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第一章
気に入らないのに、綺麗(四)
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そういや、ボクの目的を忘れていた。
プールをくまなく探してみると、その中に彼女の顔があるのを見つけた。
みんな帽子とゴーグルをしているから、遠目だと誰が誰なのか判別がし辛かった。奥から二番目、2レーンで男子と混ざって泳いでいる。
さて、どんなものだろう。————あ、スタートする。
水に潜ってから少し。十メートルくらいのラインで浮き上がってきて、それで。
「——————」
息を呑んだ。
泳いでいるのはバタフライだった。明らかに非効率的な、水泳という競技のための泳ぎ。
だっていうのに。
「綺麗だ……」
人間は陸で生活する生き物だ。水中なんてアウェーもアウェーな環境だというのに。
なのに、塩原翔は水に順応している。水中を潜航するイルカのように、潮流に乗っている。水面を流れている。
指先から体幹、そして爪先まで。すべてがつながっている。筋肉は一つじゃなく、背中や胸、腕など各部位にそれぞれ分かれているのに、それらが有機的に寸分の狂いもなく連動している。一つ一つのモーションに一切の淀みがなかった。
だから、あんなにも綺麗なんだ。水を押す腕の動きが、水平に押し出す脚の動きが、ゾッとするほどに滑らかで美しい。水の柔らかさと同化するように、動きに硬さを一切感じさせない。
素人でも分かる。スピードで張り合う人は居ても、動作の美しさで言えば右に出るものはない。
他の人とは明らかに発生する水しぶきの量が違う。翔の泳ぎだけが静かで、まるで別の競技を見ているみたいだった。
それがたゆまぬ努力に依るものなのか、それとも才能なのかは分からないけど。 ただただ、かっこいい。
50メートルを泳いで種目が変わる。背泳ぎ、次は平泳ぎ、そしてクロール。すべてが例外なく流麗だ。
あんなのをバカになんて出来ない。出来るはずがない。
————その瞬間。カチリ、と脳裏に音がした。
ボクはもう一度、心臓の熱を思い出す。
「あんな風に泳ぎたい……!」
もう憧れてしまった。目を奪われて、離せない。
塩原翔のことしか見えなかった。どんな映画を見たって心を動かされなかったのに、初めて心を揺さぶられた。
興奮している。高揚している。あんな奴に、こんなくだらないスポーツに魅了されて悔しいって想いながら、それでもなお。
「たつみちゃん。ボク、決めたよ」
「え?」
戸惑うたつみちゃんを置いて、氷室さんのもとへ。
こちらに気づくと、先輩はキョトンとした顔でこちらを見た。
今の気持ち。それを口にすれば決まる。
高校の三年間、どのような時間を送るのか、おおよそが決まってしまう。まだスタートラインにすら立っていないのに、そんな予感がする。
今ならまだ引き返せる。本当にこの選択は正しいのか。水泳になんか打ち込んで、意味なんてあるのか。
……バカいえ。それこそ、迷う意味なんて無い。
たとえどれだけくだらないことだとしても、もう避けては通れない。
「水泳部に入りたいです」
言ってやった。迷いなく、宣言した。
この胸の内から溢れて飲み込みそうな昂りをそのままになんかしておけない。やらずにはいられない。
アイツに憧れるなんてシャクだけど。ものすっごくイヤだけど。
「ホント?嬉しいよ。あ、ちょっと待ってね」
氷室さんがよそへ行ったかと思えば、すぐに戻ってくる。手には一枚の紙切れが握られていた。
「これ、入部届だから。仮入部の期間が終わるまでに頂戴ね」
「今書きます」
「ふふ、やる気満々だね。じゃあこれ」
ボールペンを貸してくれたので、ありがたく受け取る。
水泳部加入の証明書。そこに手早く署名を済ませる。今は一秒だって無駄にしたくない。そんなウズウズがボクを突き動かす。
早速、書き込んだ入部届を手渡した。
「うん、いいよ。そうだ、折角だし今から泳いでいく?」
「あ、えっと。すみません、ちょっと行きたいところがあるんで、今日はこれで」
善は急げと言う。泳ぎたいのは山々ではある。
でも、まずは気合いを入れたい。ほんの些細なことだけど、こういうのは気持ちの問題だ。
「そっか。じゃあまた明日だね」
「はい、今日はこれで失礼します」
頭を下げると、すぐに踵を返す。床に放置したバッグを持つと、出口へ一直線に向かう。
「ま、まって~!」
すると、水を差すように後ろから声がした。
当然、たつみちゃんなんだけど……やべ、ちょっと忘れちゃってた。やっぱりボクって酷いやつなのかな。
「ごめんごめん」
「もー帰るの?ていうか、水泳部入るのー?」
「うん。ボク、水泳やるよ」
エントランスの出口、自動扉が開いた瞬間、また後ろから声をかけられる。
「これからよろしくね。えっと、水谷さん」
氷室主将が、また人の良さそうな笑みを浮かべながら言った。
つい、こちらもその緩さにつられてしまいそうなくらいに。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
プールをくまなく探してみると、その中に彼女の顔があるのを見つけた。
みんな帽子とゴーグルをしているから、遠目だと誰が誰なのか判別がし辛かった。奥から二番目、2レーンで男子と混ざって泳いでいる。
さて、どんなものだろう。————あ、スタートする。
水に潜ってから少し。十メートルくらいのラインで浮き上がってきて、それで。
「——————」
息を呑んだ。
泳いでいるのはバタフライだった。明らかに非効率的な、水泳という競技のための泳ぎ。
だっていうのに。
「綺麗だ……」
人間は陸で生活する生き物だ。水中なんてアウェーもアウェーな環境だというのに。
なのに、塩原翔は水に順応している。水中を潜航するイルカのように、潮流に乗っている。水面を流れている。
指先から体幹、そして爪先まで。すべてがつながっている。筋肉は一つじゃなく、背中や胸、腕など各部位にそれぞれ分かれているのに、それらが有機的に寸分の狂いもなく連動している。一つ一つのモーションに一切の淀みがなかった。
だから、あんなにも綺麗なんだ。水を押す腕の動きが、水平に押し出す脚の動きが、ゾッとするほどに滑らかで美しい。水の柔らかさと同化するように、動きに硬さを一切感じさせない。
素人でも分かる。スピードで張り合う人は居ても、動作の美しさで言えば右に出るものはない。
他の人とは明らかに発生する水しぶきの量が違う。翔の泳ぎだけが静かで、まるで別の競技を見ているみたいだった。
それがたゆまぬ努力に依るものなのか、それとも才能なのかは分からないけど。 ただただ、かっこいい。
50メートルを泳いで種目が変わる。背泳ぎ、次は平泳ぎ、そしてクロール。すべてが例外なく流麗だ。
あんなのをバカになんて出来ない。出来るはずがない。
————その瞬間。カチリ、と脳裏に音がした。
ボクはもう一度、心臓の熱を思い出す。
「あんな風に泳ぎたい……!」
もう憧れてしまった。目を奪われて、離せない。
塩原翔のことしか見えなかった。どんな映画を見たって心を動かされなかったのに、初めて心を揺さぶられた。
興奮している。高揚している。あんな奴に、こんなくだらないスポーツに魅了されて悔しいって想いながら、それでもなお。
「たつみちゃん。ボク、決めたよ」
「え?」
戸惑うたつみちゃんを置いて、氷室さんのもとへ。
こちらに気づくと、先輩はキョトンとした顔でこちらを見た。
今の気持ち。それを口にすれば決まる。
高校の三年間、どのような時間を送るのか、おおよそが決まってしまう。まだスタートラインにすら立っていないのに、そんな予感がする。
今ならまだ引き返せる。本当にこの選択は正しいのか。水泳になんか打ち込んで、意味なんてあるのか。
……バカいえ。それこそ、迷う意味なんて無い。
たとえどれだけくだらないことだとしても、もう避けては通れない。
「水泳部に入りたいです」
言ってやった。迷いなく、宣言した。
この胸の内から溢れて飲み込みそうな昂りをそのままになんかしておけない。やらずにはいられない。
アイツに憧れるなんてシャクだけど。ものすっごくイヤだけど。
「ホント?嬉しいよ。あ、ちょっと待ってね」
氷室さんがよそへ行ったかと思えば、すぐに戻ってくる。手には一枚の紙切れが握られていた。
「これ、入部届だから。仮入部の期間が終わるまでに頂戴ね」
「今書きます」
「ふふ、やる気満々だね。じゃあこれ」
ボールペンを貸してくれたので、ありがたく受け取る。
水泳部加入の証明書。そこに手早く署名を済ませる。今は一秒だって無駄にしたくない。そんなウズウズがボクを突き動かす。
早速、書き込んだ入部届を手渡した。
「うん、いいよ。そうだ、折角だし今から泳いでいく?」
「あ、えっと。すみません、ちょっと行きたいところがあるんで、今日はこれで」
善は急げと言う。泳ぎたいのは山々ではある。
でも、まずは気合いを入れたい。ほんの些細なことだけど、こういうのは気持ちの問題だ。
「そっか。じゃあまた明日だね」
「はい、今日はこれで失礼します」
頭を下げると、すぐに踵を返す。床に放置したバッグを持つと、出口へ一直線に向かう。
「ま、まって~!」
すると、水を差すように後ろから声がした。
当然、たつみちゃんなんだけど……やべ、ちょっと忘れちゃってた。やっぱりボクって酷いやつなのかな。
「ごめんごめん」
「もー帰るの?ていうか、水泳部入るのー?」
「うん。ボク、水泳やるよ」
エントランスの出口、自動扉が開いた瞬間、また後ろから声をかけられる。
「これからよろしくね。えっと、水谷さん」
氷室主将が、また人の良さそうな笑みを浮かべながら言った。
つい、こちらもその緩さにつられてしまいそうなくらいに。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
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