上 下
11 / 37
49代表校出場時代

第60回記念大会

しおりを挟む
1978年の第60回記念大会は代表校が49校に。以後80回、90回、100回の記念大会を除き49校制は定着していく。

優勝したのはPL学園。準決勝の中京戦では9回に4点差を追いつき12回サヨナラ勝ち。決勝戦も2点リードされていた9回に3点を取り逆転サヨナラ勝ち。逆転のPLの異名を取った。またこの大会から初戦は東西対抗の形となり暫くは西のチームが東のチームを圧倒する年が続いていく。

この年のしんがり校は日大二。初戦は東筑と対戦。試合は日大二が押していたものの延長13回に0-1でサヨナラ負けを喫した。

_b_ 9回2アウトから_b_

1979年の第61回大会は箕島が公立高校として唯一の春夏連覇を達成した。

3回戦の星稜高校戦は甲子園の最高試合と語る人も多い。延長18回の死闘は夏の甲子園特集の度に語られることが多い。星稜の隠し球、落球、箕島の奇跡は2度起きたホームランなど未来永劫語られることになるだろう。

この年のしんがり校は静岡の富士高校。初出場。初戦の高知戦では9回2アウトまでリードするも同点に追いつかれ、延長15回サヨナラ負け。勝てた試合が逃げていったかのような試合となった。

_b_ 新興勢力も_b_

1980年の第62回大会は横浜と早稲田実の東日本勢同士の対戦となった。ここまで好投してきた横浜愛甲、早稲田実荒木大輔がともに崩れ序盤は乱打戦に。試合は6-4で横浜が勝ち優勝。一年生だった荒木大輔が甲子園のアイドルとなり、男の子に大輔と付ける親が増えたとか。18年後に横浜高校に松坂大輔が現れたのは偶然ではないだろう。

北海道の2校がともに1大会2勝した。旭川大高は初戦の日向学院戦で延長13回2点差を逆転して初戦を突破。2回戦の南宇和にも勝ち3回戦まで勝ち進んだ。札幌商も龍谷、双葉に勝ち3回戦まで勝ち進んだ。

この年のしんがり校は創立3年目で甲子園初出場の江戸川学園。優勝した横浜に0-9と大敗した。

_b_ しんがり校は勝てない?_b_

1981年の第63回大会は報徳学園が京都商を2-0で破り初優勝。金村投手は全試合完投した。全試合完投したのは8名いるが金村投手を最後に現れてはいない。

また名古屋電気の工藤投手が金属バット導入後初のノーヒットノーランを達成。ベスト4まで勝ち進んだ。3回戦では5試合がサヨナラゲームとなり接戦の試合が多かった。

この年は初出場、山梨の東海大甲府がしんがり校に。この頃1番弱いとされていたとはいえ広島の名門広島商に3-1で勝利した新潟代表の新発田農が初戦の対戦相手。3-4で東海大甲府は新発田農に負け新潟県勢初の1大会2勝を許した。この頃からしんがり校は勝てないジンクスが言われ出した。

_b_名門も_b_

1982年の第64回大会。この年から5日目と9日目を3試合日に設定。しかし2日目第四試合の日大二と八幡大付(現九州国際大付)戦が試合成立寸前の6回2アウトから降雨ノーゲームで5日目第一試合に組み込まれ5日目はこの年も4試合となった。日程変更はこの一試合だけだった。

徳島池田がやまびこ打線で勝ち上がりエース畠山が好投し初優勝。特に準々決勝の早稲田実との試合では早実のエース荒木大輔が滅多打ちにされ甲子園の勝ち上がるチームの新旧交代を見せつけられた。広島商が広商野球で決勝戦に勝ち上がるも池田のやまびこ打線に2-12と破壊された。池田高校は翌年春も優勝を果たしている。

佐賀商の新谷が青森木造高校戦では9回2アウトまで完全試合を継続していたが27番目の打者に死球を与え惜しくもノーヒットノーランで終わった。

奈良の智弁学園が2年連続で開幕戦で黒星を喫した。

この年は石川星稜がしんがり校。相手は最上級生になった荒木大輔のいる早稲田実。1-10で大敗。

しおりを挟む

処理中です...