カフェオーナーと崖っぷちバイト、元妻の幽霊添え

二ッ木ヨウカ

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11 水が熱いのは君のせい

 やがてお腹も減ってきたので、駐車場に戻る。階段を下りていると、五十嵐家で感じた小さな嫉妬が灯真の胸をつついた。

「そういえばオーナー、前はバーテンダーやってたんですか?」
「え? あー……まあ……」

 車のドアを開けようとした唯人が、ぎょっとしたように振り向く。困ったような、悲しいような。自分でも忘れていた古傷が不意に痛んだ時のように眉が下がっていた。
 歓迎すべき話題ではないというあからさまな反応に、灯真は冷や水を浴びせられた気がした。余計なことは言わずに黙っていた方がまだマシ――先ほどの教訓が何も活かされていない。
 海風に吹かれた雲が、二人の上に影を落とした。汗をかいたペットボトルを握りこむ。

「……うん、そうだよ」

 ドアから手を離した唯人が、灯真に向き直って車に寄りかかった。視線を伏せ、大きく息を吸う。

「俺も……お前と同じだよ、灯真」

 同じ? 見た目が良くて気配りができて、女の子にモテて、カフェの仕事だってそつなくこなす唯人と何が同じなんだ。
 一緒だと言われて嬉しい一方で、適当なことを言うなと反射的に爆発しそうになる。だが直前の学びに従って灯真が黙り込んでいると、左手に触れた唯人が再び口を開いた。

「バーテンダーやってたけど……妻と後輩が駆け落ちして、海に飛び込んじまって……本当に、もうどうしたらいいか分からなくなるんだよな、ああいう時って。でも、あいつらの死に場所ぐらい見ておこうかなと思い立って、お前みてえにあそこに立ってたんだよ」

 まあ靴投げて叫んだりはしてなかったけどな、と少しだけ軽い調子で付け加えられるのが痛々しい。

「そしたら前のオーナーに声かけられて、ちょうど引退考えてたから店あげるみたいな話になって……まあ、なりゆきと惰性で今もやってる感じだよ」

 怠そうに、何でもないことのように言う唯人と、色褪せたカフェの様子、それから夏子の写真が灯真の中でぴたりと重なった。

「その、奥さんって、写真の……」

 言いかけた灯真は、唯人が触れているのが左手の薬指であることに気づいた。
 きっと、結婚指輪をつけていた場所。
 自分にはそんなのないのに。灯真の心の膿んだ部分が、ぐずぐずとかき回される。

「あーそうそう。夏子って言ったんだけど」
「そんなに、好き、だったんですか」

 被せるように言い、灯真は歯を食いしばった。そんなことを聞く場面じゃないのに、聞かずにはいられない。
 少し驚いたように唯人が目を見開き、それから遠くを見るような目つきで首を傾げた。

「……どうだろうな。好き……だったんだろうけどな。浮気されて、挙句勝手に死なれて……正直、もう分かんねえよな」

 手に持っていたお茶を飲む様子は、大きな塊を胃の奥に押し込んでいるように見えた。
 許せない、と思った。
 灯真には手に入れられないものを手に入れておきながらそれをあっさり捨てて、唯人のことを傷つけるなんて。

「ぼ、僕なら、絶対、そんな……ゆ、オーナーのこと、裏切って、いなくなったり……なんて、絶対に、しないのに」

 言ってしまってから、昨日の女子高生と同じだ、と灯真は気づいた。
 そんな奴より、自分のほうが優れている。
 だから、こっちを選んでよ。
 他人を踏みつけたって自分が選び直されることなんてない。でも、そう叫びたい。

「っ……う……」

 浅ましい。思春期の子ならともかく、大人がすることじゃない。
 見上げた唯人は、ただ黙ったまま灯真のことを見返していた。その瞳が少し揺れ、何かを言いたげに開いた口が閉じられる。
 嫌われただろうか。
 灯真は口元にペットボトルを当て、唇を噛む様子を隠した。唯人への思いやりや同情ではなく、自分のことが最初に浮かんでしまった自分自身にほとほと嫌気が差す。

「う、ぐ……」

 俯いて、灯真の中を突き破ってきそうな感情を必死で堪える。持っていたペットボトルが、音を立てて潰れた。

「……灯真」

 微かに砂利を踏む音がした。視界の端から伸びてきた唯人の指が、震える灯真の手に触れる。宥めるように、慈しむように手の甲を撫でられ、灯真の中で暴れていたものがおとなしくなっていく。
 灯真が細く長い息を吐くと、それを見計らったように唯人が灯真と手を重ねてきた。絡めた指を強く握り込まれる。
 何かをためらうような、灯真がその手を振りほどかないのを確かめるような間があった。

「じゃあ、灯真は……俺とずっと一緒にいてくれるか?」

 真剣な、どこか切羽詰まったような声は、耳元から聞こえた。灯真が心臓とともに顔を跳ね上げると、唯人の整った顔が鼻のぶつかりそうなほど近くにある。

「え……?」

 全てを見透かすような目に、思考が止まる。

「一緒、って……それ、は……」

 どういう意味ですか。灯真がうわ言のような質問を返す前に、視線を逸らした唯人がぱっと手を離した。呆然としたままの灯真を置き、さっさと車に乗り込んでしまう。
 車のエンジン音を聞きながら、灯真はいつのまにか止めてしまっていた息を再開した。また灯真の中で何かが暴れ出しそうになっていたが、さっきとは少し違う気がする。

「あっ、あの……?」
「ほら帰るぞ、さっさと乗れ」
「え、あ」

 開いた窓から声をかけられ、ぎくしゃくした動きで車に乗り込む。気持ちを落ち着かせようと水を飲もうとして、驚いて取り落としそうになった。
 冷たかったペットボトルの中身は、いつのまにか火傷しそうなほどに熱くなっていた。
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