カフェオーナーと崖っぷちバイト、元妻の幽霊添え

二ッ木ヨウカ

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02 綺麗な人はいい匂いがする

 温かい湯に浸かると、じん、と手足の先が痺れた。いつのまにか雨で冷えていたらしい。ゆっくりとお風呂に入るのはいつぶりだろう。膝を抱えると少し浮き出たあばらと貧相な手足が見えて、早々に湯舟から上がってしまう。

 洗面所の鏡の前に置かれたタオルを取り、体を拭く。極力視線を外すが、それでも綺麗に磨かれた鏡は灯真の上半身を冷徹に映し出す。濡れて更に跳ねる髪、隈の濃いどろりとした目元に特徴のない顔。二十五という年齢より幼く見えるのは、身長が低いのとこれといった苦労をしてきていないせいだろう。

 置いてあった借り物のトレーナーを急いでかぶる。柔軟剤の爽やかな香りに混ざって温かい布団のような匂いがして、それにふわりと心が緩んでいく。ぶかぶかの袖からは指先しか出なかったが、それもなんだか包み込まれているようで安心感があった。
 洗面所の扉を開けると、キッチンに立つスラックス姿の男の背中が見えた。いつの間にか女性の方は消えている。

「……っ、あ、あのー、おふ、お風呂、えと、その、ありがとう、ございます」

 声をかけると、ちらりと振り向いた男が「ああ」と目を細めた。

「ちょうど夕飯できたところだから。それ机に並べといて」

 酒瓶の並ぶカウンターの上、二つのプレートを指先で示される。言われるままに近寄ると、カウンターの端にあった写真立てに目が吸い寄せられた。先ほど男の後ろにいたボブカットの女性が笑っている。背景と格好からすると、どこかのバーだろうか。写真は色褪せていたが、笑顔の女性の見た目は全く変わっていないように見えた。

「下の余りものだけどいいよな?」
「え、あ、はい……」

 下、と言うのは一階の喫茶店のことだろうと思いながら頷く。崖の近くにあった喫茶店は一階が店、二階が3LDKの住居になっているようだった。
 部屋の広さに比べて小さすぎるダイニングテーブルに、ハンバーグとパスタの載ったプレートを運ぶ。
 男がスープとサラダをその横に並べ、灯真の向かいに座った。立ち尽くしていると「座って」と指示されるので大人しく腰を下ろす。

「……そ、その……ここ、には……一人で?」
「は? 一人暮らしってこと? そうだけど」
「え、いや……な、んでも……」

 何となくだが、一人暮らしには広すぎる気がした。もそもそと返しながら、男と共に食事に手を合わせる。ハンバーグを口に入れると、シンプルな肉のうまみが口に広がった。

「おいしい」

 呟くと、ふ、と鼻で笑われたような声がして、灯真は改めて男の顔を見た。

 綺麗な人だ、と思った。

 二重の目元は冷たくて鋭いのに、見られるたびに胸が苦しくなるような不思議な気持ちになってしまう。髪の毛はさらさらと真っすぐで、その間から薄い眉が覗く。まくったままのシャツの袖からはほどよく筋肉のついた腕が伸びていて、電球色の光を眩しく反射していた。

 灯真とは大違いである。

 一人暮らしなら、さっきの女性とはどんな関係なんだろうか。でも見た目がいいんだから恋人もセフレも選び放題に違いない。勝手なことを思っていると、「そう言えば自己紹介がまだだったよな」と男が瞬きをした。

「俺、川野唯人。まあ見れば分かると思うけど、下のカフェでオーナーやってる」
「……へ、はい」

 間抜けな答えを返してナポリタンを口に運び、それからようやく灯真は自分も同じことを返すべきだということに思い至った。

「あ、ああっと、立花……灯真、です」

 仕事はあえて無職という必要もないだろう。黙り込んでいると、「ふうん」と無表情のまま男——唯人は興味のあるのか分からない相槌を打った。

「歳は?」
「え、と……二十、五です」
「どこから来たの?」
「あ、ち……千葉……」
「ずいぶん遠くから来たな。時間かかったろ」
「た、え、多分……?」

 何時に退去の立合いが終わったかは覚えていない。とにかく遠くまで行こうと思って新幹線に乗り、終点で地下鉄に乗りかえ……最終的にバスの終着点から歩いていたら崖際に向かう道があったので、ちょうどいいと降りていっただけだ。

「で、わざわざ関東くんだりから九州の方田舎まで、灯真クンは何しに来たわけさ」
「あえ」

 問いの内容より、下の名前を呼ばれたことに思考が止まる。名前なんて、ほとんど書類上の飾りとしての役割しか果たしていなかったのに。
 だが、唯人はそうは思わなかったらしい。「まあ、言いたくなかったらいいけど」と席を立つ。いつのまにか皿は空になっていた。
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