまりいい思い出ではないけれど、懐かしくはあるのか……)
いつの間にか演奏の手は止まっていた。戻りたいとは思わないが、それでもどこか苦しい。
(ガルームメル、食べたいな)
祭のときにだけ出てくる、甘い糖蜜漬けの果物と木の実がたっぷり入った焼き菓子に思いを馳せる。出てくるものを口にするだけだったからマルコシウスは作り方を知らないし、だからもう二度と食べられないのだろうけれども。ため息をついて見下ろした指には、いくつもの絆創膏が貼られている。
ガタガタと上の階から音がした。珍しく滋ヶ崎が早起きしているらしい。階段下で待っていると、しばらくして硬い髪を手櫛で撫でつけただけの滋ヶ崎が下りてくる。
「やっと私の言葉を聞く気になったんですか? いいことですよ、正しい行いこそが正しい精神を……」
そこまで言いかけて、いつもと違う滋ヶ崎の格好にマルコシウスは続く言葉を飲み込んだ。マントの下から覗く、胸部だけを覆う簡単な鎧。履いているズボンはいつもの太い蛮族風のものではなく男根の形まで分かりそうなほどぴったりとしていて、腰にはレイピアのような細身の剣を差していた。
軽騎兵か、あるいは旅人のような――マルコシウスにはそんな格好に見えた。
「あー……」
面倒くさそうな顔をしてマルコシウスをちらりと見た滋ヶ崎は、そのまま黒いブーツの中に足を突っ込んだ。
「えっ、もう出かけるんですか、ちょっと待ってください私も」
「お前はいい。来んな」
「えっ」
マルコシウスが立ち尽くしていると、とんとんとブーツの爪先を地面に打ち付けた滋ヶ崎に前髪をくしゃりと掴まれた。
「後で祝が来るから準備しとけよ」
「えっ」
理解が追いつかない。そのまま頭を引き寄せられて、軽くキスをされた。
唖然としているうちに、玄関の引き戸が閉まる。
「……えっ?」
◇◆◇
そっと玄関の扉を開ける。しん、と初冬の光が降り注ぐ道には、滋ヶ崎どころか誰の姿もない。敷地内を一回りすると、車が残されていた。門の外に出るのは怖いので、そのまま引き返して家の中へ。滋ヶ崎の部屋に入ると、マルコシウスが部屋の隅に畳んだ布団だけが残されていた。自分の分はしまっていったのだろう。
自分にあてがわれたほとんど使っていない部屋、空き部屋、洗面所、風呂場、全部確認してからまた居間に戻る。
今までも滋ヶ崎がマルコシウスを置いて出かけることはあった。あった、し、何をしに行くかいつ帰るか、とかを言っていくこともそんなになかった。
でも、あんな旅装でもなかった。「来るな」ということもなかった。
(出かけるときにキスだってしてったことないし……)
なんとなく、いつもと違う気がした。
ざわざわと心の奥が嫌な感じに波立つ。
(いや、でもここは滋ヶ崎の家だし……?)
滋ヶ崎の家だから何なのだろう。少なくともヴァグリキオス家には複数の邸宅があった。使用人もいないような貧しい人間というものは複数の住居を持たないものだと思うが、その常識がこの世界でも通用するのかマルコシウスには分からなかった。それにいくら貧乏でも雨期用と乾期用の家くらいはあるかもしれない。
それに自分を買えたところから考えて、滋ヶ崎は単に貧しい暮らしをしているだけで、資産がないわけではないのかもしれないという気もしていた。そういう信念の神官はマルコシウスの知り合いにもいた。別に滋ヶ崎は神官じゃないけど。
考え込んでいるうちに空はすっかり明るくなっていた。朝ごはんでも食べようか、と立ち上がる。最近は電子レンジくらいは一人でも使えるようになったのだ。
「いや……でも」
もしかしたら滋ヶ崎が帰ってくるかもしれないし、とまた座り込む。別に先に食べていたところで何か言ってくるわけでもないだろうが、何となく嫌だった。
段々と部屋の中が暗くなっていく。これは気分の問題ではないはずだ、と窓の外を見ると、案の定どんよりとした雲が立ち込めていた。
「さむ……」
座布団を枕にして小さく丸まる。見るともなしにそのまま庭を眺めていると、やがてさぁ、と細かな雨が降り始める。
滋ヶ崎は、この雨の範囲にいるのだろうか。
「ううううううやっひーーーーーーーーい!!!! ひょおおおおおおお!!!!! お迎えに来たよおおおおお」
「!?」
突然の奇声と玄関の開く音にマルコシウスが飛び起きると、あたりは薄暗くなっていた。
「やだー真っ暗じゃーんひょっとしてマルちゃんオナるときは暗くしたい派なの? 見せて見せて!!!」
「!!??」
何事だ。反射的に短杖を構えたところで居間の電気がつき、びしょ濡れの袴姿が転がり込んでくる。コロコロコロとどこから出ているのかよく分からない音を発しながらマルコシウスの前に這ってきた祝は、伏せの姿勢になって尻尾を振った。
「あっ今から? 今からするとこだった?? じゃあ一緒にしよ! 触りっこでもいいよ!!」
「いえ……」
祝はよくてもマルコシウスはよくない。構えていた杖を下ろし、畳に座りなおす。窓の外を見ると雨はまだ降っていて、蛍光灯の光がガラスに白く反射していた。玄関から居間まで水の染みがべっちゃりとできていて、こんなことしたらまた滋ヶ崎が怒るだろうと思って、目の前が滲んで。
「……うぅ」
気づいた時には、マルコシウスの目から熱いものがこぼれていた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
5
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる