マルコシウスと滋ヶ崎

にっきょ

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マルコシウス、お給金をもらう

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 めくられた布団の間に忍び込んできた冷気に、マルコシウスは目を覚ました。身体を丸めると、すっと襖が敷居の上を滑る音が続く。

「ん……」

 薄く目を開けると、隣にいたはずの滋ヶ崎がいない。布団の横を探ると、まだ温かさが残っていた。また目を閉じようとすると、ぎゅっと締め付けられるように下腹部が傷んだ。

「っ、馬鹿っ……」

 最初は「絶対病気持ってるから嫌」とか言っていたくせに、最近の滋ヶ崎は容赦なく中に出してくる。

(何してくれてんだ、康弘め……)

 だが代わりにここ数日マルコシウスを苛んでいた熱は弱まっていた。よろよろと体を起こし、滋ヶ崎が放り投げていた服を羽織って立つ。廊下に出ると、ひやりと冷たい板の間を足の裏に感じた。
 トイレで滋ヶ崎の残滓を処理して廊下に戻ると、居間から顔を出している祝と目があった。

「マールーたん! ちょっとおいでー」

 ちょいちょいと手招きされる。部屋に入って向かいに腰を下ろすと、「はい」と奉仕料と書かれた封筒が差し出された。

「何です……?」
「バイト代!」
「え?」

 自分はただ倒れて寝ていただけで、何もしていない。受け取ってしまった封筒を困惑しながら眺めていると、ふふん、と祝は胸を張った。

「僕はよい雇い主なので、研修期間にもお金を払うのです」
「はあ」
「って言っても、お小遣い程度だけどね。マルちゃん、自分のもの何も持ってないでしょ? これでなんか欲しいもの買いなよ、お買い物できるようになったんだし」

 中を開いてみると、一万円札が2枚入っている。

「いや、でも……」
「いいからいいから」

 封筒の押し付け合いをしていると、するりと襖が開いて作務衣姿の滋ヶ崎が現れた。シャワーを浴びてきたらしく、昨日に比べてこざっぱりしている。

「おい祝、なんか食いもんよこせ」
「えー。レタスでいい?」
「いいわけねえだろ、俺は青虫じゃねえんだぞ」

 仕方ないなあ、と祝は立ち上がって台所に向かい、マルコシウスは封筒を持ったまま取り残された。

「あ、お前の鱗使いきったからあとで補充くれ」
「無茶したねえ。角は? ……あ、セロリどう?」
「角も使った。いや、葉っぱじゃなくて普通に主食ねえの?」
「んえー、注文が多いなあ」

 冷蔵庫の中を漁る二人を眺め、それから手元に残された封筒に目を落とす。

(欲しいもの……?)

 マルコシウスが考え込んでいる間に、台所では食パンを見つけた滋ヶ崎がそれをトースターに突っ込んでいた。

「おいケツマンコシウス、パン何枚食べる?」
「何ですって?」
「あ、4枚しかねえや、俺3枚食べるからお前1枚な。ほらさっさとコーヒー準備しろ、教えたろうが」
「んなっ……人に物を頼むには態度ってものがあるでしょう!? 大体いま私のこと何て……」

 封筒をしまったマルコシウスが憤慨して立ち上がるが、滋ヶ崎は見向きもしない。よほどお腹が空いているのか、勝手に卵を割ってフライパンで焼き始める。

「うっせーな、どうせ祝としっぽりヤッてただけだろうがてめえは」
「や、やってません!」
「えっ? マルたん……そんな……僕とのことは遊びだったの? 滋ヶ崎と別れるって言ってくれたのは嘘だったの!? ねえ!!!」
「今そういうの冗談にならないんで!?」
「どうでもいいから早くしろ!」

 言われるまま渋々コーヒーを準備し、お皿を出す。
 滋ヶ崎が勝手に山ほどジャムとバターを塗りつけてよこした食パンは体に悪そうな味がして、でもそれがおいしかった。



(欲しいもの、かあ)

 家に戻ってきて数日、すっかりヒートも治まったマルコシウスは、こたつで昼寝をする滋ヶ崎を眺めていた。

(なんだろう……)

 祝に給料をもらってから、ずっと考えているが分からない。屋敷で暮らしていたときは与えられるものに満足して生きていた——というか、着せ替え人形であるマルコシウスはそうしないといけなかった——し、神学校に入ってからは、必要最低限のもの以外は持つなと教わってきた。そして今、その必要最低限は滋ヶ崎が揃えてくれてしまっている。リュリィミタラの弦も買ってもらったし。
 これ以上、何を求めればいいのか分からない。

「んんー」

 寝返りを打った滋ヶ崎が、ごつりと頭をこたつの脚にぶつけた。「あー」と不機嫌そうな声を出しながら顔を上げ、時計を見る。

「んだよ、もう夜じゃねえか……何にもしねえうちに1日が終わっちまった」
「そうですね」

 マルコシウスが答えると、滋ヶ崎は険相な顔をしながら起き上がった。

「なんだよ、お前だって何にも……ん?」

 机の上にある箱と、並んだパーツを見て目を細める。

「何だこれ……お守り?」
「内職です」

 小さな袋を摘み上げ、中に紙で包まれた麦粒サイズの竜パーツを入れる。組紐を通し、口を折りたたみながら結べば完成だ。帰るときに「暇な時でいいからこれやっといてよ」と祝に渡されたものである。

「……ふうん」

 頬杖をついた滋ヶ崎が、マルコシウスの指先をじっと見つめてくる。怒るでもなく揶揄するでもない、珍しくただ透明な視線だ。何となく気恥ずかしくなり、マルコシウスはパーツを全て箱の中にしまった。部屋の隅に置いていた鞄に箱ごと入れ、代わりにそこから「奉仕料」を取り出す。

「あの、康弘……」

 封筒を差し出すと、不思議そうな顔で滋ヶ崎はそれを見下ろしてきた。

「なに?」
「いや、その……よかったら、康弘に……」

 自分に使い道はないし、滋ヶ崎にお礼として渡すのがいいかと思ったのだ。祝に教えてもらった貨幣価値によると家賃にも食費にも足りないだろうとはマルコシウスにも分かったが、何かで自分の気持ちを示したかった。
 だがマルコシウスの期待とは裏腹に、滋ヶ崎は嫌そうに顔を顰めて鼻を鳴らしただけだった。

「何のつもりだ? いらねーよ、そんな端金」
「なっ……」
「お前みてーなやつから金を巻き上げようとは思わねえよ、バーカ」

 そう吐き捨てた滋ヶ崎は薄笑いをして立ち上がり、伸びをしながら部屋を出ていった。

「……っ」

 パタリと閉まる襖を眺め、マルコシウスは奥歯を噛み締めた。
 喜んでもらいたいと思ったわけではない。滋ヶ崎が感謝してくれると考えたわけでもない。ただ、渡したいとマルコシウスが感じた、それだけなのだが。
 でも。
 でも、釈然としなかった。
 強く手を握りしめる。

「や、っ……康弘の、康弘のっ…………馬鹿あぁぁぁぁ!」

 机の上、そこに取り残された封筒を睨みながらマルコシウスは叫んだ。鞄を掴んで部屋を飛び出し、玄関に向かう。廊下の向こうから近づいてくる足音に捕まらないように、宵闇の広がる外へ駆け出していた。

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