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第五章 Memorado pri Verda(メモラード・プリ・ヴェルダ)
Memorado pri Verda.6
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ゲオルギウスが目覚めると、そこは見覚えのない場所だった。一糸纏わぬ裸身を包む羽根の掛布は上等で、暖炉の火が落ちた部屋の寒気から身を守ってくれる。たっぷりと睡眠を得た後の充足感と共に、大人二人が横たわってもまだ余るほど広い寝台の上で上体を起こした瞬間、不意に、雷霆のように昨晩の記憶が蘇ってきた。
「──ッ…!」
慌てて跳ね起き、脱ぎ捨てて床に落とした臙脂色の武装神服の胸の裏地を探って、日の高さのみを示す簡素な懐中時計を取り出した。果たして、真鍮の蓋の中で一本の長い針が示していた時刻は、ゲオルギウスの予想を悪い意味で裏打ちしてくれる。険しい顔で舌打ちを鳴らし、『日の出までには帰す』と言っていた筈の部屋の主を探せば、果たして彼は、黒い下穿きの上に白いシャツを羽織って、憮然とした表情でベッドの縁に腰掛けていた。
「──ルゴシュ、お前…意趣返しのつもりか?もう、とっくに日の出の後だろうが!何故起こさなかった!」
「知らないよ。何度か揺すったけど、目を覚まさないから、仕方なしに勝手に起きるまで待っていたのさ。よく寝かせてやったんだ、感謝しろ。この私に、あんな…あんな手酷い無礼を働いて──言っておくが、キミでなけりゃ、今頃命はなかったぞ?」
「…あれだけ善がり狂ってた癖に、今になってどの口が言う──。」
目尻を吊り上げて吼えるように食って掛かる若い神父を、壮齢の吸血鬼はその翡翠の視線を横に流して一瞥した。少なくとも、心底愉快ではなさそうな苦々しい表情を見れば、業腹ではあるが、これ以上彼を挑発し、機嫌を損ねるのは得策ではないと思える。何せ、ここは不死身の吸血真祖、辺境伯ラ・ルゴシュの根城である。数百年もの間、どんなに強靭な兵士の軍勢でさえ近付くことすら侭ならなかった場所に、気紛れを起こしたルゴシュがゲオルギウスを留め置こうと思えば、それは実に簡単なことなのだ。過ぎたことを悔いても意味はなく、丁度朝の祈祷の時刻を指し示している懐中時計の蓋を、盛大な舌打ちと共に閉ざした。
穢れの新月に、不死伯の領地である森に踏み込んでいった武装司祭が戻らなければ、村の民は穏やかではないだろう。今頃、無人の教会の前に集まって、吹きさらしの中で一心に無事を願って神と精霊に祈りを捧げているかもしれない。にもかかわらず、実際のこの身は、どうだ。暖炉の火は燃え尽きたとはいえ、雨も降らず、風も吹かない堅牢な砦の一室で、柔らかな寝台の上で惰眠を貪っていたのだ。内心忸怩たる思いを抱えながら、顰め面で身に纏っていたものを床の上から拾い集め、溜息交じりに袖を通していく。酷く機嫌を損ねている風情のルゴシュは、そんな若い神父の様子を一瞥し、鼻を鳴らしながら指先をパチリと打ち鳴らした。
「──沐浴場らしきものはあるが、古びて使えない。私には、聖霊教徒式の沐浴など不要だからな。台所すら、足を踏み入れなくなって久しいが、幸いなことに、この砦には井戸が掘られているんだ。飲み水ならば、ある。ヒトって奴は、何日か食事を摂らなくても生きてはいけるが、水がなければすぐに死ぬ…実に、不便な生き物だ。」
故意にゲオルギウスから顔を背け、目を合わせないようにしているルゴシュは、相当にお冠である様子だ。片眉を上げ、何か言い返そうと唇を開いたところで、部屋に入ってくる『影』の存在に気が付いて、ぎょっと息を飲む。
音も気配もなく、銀の水差しを持って滑るように現れたのは、少なくともゲオルギウスと同じ人間の姿をした、しかし、生きた人の気配は一切醸し出していない、薄気味の悪い生き物だった。否、それを生き物と呼んでいいのかどうかすら定かではない。一見して三十代の半ば程の男の外見をした何かは、ぼろぼろの古い旅装を身に纏っていた。だが、その瞳はすっかりと乾き切り、顔は向けても目の焦点を合わせてくるということをしない。人の皮を貼り付けた稼働する古びた人形、もしくは、生気を欠いたまま腐敗することもなく動く死骸のような『もの』を、ゲオルギウスは初めて目の当たりにした。吸血鬼でも、屍人でもない『何か』は、何ら感情を宿しているようには見えず、ただ、銀色の水差しと盃とを寝台の脇に置いて、そのままふらふらと立ち去ってしまった。
「恐ろしいかい?ゲオルギウス。」
濃青の目を見開き、言葉を失うゲオルギウスの様子に、少々溜飲が降りたのだろう。牙を覗かせ、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、ルゴシュは軽く肩を竦める。
「誘引に掛かり、私に血を抜かれた人間は、全て私の眷属となる…。私は、これでも辺境伯だからね。身の回りのことをやらせるために、小間使いは必要だろう?時折餌を摂らせに人里に放ってやれば、後は勝手に、私の意のままに動く傀儡。…あぁ、安心するといい。ここに今、何体の眷属がいるのかは数えていないが、私と眷属はある種の神経網で繋がっていてね。私が心の中で命じない限り、キミには指一本触れはしないだろうさ。」
「──お前が、もし俺を本当に…誘引に掛けていたら、俺も今頃はああなっていたということか…?」
「ご明察だ。──実につまらない存在だろう?あんなモノに貶めるくらいなら、キミはキミのままであるのが一番…面白い。ほら、水を飲みなさい。生憎ヒトの食べるようなものは持ち合わせがないが、たった一日程度なら死にはしないだろ?今は外には出られないが、陽が落ちたら今度こそ村に返してやるよ。」
では、あれは、ルゴシュが誘引し、牙を立てることで吸血鬼と為した、元々は人間だった『誰か』なのだ。時代遅れの古びた装いを見れば、恐らくは相当昔にここに連れて来られ、風化するまで使役させられているように見える。それこそ、聖典によれば、闇の眷属に襲われて命を落とした者達が世界の最後の日まで留め置かれるという凍える世界にすら、赴くことを許されない、哀れな魂。
クックッと梟のように咽喉を鳴らして事も無げに笑う男が、不意に背筋が凍るほど空恐ろしく思えた。昨晩は、この身体の下で甘い媚態を晒し、遂には感極まって噎び泣くところまで追い詰めてやったというのに、この男は、何処まで行っても人間離れした神と精霊の敵、不死鬼の真祖たる存在なのだ。
それを改めて思い出し、ゲオルギウスは、つくづくこの数奇な因果について、神に感謝を捧げればいいのか、それともその御前で嘆き、憐れみを乞うのが相応しいのか、よく解らなくなってくる。何故、神敵であるルゴシュを殺す慈悲どころか、彼の手に掛かって殺されるという慈悲すらこの身に与えられなかったのか、神の思し召しの意味は解らぬものだ。
ゲオルギウスが臙脂色の下穿きを身に着け、黒い肌着を纏い、黒い外套のついた武装神服を肩に掛けるように羽織るのを、寝台にうつ伏せになりながら、ルゴシュはニヤニヤと見守っている。おおかた、昨晩彼を酷い目に遭わせた若い神父が、不気味な眷属の姿を見て少なからず衝撃を受けている様子が愉しくてならないのだろう。一歩間違えれば、自分自身も意思なき傀儡としてルゴシュの気紛れに蒐集されていたのかもしれないと思うと空恐ろしかったが、それでも、そんな様子をルゴシュに悟られるのは癪に障る。
広い寝台の縁にどっかりと腰を降ろすと、革帯に帯びていた、油紙に包まれた小さな長方形の物体を取り出した。油紙を剥がせば、麦や木の実や乾燥させた果実を糖蜜で練り固めただけの、ほんの一食分の携帯食となる。遠出をする武装司祭が大概持ち歩く非常食は、滋養重視で到底味など考慮されておらず、水差しの水で流し込むように食べるものだ。ルゴシュに背を向け、バリバリと糖蜜の砕ける音を立てて、藁でも喰らうように眉を顰めて食事を摂るゲオルギウスに、しげしげと注がれる翡翠色の視線がある。
「死んだ羊やら、雛を殺した卵やら、不自然に肥え太らせた葡萄や林檎やら…ヒトは、そんなものを喜んで喰うようだが、私は御免だ。死骸など口にしたくはない。まだ生きている、自然のままの新鮮な食餌を何故摂らないのか理解しかねるのだが、兎も角、オマエ達はそういう風に出来ているのだろう…?嘗て、ここで私と寝台を共にした存在に、ヒトの食事というやつを運んでやったものだ。それで、オマエ達が何を食べているのか、大体理解した。」
「──ここで、他の人間と寝たのか?」
「あぁ、違うよ、ギィ。そういう意味の『寝る』じゃない。…致し方がなかったんだ、ヒトの子を、しばらくの間、ここに住まわせたことがある。まあ、もっとも、数百年の前の話だ。そして、それはほんの子供だったし、私にしてみればあまりにも短い、風が目の前を吹いて通り過ぎるように一瞬の出来事だった…。」
自暴自棄のように水差しの水を咽喉に流し込みながら、ふと聞こえた言葉に、いらりと片眉を跳ね上げてルゴシュを振り返る。彼は一瞬、翠色の瞳を瞬きさせ、呆気に取られたような表情を浮かべた。だが、すぐに相好を崩すと、挑むように人の悪い笑みを浮かべて、両脚をばたつかせながら上目遣いにゲオルギウスの渋面を見詰めてくる。
「ギィ。──ひょっとして、妬いた?」
「妬く?俺が?お前に?…馬鹿な。何処の武装司祭が、不死鬼相手に妬くもんかよ。」
そこで改めて、ルゴシュに揶揄われていることを悟り、内心の腹立たしさを努めて表に出さないようにしながら、一思いに水差しの水を煽った。澄んだ水は散々汗を掻いた身体に染み渡り、腹の中で穀物を膨らませて空腹を紛らわせるのだが、何分、暖炉の燃え尽きた部屋では、身体を冷やしてしまう。
腰掛けていた寝台を立ち上がり、小麦色の短い金髪を掻きながら、溜息交じりに暖炉へ向かった。
「薪は、もう無いのか。」
「あるよ、この部屋を出て、廊下をまっすぐ進めば、見張り台に続く階段がある。その下が古い薪の置き場なのだが、生憎、私と、私のつまらない召使達はそこには行けない。」
「何故だよ?」
「階段の上に、いつも私が使っている、外に続く跳ね上げ戸があるんだが、日中は、古くなったその扉の隅から、太陽の光が漏れて射し込むんだ。──あれは、私の皮膚を焼き焦がすからね。避けて通れないことはないが、私が行くのは面倒だ。」
「…取りに行け、ってことか。──ったく、勝手に人を攫っておいて、雑用まで押し付けやがるのか…。傲慢な辺境伯だな…。」
どうやら、暖を取りたければ、教えられた通りの場所まで自分で薪を取りに行くしかなさそうだ。冬の寒さなどものともしない冷ややかな白皙を持つルゴシュは、悠然と寝台の上に腹這いになって、臙脂色の神服の裾を翻しながら扉に向かうゲオルギウスの様子をじっと見守っていた。
ゲオルギウスが目覚めると、そこは見覚えのない場所だった。一糸纏わぬ裸身を包む羽根の掛布は上等で、暖炉の火が落ちた部屋の寒気から身を守ってくれる。たっぷりと睡眠を得た後の充足感と共に、大人二人が横たわってもまだ余るほど広い寝台の上で上体を起こした瞬間、不意に、雷霆のように昨晩の記憶が蘇ってきた。
「──ッ…!」
慌てて跳ね起き、脱ぎ捨てて床に落とした臙脂色の武装神服の胸の裏地を探って、日の高さのみを示す簡素な懐中時計を取り出した。果たして、真鍮の蓋の中で一本の長い針が示していた時刻は、ゲオルギウスの予想を悪い意味で裏打ちしてくれる。険しい顔で舌打ちを鳴らし、『日の出までには帰す』と言っていた筈の部屋の主を探せば、果たして彼は、黒い下穿きの上に白いシャツを羽織って、憮然とした表情でベッドの縁に腰掛けていた。
「──ルゴシュ、お前…意趣返しのつもりか?もう、とっくに日の出の後だろうが!何故起こさなかった!」
「知らないよ。何度か揺すったけど、目を覚まさないから、仕方なしに勝手に起きるまで待っていたのさ。よく寝かせてやったんだ、感謝しろ。この私に、あんな…あんな手酷い無礼を働いて──言っておくが、キミでなけりゃ、今頃命はなかったぞ?」
「…あれだけ善がり狂ってた癖に、今になってどの口が言う──。」
目尻を吊り上げて吼えるように食って掛かる若い神父を、壮齢の吸血鬼はその翡翠の視線を横に流して一瞥した。少なくとも、心底愉快ではなさそうな苦々しい表情を見れば、業腹ではあるが、これ以上彼を挑発し、機嫌を損ねるのは得策ではないと思える。何せ、ここは不死身の吸血真祖、辺境伯ラ・ルゴシュの根城である。数百年もの間、どんなに強靭な兵士の軍勢でさえ近付くことすら侭ならなかった場所に、気紛れを起こしたルゴシュがゲオルギウスを留め置こうと思えば、それは実に簡単なことなのだ。過ぎたことを悔いても意味はなく、丁度朝の祈祷の時刻を指し示している懐中時計の蓋を、盛大な舌打ちと共に閉ざした。
穢れの新月に、不死伯の領地である森に踏み込んでいった武装司祭が戻らなければ、村の民は穏やかではないだろう。今頃、無人の教会の前に集まって、吹きさらしの中で一心に無事を願って神と精霊に祈りを捧げているかもしれない。にもかかわらず、実際のこの身は、どうだ。暖炉の火は燃え尽きたとはいえ、雨も降らず、風も吹かない堅牢な砦の一室で、柔らかな寝台の上で惰眠を貪っていたのだ。内心忸怩たる思いを抱えながら、顰め面で身に纏っていたものを床の上から拾い集め、溜息交じりに袖を通していく。酷く機嫌を損ねている風情のルゴシュは、そんな若い神父の様子を一瞥し、鼻を鳴らしながら指先をパチリと打ち鳴らした。
「──沐浴場らしきものはあるが、古びて使えない。私には、聖霊教徒式の沐浴など不要だからな。台所すら、足を踏み入れなくなって久しいが、幸いなことに、この砦には井戸が掘られているんだ。飲み水ならば、ある。ヒトって奴は、何日か食事を摂らなくても生きてはいけるが、水がなければすぐに死ぬ…実に、不便な生き物だ。」
故意にゲオルギウスから顔を背け、目を合わせないようにしているルゴシュは、相当にお冠である様子だ。片眉を上げ、何か言い返そうと唇を開いたところで、部屋に入ってくる『影』の存在に気が付いて、ぎょっと息を飲む。
音も気配もなく、銀の水差しを持って滑るように現れたのは、少なくともゲオルギウスと同じ人間の姿をした、しかし、生きた人の気配は一切醸し出していない、薄気味の悪い生き物だった。否、それを生き物と呼んでいいのかどうかすら定かではない。一見して三十代の半ば程の男の外見をした何かは、ぼろぼろの古い旅装を身に纏っていた。だが、その瞳はすっかりと乾き切り、顔は向けても目の焦点を合わせてくるということをしない。人の皮を貼り付けた稼働する古びた人形、もしくは、生気を欠いたまま腐敗することもなく動く死骸のような『もの』を、ゲオルギウスは初めて目の当たりにした。吸血鬼でも、屍人でもない『何か』は、何ら感情を宿しているようには見えず、ただ、銀色の水差しと盃とを寝台の脇に置いて、そのままふらふらと立ち去ってしまった。
「恐ろしいかい?ゲオルギウス。」
濃青の目を見開き、言葉を失うゲオルギウスの様子に、少々溜飲が降りたのだろう。牙を覗かせ、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、ルゴシュは軽く肩を竦める。
「誘引に掛かり、私に血を抜かれた人間は、全て私の眷属となる…。私は、これでも辺境伯だからね。身の回りのことをやらせるために、小間使いは必要だろう?時折餌を摂らせに人里に放ってやれば、後は勝手に、私の意のままに動く傀儡。…あぁ、安心するといい。ここに今、何体の眷属がいるのかは数えていないが、私と眷属はある種の神経網で繋がっていてね。私が心の中で命じない限り、キミには指一本触れはしないだろうさ。」
「──お前が、もし俺を本当に…誘引に掛けていたら、俺も今頃はああなっていたということか…?」
「ご明察だ。──実につまらない存在だろう?あんなモノに貶めるくらいなら、キミはキミのままであるのが一番…面白い。ほら、水を飲みなさい。生憎ヒトの食べるようなものは持ち合わせがないが、たった一日程度なら死にはしないだろ?今は外には出られないが、陽が落ちたら今度こそ村に返してやるよ。」
では、あれは、ルゴシュが誘引し、牙を立てることで吸血鬼と為した、元々は人間だった『誰か』なのだ。時代遅れの古びた装いを見れば、恐らくは相当昔にここに連れて来られ、風化するまで使役させられているように見える。それこそ、聖典によれば、闇の眷属に襲われて命を落とした者達が世界の最後の日まで留め置かれるという凍える世界にすら、赴くことを許されない、哀れな魂。
クックッと梟のように咽喉を鳴らして事も無げに笑う男が、不意に背筋が凍るほど空恐ろしく思えた。昨晩は、この身体の下で甘い媚態を晒し、遂には感極まって噎び泣くところまで追い詰めてやったというのに、この男は、何処まで行っても人間離れした神と精霊の敵、不死鬼の真祖たる存在なのだ。
それを改めて思い出し、ゲオルギウスは、つくづくこの数奇な因果について、神に感謝を捧げればいいのか、それともその御前で嘆き、憐れみを乞うのが相応しいのか、よく解らなくなってくる。何故、神敵であるルゴシュを殺す慈悲どころか、彼の手に掛かって殺されるという慈悲すらこの身に与えられなかったのか、神の思し召しの意味は解らぬものだ。
ゲオルギウスが臙脂色の下穿きを身に着け、黒い肌着を纏い、黒い外套のついた武装神服を肩に掛けるように羽織るのを、寝台にうつ伏せになりながら、ルゴシュはニヤニヤと見守っている。おおかた、昨晩彼を酷い目に遭わせた若い神父が、不気味な眷属の姿を見て少なからず衝撃を受けている様子が愉しくてならないのだろう。一歩間違えれば、自分自身も意思なき傀儡としてルゴシュの気紛れに蒐集されていたのかもしれないと思うと空恐ろしかったが、それでも、そんな様子をルゴシュに悟られるのは癪に障る。
広い寝台の縁にどっかりと腰を降ろすと、革帯に帯びていた、油紙に包まれた小さな長方形の物体を取り出した。油紙を剥がせば、麦や木の実や乾燥させた果実を糖蜜で練り固めただけの、ほんの一食分の携帯食となる。遠出をする武装司祭が大概持ち歩く非常食は、滋養重視で到底味など考慮されておらず、水差しの水で流し込むように食べるものだ。ルゴシュに背を向け、バリバリと糖蜜の砕ける音を立てて、藁でも喰らうように眉を顰めて食事を摂るゲオルギウスに、しげしげと注がれる翡翠色の視線がある。
「死んだ羊やら、雛を殺した卵やら、不自然に肥え太らせた葡萄や林檎やら…ヒトは、そんなものを喜んで喰うようだが、私は御免だ。死骸など口にしたくはない。まだ生きている、自然のままの新鮮な食餌を何故摂らないのか理解しかねるのだが、兎も角、オマエ達はそういう風に出来ているのだろう…?嘗て、ここで私と寝台を共にした存在に、ヒトの食事というやつを運んでやったものだ。それで、オマエ達が何を食べているのか、大体理解した。」
「──ここで、他の人間と寝たのか?」
「あぁ、違うよ、ギィ。そういう意味の『寝る』じゃない。…致し方がなかったんだ、ヒトの子を、しばらくの間、ここに住まわせたことがある。まあ、もっとも、数百年の前の話だ。そして、それはほんの子供だったし、私にしてみればあまりにも短い、風が目の前を吹いて通り過ぎるように一瞬の出来事だった…。」
自暴自棄のように水差しの水を咽喉に流し込みながら、ふと聞こえた言葉に、いらりと片眉を跳ね上げてルゴシュを振り返る。彼は一瞬、翠色の瞳を瞬きさせ、呆気に取られたような表情を浮かべた。だが、すぐに相好を崩すと、挑むように人の悪い笑みを浮かべて、両脚をばたつかせながら上目遣いにゲオルギウスの渋面を見詰めてくる。
「ギィ。──ひょっとして、妬いた?」
「妬く?俺が?お前に?…馬鹿な。何処の武装司祭が、不死鬼相手に妬くもんかよ。」
そこで改めて、ルゴシュに揶揄われていることを悟り、内心の腹立たしさを努めて表に出さないようにしながら、一思いに水差しの水を煽った。澄んだ水は散々汗を掻いた身体に染み渡り、腹の中で穀物を膨らませて空腹を紛らわせるのだが、何分、暖炉の燃え尽きた部屋では、身体を冷やしてしまう。
腰掛けていた寝台を立ち上がり、小麦色の短い金髪を掻きながら、溜息交じりに暖炉へ向かった。
「薪は、もう無いのか。」
「あるよ、この部屋を出て、廊下をまっすぐ進めば、見張り台に続く階段がある。その下が古い薪の置き場なのだが、生憎、私と、私のつまらない召使達はそこには行けない。」
「何故だよ?」
「階段の上に、いつも私が使っている、外に続く跳ね上げ戸があるんだが、日中は、古くなったその扉の隅から、太陽の光が漏れて射し込むんだ。──あれは、私の皮膚を焼き焦がすからね。避けて通れないことはないが、私が行くのは面倒だ。」
「…取りに行け、ってことか。──ったく、勝手に人を攫っておいて、雑用まで押し付けやがるのか…。傲慢な辺境伯だな…。」
どうやら、暖を取りたければ、教えられた通りの場所まで自分で薪を取りに行くしかなさそうだ。冬の寒さなどものともしない冷ややかな白皙を持つルゴシュは、悠然と寝台の上に腹這いになって、臙脂色の神服の裾を翻しながら扉に向かうゲオルギウスの様子をじっと見守っていた。
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