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Spring Season

第5投

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 大学の最寄り駅から電車に乗って三十分。
 徒歩五分のところにある河川敷のグラウンドには、早くも上級生が集まっていた。
 ピッチャーのりかこ(三年)とショートのソフィー(二年)。この二人は最初のインパクトが強かったからすぐに分かった。
 あんこに一通り昨日のメンバーを教えてもらったからなんとなく分かる。
 ベンチの前でバットを振っているのは、レフトを守っていた長い綺麗な黒髪の織部雅おりべみやび(三年)だ。セカンドでノックを受けている原希はらのぞみ(二年)は、二人に気がついて声をかけようかきょろきょろしていたがノッカーの翔子しょうこ(三年)は、まったく気がついていないようで強い打球をどんどん球際に打っていた。
「のぞみ~あと十本とらないと終わんないよ~」
「お、お願いしますもう一本」
「なにをへばってんのよ、弱音はいたらもう十本追加ね」
「りーかこさん。いけないんだ~またのぞみちゃんいじめてる~」
 あんこは、そう言ってグラウンドに駆け出した。
「お!」
「きたな!」
 上級生たちの視線が二人に集まる。
 久留実の姿を見た上級生たちは練習を一旦中断し快く向かい入れてくれた。
「こんにちは。くるみちゃんもいっしょです。真咲さんは?」
「真咲さんなら外野で走ってるよ」
 ノックを打っていた翔子はライトのポールを指差し言った。
「じゃああたし挨拶してきますね」
 あんこは、久留実の手をひいてライトの最深部まで走り出す。
 こちらに気がついて走り出すのを辞めた彼女は、近づいてくるのがあんこと分かったようで微笑んだ。遠くからは分からなかったが小柄な体格で容姿から中学生くらいにしか見えない。
 あんこと並ぶと更に頭一つ分ほど小さい。あんこからりかこやソフィーを含めた個性的なメンバー全員から慕われている人だと聞いていたためもっと大柄な人物を想像していた。
 真咲って言う名前も男らしいから怖いイメージもあったが実際は童顔でクリっとした丸い目でこちらを眺めている。
「こんにちは真咲さん。この子が昨日言った有望部員です!」
「はじめまして咲坂久留美です。あの昨日はいろいろすみませんでした」
 真咲は右手を差し出して握手を求め応じる。
「そんなに固くならないで、私はこのチームのキャプテン早乙女真咲さおとめまさき。昨日は就職課にいってたから会えなかったけど災難だったね。りかこにやられたんでしょ。あの娘負けず嫌いだから許してあげてね」
 舌っ足らずで外見に引っ張られるような幼い感じの喋り方だった。
 両手を使って身振り手振り話すので動作もどこか子供っぽくふわふわした印象を与える。
 久留実は思わず頭を撫でたくなる感情を押し殺し平然を装う。
「いえ別に大丈夫です」
 そう言うと真咲は笑って久留実の手を今度は両手で包み込むように握り顔を近づけていった。
「あんこちゃん全員をベンチに集めて。歓迎します咲坂久留美さん。ようこそ栄光大女子硬式野球部へ」

「集合~」
 真咲が号令をかけると一斉にベンチ前に円をかくように集まった。
「これから一週間後の港経済大学との春季リーグ初戦に向けてキャッチボールのあと実戦をやります。ピッチャーはりかこと泉。怪我明けの立花は調整して帳尻をあわせて、それ以外は、七イニング各打席でバント、エンドランをまぜてまわすこと。あ、今日から木製バットじゃなくてもいいよ。あと久留実ちゃんは別メニュー。以上です」
「よし!」
 力強い返事をした後、上級生たちは一塁線に一列に並んでキャッチボールをはじめた。最初は五メートルほどの近い距離で肩をならす。
 しかし肩ならしにしてはボールをグラブで捕ってから投げるまで早い。グラブのなかでボールを握りかえるスピードがいままで見てきた中で男子よりも早かった。特にソフィーは取ったと同時に投げている。
「驚いた? これが大学野球のレベルだよ」
「はい、真咲さん試合って公式戦ですか?」
「うん春季リーグ戦。昨年の秋季リーグ三位の港経済大学。うちが秋季四位だから格上になるね」
「このチームより強い……」
 久留実は身震いしていた。早く投げたいこんな気持ちになったのは本当に久しぶりだ。
「久留実ちゃん、あなたの球を受けてみたいのだけど、あとでブルペンに来てくれる?」
「はい!」
 力強く答える。

 ゆっくりキャッチボールをして遠投をすませたあと、久留実は一塁側ベンチ側のブルペンに走った。真咲はキャッチャー防具を装備して待っている。
 まっさらなプレート、まだ誰も足を踏み入れてない。
 右足をプレートにかけて振りかぶる。ミットだけを見て投球モーションに入る。足をふり上げたときに感じた昨日より力が入っていなくてスムーズに体が動いた。着地した足を開かないようにつま先をホームにまっすぐ向けて、並進運動の力を球の勢いに変換する。腰の回転が始まって少しずつ体が前を向く。腕をムチのようにしならすイメージはもう何千回としてきた。指がボールを離れる最後の瞬間人差し指で押し込んだ。
 バシィィィィィ。
 乾いたミットの音が河川敷に響く。
「驚いたこれは想像以上だよ」
 真咲はそう言ってボールを投げ返した。そしてどんどん要求した。アウトコース。インコース。高め。低め。アバウトなコントロールの久留実がそこに投げれているように見えるのは真咲のキャッチングがうまいからだった。更に驚くべきは全部ミットの芯でとっていることだ。だからブルペンに響く音もいい。なんだか今日は球が走っているような感覚になる。
「よし。マウンドに上がって見よう」
「え。でも昨日火だるまになったばかりで……」
「大丈夫だよ、なんとかなるから」
 優しく微笑む真咲はまるで天使のように輝いていた。
「ちょっと。早乙女さん。先発は私ですよ」
 久留実がマウンドに上がろうとすると反対側のブルペンから来たりかこに止められた。かなり不機嫌そうだ。
「気持ちは分かるけど。りかこは最近投げすぎだよ、うちの大事なエースが怪我したら二部降格確定なんだから今日は打者三人で我慢して」
 あきらかに納得はしていない様子だったがりかこは頷く、相変わらず鋭い眼光は久留実に向けられている。
「じゃあ私が一番に打っていいですか。咲坂の球」
「分かった、じゃあさっそく準備お願いね」
 左バッターボックスに入ったりかこは、バットも振らず不良がいまから喧嘩をしかけるようにバットを肩に乗せてマウンドを睨んでいる。
「真咲さん。私まっすぐしか投げられませんよ。それに細かいコントロールもありません」
 不安を漏らす久留実に語りかけるように優しい口調で言った。
「コントロールは今の段階では大雑把にこのあたりくらいでいいよ。ただ少しプレートに足をかける位置を変えてみて」
「プレートですか?」
「うん、久留実ちゃんならそれだけで分かると思うから。あとはミットめがけて投げてきて」
 真咲はそう言うとマウンドを降りた。久留実はその意味を深く考える。プレートの位置そんなこと意識したことはなかったがいつもちょうど真ん中の位置に足をかけている。バッターは左、真咲の意図すること。ただ投げるだけにここまで神経を使ったことなんて今までなかった。
 プレー。
 真咲のミットは、打者の胸元をえぐるインコースに構えられた。
 ――考えろ、りかこさんの勝気な性格からして様子を見るなんてことはしない。初球から振ってくる。ならばこの初球がこの打席一番の勝負になる。
 久留実はプレートの左端ぎりぎりのところにりかこに悟られないように足をかけて渾身のストレートを投げた。
 りかこは初球を狙っていた。右足を振り子のようにふりあげインコースも関係なく踏み込んできた。
 ガツッ。
 鈍い音が響いて白球はキャッチャー後方にあがる浅いフライになった。真咲がなんなく捕球して抑える。
「いまのめちゃくちゃ速くなかった? りかこ」
 ネクストバッターの新庄詩音しんじょうしおん(三年)とベンチに戻るりかことの会話が聞こえる。
「いまのは打ち損じただけよ。ただ今日は手元で伸びてきているから昨日より若干始動をはやくしたほうがいいかもね」
「ちなみに創世大の柊とどっちが速い?」
 挑発気味に笑う詩音に機嫌を悪くしたりかこは無言でベンチに戻り外野手用のグラブをつけてライトを守る堀越美雨(三年)と入れ替わる。
「柊と比べるほどのピッチャーじゃないわ、でもスピードだけならもしかしたら……」

 りかこを抑えてから久留実は圧巻の投球だった。
 真咲に助言されたプレートの位置を少し変えるだけで昨日のことが嘘の様に打者を翻弄できた。詩音を内野ゴロに仕留めた後、美雨を三振に打ち取り、一イニングを完璧に抑えることが出来たのだ。
 ピッチャーは一イニングごとに変わり次はりかこがマウンドに上がる。久留実はライトの守備位置につき、じっとりかこの球筋を見ていた。先頭バッターはあんこだ。右バッターのあんこは、オープンスタンスでバットを頭の後ろに構える。
 りかこが投じた初球はストライクからボールになるスライダーだった。ストレートを狙っていたあんこの打ち気をそらすナイスボールだったが、体勢を崩しながら左手一本で反応して、センター前にボールを運ぶ。あのコースは、通常なら引っ掛けてゴロになるのだが、左手首が返らずに最後まで残っていたからこそ外野までボールを運ぶことが出来たのだろう。改めてあんこの非凡な打撃センスに驚かされる。
「りーかこさん。ナイスボールでした。なんかすみません」
「うるさいわ、静かにしてなさい」
 りかこの機嫌が悪くなり、とばっちりがこちらにくることを恐れた久留実は、あんこが恨めしく思うときがある。
 バッターボックスに入る前に翔子があんこにサインを送る。セオリー的にバントの可能性が高い。左ピッチャーのりかこはファーストにけん制を一球投じて頷いた。セットポジションからクイックモーションで投じる。あんこのスタートが少し遅れた。インコース高めのボールを翔子はセオリーどおりバントをする。一塁方向に転がるナイスバントになったと思ったが、りかこは投球が終わると同時に一塁方向にマウンドを降りていた。素早く捕球をするとそこからが速かった。振り向きざまにセカンドベースにストライク送球。しかもステップなしの送球だった。カバーに入ったショートのソフィーが流れるようなグラブさばきでそのままファーストに送球をしてアウト。ダブルプレーで一気にツーアウトランナーなし。わずかに二球で簡単にピンチを切った。次のバッターもサードゴロに抑えて、涼しい顔してマウンドを降りる。
 
「お疲れ様でした。じゃあこれからは各自の反省練習にするね。以上全体解散」
 練習が終わると上級生たちは自由だった。そのまま練習する人やすぐに帰宅する人とさまざまだ。久留実はというとはあんこをキャッチボールに誘っていた。
「久留美ちゃん。今日凄かったね」
 自分のことのように喜ぶあんこは久留実から唯一ヒットを打っている。アウトコースの球を逆らわずに右方向に打たれた。
「でも、あんこに打たれたよ」
「たまたまだってば、ほら久留美ちゃんの球が速いから当てただけで飛んでくんだよ」
「あんこは、野球好きなんだね」
「うん。大好き」
 クールダウンのつもりがいつの間にか塁間まで下がり七割くらいの力で投げている。
「あんた、試合前に肩つぶすつもり?」
 振り返るとアイシングを施したりかこが立っていた。あんこに戻ってくるように言うとキャッチボールを中断するように指示する。
「ピッチャーの肩は消耗品なんだからしっかりケアしないと、休み肩だから今は軽いけど連戦になったら上がらなくなるわよ」
「す、すみません」
 それだけ言ってりかこはアイシング道具を貸してくれた。ベンチに座り少し熱くなった右肩をアイシングで一気に冷やす。
「肩、肘だいたい十五分でいいわ。終わったら、洗ってあそこのバックに片付けておいて」
 久留実は中学生のころからアイシングをしていなかった。肩の強さに自信があり、どんなに投げても痛くはならなかったからかもしれない。
「久留実ちゃんアイシング中ごめんね、明日以降の授業の予定教えてくれる?」
 真咲が隣に腰を下ろして尋ねてきた。金曜日までの予定を伝えるとメモに書き込んで「ありがとう」と笑顔で言った。
「どう久しぶりに打者を抑えた気分は?」
「まだ、実感はあまりわきませんが、とても楽しかったです」
「よかった。じゃあさ……土曜日の港経大の初戦なんだけど先発いけるよね」
「えっ……」
 それは衝撃的な言葉だった。
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