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19 僕ではない僕
午後六時過ぎ。閉店時刻となった「さんふるうつ」の店内を満たす輝きは、甘夏の蜂蜜漬けによく似ていた。
「ありがとうございました!」
本日最後の客を夏子――が入っている自分の体――の後ろから見送った灯真は、入口のガラス戸から見える海に目を細めた。金と黒が織りなす静かな水面は、どこか溶けた金属を思わせる。
飛び込んだら、全身が焼け落ちて消えてしまいそうな。
ぼうっと沈みゆく太陽を眺めていると、看板を引っ込め、ショーケースの電気を落として戻ってきた自分の体と鉢合わせになった。
「わっ!」
反射的に目をつぶってしまうが、何の衝撃も襲ってはこない。そっと目を開いた灯真は、一人小さく噴き出した。
ぶつかるはずなんて、ないのに。
夏子に自分の体を渡し、灯真が霊体となってまだ二週間程度しか経っていない。理屈ではわかっていても、つい体があった頃と同じ反応をしてしまう。
「やっと今日も終わったねー」
それに対し夏子の方は、最初の数日こそ灯真の体を気持ち悪そうにしていたものの、もうすっかり慣れてしまったらしい。灯真を一瞬見て、それから大きく伸びをしてキッチンに戻っていく姿は、完全に「さんふるうつ」に馴染んでいるように見える。
「あ、唯人、明日のホイップ、解凍一本でいいよね? ゼリー用のコーヒー液も作ったんだけど、味見してもらっていいかな」
「え、あ、ああ……うん、大丈夫」
唯人の確認が取れたゼリー液を夏子は手早くカップに注ぎ、解凍する食材と共に冷蔵庫に入れていく。灯真が覗き込むと、いつのまにか下段にツナサンド用のフィリングまで仕込まれていた。
「あ、伝票整理はもう終わってるから」
「ん……ありがと」
「えへへ」
レジ前に立った唯人の後ろで、灯真の顔が満面の笑みを浮かべる。自分でも見たことのない表情に、ふわりとした安堵感が灯真の中にも広がり、苦しいほどに胸がいっぱいになっていく。
よかった、と思う。
灯真が思ったとおり、夏子のほうがよほど仕事ができる。灯真のようにどもってもたつくこともないし、笑顔だって素敵だ。灯真はその代わりに霊になったが、失敗して迷惑をかけることも、邪魔になることもない今の立場のほうが気が楽だった。
夏子は唯人と暮らせるようになり、唯人は別人のように有能になったバイトを手に入れ、灯真は体を唯人のために使える。
全員が幸せになれる、最高の方法。
締め作業をする唯人の横顔を間近で見られるのも、灯真が霊になったからだ。
長い睫毛が、唯人の頬に影を落としている。灯真が見惚れていると、ふと唯人の指先が止まった。
「……なあ、灯真?」
「っ、あ、はい!」
唯人に名前を呼ばれて返事をする。だが振り向いた唯人の視線は、意識しかない灯真を素通りし、夏子の方を向いていた。
「あ……」
何をしているんだろう。灯真自身の姿も、声も、もう唯人の意識には届かないのに。
恥ずかしさとともに、何かが灯真の胸を刺した。小さいけれども刺さったままの棘のような、かすかな痛み。だがその正体を確かめる前に、棘はどこかへと隠れてしまう。
呼ばれた夏子の方は気づいていないのか、食器や鍋を食洗器が洗っている間にてきぱきと作業台を拭き上げていた。
「灯……」
もう一度小さく声を発した唯人は、何かを言いたげな表情のまま口を引き結んだ。迷いなく動く夏子の手つきをしばし見つめ、レジに向き直る。先ほどより落ちた太陽が、その顔を薄暗く照らした。
唯人の顔に手を伸ばそうとして、灯真はその指先を引っ込めた。灯真が何をしたところで、唯人に触れるわけも、唯人に気づかれることもあるはずがない。だが、繊細なバランスの上にある何かが、それによって崩れてしまいそうな気がしたのだ。
「ありがとうございました!」
本日最後の客を夏子――が入っている自分の体――の後ろから見送った灯真は、入口のガラス戸から見える海に目を細めた。金と黒が織りなす静かな水面は、どこか溶けた金属を思わせる。
飛び込んだら、全身が焼け落ちて消えてしまいそうな。
ぼうっと沈みゆく太陽を眺めていると、看板を引っ込め、ショーケースの電気を落として戻ってきた自分の体と鉢合わせになった。
「わっ!」
反射的に目をつぶってしまうが、何の衝撃も襲ってはこない。そっと目を開いた灯真は、一人小さく噴き出した。
ぶつかるはずなんて、ないのに。
夏子に自分の体を渡し、灯真が霊体となってまだ二週間程度しか経っていない。理屈ではわかっていても、つい体があった頃と同じ反応をしてしまう。
「やっと今日も終わったねー」
それに対し夏子の方は、最初の数日こそ灯真の体を気持ち悪そうにしていたものの、もうすっかり慣れてしまったらしい。灯真を一瞬見て、それから大きく伸びをしてキッチンに戻っていく姿は、完全に「さんふるうつ」に馴染んでいるように見える。
「あ、唯人、明日のホイップ、解凍一本でいいよね? ゼリー用のコーヒー液も作ったんだけど、味見してもらっていいかな」
「え、あ、ああ……うん、大丈夫」
唯人の確認が取れたゼリー液を夏子は手早くカップに注ぎ、解凍する食材と共に冷蔵庫に入れていく。灯真が覗き込むと、いつのまにか下段にツナサンド用のフィリングまで仕込まれていた。
「あ、伝票整理はもう終わってるから」
「ん……ありがと」
「えへへ」
レジ前に立った唯人の後ろで、灯真の顔が満面の笑みを浮かべる。自分でも見たことのない表情に、ふわりとした安堵感が灯真の中にも広がり、苦しいほどに胸がいっぱいになっていく。
よかった、と思う。
灯真が思ったとおり、夏子のほうがよほど仕事ができる。灯真のようにどもってもたつくこともないし、笑顔だって素敵だ。灯真はその代わりに霊になったが、失敗して迷惑をかけることも、邪魔になることもない今の立場のほうが気が楽だった。
夏子は唯人と暮らせるようになり、唯人は別人のように有能になったバイトを手に入れ、灯真は体を唯人のために使える。
全員が幸せになれる、最高の方法。
締め作業をする唯人の横顔を間近で見られるのも、灯真が霊になったからだ。
長い睫毛が、唯人の頬に影を落としている。灯真が見惚れていると、ふと唯人の指先が止まった。
「……なあ、灯真?」
「っ、あ、はい!」
唯人に名前を呼ばれて返事をする。だが振り向いた唯人の視線は、意識しかない灯真を素通りし、夏子の方を向いていた。
「あ……」
何をしているんだろう。灯真自身の姿も、声も、もう唯人の意識には届かないのに。
恥ずかしさとともに、何かが灯真の胸を刺した。小さいけれども刺さったままの棘のような、かすかな痛み。だがその正体を確かめる前に、棘はどこかへと隠れてしまう。
呼ばれた夏子の方は気づいていないのか、食器や鍋を食洗器が洗っている間にてきぱきと作業台を拭き上げていた。
「灯……」
もう一度小さく声を発した唯人は、何かを言いたげな表情のまま口を引き結んだ。迷いなく動く夏子の手つきをしばし見つめ、レジに向き直る。先ほどより落ちた太陽が、その顔を薄暗く照らした。
唯人の顔に手を伸ばそうとして、灯真はその指先を引っ込めた。灯真が何をしたところで、唯人に触れるわけも、唯人に気づかれることもあるはずがない。だが、繊細なバランスの上にある何かが、それによって崩れてしまいそうな気がしたのだ。
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