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第2章 |泡沫《うたかた》/|空蝉《うつせみ》

泡沫

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☕️

「距離を、置いてほしいです」

当然の言葉にときが止まった。

この前のデートから数日後のことだった。

電話越しでも伝わる重たい空気。

何度も何度も理由を訊いたが応えてはくれなかった。

それからの俺はというと、川に流されていく流木のように活力を失い、とばりの落ちた世界のように色を失った。

くたくたになったシャツを見ても惰性のように仕事をし、まともに咀嚼そしゃくもせずに飲み込むだけの食事。

小説を読んでも映画を観ても空虚なまま。

毎晩のように飲む自棄酒やけざけ
溜まっていく洗濯。
荒れていく私生活。

人はこんなにも変わるのかというくらいに魂が抜けていった。

同時に彼女のことをこんなにも好きだったということを痛感した。

付き合ってからというもの、誰かに何かで刺される謎の夢は見なくなったのに、距離を置いた途端見計らったかのように毎晩同じ夢を見ては冷や汗をかき、質の悪い睡眠に苛立ちが増す。

ここ数日間、下を向いて歩いてばかりいる気がする。

いや、前すらも向いていない。

大袈裟に言っても空蝉とは思えないくらい世の中そのものを恨みそうになりながら缶ビール片手に遊歩道を歩いていると白と紫に輝く花を見つけた。

いつも通らない道での帰り道で偶然見つけたこの花はいまの俺に何かを訴えかけているかのように天を見上げている。

「これは、春紫苑の花」

よく似たヒメジョオンの花かと思ったが、時期的に春紫苑の花だろう。

……紫苑、いまごろ何をしているだろう?

毎日のようにやり取りしていた連絡がピタッと止み、当たり前のように会っていた週末の予定は泡沫のように消えていった。

**

親友の心治と駅前の居酒屋で酒を交わしながら話す。

「恋愛って難しいな」

「どうした?」

「急に距離置こうって言われて意味わかんなくて」

物事には必ず原因がある。

だが思い当たる節がない。

これでも愛情表現はしてきた方だと思っているし、大切にしてきたつもりだった。

「俺も嫁の気持ちはいまだにわかんねぇし、これからもわかんねぇと思う。ただ、わかんねぇからこそ日々に感謝することが大事なんだよ。子育ても食事も当たり前に感じがちだけど、ちゃんと言葉にしなきゃ気持ちは伝わんねぇよ」

彼女に対する感謝の気持ちが足りなかったってことだろうか?

せめて理由が知りたかったのが本音だが、いつまでも既読のつかないいまとなってはそれを訊くことは叶わない。

「で、慶永はどうしたいんだよ?」

「どうしたいって?」

「相談してきてる時点でこのままでいいとは思ってないってことだろ?」

そう、自分の中できっかけのようなものがほしかった。

普段恋愛話をしないが、こういうときの親友の意見はものすごく背中を押してくれる。

相手にこうなってほしいって思いがあって、こうならないでほしいって思いがあるから感情的になる。

冷静になればわかることだが、いざその場に立つとなぜかそれが強く出てしまうきらいがある。

「俺の家なんて子供のことでしょっちゅう喧嘩するけど、まず相手の意見を聞くことから始めれば話し合いで解決するもんだぞ」

話すって言ったって電話もつながらないし既読もつかない。

仮に直接会えたとして、そのときは何を話せば良い?

喧嘩ならまだしも、一方的に距離を置こうと言われたときはどうするべきかなんててんでわからなかった。

「彼女のこと好きなんだろ?」

「あぁ」

「だったら素直に言えば良い。変化球なんて投げなくて良いんだよ」

「1球もか?」

「あぁ」

「慶永そんな器用な人間じゃないだろ?」

親友の言う通りだった。

「考えすぎなんだよ。思い通りに行く恋愛なんてないんだからありのままでいいんだって」

前回会ったときよりもさらに大人に、そしてポジティブになっている気がした。

それにくらべて俺は同じ場所から踏み出すことすらできていないでいた。

「慶永は何のために恋愛してる?」

電子タバコを吸いながら真剣な表情でそう話す親友の言葉にすぐ返せなかった。

「欲を満たすためか?」

「いや、違う」

極端な言い方だが欲を満たしたいだけならぶっちゃけ誰でもいい。
でもそうじゃない。

俺は彼女じゃなきゃ心を開けないところまできていた。

良いところもそうじゃないところも受け入れてくれて、幸せを一緒に感じ合えると思った唯一の相手だ。

だから否定をした。

欲という言葉だけでは表しきれないほどの感情があったからだ。

「嘘だな」

被せるように食い気味で否定された。

「そうじゃないって自分に言い聞かせてるだけで、本心では自分の欲を満たしたいんだよ」

「心治は違うのかよ」

「いや、一緒だ。自分が幸せになるために生きてて、子供の成長が、家族の笑顔が見たいっていうその自分の欲を満たしたくて生きてる。
だけど、もし違う人と結婚していたらきっとこじ幸せを感じることはできていない。人生なんて選択の連続だろ?常に正しい選択をしてるやつなんてそういないし、間違いを間違いって認められる人間が幸せをつかめると思うんだ」

同じ年月を過ごしてきたが、親友との決定的な差は向き合う姿勢と経験値だと感じた。

厳しい親のもとで育ってきたせいか、意志が強く柔軟性がある。

的を射ていたアドバイスに少し安堵し、何杯かおかわりをして店を後にした。

**

「はぁ?別れた⁉︎」

部屋中に響き渡る声。

家のソファに座りながらスピーカーモードにして美咲に電話していた。

ファブリック素材のモスグリーンのソファベッドの左側ぽっかりと空いている。

彼女が泊まりに来るたび身を寄せ合いながら思い出が刻まれたいった。

「別れたって言うか距離を置いてほしいって言われた」

「連絡はしたの?」

「電話しても出ないし既読もつかない」

「それって別れたも同然じゃん」

「俺、何したんだよ」

「雪落って遊んでそうだけど浮気できるほど勇気ないし、ギャンブルしかしてなさそうな顔してるのに全然してないしね」

「フォローになってなくね?」

「それぐらいギャップあるってことよ」

「そりゃあどうも」

「ただ、それが距離置かれた原因かもね」

「どういうことだよ?」

「刺激なくなったんじゃない?」

「飽きられたってことか?」

「片方の愛情表現が強すぎるとそれに満足しちゃう人もいるから結果的に冷めちゃう人もいると思うけど。まぁ優しすぎも罪ってことよ」

「みんな優しい人が好きって言ってるのにか?」

「女の子ってそういうものよ」

女性の心理は理屈ではないということを言いたいのだろうが、まったくもって意味がわからなかった。

「好きならちゃんと話した方が良いよ」

「どう話せって言うんだよ?」

「ったく、雪落って本当変なとこで遠慮するよね。まだ別れたわけじゃないんだから自分の気持ち素直に伝えなって」

美咲の言う通り、本当に嫌なら別れるという選択を取るのが普通だが、彼女は距離を置くという選択を取った。

なぜ理由を言ってくれないのか。

部屋に残された歯ブラシやメイク落としを見るたびに心の奥がキリキリと痛む。

「ってかあんたら高校生かよ。将来のこと考えてるんならやること1つしかなくない?」

「1つ」

大きく溜め息をついた後に、

「ハッキリしなさいよね。まったく何であんたがモテるのか私にはさっぱりなんだけど」

電話越しの美咲は俺の煮え切らない態度に明らかにイライラついていて口調が荒くなっている。

「そんなのガキのころの話だ」

そう言いながら飲もうとしたコーヒーはすでに冷めていた。

「ってかこういうの気持ち悪いからやめてくんない?中途半端にいるくらいならきっぱり別れた方がラクだよ」

辛辣しんらつにも思えたがいまの俺にはダイレクトに刺さった。

オブラートに包まず忖度そんたくもしない。

こんなこと言ってくれるのは親友の心治かこの美咲くらいだ。

「ったく、この前病室で久しぶりに会ったと思った途端、頻繁に連絡してくるんだから」

俺が事故に遭ったとき、彼女と美咲が仲良くなったことで何かと相談に乗ってもらっていた。

「本当、美咲がナースで良かったよ」

「じゃあ今度マンション買って」

「キャバ嬢かよ」

「冗談。焼肉で許してあげる」

「へいへい」

美咲に相談したことで全身に乗っていた重石おもしが少し取れた気がする。

「相談乗ってくれてありがとな」

「どういたしまして。でも夜勤明けは眠いから今日限りにしてね」

通話ボタンを切ってからずっと考えていた。

どうすることがベストなのか。

考えれば考えるほどメイズに入っていくので一旦考えることを止めた。

心治と美咲のお陰で目が覚めた。

俺は素直な気持ちをぶつけようと行動に出ることにした。

🍦

彼と距離を置いてからもう2週間。

あれから連絡は取っていない。

「紫苑、本当にいいの?」

「何が?」

「わかってるでしょ」

わかっている。

このままでいいわけがない。

でも私といることで彼が不幸になるのが怖かった。
だからこのまま自然に消滅していくのがいいと思った。

「本当はまだ好きなんでしょ?」

好きだよ。

好きで好きでたまらないよ。

だからこそ私じゃない。

彼の優しさに甘えて、その甘さにつけ込んじゃうことが怖い。

「彼は私とおったらダメになる」

彼は優しすぎる。

私のルーズなところを受け入れてくれることが最初は嬉しかったけれど、それに胡座あぐらをかいている自分がいた。

約束の時間を勘違いしてめっちゃ遅れちゃったときも怒らなかったし、結構無理なわがままを言ってもこころよく受け入れてくれる。

きっとこのままだと私が彼を不幸にしてしまうのではないかと思った。

「でもさ、それ勝手じゃない?」

「えっ?」

「それは紫苑の気持ちでしょ?彼のこと本気で考えてるならちゃんと話すべきだよ。気持ちなんて言わなきゃ伝わんないし、別れずに中途半端な関係性ずっと続けていくわけ?」

優梨の言う通り。

「それにもし逆に同じことをされてたらどう思う?」

頭ではわかっていた。

このままだとぐだぐだになって彼が本当に離れていってしまう。

それでも私は踏み込めなかった。

2週間ずっと引きずってきていまさら何て言ったらいいの?

彼からの連絡も何で返せばいいの?

時間が経てば経つほど私の心の中が濁っていく。淀んでいく。燻んでいく。

そうして悩み続けてから数日後、バイト先のメンバーで『たこパ』をすることになった。

メンツはKAWAHARAの4人と男の先輩2人。

スーパーでお買い物をし、みんなでキッチンに立ってお野菜を切ったりお皿を用意したりと普通に楽しんでいた。

お姉ちゃんと住むこの家は思っていたより広くて住みやすい。

私がもともと1人で住む予定だった場所はオートロックじゃないし、階段もきしむし、火事が起きたら一瞬で燃えちゃいそうな蔦の生えた古い六畳一間のぼろアパート。

郵便ポストもダイヤル式ではないような昭和の雰囲気漂うお家。

個人的にははじめての一人暮らしだからノスタルジックな雰囲気で良かったんだけれど、色々と心配してくれたお姉ちゃんが一緒に住みなさいって言ってくれていまに至る。

パーティーは私のお家で行われることになった。

お姉ちゃんは有給を使って新しい彼氏と旅行に行っているから数日間帰ってこない。

バイト先から1番近いのが私のお家という安易な理由。

彼と距離を置いてからというもの、ハッキリしない態度に優梨ともちょっとだけギクシャクしていた。

それもあって私はお酒は飲みすぎてしまった。

何杯くらい飲んだんだろう。

カクテル、ウィスキー、ワインに日本酒。

みんな心配してくれていたけれど、私のお家ってこともあって気が緩んでいたのかもしれない。

「そろそろ解散しよっか」

先輩のうちの1人の清田先輩は彼女以外の女性にも優しい紳士。

みんなで片づけをして解散した。

それからどれくらいしたのだろう。

5分くらいしてからかな。

扉をノックする音がした。

お酒が抜けなくて頭がクラクラするなか扉を開けるとそこにはさっきまで一緒にいた砂金先輩が立っていた。

「先輩、どうしたんですか?」

「ちょっと忘れ物をしたから中入れてくれる?」

そう言って中に入り、先輩は部屋の中を探し出した。

私はベッドに腰掛け、
「何を忘れたんですか?」

そう聞いたけれど、

「えっ?あ、うん、ちょっとね」

何か様子がおかしい。

本当に忘れ物をしたのだろうか?

「一緒に探しますよ」

「いいよいいよ、大したものじゃないから」

なんだろうこの違和感。

ニコニコしているのに目の奥が笑っていない感じ。

けれどいまはものすごく挙動不審。

「もう夜も遅いし、見つかったら連絡しますよ」

そう言ってベッドから立とうとした瞬間。

ガバッ!

私の両肩をグッと押し込むように両手で強く押し倒された。

その力はあまりに強く抵抗の余地はなかった。

状況がつかめず気が動転していると、馬乗り状態の先輩の左手は私の両腕を強く押さえつけ、右手で洟と口を塞がれた。

先輩の目は血走っていて、獲物を狩る獣と同じ眼をしていた。

耳元で「神法のことずっと前から好きだったんだ。だから1回だけ」

恐怖心が全身を駆け巡る。

声が出ない。息ができない。

(やめて)

心の中でそう叫ぶ。

先輩の荒い呼吸が私の耳元に当たるたびに気持ちが悪くて吐きそうになる。

(やめて)

さらに強さを増す心の声。

呼吸ができないままなんとか抵抗を試みるも、先輩の強い力には敵わない。

徐々に意識が朦朧としていき、全身の力が入らなくなるとそのまま気を失った。

ー気がつくと、手足をテープで縛られ下着姿になっていた。

先輩の顔が私の身体を味わうかのように上から下へとゆっくりと舐め回す。

「やめてっ!」

怒りと哀しみと苦しみが混在した声で精一杯叫んだが、虚しく壁に反射し消えていく。

足の指先まで舐め回した後に顔が私の口元に近づいてくる。

(こいつの思い通りにはさせない)

ふと冷静になっていた自分がいた。

キスをさせるフリをして、ギリギリのところで先輩の喉元を思いっきり噛んでやった。

「痛って!」

喉仏のあたりを押さえている手からは私の歯形が見えた。

もっと強く噛んで引きちぎってやれば良かったと思ったけれど、一瞬怯んだ隙に飛び跳ねるように全身で払い除け、先輩はベッドから落ちた。

(一刻も早く逃げなきゃ!)

縛られていたテープを剥がそうと抵抗するも急に焦りが出てきてうまく剥がれないでいると、上気した先輩は首元を押さえながらまた馬乗りになってさっきよりも強い力で締めてきた。

その眼はより獣と化していて恐怖から身体が一気に硬直した。

(けいくん……たすけて……)

心の中で叫んだがその声が届くことはない。

あまりの強さに苦しくなってきて意識が飛んだ。

ーそれはほんの数分のできごとだった。

意識が戻ると私の身体は汚れていた。

髪もメイクも乱れ、先輩の汗と唾液が全身に染みついている。
みじめであわれな姿。

こんな姿誰にも見せられない。

鏡を見ながら何事もなかったかのように服を着て髪を整えている先輩に殺意が芽生えた。

すると、扉が開く音がした。

終電はとっくにない。

こんな時間に来る人は限られる。

もし彼だったとしてもこんな姿見ないでほしい。

この最悪な状況知らないでほしかった。

私は好きでも男に身も心も汚された。

一生の汚点。

色々な感情が私を襲う。

それは嬉しいというより切なさと虚しさが合わさった言葉にし難い感情だった。

扉の方を見ると、そこには彼の姿があった。

「け、い、く……ん……」

彼の目を見た瞬間、大粒の泪が溢れてきた。

地球上の水分すべてが私なのではないかというくらい何度洟を啜っても止まらない。

私の哀れで醜い姿を見た彼は着ていたトレーナーを私にかけてそっと優しく抱きしめてくれた。

温かい。

久しぶりに感じる彼の温もりにまた泪が滝のように溢れ出た。

痛くならないよう優しく手足のテープを剥がすと、ヤツの方を睨みつける。

その顔は怒りと憎しみに満ちていて、いままでに見たことのないくらい恐ろしく怖い表情だった。

彼は何も言わず先輩のもとへと行き、勢いよく壁に押しつけながら胸ぐらを掴んで睥睨する。

「な、なにすんだよ!」

その言葉を無視し、宙に浮いた状態の先輩をさらにぐっと壁に押しつけた。

「お、お前が神法の彼氏か。な、なんでお前みたいなチャラそうなのが彼氏なんだよ。俺の方がよっぽど釣り合うじゃねぇか」

彼はヤツの言葉を歯牙しがにも掛けず、掴んでいた手を離し、その場からいなくなった。

乱れた服を両手で直しながら、
「ふん、わかればいいんだよ。ったく、こんな暴力的な男と付き合うなんて本当に神法は見る目がないな」

数秒後、部屋に戻ってきた彼が右手に何かを持っている。

お姉ちゃんの彼氏が防犯用に置いていった金属バットだ。

それをヤツの顔に向かって頭上から大きく振りかぶる。

「けいくん、やめて!それだけはダメ!」

彼にしがみつき、必死に止める。

「大丈夫。殺しはしねぇよ」

「もういいよ」

さっき拭い切ったはずなのにまた泪が出てくる。

もうメイクがぐちゃぐちゃで前がよく見えない。

その様子を見ていたヤツは呆れたように、

「もう帰っていいかな。今日は十分楽しませてもらったし、神法思ったほどでもなかったし」

その発言と態度に私の中で何かがプツっと切れた。

しがみついていた彼の身体から離れ、台所へ向かった。

引き出しを開けて包丁を取り出す。

踵を返し、アイツのいる場所を確認する。

彼からバットを取り上げて頭を思いっきり殴ることも考えたけれど、間違って彼に当たって怪我でもしたら大変だから確実に殺やれる方法を選んだ。

血の流れが早い。

上気に満ちた体温は沸騰寸前状態。

包丁を持つ手は少し震えていた。

ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ怖かった。

物理的に誰かを傷つけることなんてないから。

でもこの男だけはゆるすことはできない。

だから覚悟を決めた。

深呼吸をし、勢いをつけて一直線に走り出す。

グサッ!

鈍い音が壁に反射した。

皮膚を貫通する感覚がした。

倒れたのはヤツではなく、彼だった。

「な、なんで……」

たしかにヤツに向かって刺したはず。

それなのになんで彼が倒れているの?

腹部から赤い液体がポトポトと床に落ちていく。

勢いを増していく鮮血は彼の青ざめていく顔を逃避しかけた現実へと押し戻していく。

私が刺す直前、一瞬目を閉じてしまったときにヤツを庇ったのだ。

それに気づいたとき冷静になった。

手に持っていた包丁を落とし、彼に抱きつく。

「けい、くん」

「し、おん……」

「なんで?」

「し、おん、好き……だよ……」

答えになってないよ。

私、好きでもない男に犯されたんだよ?

それなのに何で庇うの?

「ご、めん……な……」

なんで謝るの?
謝るのはこっちの方だよ。

悪いのはアイツ。全部アイツのせいでこうなったんだよ。

泪が止まらない。どんなに洟を啜っても溢れ出てくる。

「けい、くん……ごめん、なさい……」

そう言いながら救急車を呼ぼうとする。

でも指が震えて上手くタッチできない。

もう、こんなときになんで。

私の手を握る彼の手は徐々に力を失っていく。

「し、おん」

「ん?なに?」

「幸せ、に、なって、な……」

イヤだよ。こんなのイヤ。

私はあなたといたいの。

あなたじゃなきゃダメなの。

話したいことたくさんあるんだよ?

一緒にやりたいことあるんだよ?

イヴだって一緒に過ごせていないし、海外旅行にもまだ行けていない。

約束したよね?一緒にいようって。

約束したよね?もうどこにも行かないって。

ダメ!
死んじゃダメ!

「あ……り……が……」

握っていた彼の手がゆっくり落ちていく。

それが彼との最期の会話だった。
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