上 下
8 / 15
第2章 |泡沫《うたかた》/|空蝉《うつせみ》

違和感

しおりを挟む
🍦

11月

付き合ってちょうど1年が経った今日、彼はわざわざ有給を使って仕事を休んでくれた。

何か特別なことをするわけではないけれど、彼曰く、昼は学生のようなデート、夜は大人風デートというプランみたい。

折角の1周年記念なので、東狐姐さんに相談して髪型を変えてみようと試みたけれど、全然うまくいかない。

何でこういうときに限って納得のいかない感じになるんだろう。

そうこうしているうちに時間が迫ってきた。

やばい。

待ち合わせに遅れちゃう。

急いで靴を履いて家を出る。

約束の時間には15分遅れてしまった。

結局髪型もそのままだし、出鼻をくじかれた感じがした。

しかも彼のLINEは割と素っ気ないから感情が読み取りにくいときが多々ある。

きっと怒っているだろうな。

駅に着くと彼が腕を組んで待っていた。

「遅くなってごめん」

「大丈夫。ご飯食べた?」

「ううん。何も食べとらん」

「お腹空いたから何か食べよう」

彼の横を歩きながらカフェに向かう。

まるでパリにいるかのような外観に感嘆しつつテラス席に座ってコーヒーを飲む。

隣に座る外国人の人たちが足を組みながら英語か何かで楽しそうに話し、その向かいにはベビーカーの中で気持ちよさそうに眠る赤ちゃんの姿に癒される。

そんな平和な景色の中での彼との時間はあっという間に過ぎていった。

1年経ったいまでも彼は変わらない熱量でいてくれる。

付き合う前からそうなのだけれど、同じ話を何回してもはじめて聞いたかのようなリアクションを取ってくれる。

そんな変わらない優しさが好き。

夕方、バッティングセンターにやってきた。

上着を脱いだ彼はストレッチをして気合いを入れている。

時計を外し、腕まくりをして打席に立つ。

二の腕から垣間見えるタトゥーは妙に色っぽく、バットを振った手には血管が浮き出ていてそっちに目がいってしまう。

マシーンから120km近くの球がビュンビュンと飛んでくるが、それを当たり前のように打ち返す彼。

元野球部ということもあり表情は真剣そのものだ。

普段なかなか見ることのできない貴重な姿を撮っておくことにした。

「あっちぃー、ちょっと休憩」

打席から出てきた彼がシャツの首元をぱたぱたとさせながら空気を送り込んでいる。

私はマネージャーのようにタオルとスポーツドリンクを渡し、彼はサンキューと言って汗を拭いてドリンクをがぶ飲みする。

ベンチに座ろうとすると、あることに気がついた。

「あれ?ない」

さっきまであったものがなくなっている。

ー数時間前、私たちはゲームセンターにいた。

ゲーセンなんていつぶりだろう?

最後に行ったときの記憶がないくらい久しぶり。

ここに来たのには理由がある。

別にゲームをしたいわけではなく、トイレを我慢できなくなった彼に付き合っただけ。

相当美味しかったのか、ランチのときにコーヒーを2杯もおかわりして、お店を出た直後にお腹を下したのだ。

杖をついて歩くおじいちゃんのように猫背のままずっとトイレを探し歩く彼の姿にちょっとだけ引いた。

すぐカフェに戻れば解決する話だったのに、それは恥ずかしいって言って聞かなかった。

私からしたら街中を猫背で歩く姿の方がよっぽど恥ずかしいんですが。

コンビニがいくつかあったけれどどこも貸し出していなかった。

途中、公園にある公衆トイレを見つけた。

「公衆トイレは汚いから使いたくない」

そう言って素通りしていく。

背に腹は変えられないはずなのに、変なところで頑固な彼。

よくわからないところでよくわからないプライドが出るきらいがある。

近くにあったゲームセンターを見つけると、お腹を抑えながらエスカレーターを牛歩のようにゆっくりと登っていく。

トイレに駆け込んだ数分後、背筋を伸ばしながら「内臓全部なくなったかと思った」という理解不能なことを言って戻ってきた彼。

「体調は良くなったと?」

「おかげさまで。ありがとう。そうだ、せっかくだしなんかやる?」

店内を見渡すと人気アニメのキャラクターグッズやお菓子がたくさん置いてある。

大好きなアイスよりも先に目に留まったのは丸みを帯びたクマのぬいぐるみ。

片手で持てるほどの小さなぬいぐるみだが、目が合った瞬間何か惹かれるものがあった。

すると彼は、「こういうのはコツがいるんだよ」と言いながら徐に財布からお金を取り出してクレーンゲームをはじめた。

音が鳴った後にクレーンが動き出す。

1回目、2回目と掴むことができない。

3回目、コツをつかんだのかアームがその子の胴体を掴むとゆっくりと持ち上がった。

そのまま行けって思ったそのとき、景品落下口の近くでその子はクレーンから離れ、他の子と合流してしまった。

「もう1回だけやっていい?」

彼が顔の前で人差し指を立ててお願いしてくる。

その姿に私は首を縦に振る。

動き出したクレーンのアームが開くと、今度はその子の脇をガッチリとつかみ持ち上がった。

そのまま景品落下口に落ちる。

「よし!」

全力でガッツポーズをする彼は誰よりもはしゃいでいたように見えた。

「すごい!」

「はい、これ欲しかったんでしょ?」

「いいと?」

「もちろん」

せっかく取ってきてくれた大事なもの。それを失くすなんて……大失態。

彼のバッティング姿に夢中でどこに置いたのか完全に忘れた。

「ここに来た時はあったよね?」

たしかに持っていた。

「思い返してみよう。ここに来た時はたしかにあった。俺も紫苑が腕に抱えてたのを見た」

彼がバッティングをする際、脱いだ上着を預かったときにはもう持っていなかったことを説明した。

「ってことはこの辺かな」

汗をかいているのにスマホのライトを点けながら四つん這いになってベンチの下や自動販売機の下を覗き込んでいる。

必死になって探してくれている彼の姿になんだか申し訳ない気持ちになっていった。

「もうよかよ」

「いや、盗まれてない限りあるはずだから」

「でも……」

「絶対見つかるから」

思い当たるところを一緒に探したが見つからない。

こういうときってなんで見つからないんだろう?

諦めかけていたそのとき、

「あの~、これお姉さんのですか?」

若い男の子が手にしていたのは例のクマのぬいぐるみだった。

「どこにあったんですか?」

「あのゲーム機の奥に落ちてましたよ」

彼の上着を預かるときに落としたことに気がつかず、それが何かの拍子で後ろにあったゲーム機の方まで転がっていったようだ。

たまたま近くにいた青年がぬいぐるみを見つけ、必死に探している私たちの姿を見て声をかけてくれた。

「良かった~。ありがとうございます」

深くお辞儀をしたらと同時に心が凪いだ。

「見つかって良かったね」

「うん。探してくれてありがと」

そのぬいぐるみを失くさないようバッグに入れてバッティングセンターを後にした。

空が少し暗くなってきたころ、少し大人なお店に行くため移動する。

六本木駅に着いてナビアプリを開く彼と一緒に方角を確認しながら予約していた高級焼肉店に向かう。

『瀬里奈』と呼ばれるそれは年間で4000頭ほどしか出荷されない高級神戸牛を使用している日本料理店で、1年に1度行ければ十分なくらいのお店。

入口には大きな黒人のガードマンが立っている。

スーツ越しにもわかる筋肉質な肉体にちょっと萎縮いしゅくしながらも高級ホテルのような店内と、口の中で一瞬で溶ける柔らかなお肉に舌鼓したづつみした後、お酒の力も相まってそのまま朝まで抱き合った。

いろいろあったけれど1周年記念のデートは楽しかった……はずなのに、何だろうこの気持ち。

私の中で何か違和感を感じた気がした。

☕️

大晦日、稲荷神社は来年以上に混んでいる。

この神社には『王子の狐火』という大晦日になると関東全域の狐たちが一本の大きな榎の下に集まり、官位を求めて参殿するという民話がある。

付き合ってはじめての年末、彼女の家にはご両親が遊びに来ている関係で1月4日まで会えない。

毎年福岡の実家で家族と年を越すのが決まりらしいのだが、今年に限っては違った。

すでに家族のいない俺にとっては地元の友達や親友と会うくらいしか選択肢がない。

でもみんな家族との時間があるので忌憚きたんして誘わないようにしている。

夜中に待ち合わせるのははじめてなので新鮮な気分だが、時間になっても彼女の姿が見えない。

連絡もなく遅刻するなんて珍しい。

場所を伝え間違えたのかと不安になり送った内容を確認するが、たしかに駅前の改札前で合っている。

既読はついているが、返事はてんでない。

眠ってしまったのか、それともなにか事故にでも巻き込まれたのではないかと不安になっていると、息を切らしながら猛ダッシュしてくる人の姿があった。

「本当ごめん」

両手を顔の前で合わせて申し訳なさそうか顔をしている。

「気にしないで。水とか飲む?」

「ううん、大丈夫」

少し遅れたくらいで怒らない。

それよりも気になるのは彼女のファッションだ。

キャスケットを目深まぶかに被り、ワンピース、チェスターコートにミニブーツというハイセンスなコーデだ。

それに比べて俺はその辺にあったものを取って着たかのような無地のパーカーにデニム姿というシンプルな恰好。

「じゃあ行こっか」

いつも通り手をつないでゆっくり神社に向かう。

「寒いなか会ってくれてありがとね」

「私、けいくんの彼女やもん」

なんだこのどうしようもなく可愛い反応は。

キャスケット越しに笑う口元に魅了されつつ、なかなか目を合わせようとしないことに少しだけ違和感を覚えた。

「今日やけに目深に被ってるね」

たまに帽子を被ってくる彼女を見るたびにドキッとするが、今日は芸能人くらい目深に被っている。

誰かにバレたらまずいことでもあるのだろうか。

「うん……」

ものすごく反応が薄い。

「どうした?」

「……察して」

機嫌を損ねてしまったようだが原因がさっぱりわからない。

こういうときの女心はいつになっても謎だ。

「ごめん、理由がわからない」

「今日メイク薄いけん顔見られるの恥ずかしいだけ」

「なんだ、そんなことか」

大した理由じゃなかったと思って安心したのも束の間、

「そんなことって何?こっちは毎回服装が被らないようにどんなファッションで行こうかすっごく迷って、飽きられないようにって思いながら工夫しとるんよ?男の人って小さな変化には気づかない生きものやけん、そこは期待しないようにしとるのに、それでもけいくんはいつもファッションとか髪型とかネイルとか褒めてくれるけんもっと可愛くなろうって、もっと綺麗になろうって頑張っとるのにそんなことって何?
今日だって本当は朝から一緒におりたかったんよ?三ヶ日も一緒におりたかったけどさ、わざわざ親が来てくれとるけんそうもいかんし、それでもけいくんが少しでも一緒にいたいって言ってくれたことがばり嬉しくて。
でも起きたらもう待ち合わせの時間で、頑張って来たけどメイク全然間に合わんくて……」

涙目になりながら訴えるように怒っている姿にデリカシーのないことを言ってしまったと反省した。

夜とはいえ女性にとってメイクやファッションは自身を飾る上で重要なもの。

そんな初歩的なことをわかってあげられない自分に腹が立った。

現に、首元には誕プレであげたハーデンベルギアのネックレスをしてくれている。

「ごめん、気がつかなくて。でもありがとう。こんなに想ってくれてる人が彼女なんて俺は幸せだよ」

「ずるいよ」

「えっ?」

「そんなこと言いよったらさっきまで怒ってた私バカみたいやん」

「俺はどんな紫苑も好きだから」

彼女の泪を指で拭き取り、そのまま顔を近づける。

しかし、右手で口元を抑えられて拒まれた。

神社のすぐ近くまで来ていたのだ。

「もうすぐ神様の前やし、バチ当たるよ」

恋人同士のキスはバチが当たるのか?と疑問に思ったが、彼女の機嫌が戻った様子だったのでそのまま行列に並んだ。

思ったよりも人は多くなかなか前に進まない。

夜風が身に沁みる。

左側を見ると彼女も寒そうだ。
念のため持ってきていたホッカイロを右ポケットから取り出す。

「ありがとう。でもこうした方があったかいけん、大丈夫」

そう言って彼女は俺の左ポケットの中にある指に自分の指をからめてきた。
指先から全身に体温が伝わってくる。

他愛ない話で盛り上がっていると、拝殿の前に着いた。

二礼二拍手し、願いごとをして一礼する。

(紫苑がずっと健康で笑顔でいられますように)

願いごとを心の中で言い終えて、彼女に質問する。

「紫苑は何をお願いしたの?」

「言ったら神様にお願いした意味ないやん」

笑いながら言われたがたしかにそうだ。気にはなるけど心の奥に閉まっておこう。

御神籤おみくじを引いた。

「末吉か」

「私は吉だった」

お互い微妙な運勢だった。

「けいくん、いま何時?」

石段の近くで彼女が慌てながら聞いてきた。

つないだままの左手を顔の近くまで持ってきて腕時計で時間を確認すると、年を越していた。

つないでいた手を離して向かい合う。

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

お互いお辞儀をしてツーショットを撮った。

そろそろタイムリミットだ。

これ以上時間が経ったら彼女のご家族に申し訳ないので駅に向かった。

駅に着くといつも見ている音無親水公園おとなししんすいこうえんが少し儚げに見えた。

「今日はありがとな」

「うん」

「送ってくよ」

「ここで大丈夫」

「危ないから近くまで送る」

「でも、お家から遠くなっちゃうよ」

気遣ってくれているのは嬉しいけれど、こんな夜中に彼女を1人で放置させるわけにはいかない。

過保護と言われたとしても当分会えなくなるからギリギリまで一緒にいたいと思った。

「いや、送ってく」

年末年始とはいえ都電は特別運行をしていないので地下鉄で帰ることにした。

飯田橋で乗り換え、東池袋で降りる。

いつもながら駅の周りは静かだった。

彼女の家が見えたところで足が止まった。

「送ってくれてありがとう。気をつけて帰るんよ」

「おう」

「お家着いたらちゃんと連絡してね」

「おう」

別れ際はいつも寂しいが、こういうときは彼女の方が大人だなといつも思う」

「じゃあそろそろ行くよ」

「うん、また」

お互い小さく手を振り、踵を返そうとする。

「……なぁ紫苑」

「ん?なに?」

我慢できずに抱きしめた。

「ちょ、ちょっと、けいくん」

彼女は急なことで驚いた様子だったが、その反応が愛おしくてさらにギュッと抱きしめると、それに呼応するように抱きしめて返してくれた。

冷たい夜風に靡く長い髪が俺の理性を煽るかのように全身を刺激していく。

どうしても間近で顔が見たくなって、目深に被っていたキャスケットのつばを上げると、恥ずかしそうに、

「ダメ」

と言いながら目を逸らす。

半ば強引に唇を運ぶと優しく受け入れてくれた。

元旦のキスは甘い味がした。

🍦

もうすぐ2月

彼の会社の誕生日休暇制度を利用して1泊2日で旅行に行くことになった。

地元福岡に連れて行ってあげたいと思ったけれど、さすがに直接誘うのは恥ずかしかったのでLINEを通じて軽い感じで言ってみた。

こういうときに限って返信が遅いから心臓に悪い。

しばらくして返事が帰ってきた。
OKだった。

福岡へは時短の飛行機で行くかのんびり新幹線で行くかちょっと揉めたけれど、今回は彼が主役だから新幹線で行くことにした。

「さむっ!」

博多駅に着くと、厚手のダウンを着ている彼が身体を一瞬ぶるっと震わせながら眉間に皺を寄せていた。

「ここ常夏やと思っとったん?」

「もっと暖かいと思ってた」

九州に来たことない彼の中でのイメージはだいぶずれていた。

夏は暑いし冬は寒い。

この時期が寒いことは事前に伝えていたからまだ良かったけれど、下手したらパーカー1枚とかで来ていたかもしれない。

今日はどこに連れて行こう。

数日前から色々とプランを練っていたけれど、いざとなると優柔不断になる。

天神はマストとして他はどうしようか。

薬院とか赤坂とか六本松とか?

車をレンタルして太宰府だざいふまで行くっていうのもあり。

美味しいお店が多すぎて迷っちゃう。

彼はごまさばが食べたい。屋台も行ってみたいし、海も行きたいと言っていた。

全部叶えてあげたい気持ちはやまやまだけれど、さすがに真冬の海はちょっと。

散策好きの彼の希望通り天神には歩いていくことになった。

キャナルシティを越え、中洲を横切り、大丸をすぎたあたりで頭上にポトンと何かが落ちてきた。

「雨?」

小雨だと思っていたら一瞬にして大雨になった。

ちょうど天神地下街への入り口が見えたので階段を降りていく。

『てんちか』を通ったのなんて何年ぶりだろう。

てんちかとはこの天神地下街の略語で全長約600mの九州最大級の地下街。

「この地下街すげー広いな」

はじめてディズニーに来た子供のようにテンションが高い。

私もはじめて来たときは同じ感じだったから気持ちはわかるけれど、キョロキョロしながら歩く彼の横はちょっぴり恥ずかしかった。

「ってかさっき地下街の入り口にあったロゴって牛だよね?なんで牛なんだろう?」

てんちかの入り口には“Life Quality”と書かれた文字の上に牛のツノのデザインがあるのは知っていた。でもなぜなのかなんて考えたこともなかった。

「昔大阪にあったプロ野球チームのロゴに似てる気もするけど、ここ福岡だしな。鷹ならわかるけどなんで牛なんだ?」

彼はぶつぶつ独り言を言いながらスマホを取り出し調べ始めた。

どうやらこの人は気になったら調べないと気が済まない気質みたい。

スマホを見ながらさぞ私に聞いてほしいかのようなボリュームでぶつぶつと言う。

「へぇ~、そうなんだ。知らなかった」

これら聞いてあげないと終わらなそうな雰囲気だったので、仕方ないから付き合ってあげよう。

「なに?気になるけん教えて」

彼は右手に持っていたスマホを見せながら身体を寄せてきた。

がっちりとした彼の左肩と私の右肩が触れる。

やばっ、顔近い。

横目で彼の方を見ると、瑞々しい唇がすぐそこにある。
真剣な眼差しでスマホと向き合う彼は私の視線には気づいていない。

人混みのなか理性が飛びそうになるのをぐっと堪えて耳を傾ける。

「天神の由来にもなっている菅原 道真すがわらのみちざね(天神様)の御神牛らしいよ」

楽しそうに話す彼には申し訳ないけれど、口元ばかりに意識がいって説明が全く耳に入らなかった。

気がつくと見知らぬ場所に立っていた。

どうやら向かう方向を間違えていたみたい。

「ごめん、スマホに集中しすぎて迷った」

「ううん、大丈夫」

ちょっと良い思いできたし。

地上に出て大名だいみょうに向かう。

外はすっかり晴れていた。

大名とは天神駅のすぐ近くにある九州随一の繁華街で、東京でいう原宿や渋谷のようなエリア。

安くて美味しいお店がたくさんある。

彼の要望に応えるべく海鮮系のお店に行くことにした。

まだお昼だというのに店内はほぼ満席。
早速お刺身とごまさばを注文する。

「昼から酒飲めるなんて最高なんだけど」
嬉しそうな顔でお酒片手に乾杯し、お通しのポテトサラダを食べながら料理を待つ。

出てきたお刺身を彼が食べた瞬間、
「醤油あまっ!」

大きな声でそう言うからちょっと恥ずかしかった。

九州醤油は甘い。
いや、関東醤油が辛いというべきかも。

私もお姉ちゃんもいまだに辛い醤油に慣れないので、わざわざ九州から取り寄せている。

「東京の醤油が甘いだけったい。はじめて口にしたときせそうになったし」

その後は明太子の入った餃子などを食べ、腹八分目ほどにしてお店を出た。

「めっちゃ美味しかった」

「ね、美味しかった」

大名や天神周辺を少し歩き、ホテルにチェックインした後、博多に戻る。

歩いても行ける距離なのだけれど、少し歩き疲れたので地下鉄に乗って行くことにした。

「いらっしゃいませ」

「予約していた神法です」

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

そのレストランはオシャレというワード以外当てはまらないのではないかというくらい素敵なアンビエンス。

「何このレストラン、真ん中にプールがあるんだけど」

高級ラウンジのようなエントランスに感動し、店内の広さに感嘆し、子供のようにはしゃぎながら珍しく写真を撮っている。

横にいて恥ずかしい気持ちと嬉しい気持ちが同時にやってきた。

私はレモンサワー、彼はビールで乾杯。

コース料理が出てくるとあっという間に平らげた。

誕生日だからなのかいつもより飲むペースが早い。

ホットワインを注文したので便乗するように私も続いた。

「知ってる?ホットワインって和製英語なんだよ」

「そうなん?知らんかった」

「英語圏ではモルドワイン、ドイツではグリューワイン、オランダではビショップワイン、フランスではヴァン・ショーって言うらしいよ」

彼は本当に色々なことを知っている。

伶俐れいり碩学せきがくなのは本をたくさん読んでいるからなのかな?

それとも地頭が良いとか?

いずれにしてもおごらないところはすごく良いなって思う。

「けいくん、ワインとか好きやったっけ?」

「普段はそんなに飲まないけど、こういうオシャレなところに来たり、特別な日には飲みたくなる。今日の紫苑は一段と綺麗だし」

この人は恥ずかしくなるようなことをさらっと言ってのける。

〆のデザートのところでお店の人にお願いしてバースデーケーキを出してもらった。

店内に突如流れてきたバースデーソングに彼が驚いている。

周りからの祝福もあり、いままで見たことのないくらいの笑顔でいる。

「ちょっと早いけど、お誕生日おめでとう」

そのタイミングで紙袋を渡す。

「開けていい?」

「うん」

中には牛革素材の黒いケースがあり、そのケースを開けるとステンレススチールのシルバーウォッチが入っていた。

「これ、俺が欲しかった限定もののスマートウォッチじゃん」

彼はSNSを全くしていないから情報を集めるのは大変だった。

サプライズがバレないようさり気なく聞き出した。

「この前の吉祥寺デートのときボソッと言ってたの覚えてて」

「嬉しすぎる。ありがとう」

時計をつけ替え、彼の行きたがっていた屋台へと向かう。

屋台は博多にも天神にもあるけれど、1番有名なのが中州の屋台。

川沿いということもあって景色が良いから観光地としても有名。

個人的にはちょっとだけ複雑な気持ちもあるけれど。

中洲の屋台に向かう途中、空から何かが降ってきた。

「雪?」

みぞれっぽいね」

溝を見てなぜかテンションが高い彼。

というより今日は1日通してテンションが高い。

滅多に見られない一面に私は無意識のうちに相好そうごうを崩していた。

那珂川なかがわから見えるキャナルシティやグランドハイアットの光。

何度見てもこの景色は綺麗。

右に曲がると屋台が数軒並んでいる。

カップルや野球観戦後の人たち、観光客らしき人たちで溢れている。

その奥にはあまり見ないでほしい『オトナのお店』が連なっている。

これがあるから天神の屋台の方にしたかったんだけれど。

案の定、奥のお店を見ている彼。

やっぱり男の人って興味あるんだろうな。

色々と思料していると、つないでいた右手の指先に力が入っていた。

「いてっ!何?」

無意識のうちに彼の手の甲を爪で刺すかたちになってしまった。

「ああいうお店気になると?」

「いや、そういうわけじゃ」

何その曖昧な返事。ちゃんと言い切ってよ。

「べつに行ってもいいですよ。私は何も思いませんので」

「そんな低いトーンで急に敬語とかめっちゃ怖いんですけど」

半分嘘で半分本当。

そういうお店に行くのは最悪我慢できるけれど、私がいるのに他の女の子に意識が行くのがイヤなだけ。

「安心して。俺、紫苑以外興味ないから」

まただ。
この人はドキドキさせるようなことを外でも平気で言うからたまに反応に困る。

「信用してないっしょ?」

信用はしている。

でも態度で示してほしいと思ってしまった。

いつも示してくれているのに強欲な自分に嫌悪感を抱いた。

それを察したのか、彼が急に顔を近づけてきた。

左手で瞬時に彼の顔を押さえる。

「こんなんで証明にはなりません」

こんな人混みの中でできるわけないでしょ。

「もう、早くお店入ろう。このお店は?」

「いいね。おでん食べよう」

席を詰めてもらって中で乾杯する。お昼から飲んでいたこともあってすでに高揚している自分がいた。

「ーありがとうございました」

屋台を出てホテルに戻る。

「さむっ」

「ホント寒いね」

雪風が火照った身体を冷ましにかかる。

それでもいつもの何倍もアルコールを摂取しているせいでまだポカポカしている。

「ってか紫苑、顔真っ赤じゃん」

「ちょっと飲み過ぎちゃったかも」

フワフワした感覚が思考を緩くさせる。

すると、彼が手のひらを私の頬に当ててきた。

突然のことに早鐘はやがねを打つと、同時に触れられた頬の部分だけ冷たくなった。

「けいくん、手冷たい」

ニットのタートルネックの上にボアデニムジャケットを着て、保温素材のスキニーデニムにムートンブーツで対策してきたからちょっとは緩和されているけれど、それでも雪を乗せた風が刺さるように痛い。

重ねるように手を添えると、お互いの冷えた身体を温め合うように温度が上昇していく。

時計はすでに24:00前だった。

ホテルに戻り明かりを点ける。

夜のライトアップされた福岡の街よりも、この部屋の光は幻想的で蠱惑的こわくてきだった。

その雰囲気に胸の高鳴りは最高潮まで達し、彼からの愛をたくさん受け取った。

「ーなぁ、…お…ん。……おん」

肩を強く揺すられながら急いたような声が耳元に木霊こだまする。

「紫苑、起きて」

短く強い声が眠たい身体を強制的に起こさせる。

「ん~眠いよ~」

ベッドから出たくなくて布団で身体を包くるむ姿は、母親に起こされる子供のように見えたのかもしれないけれど、昨日は夜更かししすぎて眠たい。

「急いで。時間がない」

時間がないってどういうこと?

まだ頭が回ってないから言葉の意味を理解できないでいた。

「チェックアウトが間に合わない」

2人とも目覚ましに気づかず、時刻はチェックアウトの10分前だった。

急いで服を着てフロントに走った。

髪もボサボサだしすっぴんだし喉カラカラで水飲みたいし。

帽子とかサングラスとか持ってくれば良かった。

時間にはギリギリ間に合った。

彼がチェックアウトを済ませている間にトイレを借りた。

(うわっ、ばりブス)

朝からこんな顔見られていたなんて。軽く髪を整えファンデだけ塗って出る。

すると彼が、すっぴんでも良かったのにという恐ろしいことを言ってきた。

ムリ。絶対ムリ。ただでさえ好きな人にすっぴん見られてしんどいのに、これで外に出るなんて公開処刑でしかない。

「……幻滅したでしょ?」

「えっ?何で?」

びっくりするくらい真っ直ぐな瞳でそう言ってきた。

彼が嘘をつくような人ではないのは知っているけれど、それにしても予想外の返しにちょっとびっくりした。

「何でって、すっぴんが可愛いのなんて芸能人くらいやし」

「いや、全くしてないよ。紫苑もともとナチュラルメイクだし、もし本当に幻滅してたら昨日の夜あんなにキスしなくない?」

昨日の夜を思い出してしまった。

自分でもわかるくらい急激に耳が熱くなってきたけれど、実はあのときはすっぴんではなかった。

先に彼が寝た後にこっそりメイクを落として寝た。

でもまさか寝起きを見られるなんて恥ずかしすぎる。

「朝から何言いよると?そんな恥ずかしいこと堂々と言わんでよ」

ロビーで恥ずかしい言葉をさらっと言う彼。

胸がドキドキしてさらに喉が渇いてきた。

そういえば起きてから何も口にしていない。

「もう、喉乾いた。カフェ行こうや」

恥ずかしさを誤魔化すように強引に手をつないで駅前にあるカフェに入った。

「ちょっとトイレ行ってくる」

今度はがっつりメイクをして席に戻った。

ホットコーヒーを飲んだ後、この後どうしよっか?と私が聞くと、
ウユニ塩湖でも行くかと言い出した。

はい?
ウユニ塩湖って南米のボリビアってところじゃなかったっけ?

いつものようなとんだ冗談かと思った。

「福津市ってところにあるんでしょ?日本のウユニ塩湖」

そっちのことね。

福津市には『かがみの海』と言われる場所がある。

福間海岸ふくまかいがん」「宮地浜みやじはま」「津屋崎海岸つやざきかいがん」の3つからなり、天候や風の強さ、干潮のタイミングが合えば見ることができるものすごく映える絶景スポット。

香川県の父母ヶ浜ちちぶがはまにも劣らない美しい場所。

急遽車をレンタルして海に向かう。

40分ほど走ると目的地近くに着いた。

海岸付近の駐車場はどこも満車のため公園内の駐車場に止めた。

車から降りた瞬間、まるで雲海の上に立っているかのような不思議な感覚におちいった。

浜辺にはカップルや女子たちがスマホ片手にベスポジを探している。

海と空が反射して青と白のコントラストが綺麗すぎて、見れば見るほど水平線に吸い込まれそうになる。

「本当にウユニ塩湖みたいだな」

彼が目をキラキラさせながら感動している。

私もここまで綺麗な状態ははじめてかも。

彼の誕生日を祝うかのようにかがみの海が光り輝いている。

海をバックに2人で写真を撮った。

ここにはもう1つ絶景スポットがある。

夕方になると、宮地浜から宮地嶽みやじだけ神社をつなぐ道に陽が差し込み、『光の道』という2月と10月の一定の時期にしか見られない美しい光景が見られる。

これを見るために多くの人たちが集まるから、この時期でも駐車場が埋まってしまう。

彼と一緒に見たかった気持ちはあるけれど、新幹線に間に合わないので次回にすることにした。

駅でお土産を買い、新幹線に乗る。

席に座った途端、彼は疲れて寝てしまった。

この2日間タイトスケジュールだったもんね。

だらしなく口を開けたまま眠る表情も可愛く見えてしまうのは惚気のろけなのかな。
起こさないよう彼の横顔を撮った。

☕️

インターホンを鳴らす。

「はい、神法です」

「ども、雪落です」

紫苑の家、正確には姉の桜咲の家に来ていた。

福岡旅行のとき、彼女にスマホの充電器を貸したままだった。

次のデートのときでも良かったのだが、いつもあるものがなくなると急に不安になるものだ。

「いつも妹がお世話になっております。すみません、妹が気利かなくて。わざわざお越しいただかなくても直接持って行かせたんですが」

「いやいや、そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」

この日彼女は夜遅くまでバイト。終わったら友達と飲みに行く予定があった。

一方姉の桜咲は仕事が早く終わったので俺が来るのを待ってくれていた。

「せっかくなので上がってください」

「いや、充電器を取りに来ただけなので」

「紫苑の秘密、知りたくないですか?」

突拍子のない言葉にどう反応して良いか戸惑った。

この人は本当に実の姉か?

顔立ちはたしかに似ているが、話し方や雰囲気からブレない軸のようなものを感じた。

それにしてもこの誘い方、何という言葉で形容すれば良いのだろう?

桜咲が右手をリビングの方へと伸ばして俺の手足を前へと誘いざなう。

上手く乗せられた感じがしたが嫌な感じは全くしなかった。

「どうぞ」

革靴を脱いで上がらせてもらう。

「お邪魔します」

1DKの部屋には小さめのソファーベッドがそれぞれ1つずつあり、奥の広めの部屋と手前のリビングの部屋がある。

思っていたよりも部屋はシンプルで、白を基調としていてシックな感じになっている。

イメージしていた女子の部屋という感じではなかったが、この前のクマのぬいぐるみを大事そうに置いてくれていた。

リビングのソファーに座らせてもらう。

「お茶が良いですか?コーヒーが良いですか?」

桜咲がキッチンから右手に茶葉、左手にコーヒー豆のパックを持ちながら聞いてきた。

「じょあコーヒーで」

豆を挽きながら桜咲が質問してくる。

「紫苑って見た目によらず意外と抜けてませんか?」

思い当たる節がいくつかある。

1年間しか一緒にいない俺よりも、小さいころから一緒にいる桜咲にはもっと多くの引き出しがあるのだろう。

彼女にそっくりなその麗しい瞳で色々と話したそうな表情をしている。

「アイスに目がないのに、話に夢中で食べてること忘れちゃってるところとか」

「それ小さいときからずっとです。よくこぼして服をビチョビチョにしてたから、一時期コーン禁止令が出てカップアイスしか食べちゃダメだてルールがあったくらいですから」

それでもアイスを食べることを許されている時点で優しい家族だと思う。

「紫苑って小さいときからほんっとにアイスが大好きで、新しい味を見つけるとそれを食べられるまで駄々をね続けてたんです」

アイスに対する欲求えげつないな。

「そういえば、昔おもちゃ屋さんでソフトクリームの置物を見つけたとき、欲しくて欲しくてたまらなかったのか1日中泣きじゃくってたことがあって、クリスマスプレゼントでそれをあげたら大喜びしてたことがありました」

どんだけ欲しかったんだ。

彼女の前世は乳製品なのか?

「本人の希望で数時間家に置いてたら、ある日アイスクリーム屋さんと勘違いしてやってきた人がいたので、後日撤去したら玄界灘が揺れるくらい大泣きしちゃって。私も幼いながらに大変だったのを覚えてます」

にわかに信じがたいような話だったが、もしそれが本当なら一瞬だけでもアイスに生まれ変わりたいと思った。

「いまその置物はどこに?」

「実家の倉庫に放置されてます。いまとなっては無用の長物ちょうぶつです」

当時からそうだった気もするが。

我が家にも親が生前大切そうに持っていたMDコンポがあったが、嵩張かさばるだけで正直邪魔だった。

「そんなに小さいころからアイス好きだったら、幼いころの夢はアイスクリーム屋さんとか?」

「いえ、紫苑の小さいころの夢は、天使です」

「て、天使?」

全く想像していなかった角度に刺激に瞳孔と口が大きく開いた。

アイス屋以外の選択肢としてお姫様やアイドルを予想していたから、頭の中を整理するのに少し時間がかかった。

「これにはちゃんとした理由があって、紫苑が小さいときに海で溺れそうになったことがあったんです。そのときはお父さんが助けてくれてたんですけど、幼いながらに悔しかったんでしょうね。翌日から泳げるようになりたいって言って水泳をはじめたんです」

ん?全然話がつながらないのだが。

整いかけた頭の中がまたぐちゃぐちゃになった。

空を飛ぶのと海を泳ぐのはインターステラーくらいかけ離れたものだと思う。

泳げるようになればそのまま空を飛べるようになるとでも思ったのだろうか。

本人に直接聞くわけにもいかないから真実にそっと蓋をしておこう。

「でも高校に入ると同時に水泳を辞めてテニス部に入ったんです」

そう言えば出会ってすぐのころ、テニス部に所属していたって言っていたけれど水泳経験もあったことははじめて知った。

「なんで急にテニス部に?」

「好きな人がいたらしいです」

好きな人というワードに強く鼓動が鳴る。

過去のことに嫉妬してもどうにもならないのはわかっていながらも心がそわそわしている自分がいた。

訂正するようにすぐさま桜咲が続ける。

「好きな人っていうのは憧れてる人って意味です。宝塚の人みたいなカッコイイ先輩がいて、その人とダブルスを組みたいって思ってたらしいです」

違う『好き』に心が凪いだ。

気にならないわけではない。
だが彼女の過去の恋愛事情について本人の許可なしに聞くのは違うと思った。

「あっ、これ絶対本人に言わないでくださいね。雪落さんに話したなんて言ったらガチでキレられちゃうんで」

過去の恥ずかしい思い出を恋人に知られるのは嫌だろうから墓場まで持って行くことを約束した。

「俺が紫苑のことを嫌いになることはないので」

「雪落さんが良い人で良かったです。妹のことを大切に想ってくれて嬉しいです」

「飾らないところはすごく魅力的だなって思うし、怒ったり笑ったり泣いたり、デートする度に新しい彼女に出会えるのが楽しいんだ。何より、多くの人に愛されてる人ってそういうところを自然と出せるからだと思う。俺にないものを彼女は持ってる。だから大切にしたいって思う」

いや、大切にする。

この想いにかげりは微塵みじんもない。

口に出しながらも改めて心に誓う。

「紫苑が羨ましいな」

「えっ?」

「私、彼氏ができても長続きしないんですよね。面食いだから顔が良かったらある程度クズでも許しちゃうんです。でも、結局クズはクズだから浮気とか借金とか当たり前にするようなやつばっかで、雪落さんみたいに内面をちゃんと視た上で想い続けてくれてる人に出会えて、妹は、紫苑は本当に良い出会いをしたなって思って」

桜咲の言葉は半分合っていて半分合っていない。

正直最初は外見から入ったし、中身は二の次だった。

ただ彼女を知っていくうちにギャップにどんどんやられていった。

表情豊かで意外と嫉妬深くてちょっと天然で、話す度に新しい彼女に出会える。

それが新鮮で楽しい。

だから彼女との出会いは俺の人生にとって大きな転機であり、邂逅や僥倖といっても過言ではない。

あまり長居しても失礼なのでそろそろおいとましようと腰を上げると、

「雪落さん、紫苑と結婚する気ありますか?」

唐突すぎる質問に目が点になった。

好きで付き合っているから一緒にいたいと思うのは普通だし、人一倍家庭に対する思いは強い。

でもこれはどういう意図があるのだろう?

下手に考えるよりもいまの素直な気持ちを言うことにした。

「結婚は付き合ったときからしたいと思ってるよ。でも紫苑まだ学生だし、落ち着くまではプロポーズしないかな」

「ですよね。あの子好きになったら周り見えなくなるし、人の意見聞かなくなるし、王子様を求めるような乙女気質なので、同棲とかは慎重にお願いしますね」

いまはまだ時期尚早と言いたいのだろう。

そこに関しては同感だ。

俺も仕事はまだまだだし、もっと余裕を持った状態でないと彼女を支えてあげることはできない。

「今日は色々とありがとう」

「こちらこそ長話に付き合ってもらってありがとうございました。次来るときは席外しておきますので遠慮なく楽しんでくださいね」

この子は本当に血のつながった姉妹か?

お節介な近所のおばちゃんみたいな発言に苦笑いしながら彼女の家を後にした。

🍦

東狐姐さんのお店でトリートメントしてもらった後、駅前に戻ると彼が待っていた。

代官山の駅前にあるジェラート専門店。

地元糸島のあまおうやオレンジ、桃を使ったジェラートを2人でベンチに座って食べる。

今日は久しぶりのデート。

旅行に行った以来、なかなか予定が合わなかった。

電車に乗って向かったのは中目黒。

お花見の名所、目黒川には多くの人が桜を見に訪れている。

駅前にあるドーナツ屋さんには何時間待ちだろうというくらいの行列ができていて、それを横目に目黒川沿いのカフェでまったりする。

写真を撮る彼の表情も最初のころにくらべてナチュラルになってきた。

一緒に変顔したりたまに目をつむっていたりと、それは恋人というよりも仲の良い友達にも思えた。

ディナーは二択で迷った。

「焼肉と焼鳥どっちが良い?」

彼の質問にめちゃくちゃ迷った。

どっちも大好きだしすっごくお腹が空いている。

ネットで食事の写真や店内の雰囲気を見たらさらに迷った。

なかなか決められずにいると、

「じゃあゲームで決めよう」

まるで子供のような表情で爽やかにそう言う。

「ゲーム?」

「そう、110ゲーム」

「ヒャクジュウゲーム?」

彼が財布から100円と10円を1枚ずつ取り出し、

「紫苑が勝ったら焼肉で、俺が勝ったら焼鳥な。じゃあ目瞑って手ひらいて」

「何すると?」

「いいからいいから」

人の不安をよそに楽しそうな彼は何の説明もなく謎のゲームをはじめる。

言われるがまま目を瞑って両手を開き、彼の前に出す。

両手に冷たい感触がした。

そのひんやりしたものが何かわからず一瞬ピクッとなった。

彼が私の両手を包むようにパーからグーにした後、目開けていいよと言ったので、言われるがまま素直に目を開けた。

「問題です。右手と左手どちらに100円が入っているでしょう?」

えっ?何その問題?

「わからんし」

「直感でいいから」

「じゃあ右?」

「手開いてみて」

右手には10円が入っていた。

100円は左手だった。

「じゃあ俺の勝ちね、焼鳥食べよう」

「こんなんわからんし」

「100円と10円は直径0.9ミリしか違わないし、厚みも0.2ミリしか変わらない。重さに関しては0.3グラムしか変わらないからね。ちなみにお札は横の長さが違うだけで縦の長さはどれも同じなんだよ」

そんなことわかるわけがないし、何よりこのゲームめちゃくちゃつまらなかった。

「本当は焼肉が食べたかった?」

「そんなことないけど」

「じゃあ焼鳥な、行こう」

この人たまに強引で子供っぽい。

お店は満席だった。

店員さんによるとたまたまキャンセルが入ったタイミングだったらしいけれど、もし入らなかったらどうするつもりだったんだろう?

焼鳥屋さんはいっぱいあるし、ぶっちゃけお腹いっぱい美味しいものを食べられれば何でも良いのも事実。

珍しくお店の予約をしていなかったみたいだったからちょっと驚いた。

デートのときは必ずと言っていいほど予約をしておいてくれる。

こんなことはじめてかも。

カウンターに座り、焼鳥とワインを嗜たしなんだ。

帰るにはちょっとだけ時間があったので目の前の本屋で時間を潰すことにした。

彼は見かけによらず小説が好きで、休みの日は色々なジャンルを読むみたい。

以前彼の家に泊まったときにちょっとだけ読ませてもらったことがあるけれど、文字ばかりですぐ眠くなっちゃうし、難しい言葉が多すぎて全然言葉が入ってこなかった。

やっぱり私はマンガや動画の方が好き。

会計を済ませた彼がやってきた。

「何買ったと?」

宇山 佳佑うやま けいすけさんの新作」

本の表紙を見せながら自慢気に言ってきた。

「その人知っとる。ネトフリで観たことあるけど面白かった」

「『桜のような僕の恋人』っしょ?あれマジで良かったよね!」

「そう、それ!切なくてばり泣いた」

「個人的に1番好きなのは『恋雨』だけどな」

「恋雨?」

「そう恋雨。『この恋は世界でいちばん美しい雨』って作品めちゃくちゃ面白かった。やっぱ雨は命に匹敵するくらい儚いよな」

その独特な感性は理解できなかった。

久しぶりのデートは楽しかった。

同じ時間を共有し、手をつなぎ、キスをする。

彼との時間はアイスのように甘くとろけるような瞬間。

それだけで幸せだった。

幸せすぎて怖くなった。
しおりを挟む

処理中です...