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跳んで跳ねて、憧れは殺して
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江戸の屋根を春は見つめていた。
その視界の先には、鴉がいる。江戸の民家と民家の屋根を伝って、いつもどおりに走っている。消え鬼に対して、鴉が囮になるためである。
「鴉、少しは加減しろ!お前は怪我人なんだぞ!」
鴉を叱るには、春に背負われた浅海である。戦力として鴉が復帰し、緊急時にはその撤退を助けるために春は鴉隊に戻ってきた。
さらに、浅海まで鴉隊の一時預かりとなった。
これは、鴉を撤退させる役割が春しかいないと聞いた玄武が「浅海の言うことならば比較的聞くんじゃないか?」と言い出した結果であった。玄武も、鴉は春の言うことを聞かないかもしれないと思ったようだ。
だが、その代役は浅海がふさわしいのかと春は疑問に思った。
結果、ふさわしかった。
考えてみれば、浅海は鴉の兄が愛している養い子なのである。
鴉も、分かりにくいが愛着を持っているのである。
春が言うよりずっと素直に、鴉は浅海の言うことを聞いた。
「あっ、ごめん。ねぇ、浅海。兄上には、秘密だからね」
悪戯子のように、鴉は屋根の上で笑った。
こうしてみると、鴉は浅海の兄のようであった。精神年齢が近くて、歳の離れた妹に叱られる頼りない兄。朱雀とのつなぎ目を埋めるように、鴉は浅海を愛した。
「浅海、鴉隊長の過去を知っているか?」
春は、背負った小さな娘に尋ねた。
浅海は、ふんと鼻を小僧のように鳴らした。
「もちろん、知っているさ。旦那に聞いたからな……春も聞いたんだな」
目を細める浅海は、屋根の上で江戸の町を見下ろす鴉を見つめる。
「鴉って奴は、馬鹿だろ」
一言、浅海は言った。
「あんなにふうに過激に、過剰に、劇的に、たった一人を愛するなんて破滅的だろう」
男のように理性的に、浅海は述べた。
春は「そうではない」と言いたかった。だが、春の理性的な側面が「そのような見方もある」と浅海の意見を肯定していた。
「でも、羨ましい」
小さく、浅海は呟く。
「あそこまで、強くありたい。強く、たった一人を愛したい。女として、羨ましい」
柔らかく、高い声が、春の耳に届く。
そのとき、春は楽になった。
「凶器を感じるほどの生きざまが、すごく綺麗に感じる。ときどき、思うんだ。たぶん、俺は鴉ほど綺麗な人には出会わない」
浅海は、そう言い切る。
森で育まれ、兄に人われて、兄に嫉妬され、――それでも兄を愛した生きざま。そのすべてが綺麗だと、罪悪感も感じずに浅海は言った。
「あの人が、人間の綺麗さの頂点にいるんじゃないかなって」
眩しそうに、浅海は語る。
「秘密なんだけど……俺が本当に男だったら、鴉を嫁にしたい」
庇護下におきたい、と浅海は言った。
自分よりはるかに強い男を「美しい」という理由で所有したがる浅海に、春は女を見た。自分には恐れ多くて考え付かないことを浅海は考える。そして、恐れもなく口にする。
「俺は――鴉を超えたい」
春は、そう言った。
綺麗なものを所有するほどの考えは浮かばず、憧れを超えたいという気持ちだけがあった。
「春、浅海!」
屋根の上で、鴉が二人を呼んだ。
「お腹、空きませんか?」
その言葉に、春も浅海もあきれた。
「朝飯をたっぷり食べたのに」
鴉は、朝から飯を三杯もお代りした。
最悪、夜まで食べなくとも持つように考えてのことだと本人は言っていたが、その鴉は昼になると空腹を訴える。
「だって、囮役なのに消え鬼はぜんぜん現れないんですよ。だったら、食べれるときに腹ごしらえしないと」
鴉の言葉に、浅海はそれもそうかと懐を探った。
「ほら、おかかを混ぜ込んだ握り飯。片手でも食えるだろ」
まるで野生動物を手なずけるかのように、浅海は鴉を呼ぶ。握り飯につられてきた鴉は、浅海から握り飯を一つ受け取った。
「美味しい!」
道の真ん中で、鴉は笑顔で握り飯を食べる。
「すっごく、美味しいです。浅海は、いつでも女将さんになれますね」
「握り飯一つで何言ってやがる。ほら、早く仕事」
浅海に急かされて、鴉は握り飯をもぐもぐさせながら屋根に再び上る。その背を見た春は、思わず鴉に尋ねた。
「隊長、あなたは兄を愛してた。その愛情が朱雀隊長を元に戻したというのならば、霧人は最初は誰に人に戻してもらったんだ?」
姉の愛を否定されて、殺されかけた霧人。
そんな霧人を誰が救ったというのだろうか。
「霧人にそこまで聞いていたのならば、てっきりすべてを春は分かっているのだと思っていました。でも――まだまだですね」
ぱくり、と握り飯の最後の一口を鴉は口に放り込む。
「鬼より強くて、霧人を愛する人なんて一人でしょうに」
誰、と春は聞きたかった。
だが、その質問をすることはできなかった。
「消え鬼がでたぞー!!」
遠くで叫び声が聞こえ、鴉がその声の方向を確認する。
「浅海!」
鴉は、浅海の名を強く呼んだ。
「ダメだ。俺も行くぞ。あんたのことを俺も心配しているし、死なれるのも面倒だ」
鴉は、複雑な表情を見せる。
浅海は、にやりと笑った。
「俺に嫌われたら、てめぇの大好きな兄上にも嫌われるぞ。死ぬ覚悟はあっても、嫌われる覚悟なんてないだろ?」
浅海は、たぶん本気では言ってないだろう。
その気になれば鴉は兄に嫌われることよりも、兄の命を優先する。
春ですら、それに気が付いていた。だが、鴉自身がそれを否定するかのように微笑んだ。
「そのとおりです。――春、行きますよ」
鴉の鼓舞を聞いて、春は地面を走り出す。
段々と鴉との距離は離されるが、それでも春は走る。鴉の向かう先に、鬼がいることを知っているから。霧人がいることを知っているから。立ち止まるわけにはいかない。
「今回は、一番槍を取られましたか……」
鴉が、屋根の上でぼそりと呟いた。
姿を現した消え鬼の足に跳びかかっているのは、玄武。
子供一人分はあるのではないかという巨大な刃を持つ鉞(まさかり)を担ぎ、腰をひねって最大の威力を鬼の足首へと叩きこむ。
「おっつしゃー!!」
雄叫びを上げながら、玄武は消え鬼の足を攻撃しつづける。彼が定火消で最年長でありながらも未だに隊長という立場を守り続けるのには、理由がある。あまりにも簡単な理由。
玄武は、誰よりも体格に恵まれていた。
背丈はどんな男たちよりも高く、肩幅は広く、腕の太さは未だに鴉の倍はある。その恵まれた体は、老いてもなお玄武の有意義性を損なわない。
「もういっちょう!!」
再び、玄武は攻撃を喰らわせようとする。
だが、消え鬼はそれでも倒れない。
それどころか、玄武を踏みつぶそうとした。だが、それを妨害するのは青龍の弓であった。青龍は消え鬼の目を狙い、驚くべき距離まで弓を届かせる。
そして、その弓は外れない。
青龍が長年積み重ねた技術は、確実に消え鬼の目を狙う。
「ちっ、手で振り払われましたか」
だが、正確無比な弓は消え鬼から見ても軌道が読みやすいものであった。消え鬼は、青龍の弓を大きな掌で簡単に振り払う。鉄砲ほどの速さだったならば、鬼だって避けるのは難しい。だが、弓は人の腕力で飛ばす武器だ。鬼が避けられる速さなのである。
同時に、咄嗟に避けてしまう速さでもある。鬼が弓矢を振り払ったとき、鬼の視界は一瞬だが自分の手で阻まれた。
「玄武、悪いけど下がっていてください!」
叫んだのは、白虎である。
彼の背後には、様々な部隊から集められた者たちがいた。朱雀、玄武、青龍、白虎、それぞれの部隊から集められた彼らは、一時的に白虎の配下となっている。玄武と青龍が、それぞれ単独に動くことができるようにと配された陣形だ。
誰よりも小柄な白虎は、高価な眼鏡を指先で持ち上げる。
「消え鬼……いいや、霧人とやら。俺たち若い世代が、ただ緩慢に年寄りの技を受け継いでいるだけだと思うなよ」
鬼の足元で、爆発が起こる。
白虎の背後の部下たちが消え鬼に向かって投げるのは、爆弾であった。量と質共に安定した火薬を作り管理するのは、かなり難しい。
だが、白虎はそれを可能にしていた。
そもそも白虎は、花火を作る『たま屋』の二男である。視力が弱くて父から期待外れと烙印を押されようとも、火薬の扱い方は幼いころから見知っていた。そして、白虎は自分の力で眼鏡を手に入れた。補正された視力が、白虎に細やかな火薬の調整を可能にさせていた。
この爆弾、白虎が隊員の時代にはよく使用していた武器であった。だが、爆弾による被害がでたこともあって、白虎は隊長になってから爆弾の使用は控えていた。
それでも、白虎が隊長であることに不満はでない。
つまり、白虎は一芸のみを評価された隊長ではないのである。
「力がない弱い奴は、道具に頼るのが正しい戦い方なんです。覚えましたかー」
消え鬼を小馬鹿にしたように、爆弾を投げつける。
白虎は、隊長で一番身体能力に恵まれていないであろう。
背は女のように低く、視力は弱くて眼鏡を手放せない。だが、白虎が評価されたのは、彼自身の戦闘能力ではなかった。制作する爆弾の威力でもなかった。
「鬼がこっちにきましたかーと。一時的に、一班は下がりなさい。二班、出番だ!!」
消え鬼が背を向けた方向から、別の部隊が顔を出す。
全員が爆弾を持ち、消え鬼に向かって投げる。二班と称された者たちが鬼に追いかけられそうになれば、白虎はすぐさま控えていた三班に前に出るように叫んだ。
「一班、もう一度行きます! 消え鬼は一匹だ!! 数で翻弄し、無茶はしない。俺がおまえらを預かっている以上は、殺すような命令はしない!」
白虎は叫ぶ。
白虎が隊長になってから、白虎隊の死亡率は大きく下がった。火消は鬼を恐れるなと教育されるが、それでも死は怖いものである。だが、白虎がたたき出した生存率の数字はそんな隊員たちにとって安心感を与えるものになった。
この人につい行けば死なない――白虎の背中を見つめる隊員は白虎に信頼を向ける。だからこそ、彼の部下は白虎の言葉を全て忠実にこなす。その部下の信頼こそが、白虎の一番の武器だ。
いくら策が優れていようとも実行する部下の気持ちがくすぶっていれば、それは失敗する。白虎は、それをよく知っている。知っているからこそ、信頼される己は武器になるのだと逆説的に考えた。
「悪党時代の悪い顔になってるぞ、白虎」
白虎の隣をすり抜けるのは、朱雀である。
「うるさいです。そっちこそ、そんな仕事で死なないでくださいねー」
白虎の嫌味に、朱雀はにやりと笑ったような気がした。
朱雀は、消え鬼が生み出した火の子を切っていく。
火の子退治も大事な仕事であるが、他の隊長格に比べればその仕事ぶりは地味だ。他の面々と違い、扱いに特筆した武器はなく、部下からの特別な信頼もない。ごく普通の隊長であり、記録には残るが記憶には残らない凡人の姿であった。
それでも、彼はこの場に食らいついてきていた。
努力した才人たちの群れに、それを上回る努力を重ねて、ようやくこの場に齧りついている凡人。だが、朱雀自身はその限度では満足できていない。
もっと、上へと望む。
自分が天才でないことは、弟の背中を見て知っている。
それでも、朱雀は立ち向かう。
春は、思った。
この人ならば弟に嫉妬したあまり、鬼になってしまうかもしれないと。
自分よりも高みにいるくせに、努力も傷もいとわない弟の存在に嫉妬するのではないのだろうかと。嫉妬してもおかしくはないのだと――
「春、そろそろ行きましょうか」
鴉は、懐から取り出した丸薬を掌で弄ぶ。
火消は、自分で使う薬が支給される。火傷用の軟膏、痛み止め、気付け薬、そのなかで一番危険であると言われているものが鴉が手に持っている丸薬である。
それを調合した医者は「笑って死ねるようにした」と言っていた。
一粒飲めば、肉体のほとんどの痛みは遮断される。重症者が飲めば、たしかに笑って死ねるであろう。だが、今の鴉が飲めば彼はおそらくは重大な肉体の欠損にも気がつけなくなる。
そこの境目を見抜くのは、春の役割だ。
「鴉、死に急ぐなよ」
最後に、浅海が声をかけた。
その言葉には答えずに薬を飲み込んだ鴉が、屋根から舞い落ちる。底に錐を仕込んだ高下駄が地面に印象的な足跡を残して、鴉は前へと進む。
「すみません。遅れてしまいました。俺の分は、残っていますか?」
その言葉を最後に、鴉の姿が消えた。
次の瞬間には、鴉は消え鬼の太ももを走っていた。
「早いっ……」
春は、息を飲んだ。
以前の時よりも、鴉のスピードは上がっている。
痛みから解き放たれ、武器も軽量化した、その成果が如実に表れている。春は、火の子を倒す朱雀を見つめる。朱雀は、鴉を見ていなかった。
その一方で、鴉は誰よりも早く駆け抜けていく。
自分を見ろ、と言っているかのように。
焦がれて嫉妬し、自分だけ見て欲しいと叫ぶかのように。
だが、失われているのだ。
鴉に嫉妬する心は、朱雀のなかから永遠に失われて戻っては来ないのである。
「霧人……」
春は、一人呟く。
「鴉隊長は、たぶんお前の気持ちを一番理解している。でも、お前を一番ゆるしてはいけない人も……鴉隊長なんだよ」
鴉は、朱雀の周囲を水や空気に例えた。それらがないと朱雀を生かせないと知っているから、そう例えた。
「お前は、その周囲を少なからず壊した。だから、お前は許されない。そして……もしも朱雀隊長も鬼になったことがあると知れたら――」
間違いなく、今度は朱雀が殺されるであろう。
だから、鴉は高く跳ぶ。
消え鬼など脅威ではない、と自分が証明するために。自分が生きていれば、消え鬼など一瞬で無力化できると。だから、兄を生かしておいてくださいと願うように。
鴉は、消え鬼の眼前にたどり着く。
消え鬼の目玉に向かって、鴉は苦無を投げつける。鬼はそれを鴉ごと手で払おうとするが、鴉は鬼の指を強く蹴った。鴉のさらに高く跳び、彼の目線は鬼を追い越した。
それではいけない、と春は思った。
上空からの攻撃は、ただ落ちるだけ。
鬼の絶好の的になってしまう。だが、消え鬼は何故か鴉を攻撃しなかった。
春は、気が付く。
まぶしいのである。
日光がまぶしくて、鬼は目を細めて空を見ることしかできなかったのである。鴉が空から落ちてくることを予測していながらも、太陽が輝いているから鬼はその姿を正しく見極めることができなかった。
「目玉を一つもらいます」
鴉の苦無が、消え鬼の目玉一つに当たる。
痛烈な消え鬼の悲鳴に、火消たちの士気は上がる。だが、春は切なくなった。あの悲鳴は、霧人のものなのである。愛する対象を間違えて、愛する方法を間違えて、愛する人に殺されかけただけの――火消なのである。
「春っ!」
白虎に名を呼ばれた春は、我に帰る。
「もう、鴉を退却させてください。これ以上は、持たない!」
白虎の判断に、春は戸惑う。
まだ、鴉は飛び回っている。客観的に見ても、まだ戦えるような気がした。
「このまま鴉を使い潰す気なのか!!」
白虎の言葉に、はっとする。
無茶をさせてはいけないということは、ぎりぎりまで戦わせるということではない。次も戦えるように、鴉の肉体を見極めるということだ。
「っつ、隊長!」
春は、鴉を呼ぶ。
鴉は、春を見た。
そして、とても優しげに微笑んだ。
「大丈夫、俺が殺すから」
「隊長っ、戻ってくるって約束でしょう!!」
春は、背負っていた鉄砲を構える。
鴉にたどり着きたい――いつかたどり着いて、自分も彼のように誰かの希望になりたい。だが、今ここで春の希望は消えようとしている。
そんなことはダメだ、と思った。
引き金にかけていた指が、勝手に動いたように思われた。
ぱん、と鉄砲から弾が飛び出る。玉は消え鬼の目に向かって跳んで、鬼の眼前にいた鴉の頬にかすり傷を一つ残した。
「あっ……」
鴉は、言葉を漏らす。
彼の眼前で、消え鬼の目に弾丸が食い込んだ。消え鬼の悲鳴が、江戸の町に響き渡る。鴉は地面に向かって落ちていき、春は一心不乱に引き金を引き続けていた。鉄砲は、連発式ではない。それでも春は、引き金を引いていた。
消え鬼が霧人だと知っていた――だからこそなのか、生まれてはじめて人を撃ったような気がしていた。
「鴉!」
落ちてきた鴉を玄武が受け止める。
「春!」
放心する春に、白虎が声をかける。
「今の……消え鬼ならば避けれていた」
春は、ぼそりと呟く。
消え鬼――霧人は、春の弾丸など避けようと思えば避けられていた。だが、霧人は弾丸を避けることはなかった。
「そうだったのか……そうだったんだな。ああ、霧人はちゃんと言ってくれたんだよな」
春は、確信した。
霧人は、春という未熟な火消の心根に憧れた。普通だったら純粋な心を尊いと思うだけの感情であるだろう。だが、霧人は愛という感情が燃え尽きている。だから、ほのかに胸に湧いた慈しみの気持ちも愛と勘違いして――姉に教わった愛の表現方法を使ったのだ。
きっと霧人が殺した女たちだって、霧人は愛してなんかいなかったであろう。美しいとか可愛らしいといか慈しみたいとか、そういう当たり前の感情を霧人は特別な愛だと思いこんで愛を証明する。
そして、霧人は自分の愛の証明方法が間違いだと思い始めた。
なのに、霧人はまた憧れを愛だと勘違いした。
若くて無謀な一人の火消の憧れに恋をした思い込み、また証明の衝動に駆られた。しかし、愛の証明を――霧人自身は間違いだと思い始めている。
霧人は、迷ったのだ。
迷って、八つ当たりのように鴉を狙った。霧人にとって鴉は春が憧れを抱く原型でもあるが、同時に焦がれる春が無謀に危険に殴りこむ原因でもあったからだ。
「霧人……霧人。それで、お前が俺に打ち明けたのは」
もう、殺したくないと思ったからなのだな
憧れや慈しみを愛だと勘違いして、殺していく自分を終わらせたかったのだな。
「分かったよ」
春は、鉄砲を構える。
「何やっているですか、春!早く、鴉を回収して……」
「白虎隊長。俺に、やらせてください。俺の攻撃ならば、霧人は避けません」
春の言葉に、白虎から表情が消えた。
「人を殺す覚悟はあるか?」
「……そんなものありません。でも、ここで霧人を殺さないと――鬼は殺せない」
火消が殺すのは人ではなく鬼である、と春は答えた。
「良い答えです。春、これから多くの鬼を屠るはずです。それには、慣れろ。あれは江戸を害する敵だ。でも……人を殺す痛みには、決して慣れるな。慣れたらおまえは、霧人以上の怪物になる」
白虎は、戦い続ける他の隊長を見やる。
全員が必死に戦い続けている現場で、白虎は吠えた。
「絶対に……怪物にはなるな! お俺たちが戦うのは、鬼だけじゃない。鬼を殺す、自分自身とも戦うんです」
自分は決して鬼にならない、と白虎は叫ぶ。
「その言葉を胸にしまって実行しなさい。そして、鬼になったら……あの消え鬼のように殺されてください」
春は、火薬と弾を充てんした鉄砲を霧人に向ける。
「霧人は、愛の証明のために人を殺していました……」
「そうですか」
白虎が、目を細めて消え鬼を見つめる。
春は、消え鬼に狙いをつける。
「たぶん、俺のことも殺したかったんでしょう。でも、霧人は自分の間違いにも気が付き始めていた」
白虎は、息を吐く。
「春、一ついいことを教えてあげます。愛とは一般的に、相手のために何かをすることを意味するんだと俺は思ってる。霧人は、お前を殺さないという選択をした。それはつまり――とても一般的な愛の証明だったんだ」
春は、引き金を引く。
弾丸を受けた鬼の足首を玄武が切断し、それを邪魔しようとする火の子を朱雀が蹴散らしていた。
春は、白虎と共に鬼の喉元まで行く。
そこには、すでに青龍と鴉の姿があった。歴戦の二人が、無造作にさらされた鬼の急所を前にしてただ立っている。それはおかしな光景であり、同時に自分がやらなければならない事を無言で示唆しているようでもあった。
「春、鬼の急所は喉です。一思いに刺し殺してあげてください」
わざと明るく、鴉は言った。
鴉は、自分ではできないことを春にやらせようとしている。鴉は兄を殺すことはできなかったのに、春に霧人を殺させようとしている。春は、そのことを恨めしくは思わなかった。
――教えようとしているのだ、とは思った。
初めて鴉は、師として春に火消の在り方を教えようとしている。
歪んだ自分の火消としての生き方ではなく、理想の火消としての在り方を教えようとしている。
「隊長、この鬼は霧人なんです。俺は、そのことを忘れません。……忘れてはいけないんです」
春は、炎が揺らめく鬼の喉に向かって刀を抜いた。
「鴉隊長……いつか、俺はあなたを追い越します。あなたの働きを助けるのではなく、あなたを追い越して――俺があなた以上のモノになります。そうやって、いつか霧人が憧れてくれたものに近づけるように今は……頑張ります」
情けなくなって、最後の方はしりすぼみになった。
鴉は、春の言葉にあっけにとられていた。
だが、次の瞬間に鴉は微笑んでいた。
「では、どうぞ追い越してください。俺たち隊長は部下に追い越され、未来の肥しになるための存在なのです。春、あなたもどうか俺を追い抜いて――未来の肥しに――あるいは誰かの憧れになってください」
鴉は、一瞬だけ切なそうに朱雀を見た。
朱雀は、過去に鬼になっている。
彼もいつ霧人と同じ運命をたどるのかは、分からないのだ。
「霧人、あなたに一言いいたいことがあります」
鴉は、今から殺される霧人に声をかける。
「春から話を聞きました。おそらく、最初に鬼に鳴った時にあなたを人に戻したのは――あなたの姉鈴鹿です。彼女がどんな気持ちであなたを人に戻したのかは、想像しかできません」
嘘だ、と春は思った。
鴉には、理解できるはずだ。
兄に腕を食わせて人間に戻した鴉には、霧人の姉の気持ちが理解できるはずなのだ。
「ですが、これだけは言えます。あなたのお姉さんは、あなたを弟として愛していた。だから、肉体を食わせてあなたを人間に戻した。あなたは、愛など証明する必要はなかった」
鴉は、顔を伏せる。
髪を結わえていたはずなのに、鴉の表情は見えないような気がした。まるで幼いころに鴉を育んだ森の闇が、鴉の苦しみを誰にも見せまいとしているかのようであった。その気配は暗くてさみしいが、どこかに優しさがあった。
「……あなたが望まない形で、あなたは最初から愛されていたのですから」
もう鴉の周囲には、森の暗い影はなかった。同時に、彼を包み隠してくれるような優しさもなく、鴉は一人で立っていた。
鴉は、春を見つめていた。
自分のようにはなるな――霧人のようにはなるな、と言っているようなもの悲しい瞳であった。
「……霧人」
最後に名前を呼び、春は消え鬼の喉に刀を突き刺した。
鬼の肉体は燃え上がって、後にはもうなにも残さなかった。
その視界の先には、鴉がいる。江戸の民家と民家の屋根を伝って、いつもどおりに走っている。消え鬼に対して、鴉が囮になるためである。
「鴉、少しは加減しろ!お前は怪我人なんだぞ!」
鴉を叱るには、春に背負われた浅海である。戦力として鴉が復帰し、緊急時にはその撤退を助けるために春は鴉隊に戻ってきた。
さらに、浅海まで鴉隊の一時預かりとなった。
これは、鴉を撤退させる役割が春しかいないと聞いた玄武が「浅海の言うことならば比較的聞くんじゃないか?」と言い出した結果であった。玄武も、鴉は春の言うことを聞かないかもしれないと思ったようだ。
だが、その代役は浅海がふさわしいのかと春は疑問に思った。
結果、ふさわしかった。
考えてみれば、浅海は鴉の兄が愛している養い子なのである。
鴉も、分かりにくいが愛着を持っているのである。
春が言うよりずっと素直に、鴉は浅海の言うことを聞いた。
「あっ、ごめん。ねぇ、浅海。兄上には、秘密だからね」
悪戯子のように、鴉は屋根の上で笑った。
こうしてみると、鴉は浅海の兄のようであった。精神年齢が近くて、歳の離れた妹に叱られる頼りない兄。朱雀とのつなぎ目を埋めるように、鴉は浅海を愛した。
「浅海、鴉隊長の過去を知っているか?」
春は、背負った小さな娘に尋ねた。
浅海は、ふんと鼻を小僧のように鳴らした。
「もちろん、知っているさ。旦那に聞いたからな……春も聞いたんだな」
目を細める浅海は、屋根の上で江戸の町を見下ろす鴉を見つめる。
「鴉って奴は、馬鹿だろ」
一言、浅海は言った。
「あんなにふうに過激に、過剰に、劇的に、たった一人を愛するなんて破滅的だろう」
男のように理性的に、浅海は述べた。
春は「そうではない」と言いたかった。だが、春の理性的な側面が「そのような見方もある」と浅海の意見を肯定していた。
「でも、羨ましい」
小さく、浅海は呟く。
「あそこまで、強くありたい。強く、たった一人を愛したい。女として、羨ましい」
柔らかく、高い声が、春の耳に届く。
そのとき、春は楽になった。
「凶器を感じるほどの生きざまが、すごく綺麗に感じる。ときどき、思うんだ。たぶん、俺は鴉ほど綺麗な人には出会わない」
浅海は、そう言い切る。
森で育まれ、兄に人われて、兄に嫉妬され、――それでも兄を愛した生きざま。そのすべてが綺麗だと、罪悪感も感じずに浅海は言った。
「あの人が、人間の綺麗さの頂点にいるんじゃないかなって」
眩しそうに、浅海は語る。
「秘密なんだけど……俺が本当に男だったら、鴉を嫁にしたい」
庇護下におきたい、と浅海は言った。
自分よりはるかに強い男を「美しい」という理由で所有したがる浅海に、春は女を見た。自分には恐れ多くて考え付かないことを浅海は考える。そして、恐れもなく口にする。
「俺は――鴉を超えたい」
春は、そう言った。
綺麗なものを所有するほどの考えは浮かばず、憧れを超えたいという気持ちだけがあった。
「春、浅海!」
屋根の上で、鴉が二人を呼んだ。
「お腹、空きませんか?」
その言葉に、春も浅海もあきれた。
「朝飯をたっぷり食べたのに」
鴉は、朝から飯を三杯もお代りした。
最悪、夜まで食べなくとも持つように考えてのことだと本人は言っていたが、その鴉は昼になると空腹を訴える。
「だって、囮役なのに消え鬼はぜんぜん現れないんですよ。だったら、食べれるときに腹ごしらえしないと」
鴉の言葉に、浅海はそれもそうかと懐を探った。
「ほら、おかかを混ぜ込んだ握り飯。片手でも食えるだろ」
まるで野生動物を手なずけるかのように、浅海は鴉を呼ぶ。握り飯につられてきた鴉は、浅海から握り飯を一つ受け取った。
「美味しい!」
道の真ん中で、鴉は笑顔で握り飯を食べる。
「すっごく、美味しいです。浅海は、いつでも女将さんになれますね」
「握り飯一つで何言ってやがる。ほら、早く仕事」
浅海に急かされて、鴉は握り飯をもぐもぐさせながら屋根に再び上る。その背を見た春は、思わず鴉に尋ねた。
「隊長、あなたは兄を愛してた。その愛情が朱雀隊長を元に戻したというのならば、霧人は最初は誰に人に戻してもらったんだ?」
姉の愛を否定されて、殺されかけた霧人。
そんな霧人を誰が救ったというのだろうか。
「霧人にそこまで聞いていたのならば、てっきりすべてを春は分かっているのだと思っていました。でも――まだまだですね」
ぱくり、と握り飯の最後の一口を鴉は口に放り込む。
「鬼より強くて、霧人を愛する人なんて一人でしょうに」
誰、と春は聞きたかった。
だが、その質問をすることはできなかった。
「消え鬼がでたぞー!!」
遠くで叫び声が聞こえ、鴉がその声の方向を確認する。
「浅海!」
鴉は、浅海の名を強く呼んだ。
「ダメだ。俺も行くぞ。あんたのことを俺も心配しているし、死なれるのも面倒だ」
鴉は、複雑な表情を見せる。
浅海は、にやりと笑った。
「俺に嫌われたら、てめぇの大好きな兄上にも嫌われるぞ。死ぬ覚悟はあっても、嫌われる覚悟なんてないだろ?」
浅海は、たぶん本気では言ってないだろう。
その気になれば鴉は兄に嫌われることよりも、兄の命を優先する。
春ですら、それに気が付いていた。だが、鴉自身がそれを否定するかのように微笑んだ。
「そのとおりです。――春、行きますよ」
鴉の鼓舞を聞いて、春は地面を走り出す。
段々と鴉との距離は離されるが、それでも春は走る。鴉の向かう先に、鬼がいることを知っているから。霧人がいることを知っているから。立ち止まるわけにはいかない。
「今回は、一番槍を取られましたか……」
鴉が、屋根の上でぼそりと呟いた。
姿を現した消え鬼の足に跳びかかっているのは、玄武。
子供一人分はあるのではないかという巨大な刃を持つ鉞(まさかり)を担ぎ、腰をひねって最大の威力を鬼の足首へと叩きこむ。
「おっつしゃー!!」
雄叫びを上げながら、玄武は消え鬼の足を攻撃しつづける。彼が定火消で最年長でありながらも未だに隊長という立場を守り続けるのには、理由がある。あまりにも簡単な理由。
玄武は、誰よりも体格に恵まれていた。
背丈はどんな男たちよりも高く、肩幅は広く、腕の太さは未だに鴉の倍はある。その恵まれた体は、老いてもなお玄武の有意義性を損なわない。
「もういっちょう!!」
再び、玄武は攻撃を喰らわせようとする。
だが、消え鬼はそれでも倒れない。
それどころか、玄武を踏みつぶそうとした。だが、それを妨害するのは青龍の弓であった。青龍は消え鬼の目を狙い、驚くべき距離まで弓を届かせる。
そして、その弓は外れない。
青龍が長年積み重ねた技術は、確実に消え鬼の目を狙う。
「ちっ、手で振り払われましたか」
だが、正確無比な弓は消え鬼から見ても軌道が読みやすいものであった。消え鬼は、青龍の弓を大きな掌で簡単に振り払う。鉄砲ほどの速さだったならば、鬼だって避けるのは難しい。だが、弓は人の腕力で飛ばす武器だ。鬼が避けられる速さなのである。
同時に、咄嗟に避けてしまう速さでもある。鬼が弓矢を振り払ったとき、鬼の視界は一瞬だが自分の手で阻まれた。
「玄武、悪いけど下がっていてください!」
叫んだのは、白虎である。
彼の背後には、様々な部隊から集められた者たちがいた。朱雀、玄武、青龍、白虎、それぞれの部隊から集められた彼らは、一時的に白虎の配下となっている。玄武と青龍が、それぞれ単独に動くことができるようにと配された陣形だ。
誰よりも小柄な白虎は、高価な眼鏡を指先で持ち上げる。
「消え鬼……いいや、霧人とやら。俺たち若い世代が、ただ緩慢に年寄りの技を受け継いでいるだけだと思うなよ」
鬼の足元で、爆発が起こる。
白虎の背後の部下たちが消え鬼に向かって投げるのは、爆弾であった。量と質共に安定した火薬を作り管理するのは、かなり難しい。
だが、白虎はそれを可能にしていた。
そもそも白虎は、花火を作る『たま屋』の二男である。視力が弱くて父から期待外れと烙印を押されようとも、火薬の扱い方は幼いころから見知っていた。そして、白虎は自分の力で眼鏡を手に入れた。補正された視力が、白虎に細やかな火薬の調整を可能にさせていた。
この爆弾、白虎が隊員の時代にはよく使用していた武器であった。だが、爆弾による被害がでたこともあって、白虎は隊長になってから爆弾の使用は控えていた。
それでも、白虎が隊長であることに不満はでない。
つまり、白虎は一芸のみを評価された隊長ではないのである。
「力がない弱い奴は、道具に頼るのが正しい戦い方なんです。覚えましたかー」
消え鬼を小馬鹿にしたように、爆弾を投げつける。
白虎は、隊長で一番身体能力に恵まれていないであろう。
背は女のように低く、視力は弱くて眼鏡を手放せない。だが、白虎が評価されたのは、彼自身の戦闘能力ではなかった。制作する爆弾の威力でもなかった。
「鬼がこっちにきましたかーと。一時的に、一班は下がりなさい。二班、出番だ!!」
消え鬼が背を向けた方向から、別の部隊が顔を出す。
全員が爆弾を持ち、消え鬼に向かって投げる。二班と称された者たちが鬼に追いかけられそうになれば、白虎はすぐさま控えていた三班に前に出るように叫んだ。
「一班、もう一度行きます! 消え鬼は一匹だ!! 数で翻弄し、無茶はしない。俺がおまえらを預かっている以上は、殺すような命令はしない!」
白虎は叫ぶ。
白虎が隊長になってから、白虎隊の死亡率は大きく下がった。火消は鬼を恐れるなと教育されるが、それでも死は怖いものである。だが、白虎がたたき出した生存率の数字はそんな隊員たちにとって安心感を与えるものになった。
この人につい行けば死なない――白虎の背中を見つめる隊員は白虎に信頼を向ける。だからこそ、彼の部下は白虎の言葉を全て忠実にこなす。その部下の信頼こそが、白虎の一番の武器だ。
いくら策が優れていようとも実行する部下の気持ちがくすぶっていれば、それは失敗する。白虎は、それをよく知っている。知っているからこそ、信頼される己は武器になるのだと逆説的に考えた。
「悪党時代の悪い顔になってるぞ、白虎」
白虎の隣をすり抜けるのは、朱雀である。
「うるさいです。そっちこそ、そんな仕事で死なないでくださいねー」
白虎の嫌味に、朱雀はにやりと笑ったような気がした。
朱雀は、消え鬼が生み出した火の子を切っていく。
火の子退治も大事な仕事であるが、他の隊長格に比べればその仕事ぶりは地味だ。他の面々と違い、扱いに特筆した武器はなく、部下からの特別な信頼もない。ごく普通の隊長であり、記録には残るが記憶には残らない凡人の姿であった。
それでも、彼はこの場に食らいついてきていた。
努力した才人たちの群れに、それを上回る努力を重ねて、ようやくこの場に齧りついている凡人。だが、朱雀自身はその限度では満足できていない。
もっと、上へと望む。
自分が天才でないことは、弟の背中を見て知っている。
それでも、朱雀は立ち向かう。
春は、思った。
この人ならば弟に嫉妬したあまり、鬼になってしまうかもしれないと。
自分よりも高みにいるくせに、努力も傷もいとわない弟の存在に嫉妬するのではないのだろうかと。嫉妬してもおかしくはないのだと――
「春、そろそろ行きましょうか」
鴉は、懐から取り出した丸薬を掌で弄ぶ。
火消は、自分で使う薬が支給される。火傷用の軟膏、痛み止め、気付け薬、そのなかで一番危険であると言われているものが鴉が手に持っている丸薬である。
それを調合した医者は「笑って死ねるようにした」と言っていた。
一粒飲めば、肉体のほとんどの痛みは遮断される。重症者が飲めば、たしかに笑って死ねるであろう。だが、今の鴉が飲めば彼はおそらくは重大な肉体の欠損にも気がつけなくなる。
そこの境目を見抜くのは、春の役割だ。
「鴉、死に急ぐなよ」
最後に、浅海が声をかけた。
その言葉には答えずに薬を飲み込んだ鴉が、屋根から舞い落ちる。底に錐を仕込んだ高下駄が地面に印象的な足跡を残して、鴉は前へと進む。
「すみません。遅れてしまいました。俺の分は、残っていますか?」
その言葉を最後に、鴉の姿が消えた。
次の瞬間には、鴉は消え鬼の太ももを走っていた。
「早いっ……」
春は、息を飲んだ。
以前の時よりも、鴉のスピードは上がっている。
痛みから解き放たれ、武器も軽量化した、その成果が如実に表れている。春は、火の子を倒す朱雀を見つめる。朱雀は、鴉を見ていなかった。
その一方で、鴉は誰よりも早く駆け抜けていく。
自分を見ろ、と言っているかのように。
焦がれて嫉妬し、自分だけ見て欲しいと叫ぶかのように。
だが、失われているのだ。
鴉に嫉妬する心は、朱雀のなかから永遠に失われて戻っては来ないのである。
「霧人……」
春は、一人呟く。
「鴉隊長は、たぶんお前の気持ちを一番理解している。でも、お前を一番ゆるしてはいけない人も……鴉隊長なんだよ」
鴉は、朱雀の周囲を水や空気に例えた。それらがないと朱雀を生かせないと知っているから、そう例えた。
「お前は、その周囲を少なからず壊した。だから、お前は許されない。そして……もしも朱雀隊長も鬼になったことがあると知れたら――」
間違いなく、今度は朱雀が殺されるであろう。
だから、鴉は高く跳ぶ。
消え鬼など脅威ではない、と自分が証明するために。自分が生きていれば、消え鬼など一瞬で無力化できると。だから、兄を生かしておいてくださいと願うように。
鴉は、消え鬼の眼前にたどり着く。
消え鬼の目玉に向かって、鴉は苦無を投げつける。鬼はそれを鴉ごと手で払おうとするが、鴉は鬼の指を強く蹴った。鴉のさらに高く跳び、彼の目線は鬼を追い越した。
それではいけない、と春は思った。
上空からの攻撃は、ただ落ちるだけ。
鬼の絶好の的になってしまう。だが、消え鬼は何故か鴉を攻撃しなかった。
春は、気が付く。
まぶしいのである。
日光がまぶしくて、鬼は目を細めて空を見ることしかできなかったのである。鴉が空から落ちてくることを予測していながらも、太陽が輝いているから鬼はその姿を正しく見極めることができなかった。
「目玉を一つもらいます」
鴉の苦無が、消え鬼の目玉一つに当たる。
痛烈な消え鬼の悲鳴に、火消たちの士気は上がる。だが、春は切なくなった。あの悲鳴は、霧人のものなのである。愛する対象を間違えて、愛する方法を間違えて、愛する人に殺されかけただけの――火消なのである。
「春っ!」
白虎に名を呼ばれた春は、我に帰る。
「もう、鴉を退却させてください。これ以上は、持たない!」
白虎の判断に、春は戸惑う。
まだ、鴉は飛び回っている。客観的に見ても、まだ戦えるような気がした。
「このまま鴉を使い潰す気なのか!!」
白虎の言葉に、はっとする。
無茶をさせてはいけないということは、ぎりぎりまで戦わせるということではない。次も戦えるように、鴉の肉体を見極めるということだ。
「っつ、隊長!」
春は、鴉を呼ぶ。
鴉は、春を見た。
そして、とても優しげに微笑んだ。
「大丈夫、俺が殺すから」
「隊長っ、戻ってくるって約束でしょう!!」
春は、背負っていた鉄砲を構える。
鴉にたどり着きたい――いつかたどり着いて、自分も彼のように誰かの希望になりたい。だが、今ここで春の希望は消えようとしている。
そんなことはダメだ、と思った。
引き金にかけていた指が、勝手に動いたように思われた。
ぱん、と鉄砲から弾が飛び出る。玉は消え鬼の目に向かって跳んで、鬼の眼前にいた鴉の頬にかすり傷を一つ残した。
「あっ……」
鴉は、言葉を漏らす。
彼の眼前で、消え鬼の目に弾丸が食い込んだ。消え鬼の悲鳴が、江戸の町に響き渡る。鴉は地面に向かって落ちていき、春は一心不乱に引き金を引き続けていた。鉄砲は、連発式ではない。それでも春は、引き金を引いていた。
消え鬼が霧人だと知っていた――だからこそなのか、生まれてはじめて人を撃ったような気がしていた。
「鴉!」
落ちてきた鴉を玄武が受け止める。
「春!」
放心する春に、白虎が声をかける。
「今の……消え鬼ならば避けれていた」
春は、ぼそりと呟く。
消え鬼――霧人は、春の弾丸など避けようと思えば避けられていた。だが、霧人は弾丸を避けることはなかった。
「そうだったのか……そうだったんだな。ああ、霧人はちゃんと言ってくれたんだよな」
春は、確信した。
霧人は、春という未熟な火消の心根に憧れた。普通だったら純粋な心を尊いと思うだけの感情であるだろう。だが、霧人は愛という感情が燃え尽きている。だから、ほのかに胸に湧いた慈しみの気持ちも愛と勘違いして――姉に教わった愛の表現方法を使ったのだ。
きっと霧人が殺した女たちだって、霧人は愛してなんかいなかったであろう。美しいとか可愛らしいといか慈しみたいとか、そういう当たり前の感情を霧人は特別な愛だと思いこんで愛を証明する。
そして、霧人は自分の愛の証明方法が間違いだと思い始めた。
なのに、霧人はまた憧れを愛だと勘違いした。
若くて無謀な一人の火消の憧れに恋をした思い込み、また証明の衝動に駆られた。しかし、愛の証明を――霧人自身は間違いだと思い始めている。
霧人は、迷ったのだ。
迷って、八つ当たりのように鴉を狙った。霧人にとって鴉は春が憧れを抱く原型でもあるが、同時に焦がれる春が無謀に危険に殴りこむ原因でもあったからだ。
「霧人……霧人。それで、お前が俺に打ち明けたのは」
もう、殺したくないと思ったからなのだな
憧れや慈しみを愛だと勘違いして、殺していく自分を終わらせたかったのだな。
「分かったよ」
春は、鉄砲を構える。
「何やっているですか、春!早く、鴉を回収して……」
「白虎隊長。俺に、やらせてください。俺の攻撃ならば、霧人は避けません」
春の言葉に、白虎から表情が消えた。
「人を殺す覚悟はあるか?」
「……そんなものありません。でも、ここで霧人を殺さないと――鬼は殺せない」
火消が殺すのは人ではなく鬼である、と春は答えた。
「良い答えです。春、これから多くの鬼を屠るはずです。それには、慣れろ。あれは江戸を害する敵だ。でも……人を殺す痛みには、決して慣れるな。慣れたらおまえは、霧人以上の怪物になる」
白虎は、戦い続ける他の隊長を見やる。
全員が必死に戦い続けている現場で、白虎は吠えた。
「絶対に……怪物にはなるな! お俺たちが戦うのは、鬼だけじゃない。鬼を殺す、自分自身とも戦うんです」
自分は決して鬼にならない、と白虎は叫ぶ。
「その言葉を胸にしまって実行しなさい。そして、鬼になったら……あの消え鬼のように殺されてください」
春は、火薬と弾を充てんした鉄砲を霧人に向ける。
「霧人は、愛の証明のために人を殺していました……」
「そうですか」
白虎が、目を細めて消え鬼を見つめる。
春は、消え鬼に狙いをつける。
「たぶん、俺のことも殺したかったんでしょう。でも、霧人は自分の間違いにも気が付き始めていた」
白虎は、息を吐く。
「春、一ついいことを教えてあげます。愛とは一般的に、相手のために何かをすることを意味するんだと俺は思ってる。霧人は、お前を殺さないという選択をした。それはつまり――とても一般的な愛の証明だったんだ」
春は、引き金を引く。
弾丸を受けた鬼の足首を玄武が切断し、それを邪魔しようとする火の子を朱雀が蹴散らしていた。
春は、白虎と共に鬼の喉元まで行く。
そこには、すでに青龍と鴉の姿があった。歴戦の二人が、無造作にさらされた鬼の急所を前にしてただ立っている。それはおかしな光景であり、同時に自分がやらなければならない事を無言で示唆しているようでもあった。
「春、鬼の急所は喉です。一思いに刺し殺してあげてください」
わざと明るく、鴉は言った。
鴉は、自分ではできないことを春にやらせようとしている。鴉は兄を殺すことはできなかったのに、春に霧人を殺させようとしている。春は、そのことを恨めしくは思わなかった。
――教えようとしているのだ、とは思った。
初めて鴉は、師として春に火消の在り方を教えようとしている。
歪んだ自分の火消としての生き方ではなく、理想の火消としての在り方を教えようとしている。
「隊長、この鬼は霧人なんです。俺は、そのことを忘れません。……忘れてはいけないんです」
春は、炎が揺らめく鬼の喉に向かって刀を抜いた。
「鴉隊長……いつか、俺はあなたを追い越します。あなたの働きを助けるのではなく、あなたを追い越して――俺があなた以上のモノになります。そうやって、いつか霧人が憧れてくれたものに近づけるように今は……頑張ります」
情けなくなって、最後の方はしりすぼみになった。
鴉は、春の言葉にあっけにとられていた。
だが、次の瞬間に鴉は微笑んでいた。
「では、どうぞ追い越してください。俺たち隊長は部下に追い越され、未来の肥しになるための存在なのです。春、あなたもどうか俺を追い抜いて――未来の肥しに――あるいは誰かの憧れになってください」
鴉は、一瞬だけ切なそうに朱雀を見た。
朱雀は、過去に鬼になっている。
彼もいつ霧人と同じ運命をたどるのかは、分からないのだ。
「霧人、あなたに一言いいたいことがあります」
鴉は、今から殺される霧人に声をかける。
「春から話を聞きました。おそらく、最初に鬼に鳴った時にあなたを人に戻したのは――あなたの姉鈴鹿です。彼女がどんな気持ちであなたを人に戻したのかは、想像しかできません」
嘘だ、と春は思った。
鴉には、理解できるはずだ。
兄に腕を食わせて人間に戻した鴉には、霧人の姉の気持ちが理解できるはずなのだ。
「ですが、これだけは言えます。あなたのお姉さんは、あなたを弟として愛していた。だから、肉体を食わせてあなたを人間に戻した。あなたは、愛など証明する必要はなかった」
鴉は、顔を伏せる。
髪を結わえていたはずなのに、鴉の表情は見えないような気がした。まるで幼いころに鴉を育んだ森の闇が、鴉の苦しみを誰にも見せまいとしているかのようであった。その気配は暗くてさみしいが、どこかに優しさがあった。
「……あなたが望まない形で、あなたは最初から愛されていたのですから」
もう鴉の周囲には、森の暗い影はなかった。同時に、彼を包み隠してくれるような優しさもなく、鴉は一人で立っていた。
鴉は、春を見つめていた。
自分のようにはなるな――霧人のようにはなるな、と言っているようなもの悲しい瞳であった。
「……霧人」
最後に名前を呼び、春は消え鬼の喉に刀を突き刺した。
鬼の肉体は燃え上がって、後にはもうなにも残さなかった。
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