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第二章
いざ、一歩目へ(三)
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ぐーっと腹の虫が鳴る。
「うひー……」
すっかり身体はくたくたになっていた。もうエネルギーの一つも出せそうにない。イメージは搾り取られたレモンみたいな感じ。
主将さんは、初めは人柄に違わず優しく教えてくれた。曰く、四泳法をマスターとは言ったけど、まずは水に慣れる所から始めるつもりだったみたい。
けれどボクは、そんなのはすっ飛ばして苦手なバタフライの指導を頼んだ。実際に泳いでみると案外クラブに居た頃の感覚があって、自分が思っているよりはすいすい泳げた。それは主将さんも認めるところだった。
とまあ、そうしてやる気を見せた結果、みっちりとしごかれてしまった。要は自業自得ってわけ。トホホ。
どれくらい疲れているかというと、着替えるのも一苦労というくらい。水着を脱ごうとちょっと力を入れただけで筋肉がプルプル震える。
初日から飛ばしすぎたかなぁ。やる気は充分なんだけど、それに全く身体がついてきてない。やれやれ、先が思いやられる。
でも、不思議と気落ちしていない。
ずっしりとのしかかってくる疲労感は、それだけがんばった証なんだと思う。今日だって、最初はバタフライで50メートルを泳ぐのすら無理だと思っていたのに、最後の方には完泳出来ていた。
今まで何かに熱心になることなんてなかった。
勉強のように、やらされる努力じゃない。我を忘れて励んで、後から振り返ってみれば努力になっていたみたいな感じ。そんなものは自分には無いと思っていたけど、全然そんなことなかったんだ。
「へへ……」
それが他人に植え付けられた感情なのだとしても、この充実感が湧きあがってくるのは事実だ。
出来ないことが出来るようになるのは今まで何度もあったけど、こんな風に楽しいと思えるのは生まれて初めてだった。……なんか悪くないな、こういうの。
————浮かれ気分でいると、水を差すように、視界の隅に見知った顔が映った。
「翔だ」
もちろん水着姿の。
カラフルな水玉模様がプリントされている競泳水着。そこから伸びる腕と脚は、水の流れに馴染みそうな滑らかさをしている。よく見れば筋肉がついているのだが、その割には細く見えるのだから不思議だ。
機能美という言葉がある。腕時計など、無駄な装飾を排除していった結果、それが自然と美しいデザインになる……みたいな意味だ。
翔の体躯は、それと同じ感じがする。水泳はぺーぺーのボクだけど、彼女の肢体を見ていると、水泳のために鍛えられた身体なんだと直感で分かる。そしてそれは、見事なまでに綺麗で。
「………」
なんか、変な感じだ。
確かに翔なんだけど、翔じゃないみたいな。
いつもは無造作な短い黒髪が、今は水に濡れて漆器のように艶やかだ。無愛想な黒縁のメガネも掛けていないから、雰囲気が違って見えるのかな。
とにもかくにも、今の翔を見ているとどうにも落ち着かないというか、ザワザワする。だというのに何故か目は離せない。
じーっと。肉眼のレンズは、翔だけをフォーカスして。
「ねぇ、アンタ!」
「うぇっ!?」
変な声が出た。別にボクが話しかけられたわけじゃないのに。
というのも、見知らぬ女の子が翔に話しかけていた。背丈は多分ボクと同じかそれより少し上、短く切り揃えられている髪は、他の色の主張を許さない綺麗な黒をしている。目の力強さというか鋭さからして、如何にも気の強そうな女という感じだ。濡れた前髪を除けているため、額は露出して、目元の威圧感が更に増している。
蛇口から出た水をプラスチックの容器に注いでいた翔は、ゆるりとその女子の方に振り向く。
「なんでこんなトコにいるのよ」
「…………」
うわあ。ぜんぜん事情は知らないけど険悪な空気がこっちまでビシビシくる。なんていうの、一触即発?
同格の相手に対峙した肉食獣のように、黒髪の女子は睨んでいる。
対する翔はというと、キョトンとしていた。なんでそんな態度で声をかけられたのか、分かっていなさげだった。
気まずそうに翔が目を逸らす。水を入れたボトルをシャバシャバと振って、返事もしないまま動かない。
「ねえ、なんとか言いなさいよ」
「……………えっと」
言葉に悩んでいるのか、翔は口を結んだまま黙りこくる。
関係は良好ではないが、知った仲なのは傍から見てても分かる。でもなんだろうこの違和感は。
僅かなやり取りの中でも、どうにも二人の態度が噛み合わないというか。
煮え切らない態度に、女子の方は白い額に青筋を立てていた。見てるだけで末恐ろしい。多分爆弾を前にした人間って、似たような気持ちなんだろうなぁ。
「きみ、だれ……?」
そんな爆弾の導火線に火をつける、致命的に空気を読めない女が一人。
そして、ブチッと何かが切れる音を聞いた。錯覚だろうけど、間違いなく。
「ふざけるなっ」
怒りがそのまま形になったかのように、女子は声を荒らげる。同時に振り下ろされた腕は、翔の持っていたボトルを弾き落とした。
硬い床に叩きつけられたボトルは、一度だけ跳ねた後、所在なさげにゴロゴロと転がっていった。
翔は一瞬目を丸くしながらも、申し訳なさそうに目を伏せる。
「……ごめんなさい。本当に覚えが無くて」
「——————ッ!!」
パァンッと乾いた音が響いた。翔が彼女に引っぱたかれたのだ。
翔の細い身体が勢いに負けて崩れ落ちる。奇しくもボクと同じ右頬が真っ赤に腫れていた。
「わたしの名前は、佐々倉花音。今度こそ、絶対に覚えてなさいよ」
それだけ言って、ズンズンと更衣室の奥の方へと消えていった。
「……ささくら」
日記の文章をなぞるように、翔はつぶやく。
ともあれ、嵐は過ぎ去ったみたい。
よくわからないけど、佐々倉さんとの間に何らかのいざこざがあったのは確からしい。向こうは当然根に持っていたけど、翔は全く覚えていなかったって感じなのかな。
彼女も一年生っぽいし、水泳部に来ているということはやっぱり水泳関係なんだろうけど。翔も翔で色々あるらしい。
「うひー……」
すっかり身体はくたくたになっていた。もうエネルギーの一つも出せそうにない。イメージは搾り取られたレモンみたいな感じ。
主将さんは、初めは人柄に違わず優しく教えてくれた。曰く、四泳法をマスターとは言ったけど、まずは水に慣れる所から始めるつもりだったみたい。
けれどボクは、そんなのはすっ飛ばして苦手なバタフライの指導を頼んだ。実際に泳いでみると案外クラブに居た頃の感覚があって、自分が思っているよりはすいすい泳げた。それは主将さんも認めるところだった。
とまあ、そうしてやる気を見せた結果、みっちりとしごかれてしまった。要は自業自得ってわけ。トホホ。
どれくらい疲れているかというと、着替えるのも一苦労というくらい。水着を脱ごうとちょっと力を入れただけで筋肉がプルプル震える。
初日から飛ばしすぎたかなぁ。やる気は充分なんだけど、それに全く身体がついてきてない。やれやれ、先が思いやられる。
でも、不思議と気落ちしていない。
ずっしりとのしかかってくる疲労感は、それだけがんばった証なんだと思う。今日だって、最初はバタフライで50メートルを泳ぐのすら無理だと思っていたのに、最後の方には完泳出来ていた。
今まで何かに熱心になることなんてなかった。
勉強のように、やらされる努力じゃない。我を忘れて励んで、後から振り返ってみれば努力になっていたみたいな感じ。そんなものは自分には無いと思っていたけど、全然そんなことなかったんだ。
「へへ……」
それが他人に植え付けられた感情なのだとしても、この充実感が湧きあがってくるのは事実だ。
出来ないことが出来るようになるのは今まで何度もあったけど、こんな風に楽しいと思えるのは生まれて初めてだった。……なんか悪くないな、こういうの。
————浮かれ気分でいると、水を差すように、視界の隅に見知った顔が映った。
「翔だ」
もちろん水着姿の。
カラフルな水玉模様がプリントされている競泳水着。そこから伸びる腕と脚は、水の流れに馴染みそうな滑らかさをしている。よく見れば筋肉がついているのだが、その割には細く見えるのだから不思議だ。
機能美という言葉がある。腕時計など、無駄な装飾を排除していった結果、それが自然と美しいデザインになる……みたいな意味だ。
翔の体躯は、それと同じ感じがする。水泳はぺーぺーのボクだけど、彼女の肢体を見ていると、水泳のために鍛えられた身体なんだと直感で分かる。そしてそれは、見事なまでに綺麗で。
「………」
なんか、変な感じだ。
確かに翔なんだけど、翔じゃないみたいな。
いつもは無造作な短い黒髪が、今は水に濡れて漆器のように艶やかだ。無愛想な黒縁のメガネも掛けていないから、雰囲気が違って見えるのかな。
とにもかくにも、今の翔を見ているとどうにも落ち着かないというか、ザワザワする。だというのに何故か目は離せない。
じーっと。肉眼のレンズは、翔だけをフォーカスして。
「ねぇ、アンタ!」
「うぇっ!?」
変な声が出た。別にボクが話しかけられたわけじゃないのに。
というのも、見知らぬ女の子が翔に話しかけていた。背丈は多分ボクと同じかそれより少し上、短く切り揃えられている髪は、他の色の主張を許さない綺麗な黒をしている。目の力強さというか鋭さからして、如何にも気の強そうな女という感じだ。濡れた前髪を除けているため、額は露出して、目元の威圧感が更に増している。
蛇口から出た水をプラスチックの容器に注いでいた翔は、ゆるりとその女子の方に振り向く。
「なんでこんなトコにいるのよ」
「…………」
うわあ。ぜんぜん事情は知らないけど険悪な空気がこっちまでビシビシくる。なんていうの、一触即発?
同格の相手に対峙した肉食獣のように、黒髪の女子は睨んでいる。
対する翔はというと、キョトンとしていた。なんでそんな態度で声をかけられたのか、分かっていなさげだった。
気まずそうに翔が目を逸らす。水を入れたボトルをシャバシャバと振って、返事もしないまま動かない。
「ねえ、なんとか言いなさいよ」
「……………えっと」
言葉に悩んでいるのか、翔は口を結んだまま黙りこくる。
関係は良好ではないが、知った仲なのは傍から見てても分かる。でもなんだろうこの違和感は。
僅かなやり取りの中でも、どうにも二人の態度が噛み合わないというか。
煮え切らない態度に、女子の方は白い額に青筋を立てていた。見てるだけで末恐ろしい。多分爆弾を前にした人間って、似たような気持ちなんだろうなぁ。
「きみ、だれ……?」
そんな爆弾の導火線に火をつける、致命的に空気を読めない女が一人。
そして、ブチッと何かが切れる音を聞いた。錯覚だろうけど、間違いなく。
「ふざけるなっ」
怒りがそのまま形になったかのように、女子は声を荒らげる。同時に振り下ろされた腕は、翔の持っていたボトルを弾き落とした。
硬い床に叩きつけられたボトルは、一度だけ跳ねた後、所在なさげにゴロゴロと転がっていった。
翔は一瞬目を丸くしながらも、申し訳なさそうに目を伏せる。
「……ごめんなさい。本当に覚えが無くて」
「——————ッ!!」
パァンッと乾いた音が響いた。翔が彼女に引っぱたかれたのだ。
翔の細い身体が勢いに負けて崩れ落ちる。奇しくもボクと同じ右頬が真っ赤に腫れていた。
「わたしの名前は、佐々倉花音。今度こそ、絶対に覚えてなさいよ」
それだけ言って、ズンズンと更衣室の奥の方へと消えていった。
「……ささくら」
日記の文章をなぞるように、翔はつぶやく。
ともあれ、嵐は過ぎ去ったみたい。
よくわからないけど、佐々倉さんとの間に何らかのいざこざがあったのは確からしい。向こうは当然根に持っていたけど、翔は全く覚えていなかったって感じなのかな。
彼女も一年生っぽいし、水泳部に来ているということはやっぱり水泳関係なんだろうけど。翔も翔で色々あるらしい。
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