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俺がチートにあこがれた瞬間
しおりを挟む半鐘が鳴り響く。
江戸の華は、喧嘩と火事だ。
どちらも起こった途端に人だかりができて、人の濁った血をわきただせる。あまりにも火事が起こりすぎて、江戸の人々は火事というものにある種の耐性ができていた。恐れることはするのだが、火事が多い江戸から逃げようという考えは起こさない。火事より危ない鬼が現れても、人々のその考えを改めようとはしなかった。
今も一つの商家が燃えていたのに、逃げる人々よりも集めってくる人々のほうが多い。ごうごうと火は燃えて、近所の人々たちだけが金品を後生大事に抱えて逃げ惑う。
そして、それより多い人々が揺らめく炎と鬼を目に焼き付けようと火事場へと足を向けていた。鬼が歩くごとに炎が舞い散って、木造家屋からは火が上がる。火消は鬼と戦うために銃や刀を持ち出して、人々はその戦いっぷりに胸を熱くした。
誰も、燃えた家屋に目を向けない。
「助けてくれ……」
逃げ遅れた子供――春は、そんな野次馬の声に向かって手を伸ばす。
逃げ遅れ、熱い炎に全身を焼かれ、煙を吸い込んでも、春は「助けてくれ……」と手を伸ばし続ける。燃えた屋内に取り残され、自分の命が残り数秒に満たないと察してしまっていても、春は生きるために声に向かって助けを求める。
死にたくなかった。
家族や財産のすべてを失っても、死にたくはなかった。
「助けて……」
強い力で、春は腕を掴まれる。
肺のなかに新鮮な空気が流れ込み、春はせき込んだ。ついで、春は燦燦と輝くお天道様とそれに手が届いてしまいそうなほどの鬼を見た。一歩あるくごとに鬼の体にまとう炎が千切れて、江戸の町を焼く。その光景が現実であると思い知り、ようやく春は自分が火消しによって助けられたことを知った。
火消は春の幼い体を背負いつつ、燃えた家屋と家屋の間を縫って走り出す。春は背中に揺られながら、鬼を眺めていた。鬼のあまりの巨大さに、せっかく助けられたのに、せっかくまだ生きているのに、結局はここで死ぬのかもしれないと思った。
鬼は、それほどまでに強大で圧倒的であった。
体の周りにまとった炎のせいか表情は怒っているのか泣いているのかよく分からず、歩くことにその体からは炎と火の子が地上に舞い落ちる。
鬼とよく似た――鬼よりはるかに小さな火の子が、火消と春の前に立ちはだかった。大人ぐらいの背丈しかない火の子でも、春には十分な脅威に感じられた。
「火の子に囲まれるぞ! 早く、火の子の数を減らせ!!」
朱雀隊の定火消が、真っ赤な半被を翻しながら叫ぶ。火消たちは鉄砲や刀で次々と火の子を打ち取り、春を背負った火消が走る道を開けていく。
「くそっ!」
春を背負った火消が悪態をついた。
鬼が、進行方向を変えた。
まるで、春たちを踏みつぶすのが目的のようにゆっくりと足を進める。火消も鬼から逃げようとするが、火の子に周囲を囲まれて逃げ場がない。
――死ぬのだ、と思った。
――家族と同じように鬼に踏みつぶされるのだ、と春は思った。
「鴉!!」
火消が、大きな声で叫んだ。
その瞬間に、一羽の鳥が空中に舞った。
人間の限界を超える跳躍を見せたのは、人であった。
黒に近い紫の半被に、一本にくくった髪。走るも心もとないはずの高下駄で、その人間は宙を舞う。まるで、冗談のようなその姿。鬼の太ももに着地し、鴉と呼ばれた火消は鬼の体を駆け上がった。
その日、春は鬼の出現によって家も家族もすべてを失った。
それでも、知りえたことが一つだけあった。
「鴉隊だ! 鴉隊が来たぞ!! あっちに見えるのは、玄武と青龍か。白虎までいやがる」
野次馬たちが、次々と到着する火消の部隊に歓声を上げる。
その声は、春には届かない。
その日、絶望のなかでさえ人は何かに憧れることができるのだと……春は初めて知った。
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