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第2章 |泡沫《うたかた》/|空蝉《うつせみ》

それは突然に

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🍦

ある日授業中に知らない番号から電話がかかってきた。

なんとなく嫌な予感がしたので教室を抜けて電話に出た。

「はい、もしもし?」

「もしもし、神法さんでしょうか?突然のお電話失礼いたします。わたくし、滝野川第一病院の東雲しののめと申します。実はさきほど、雪落 慶永さんが事故に遭いまして……」

事故という2文字に戦慄した。

「彼は、けいくんは無事なんですか⁉︎」

思わず声を荒げた。

廊下にいた学生たちに見られたが、彼のことが心配すぎて周りのことなどどうでもよかった。

「安心してください。幸いにも大きな怪我はされていませんので」

彼に会いたい。

いてもたってもいられずそのまま病院に向かった。

駅前でお花とフルーツを買い、タクシーに乗って彼のもとへ向かう。

病院に着くと1人の女性がやってきた。

「あなた、神法さん?」

「はい。そうですけど」

「先ほど電話した東雲です。雪落なら奥の部屋にいますよ」

彼のことを呼び捨てにしたことが一瞬気になったけれど、それよりもいまは彼のことが心配。

エレベーターで待っている時間すら惜しい。

汗も拭かずに階段を駆け上がり病院へと入ると、入れ替わるようにスーツを着た1人の若い女性が出てきた。

すれ違いざまにお辞儀をされたので私もお辞儀をしたが面識はない。

この人は誰だろう?

と思いながら彼のもとへと向かう。

「紫苑、どうしたの?」

私の心配をよそにポカンとしている彼。

「怪我大丈夫?」

「大丈夫。ただの打撲だって」

彼は何事もなかったかのようにニコニコしながら怪我した足をトントンと叩いている。

それを見た途端、安心して泪が出てきた。

「よかった……」

「何で泣いてんの?」

「だって、もしかしたらって思ったら心配で……」

「紫苑を置いて死ねないからな」

その言葉が嬉しくて止めようとした泪がまた出てきた。

「雪落、愛されてるねぇ~」

いじるような声色で扉の方からナース服の女性がやってきた。

電話をくれた東雲さんだ。

「うっせ」

「まったく、雪落ってば本当素直じゃないんだから」

この2人どういう関係?

看護師と患者とは思えないくらいに距離感近くない?

彼の方に向けていた身体を私の方に向け、

「神法さん。改めまして、東雲 美咲しののめ みさきです。雪落とは小・中のときのクラスメイトだったので何でも聞いてくださいね」

クラスメイト。
なんだ、そういうことだったんだ。

ちょっと安心した。

「けいく……慶永さんとお付き合いさせていただいている神法 紫苑です」

「そんな結婚の挨拶みたいにかしこまらなくていいよ」

ふふふっと笑いながらそう言われた。

結婚の挨拶と言われて嬉しさと恥ずかしさと切なさの入り混じる複雑な気持ちになった。

彼にはもう家族がいない。

もし将来一緒になれたとしてもご家族に挨拶をする機会がないし、仮に挙式をあげられたとさても新郎側に家族はいないから。

「こいつ中学のときに何人かから告られたんだけど全部フッたの」

「そうなんですか?」

「そのフッた理由がマジウケるんだけど、当時すっごく綺麗な教育実習の先生がいてね、『俺は先生と結婚するから』って言ってフッたの。当時告った子たちはみんなドン引き」

「あのとき本気でそう思ってたんだから仕方ないだろ」

「告った方の気持ちも考えてあげなさいよ。女の子が告白するなんてどれだけの勇気がいると思ってるの?」

「中学生のときにそんなことわかるかよ」

美咲さんは真面目な顔をしながら楽しそうに続ける。

「だいたいさ、中学生が先生と付き合えるわけないじゃん」

「それはわかんないだろ」

「いや、ないから」

冷静になったらその可能性は限りなく低い。

でも中学生のときにそんな思考は持ち合わせてないのも事実。

「でね、結局その先生とは何もなく終わったんだけど、先生がいなくなってから1週間くらいこいつずっと抜け殻のようになってて、それがまぁ面白くて面白くて」

「美咲、笑いすぎ。ってか紫苑の前でそんな話しないでくれ」

彼の耳はみるみるうちに赤くなっていった。

うつむきながら恥ずかしそうにしている彼の表情は普段の強面とのギャップがあって可愛かった。

「紫苑ちゃん、聞きたいよね?」

嫌そうな表情の彼とは裏腹に美咲さんは話したくて仕様がないようだ。

本音を言うと彼の過去を知りたかった。

朴訥ぼくとつという表現が正しいのかはわからないけれど、彼は口数がそんなに多くないし、必要以上に自分の話をしないから良い機会だと思った。

「聞きたいです」

私の返答に彼は呆気あっけに取られている様子だった。

「そっから数週間経ってやっといつもの雪落に戻ったんだけど、こいつにフラれた1人の子が学年でもなかなか気の強い女でさ、みんなその女に逆らえないからこいつのこと無視したりしてあまり近寄らなくなったの」

スクールカーストでいうところの1軍の女が狭い世界で威張る。

どこの世界にもいるんだろうけれど、色々な人に想いを寄せられるっていうのも大変だな。

「それって逆恨みですよね?」

「まぁそうね」

「かわいそう……」

「ただ美咲だけは変わらず接してくれたけどな」

「私、あの女が苦手だったし、それにこいつ優しいから冷たくするなんてできないし」

「美咲さんはけいくんのこと好きだったんですか?」

気をてらったかのような質問に驚いた様子の美咲さん。

「ないない。万が一、億が一、いや、兆が一にもないから」

兆が一って言葉はじめて聞いたんですが。

ってかそんな言葉存在するの?

「否定しすぎじゃね?」

「雪落って案外女々しいからねぇ」

「うっせ」

この2人のやりとりを見ていると、お互い想い合っていることに気がつかず、何年も過ごしている幼馴染のように思えてきてちょっと嫉妬した。

「紫苑ちゃん、どうしたの?そんな怖い顔して」

件のことに集中しすぎて思わず眉間に皺が寄っていた。

「まさか、嫉妬してくれてる?」

「しとらんし」

彼に見透かされた感じに少しだけイラッとして低い声で否定した。

「紫苑ちゃん、マジでこいつだけはないから安心して」

「美咲はプーさんみたいな人が好きなんだもんな」

「そう。私はね、こいつみたいな犯罪者顔じゃなくて可愛らしくて抱きしめたくなるよつな垂れ目でふっくらした人が好きなの」

美咲さんはサバサバしていてどこか気品がある。

細くすらっとした身体だから包み込んでくれそうな男性がいいのかな?

「誰が犯罪者顔だ」

「あんた目つき悪いし、愛想ないし、他人なら絶対に近寄らないわね」

「口の悪さは相変わらずだな」

冗談なのか本音なのかどうかもわからなくなってきたけれど、彼が元気そうでよかった。

「それで、結局けいくんは?」

「新学期になってクラス替えがあってからは自然と消えていたわ。卒業するころには前と同じように普通に接するようになったの」

こんなに優しい人が孤立するなんて全然想像ができなかったから安心した。

「でもけいくんってモテるんですね」

「こいつ優しさだけが取り柄だからね」

「『だけ』って何だ。『だけ』って」

彼の優しさは私には十分すぎるくらい伝わっているけれどそれは昔からみたい。

三つ子の魂百までって言うけれど、彼の優しさは魂に染み付いているものなのかもしれない。

「そういえばその先生、この前結婚したよ」

「マジ⁉︎」

「SNSで投稿してた」

「マジか……」

「ちょっと、何ショック受けてんの?いまはこんなに可愛くて大切に思ってくれる彼女がいるじゃない」

「それとこれとは別だ。憧れの芸能人が結婚したらショックだろ?あれと同じ感覚だよ」

「いや、全然違うし。いつまで未練あるのよ。本当女々しいんだから」

「美咲と話すと傷が抉られるんだが」

「そんなこと言っていいわけ?誰が紫苑ちゃんに連絡してあげたと思ってるの?」

彼はばつが悪そうな顔をしている。

「雪落が病院に運ばれてきたときね、頭を強く打ったみたいで意識が朦朧もうろうとしてたんだけど、ずっと「紫苑、紫苑」ってつぶやいていたからきっと大切な人なんだなって思ってスマホ借りて電話番号控えさせてもらったの」

そうだったんだ。

それで私のところに連絡が来たんだ。

「美咲様、その節は本当にありがとうございます」

腰から上を美咲さんの方に向け、深々とお辞儀をする彼。

「わかればよろしい」

美咲さんは腕を腰に当てながら自慢気にそう言った。

すると、
「ちょっと東雲さん、仕事中ですよ」

先輩のナースに見つかり注意された。

堂々とサボっていたんですね。

「やば。じゃあ私戻るな。雪落、安静にしてるんだよ」

「へいへい」

病室を出ようとした美咲さんが一瞬立ち止まり、きびすを返して私の耳元で囁く。

(こいつ、意外と鈍感だからちゃんと態度で示してあげてね)

それはどういう意味だろう?

美咲さんがいなくなった後、彼が思い出したよつに聞いてきた。

「ってか今日学校は?」

「それ、愚問」

学校よりも大切な人の怪我の心配するのは当然。

優梨には上手く誤魔化すようお願いしておいた。

しかし彼はなぜ愚問なのか理解していない様子で首をかしげている。

美咲さんの言っていた彼の鈍感ってこういうところかな。

「そうだ、フルーツ食べる?」

レジ袋からカットフルーツを取り出し、付属のプラスチックフォークで彼の口元まで運んであげる。

「手は怪我してないから自分で食えるよ」

そういうことじゃない。

私がしてあげたいだけ。

「欲しそうな顔してましたけど」

「マジ⁉︎ よだれ垂れてた?」

「うん。洪水のように漏れとった」

彼のジョークに乗っかりながら改めて口元に運ぶ。

「美味しい?」

「美味しい」

「よかった」

その後お花をそうと花瓶に目をやると、そこにはすでにお花が挿してあった。

「これ、さっき職場の子が見舞いに来てくれてさ、私が全然仕事できないせいで残業ばかりさせてごめんなさいって」

「なんでこの人のせいでけいくんが残業しないといけんの?」

「あれ?言ってなかったっけ?」

彼によると、年度が変わったと同時に新入社員の教育係を任されることになったみたいなんだけれど、その新人が思ったよりも覚えが悪いみたいで、尻拭いを余儀なくされて連日残業が続いていたらしい。

昨日も残業後にその人を送って帰ろうとしたときに事故に遭ってしまったそう。

なるほど。病室の入り口ですれ違ったスーツの人は職場の後輩だったんだ。

「いつごろ退院できると?」

「1週間くらいかな」

明後日からゴールデンウィーク。

彼と旅行に行く予定を立てていたが、持ち越すことになった。

「旅行、行けなくなってごめんな」

「ううん、よかよ。また今度行こう」

旅行には行きたかったけれど、それよりも彼が無事だったことが何より。

☕️

季節は夏。

梅雨のジメジメを乗り越え、半袖1枚でも蒸し暑さが残る。

お盆前の三連休初日に近くの花火大会に行くことになった。

太陽は真上から熱の帯びた光を浴びせ、日陰に行かないと少し汗ばむ。

これだけ暑いと頭がクラクラしてくる。

紫外線とかセロトニンとかそんなことはどうでも良くなるくらいの暑さに日差しそのものが嫌いになりそう。

前回と違って今回は恋人として行く。

同じイベントなのに感覚がまるで違うのは気のせいだろうか。

前日買ったストライプ柄の黒の浴衣を着て駅で待ち合わせる。

「お待たせ」

振り向くとニコッと笑う彼女がいた。

白地に青のダリアがデザインされた浴衣とサックスブルーの帯の組み合わせでやってきた。

首元にはレースが見える。

すらっとした白く細い脚が太陽の光に照らされ、身も心も誘惑された。

アップにした髪とそこから見える頸は目のやり場をどこに持っていって良いのかわからなくさせ、ぷくっとした唇にそのまま吸い込まれそうになった。

花火が打ち上がるまではまだ時間があるので、軽くランチをすることにした。

少し歩いた先にあるレストランでランチをした後も日差しは熱を帯びたまま。

「ねぇ、アイス食べたい。コンビニ寄ろうや」

近くのコンビニで彼女がアイスを、俺はホットコーヒーを頼み、イートインスペースで休憩する。

「けいくんって夏もホット飲みよるよね」

「夏に熱いコーヒーを飲む。これがいいんだよ」

「それわかるかも。真冬に冷たいアイスを食べとると身体がキュッとなるやん?それと同じ感じやろ?」

いや、その感覚全くわからない。
俺はホットコーヒーが好きなだけなのだが。

「全然ピンときとらんやん」

そう言いながらもバニラアイスが溶ける前に食べ切ろうとカップと向き合っている。

「友達も暑い日に熱いのを飲むんよね。スタイルが良いのはそのせいかな。それにしてもこのアイス美味しい!」

1人呟きながら美味しそうに食べている彼女の横顔は楚々そそとした姿とは逆の少女のような可愛らしさを垣間見せた。

「なぁ、紫苑」

「ん?」

スプーンを口に入れながら首を傾げて俺の方を見る。

「今日の格好似合ってる」

驚いた様子の彼女は目を瞬かせながら下を向いた。

その頬はみるみるうちに赤らんでいく。

いつも下ろしていて見えない耳も燃え盛る炎のように真っ赤に染まっている。

「あ、ありがと」

思っていたよりも恥ずかしがる彼女の仕草にこちらも恥ずかしくなってきた。

「似合っとーよ」

恥ずかしさを隠すようにえせ博多弁で返すと、

「うーん、40点」

お互い目を合わせて破顔する。

前回よりもちょっとだけ点数が上がった。

カフェに行って時間を潰す。

次の休みどこに行く?とか、好きなアニメがもし実写化されたら誰が適任だと思う?とかそんな話をしているうちにあっという間に陽が落ちていた。

彼女と待ち合わせる前に場所取りしておいた河川敷へ向かう。

「いつの間に取っといたと?」

「俺の分身がいてさ、そいつにお願いしておいた」

「何それ?」

橋を照らす街灯と車のヘッドライト。

水面に反射するマンションの光がこれから打ち上がる花火のお膳立てをしている。

静かさに包まれた街を牛耳ぎゅうじるかの如く一つの花火が天高く打ち上がった。

歓声とともに多くの人がスマホで動画を撮っている。

それに続けとばかりに右の空、左の空と花火が順々に上がっていく。

打ち上がる花火を見ている彼女の瞳はとても美しく、心の奥底まで踊らせた。

そっと手を握ると、花火を見たままギュッと握り返してくれた。

「楽しかったね」

「うん。こんなに楽しい花火大会、私はじめてかも」

それは純粋な言葉だと感じた。

「また来年行こうね、けいくん」

「約束する」

つないでいた手を強く握った。

駅の光が見えると同時に人の数が増える。

出店が街ににぎわいといろどりを与える。

駅前に近づくと電話が鳴った。

付き合いたてのころ、デート中に電話が鳴ったことがある。

そのとき電話に出るべきか迷ったが、やましいことがないなら電話に出てという彼女の言葉を素直に受け入れ、それからは必ず電話に出るようにしている。

そのほとんどが仕事の電話だった。

「ごめん、ちょっと」

と言って手を離し、電話に出る。

ー話はすぐ終わった。

正直大した話ではなかった。

果たして電話する必要あっただろうか?

「誰からやったと?」

「梨紗からだった」

梨紗というワードに反応し、一瞬彼女の眉間に皺が寄る。

「なんて?」

「さっき河川敷にいた?って話だった」

「それだけ?」

「それだけ」

「……なにそれ」

彼女の表情がたちまち曇っていく。

「梨紗さんにはもう会わんで」

「え?何で?」

「電話も嫌」

「どういうこと?」

「だって、けいくんのこと絶対好きやもん」

「いや、さすがにそれはないっしょ」

あの梨紗に限ってそれはない。付き合っていたころに比べて仲は良くなったと思うが、復縁とかそういう感じじゃない。フラれた側だし、そもそも俺にその気はない。
しかし、彼女とは熱量が違った。

付き合ってはじめてというくらいに怖い表情でいる。

「帰る」

つなぎ直した手を離し、止まっていた足が駅の方へと動き出した。

急な展開に一瞬何が何だかわからなかった。

「おい、紫苑」

後ろから呼び止めようとしても反応がなかったので、彼女の腕をつかんで止めた。

「離して」

振り向くこともせずに低く冷たい声でそう言う。

「何怒ってんだよ」

「怒っとらんし」

「怒ってんじゃん!」

「怒っとらんし!」

その力のこもった声にはどこか悲哀をはらんできるようにも思えた。

つかんだ腕を振り払い、足早に去っていく彼女を追いかけようとするが、それを拒むように電車が目の前を横切っていく。

夏の駅を彩る提灯ちょうちんたちは俺たちの心を遠ざけるかの如く儚く光を灯していた。

🍦

泪を堪え、洟を啜りながら改札に入り電車を待つ。

喧嘩したとき、感情的になりすぎて地面を強く踏みながら歩いたせいで下駄の鼻緒が親指と人差し指を刺激して痛い。

「もう、最悪」

誰かに聞いてほしくて優梨に電話して愚痴る。

「雪落さんってなかなか鈍感だね」

「マジでありえんよね」

「でも紫苑のことを大切に想ってるからこそ電話に出たんだと思う」

私の気持ちをんで電話を出たことはわかっている。

電話の相手も内容も包み隠さず話してくれたことが彼の優しさだということもわかっている。

浴衣を新調して、ネイルも可愛くして気合い入れて臨んだのに、2人だけの思い出にしたかったのに邪魔された。

つないだ手、離さなければよかった……

「せっかくの楽しいデートやったのに最後の最後で台無しにされたんよ?優梨は許せると?」

「気持ちはわかるけど、時間が経てば経つほど仲直りするタイミングなくすよ?」

「どうしたらいいと?」

「ちゃんと会って話すべきだよ」

電車が来たのと同時に頭の中を整理する。

花火大会終わりということもあって車内はほぼ満員。

会って話すべきって言われても何て言ったらいいの?

吊り革に掴まりながらスマホを開いてメッセージを打つ。

(さっきはごめん。直接会って謝りたいけんこれから会えん?)

送信ボタンが押せずにメッセージを消してはまた同じ内容を打つ。

でもやっぱり送れない。

スマホの画面を見ながら考えなくても良いことまで考えてしまう。

しばらくすると、背後からひどい悪寒がした。

誰かに何かを触られた気がした。

まさか痴漢?

そんなわけないよね。

前の駅でも満員だったし、ただの不可抗力だと思う。

再びスマホを見ながらメッセージを打っては消すことを繰り返す。

結局送ることはできなかった。

次の駅に着く前、電車が揺れた。

するとその流れに乗じてお尻を触られた。

今度はたしかに手のひらの感覚を感じる。

身体が一瞬で硬直し、恐怖で声が出ない。

ぎゅうぎゅう詰めの車内では周りの人もスマホに夢中で気がついていない様子だ。

(けいくん、助けて……)

心の中で叫んだ。

来るはずないってわかっているのに。

つないだ手を勝手に離しておいて来るはずがない。

そう思った次の瞬間、

「おい、何触ってんだよ」

ドスの利いた声が車内に響く。

その声に反応し、多くの人がこちらを見ている。

お尻を触っていた男の腕を持ち上げ、いまにも相手の腕をへし折りそうな勢いで睨めつけている人がいた。

眉をしかめ、眼鏡の奥から見える鋭く細い目で威圧しているその人は間違いない。

彼だ。

腕を持ち上げられている男はスーツ姿の30代前半くらいの人で明らかに狼狽している。

その証拠に大量の脇汗が白いシャツを濡らしている。

「紫苑、次の駅で降りるぞ」

「う、うん」

彼のこんな怖い顔はじめて見た。

でもなんで同じ車両に?

痴漢男の手を引っ張り強引に降ろす。

「ち、違います。何もしてません」

彼は何も言わずに相手をさらに睥睨する。

「触られたよな?」

私は黙って首肯する。

「本人が触られたって言ってんだよ」

「ほ、本当に違うんです。信じてください」

「なら誣告罪ぶこくざいでこっちを訴えるか?訴えてみろよ。その代わり、人の女に手を出したことを一生後悔させてやるからな」

その見た目でそんな恐いこと言ったら恐喝みたいに見えるよって思ったけれど、こんなにも私のために怒ってくれたことが嬉しかった。

「……すみませんでした」

「俺じゃなくて彼女に謝れよ」

その後警察がやってきて痴漢男は逮捕された。

後日知ったけれど、その人には奥さんと子供がいたらしい。

この話をもし優梨にしたら、そんなやつ絶対死刑だよとかって言うだろうからやめておこう。

「水飲む?」

彼がペットボトルを渡してくれた。

恐怖や憎悪など様々な感情で喉がカラカラだった。

「ありがと」

「アイス食べに行く?」

「うん、行く」

アイスを買いに行く途中、言わなければいけないことがあった。

「さっきはごめんね」

「俺の方こそ紫苑の気持ち考えずに軽い返事してごめん」

私の方が稚拙ちせつ矮小わいしょうだったと反省しているけれど、彼は彼で思っていることがあったようだ。

「そういえば、どうしてあの電車におったと?」

「直接謝りたくて追いかけていったんだけど、人混みで全然追いつかなくてさ。改札通ったらちょうど電車が来て飛び乗った。そこで紫苑を見つけてなんとか近づいていったらあの男が痴漢してるのが見えて、そっからは無心だった」

この人は好きをちゃんと行動でも表してくれるから安心する。

「そっか、助けてくれてありがとう」

「家まで送っていくよ」

「うん」

きっと私は彼のこういう誠実なところが好きなんだと思う。

☕️

夜の静寂しじまの中、近所の住民による夜廻りがはじまった。

『火の用心』の掛け声とともに拍子木ひょうしぎを叩く音が鳴り響く。

今では騒音問題からやらなくなったところが多いが、この辺はシニア層が多いこともあり令和になったいまでも不定期で行われている。

ここ数日、放火殺人のニュースをよく見る。

ーそんなときだ。

彼女の家が放火された。

手を伸ばしながら「た…す…け…て…」

炎の中焼け焦げていく彼女。助けを求める声は誰にも届かない。

徐々に燃えていく彼女の姿はあまりにリアルで恐怖感から思わず目が覚めた。

なんだがものすごく嫌な予感がした。

すぐさまLINEを送ったが既読がつかない。

いつもならすぐに既読がつくはずなのに。

何度電話しても出ない。

不安に掻き立てられた俺は居ても立ってもいられずそのままロードバイクで彼女の家へ向かった。

家に行ったことは一度もないが住所は知っている。

デート中に近くを通ったときに教えてくれたのだ。

外は時化空しけぞら

ノーブレーキで坂道を駆け上る。

久しぶりに全力で漕いだから足がパンパンだ。
それでも一刻も早く安否を確認したかったから漕ぐことを止めなかった。

強烈な風で喉の水分を奪われ、全身から汗が滲み出てくる。

肩で息をしながら彼女の住む家の前に着く。

良かった。

どこも燃えていないようだ。

でも、だとしたら何で連絡がつかないんだろう。

警察に電話しておくべきだろうか?

喉の渇きや体温の上昇などいまはどうでも良い。

彼女に何かあったら……

「あの~」

伺うように声をかけてきたのはどこかで見たことのある人だ。

「雪落さんですか?」

長い髪に整った顔をしたモデルのようなこの人はたしか、

「荒川さん?」

「はい、はじめまして。紫苑と同じ学校の荒川 優梨と申します。紫苑からお話は聞いてます」

丁寧にお辞儀されたのでこちらも息を整えてお辞儀をした。

そうだ、この人は彼女との間で良く話に出てくる友達だ。
前に写真を見させてもらったことがある。

「どうしてここに?」

「実はさっき恐ろしい夢を見て……」

「夢?」

「紫苑の家が燃えてる夢を見たんです。それで無性に不安になって……連絡したけど全然出ないし」

「俺も同じ夢を見たんだ。何度連絡しても音沙汰なくて」

「すごい偶然ですね!」

でも家は燃えていない。
ってことは失踪?
それとも誘拐?

最悪のパターンを想像してしまう。

何度電話してもつながらない。

(紫苑、頼む!出てくれ!)

そう思えば思うほど不安が募っていく。

すると、

「けいくんに優梨⁉︎ちょっと2人ともどうしたと?」

オートロックが開き、驚いた様子の彼女がエントランスから出てきた。

「紫苑、いままで何してたの?」

荒川さんの口調は荒く表情は険しかった。

「ねぇ聞いてよ~。さっきトイレにスマホ落として動かなくなっちゃってさ、マジ最悪。まだ営業しとるけん、これから携帯ショップに行かなきゃって思って」

こちらの心配を他所よそになんとも呑気のんきな彼女。

安堵感と同時にどっと疲れが溜まった。

「もう何それ。連絡しても全然つながらないから心配してたんだよ」

いまにも肩から崩れ落ちそうな勢いの荒川さんが呆れた様子でいる。

「でも何で2人がここに?」

「紫苑の家が燃える夢を見たんだ」

「なにそのこわい夢?」

彼女はまるで他人事のように笑っている。

「あまりにリアルだっから心配したんだよ?」

荒川さんは能天気な様子の彼女に少し怒っている。

「でも無事で良かった」

安堵感からか、足がパンパンなことも喉がカラカラなことも忘れて彼女を抱きしめた。

「ちょ、ちょっとけいくん。優梨の前で恥ずかしいよ」

その姿を見て荒川さんも愁眉しゅうびを開いた。

ー彼女を携帯ショップに送った帰り道。荒川さんを途中まで見送り、音楽を聴きながらペダルを漕ぐ。

久々に昭和の曲を聴きたい気分だったので昭和の曲を流す。

チャリに乗りながら浴びる夜風は気持ちが良い。

ふと空を見上げると、暁色の空を無数の雲が悠々自適に泳いでいる。

まるで広大な海を泳ぐ魚の群れのように。

仕事をしていないときは彼女のことばかり考えてしまう。

彼女と付き合えたことは本当に幸せだが、たまに不安になる。

あれだけ見目麗みめうるわしいと尚更だ。

ちゃんと楽しませてあげられているだろうか?

俺と付き合ったことで不憫ふびんな思いをさせていないだろうか?

ただでさえ緊張しやすいし、男らしい一面出し続けられるほど女慣れしていない。

気持ちの良い夜風を浴びていることすら忘れてしまいそうなくらいの憂いを感じた。

そんなとき、
「信じることをやめてしまえば楽になるってわかってるけど」
という歌詞が耳が入った。

そうだ、こういうときこそ相手を信じなきゃ。

信じ続けることは根気と勇気が必要だが、彼女の笑っている姿をたくさん見たい。少しでも笑顔の瞬間を増やしたい。
そう思った。

**

「けいくん、ごめん」

「よかよ~」

「イントネーションそんなんやないし」

結構似せたつもりだったんだが。

ハニカミながら腕をからめてきた彼女から良い匂いがする。

この瞬間が幸せすぎて時間を止めたい。

この日は彼女の誕生日。

以前から連れて行きたいと思っていた南青山のカフェでランチをし、赤坂のレストランでディナーをすることになった。

1年に一度の誕生日にチェーン店ばかり行くのは気が引けるので奮発することにした。

ただネックなのが誕プレだ。

世代の違う女子が好むものなどわからない。サプライズのため欲しいものを直接聞くわけにもいかずデートや会話の中から探るようにしたが、高級ブランドに興味のない彼女からははじめて聞くブランド名の連打でさっぱりだ。
相場もわからず前日まで変えずにいた。
こういうときモテる人は相手のサインを見逃さないのだろうが、残念ながら俺はそっち側ではない。

歳の離れた博多美人が彼女であることがたまにプレッシャーになるなんて言ったら恨まれるだろう。

世間からしたら美女と野獣と思われるかもしれないが、それでも彼女はテスト前の忙しいときでも会いに来てくれたり、ときたま嫉妬してくれるのは嬉しく思う。

だから彼女をとびきり喜ばせてあげたいと思って選んだ。

南青山のカフェでランチをしたあと表参道まで歩き、そこで信号待ちをしている間、斜め後ろにいたJKたちの話し声が聞こえてきた。

「ねぇ、あの人怖くない?」

「彼氏かな?」

「腕組んでるしそうじゃない?」

「マジ?ないっしょ」

「もしかしてパパ活とか?」

「だったらウケる!キャハハ!」

聞こえないように小さな声で話しているつもりらしいが、声が大きく筒抜けだ。

彼女の方を見るとちょっと怒っているようにも見えたが、誕生日に空気を壊すわけにもいかないので聞こえないフリをした。

日中の暖かさとは打って変わり、夕方になると少し痛みのある冷たい風が吹く。

「紫苑、お腹空いてない?」

「アイス食べたい」

近くのコンビニに寄る。

予約したレストランまではまだ時間があるが、この肌寒さでもアイスを求める彼女のアイス愛には脱帽する。

もはやどこかにスポンサーがいるのでは?とさえ思える。

以前、谷根千やねせんの食べ歩きデートをしたときも朝から食べていたし、その後の上野でも食後に食べていた。

お互い胃下垂とはいえ、彼女の食欲は俺よりもすごい。

寿司屋では1人で30皿くらい食べていたし、焼肉屋でも2人前をあっという間に平らげていた。

そんな彼女もはじめてデートした日はご飯を少ししか食べなかった。

いま思うとすごく可愛いらしいなと思う。

コンビニのアイスコーナーを覗く彼女が質問してくる。

「そういえばさ、東京って全然ブラックモンブラン置いとらんよね」

「ブラックモンブラン?何それ?」

ブラックモンブランとは佐賀県の会社が作っている九州発のアイスで、バニラアイスにカリカリ食感のクランチとチョコレートがコーティングされているアイスのことで、九州で知らない人はいないくらい人気のアイスらしい。

「食べたことない」

「じゃあ今度福岡帰ったときに買ってきてあげる」

「ありがとう。でも東京に着くころには溶けてるんじゃない?」

「たしかにそやね」

冗談混じりのなか、アイスを真剣に探す彼女。

「紫苑って本当アイス好きだよね」

「ばり好き。福岡におるときもしょっちゅう食べとった」

こんなに綺麗なのに人目を気にせず道端でアイスを頬張る姿が愛らしい。

いつも美味しそうに食べる彼女の横顔に見惚れてしまう。

彼女は髪が長いので、食事をするときは必ずと言っていいほど髪を束ねる。

頸と艶のある唇は何度見てもドキドキする。

座れる場所を探し、彼女がアイスを食べ終わるのを待って赤坂へと向かった。

ーポツポツと雨が降ってきた。

個人的に散歩するのは好きだが、この肌寒さで彼女を歩かせるのは申し訳ないのでタクシーを呼んだ。

多少の距離はあるが、お互い一度行ってみたいところだったので夜はここでディナーを楽しむ予定だ。

この日の彼女はハイネックのタイトニットワンピースにブーツ姿。

露出は少ないものの、スタイルの良さがいつも以上に際立ちものすごく色っぽかった。

ドレスコードはなかったが、今日は彼女の特別な日なのでいつもの服ではなく黒のセットアップカジュアルスーツで臨んだ。

日枝神社の近くの通りでタクシーを降りて店へと向かう。

向かった先は高級しゃぶしゃぶ店。

成功者しかいないんじゃないかという敷居が高そうな外観はあまりに豪華すぎて入口で少し逡巡したが、暖簾のれんを上げて店内へ。

「予約していた雪落です」

「雪落様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

育ちの良さそうな店員さんに個室に案内され、とろけるような豚しゃぶのコース料理を堪能した後、バッグに閉まっていま紙袋を渡す。

「はい、これ」

頭ではわかっていたが、実際渡すとなると本当に喜んでもらえるのか不安になる。

「開けていい?」

「いいよ」

彼女が紙袋から箱を取り出し封を開けると、そこには紫のハーデンベルギアの花がデザインされたネックレスが入っていた。

「これって」

「みなとみらいでデートしたときに紫苑が気になってたみたいだったから欲しかったのかなって思って」

「覚えててくれとったん?」

「覚えてたよ」

「嬉しい!」

彼女曰く、好きなシルバーアクセのブランドが出しているPetals Timbreペタルス・ティンバーという花のシリーズの1つらしいがさっぱりわからなかった。

「つけてもいい?」

そう言って首につけて写真を撮った。

「誕生日おめでとう!」

「ありがとう!」

満面の笑みを浮かべた彼女は太陽のように輝いていた。
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