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縁国〜ニルヴァーナ・アーカーシャ〜
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☕️
「……慶永」
どこからか声が聞こえた気がした。
一瞬だけだがその声に聞き覚えがあった。
久しぶりに聞く少し太いその声。
幼いころに亡くなった父さんの声だ。
生前の記憶が流れてくる。
ー家族4人揃って河原近くのキャンプ場で遊んでいる。
ジーンズを膝まで捲り、水流に佇む石の上をジャンプしながら向こう側に渡る遊びをしている父さんと兄さんの姿を見て真似したくなったのか、「僕もやる!」と言って2人に続く。
横断歩道の白線だけを渡るように兄さんに続いて石の上を飛んで遊んでいると、
「慶永、あぶないわよ」
心配する母さんの言葉は俺の耳を素通りしていった。
リズミカルに飛んでいく父さんに続こうと兄さんがジャンプすると着地に失敗して川に落ちた。
子供でも足が着くほどの深さだったのに水の勢いは思っていたよりも急で、人の身体が紙切れのように簡単に流されていった。
急流に流されていく兄さんを父さんが急いで助けに行くが、自然の猛威は恐ろしく2人はあっという間に流されていった。
母さんは動揺を隠しきれずひどく狼狽している。
数十分後、兄さんは下流の近くの砂利で見つかった。
意識はなかったが息はしていた。
しかし、助けに行ったはずの父さんが見つかることはなかった。
遺体が見つかったのは数週間後の川のほとりだった。
🍦
福岡の田舎町で生まれ育った私は、寡黙な寛樹お父さん、ちょっと天然だけれどいつも笑顔の菖蒲お母さん、クールな姉の桜咲と犬のノアの5人家族。
ホークスファンのお父さんは試合中いつも缶ビール片手にソファに座って中継を観る。
普段は寡黙なお父さんもそのときだけは、「いまのはストライクやろ」とか、「いまの球なんで打たんとや」とか、ちょっと怖いくらいに熱が入る。
とくにWBCっていう世界大会のときなんか画面に釘づけでテレビから一歩も動こうとせずお酒の摂取量もいつもの倍多かった。
お母さんは台所で食器を片づけながらお姉ちゃんと好きな俳優とデートするならどこに行く?という妄想話や、最新の美容グッズの話で盛り上がっている。
私はファッション雑誌を読んだり、ネットサーフィンをして暇つぶしをするのが我が家の日常。
高校2年生のある日、リビングでお母さんに進路について聞かれたときのこと。
この日もお父さんは缶ビール片手に野球を観ていたが、白熱した展開だったみたいでビールを飲むペースが早く顔が真っ赤だった。
私の夢はファッションデザイナー。
東京の学校でファッションを学びたいとお母さんに話していたとき、聞き耳を立てていたお父さんがソファ越しに口を挟んできた。
その内容は東京に行けばファッションの最先端に触れられることを話してもお父さんは頑なに否定した。
なんでダメなのか問いただしてもちゃんとした理由を教えてくれない。
この態度に腹が立ち、感情的になった。
「そんなんじゃいつまで経っても東京行けんやん」
リビングに不安な空気が流れる。
「本人が行きたいって言うなら行かせてみたら?」
お母さんが空気を戻そうと味方してくれる。
「そんな真っ赤な顔で言っても説得力ないけん、素面のときに話しなよ」
冷静なお姉ちゃんが芯をつく。
神法家で男はお父さんだけ。
こういうときの男性は不利って聞いたことあるけれど、このときの我が家の状況もまさにそれ。
ばつが悪くなったお父さんはそこから私とは一言も喋らず再び野球を観だした。
私は気持ちを落ち着かせるため、冷蔵庫から新作のはちみつ味のアイスを取り出し、2階の自分の部屋へと戻ってYou Tubeを観た。
アイスを食べたら落ち着いてきた。
お父さんと喧嘩したのなんて何年ぶりだろう。
お酒が入っていたとはいえ、なんであんな頑なに東京行きを反対する理由がわからなかった。
ファッションだけじゃなく、どの世界で生きていくのも大変なのはわかっている。
でもやりたいと思ったことはやりたい。
だって一度きりの人生だから。
後日お父さんに東京行きを反対する理由を聞いてみようと思っていると、ドアをコンコンとノックする音がした。
ドアを開けた先にいたのはお母さんだった。
きっと心配して来てくれていたんだろう。
横並びでソファに腰掛けると、いつになく真剣な表情で話してくれた。
「紫苑が生まれてすぐくらいのころかな。お父さん東京で会社の経営をしていたことがあってね、友達と食品関係の会社を立ち上げて最初の2、3年は調子良くて徐々に軌道に乗り始めていったんやけど、4年目のときに新しく雇った経理担当の人にお金を横領されてしまったんよ」
お父さんが東京で経営していたことをはじめて知った。でもそれ以上に横領されていたことに驚いた。
「横領ってどのくらいされとったん?
「3年間」
「3年間も⁉︎そんなに長いこと横領されとって何で誰も気づけんかっと?」
お母さんによると、大口の支払い以外のもの、すなわち小口系の支払いの管理はすべてその経理担当に任せっきりだったみたい。
経営のこととかよくわからないけれど、管理体制が杜撰なことだけはわかった。
「お母さんが経理をやればよかったんやないと?」
「ママに経理ができると本当に思っとる?」
たしかに。
いまだに九九がちゃんと言えないお母さんに経理をやらせたら杜撰なんて言葉じゃ片づかない。
「まったく、なんでそんなに大事なこと1人に任せちゃうのよ」
「小さい会社やったし、それにその人すっごい美人さんやったみたい」
「なにその理由。ばり引くっちゃけど」
「ほとんど男の人ばかりやったし、みんな躍らされていたんやろうね」
「それで、会社はどうなったと?」
察しはついていたけれど、一応聞いてみた。
「多額の借金を抱えて倒産したわ」
やっぱり。
「じゃあ借金あると?」
お母さんがニコッと笑いながら、
「もう完済したけん、安心して」
でもそれって横領したその女が悪いんでしょ?
なんでお父さんが借金背負わなきゃいけないの?
なんだかイライラしてきた。
お母さんが言うには、密かに横領の証拠を集めていたお父さんたち役員の人たちがその女を問い詰めた結果、女は自供し後日逮捕された。
しかし、横領のほとんどは旅費やブランド品で消え、返済額は雀の涙ほどだった。
獅子身中の虫にハメられてしまった。
「まさか借金返済したのって」
心当たりが1人だけいた。
「そう、天彦お爺ちゃん。ママとパパで事情を説明して肩代わりしてもらったんよ」
天彦お爺ちゃんは九州で有名なスイーツ店を経営する中空グループの会長。
仕事中は怖いらしいけれど、私たち孫の前てまはいつもニコニコしている仏のような存在の人。
幼いころ、お姉ちゃんと走り回って遊んでいたときメガネを踏んで割ってしまったことがある。
そのときもまったく怒らなかった。
お母さんはその中空 天彦の三女で、高校が一緒だったお父さんに猛アタックして付き合った。
いつも明るいお母さんは他校の生徒からも告白されるくらい美人だけれど見向きもしなかったらしい。
一方のお父さんは休み時間に教室の端っこで本を読んでいるような人で、決して目立つような存在ではなかったみたい。
お母さん曰く、勉強ができて器用なお父さんは普段大人しいのにみんなでボーリングやビリヤードをする度に新記録を更新し、校内のスポーツ大会でも活躍する姿が格好良かったらしい。
何より顔がタイプだから好きになったって言っていたけれど、いまのメタボ体型といつもだるそうにしている表情からは想像もつかない。
女性と付き合うのはお母さんがはじめてっていうお父さんはいまと変わらず優しい。
タバコもギャンブルもしないし、夜遊びもしない。
天彦お爺ちゃんはほの誠実さを認めて大学卒業と同時に2人の結婚を快諾した。
「お爺ちゃんもよう肩代わりしてくれたとね」
「事情が事情やったし、それに交換条件があったっちゃん」
「交換条件?」
①借金を肩代わりする代わりに地元に戻って中空グループに貢献すること。
②孫(私とお姉ちゃん)に何に一度必ず会わせること。
だから年末年始はいつも実家にお爺ちゃんがいたんだ。
「なんかすごく優しい条件」
やっぱりお爺ちゃんは仏のような人だった。
「でもお父さんが昔社長やったなんて想像もつかんのやけど」
「あのころのパパは生き生きとしててばり格好良かったんよ。どんなに大変でもママとの時間を大切にしてくれるけん」
昔を思い出して顔を赤らめるお母さんの姿を見て私もなんだか恥ずかしくなってくる。
「やっぱりパパとおりたかったし、支えてあげたいって思った。ほら、パパって家事苦手でしょ?」
いや、お母さんも苦手だと思いますが。
お洗濯もお料理も私とお姉ちゃんがやっていますが。
「パパからするとあまり東京に良い思い出がないし、紫苑ちゃんには同じ思いさせたくないって思っとるのかもね」
「でもそんなこと言っとったらいつまで経っても東京行けんやん」
「そやね。ママからも説得しておくけん、パパが素面のときにまた話そうや」
それにしても私とお父さんの誕生日を間違えたり、つい最近まで肘と膝を言い間違えていたり、塩と砂糖を入れ間違えたりするようなお母さんがこういうことを覚えているのはなんだか面白いというか可愛いと思えた。
後日、お父さんが素面のときに家族会議が行われる予定だったけれど、お姉ちゃんが東京の出版社に内定していたことがわかり、お父さんが折れた感じだ。
お父さんはなぜかお姉ちゃんには弱い。
気が強いからなのか口喧嘩が強いからなのかはわからないけれど、いつもお姉ちゃんの言うことには口出ししない。
ー東京行きの日、家族みんなで空港まで送ってくれることになった。
先に上京していたお姉ちゃんも有給を使って前日から実家に戻ってきていた。
車のトランクにキャリーケースを入れ、後部座席に座ろうとするとノアが小走りで寄ってきて尻尾を振りながら私を見つめている。
「ノアともしばらくこお別れやね」と涙声で言うと、私にシンクロしたかのようにクゥーンと寂しそうな声を出しながら私のそばを離れようとしない。
何度も離れようとしてもまた寄ってくる。
その度に私の涙腺が弱くなる。
運転中、お父さんはずっと無言だった。
その表情はどこか寂しげに見えた。
お姉ちゃんを送るときと同じ目をしていた。
お母さんとお姉ちゃんは相変わらずガールズトークで盛り上がっている。
博多空港に着くと、ずっと黙っていたお父さんが一言、何に一度は帰ってきなさいと言った。
その言葉には寂寥を孕んでいたようにも聞こえた。
お母さんはいってらっしゃいと笑顔で見送ってくれたけれど、その目は少し充血しているようにも見えた。
お姉ちゃんと一緒に検査場を通りしばしの別れを告げた。
そんな愛に溢れた家族が大好きだった。
ーあのとき目を開けていたら彼を刺してしまうことなんてなかったのかもしれない。
あのときアイツを家に上げなければあんなことにならなかったのかもしれない。
ううん。
そもそも距離を置いたりしなければ彼が死ぬことなんてなかったのかもしれない。
そう思えば思うほど後悔の念と殺意が襲ってくる。
事件の日を境に私は福岡の実家に帰っていた。
バイトも辞めて学校も辞めた。
ご飯はまともに喉を通らず、不眠症にもなってしまい、毎日のように睡眠薬を飲まないと眠れない身体になってしまった。
家族に相談して不同意性交罪として訴えたけれど、私を強姦したあの男は政治家の息子で多額の示談金で揉み消そうとしてきた。
不起訴処分にして前科をつけたくないのだと思うと身勝手すぎる思考に腹が立った。
でもお金の問題じゃない。
いくら積まれても心の傷が癒えることはないし、彼が還ってくることはないのだから。
ただ、裁判が長く続けば続くほどあの日のことが夢に出てくる。
彼が脇腹を押さえながら崩れていく瞬間の夢を。
もうあの悪夢は見たくない。
ニュースでは事故死ということになっていて詳細は明らかにされていないし大きな報道にはなっていない。
きっとこれも政治家であるアイツの親が関わっているんだろうと思った。
しかし、ネットの世界はそうはいかなかった。
なぜか私とアイツが付き合っていて、彼が浮気相手の設定になっている。
浮気を知った彼が乗り込んできてアイツを殴ろうとしたところを私が庇って刺したことになっている。
『浮気相手が殺人鬼だったなんてヤバすぎ』
『逆上して殴ろうとするなんてサイコパス。死んで当然』
『この彼女、綺麗な顔して二股とかただのビッチじゃん』
彼も私も散々な言われよう。
なんでこんな風になったのかはわからないけれど、これじゃあまるでアイツだけ被害者みたいな展開。
百歩譲って私のことをどうこう言うのは我慢できる。でも、彼のことを論い、謗られたことが赦せなかった。
だからといって何かができるわけじゃない。
気が狂いそうだった。
もうあの家にはいられないし、お姉ちゃんにも火種が飛ぶことを恐れて仕事を辞めて一緒に福岡に帰ることになった。
あの事件がなければお姉ちゃんはいままで通り普通に東京で仕事ができたのに私を責めることは一切せず、むしろ擁護してくれた。
アイツは私からなにもかもを奪った。
大好きな彼はもうこの世にいない。
それなのにあの悪魔だけのうのうと生きている。
それがものすごく赦せなかった。
そう思ったとき、
「ちょっと紫苑、これ観て!」
実家でニュースを観ていたお姉ちゃんが声を張る。
台所でお皿を洗っていた私は手を止めてお姉ちゃんのスマホを覗く。
その内容に驚愕した。
『衆議院議員の砂金 和至議員に収賄疑惑。さらに議員の息子が過去に強制猥褻していた疑惑も浮上』
一生分の傷をアイツに与えてやりたいという胸の奥底に隠していた気持ちが蘇った。
久しぶりにスマホを取り出す。
ここには見たいもの、見たくないもの、知りたいこと、知りたくないことがたくさん埋められている。
ネットを開くと嫌な思いをたくさんするからずっと避けていた。
消せないままでいる彼との写真。
SNSに多くのコメントが寄せられている中、1つのコメントを契機に拡散されている。
『先の件で真実が発覚‼︎先日の東池袋の事件で亡くなった男性。実は被害者の交際相手で、強姦したのは砂金議員の息子だった!亡くなった男性は被害者を庇って亡くなった』
この書き込みをした人物の名は“カワハラ”。
これは偶然?
『あれ事故じゃなかったの?』
『浮気相手が本当の彼氏だったってこと?』
『これが本当だったらやばくね?』
『議員の息子ってことは金で解決されたのか?』
『サイテーなんだけど』
件くだんの書き込みでネット上がざわついている。
数日後、みんなから連絡がきた。
西新宿にあるオシャレなレストランで女子会をすることになった。
東京に行くのなんていつぶりだろう?
あの事件以来気まずくなってしまい、連絡するタイミングを逃していた。
スマホを開くと彼のことを思い出してしまうから……
新幹線で東京に向かう。
飛行機という選択肢もあったが、たまたまキャンペーン中で安くチケットが買えたので新幹線で向かうことにした。
彼と一緒に乗った車両を思い出す。
そんな遠くないはずなのに遥か遠くの記憶に感じてしまう。
何でもない景色がペンキに塗られていくように心臓と海馬を黒く染めていく。
斜め前に座る会社員がノートパソコンを開いて仕事をしている。
キーボードをカタカタ打つ音が大きくて五月蝿い。
もう少し静かにして。
反対側に座っている若いカップルがスマホで動画を観てケタケタ笑いながらイチャついている。
人前でイチャつくなんて目障り。
彼がいなくなってから些細なことにイライラしてしまう自分がいた。
自業自得なのに自己嫌悪に陥る。
このままじゃダメ。
そう思ってある決意をする。
東京駅に着いてからある場所へと向かった。
「本当にいいの?」
「はい。お願いします」
久しぶりに東狐姐さんの店にいた。
何も言わずに福岡に帰ってしまって少し気まずさもあったけれど、いろいろとお世話になったからちゃんと挨拶しようと思った。
あの日から気持ちが落ち着かず、すべてに対して投げやりになっていった。
でもいつまでも落ち込んでなんていられない。
東狐姐さんはてっきりトリートメントかカラーリングだと思っていたらしく、ショートカットにすることを伝えたらものすごく驚いていたけれど、それでも理由は訊かず、10年ぶりに長い髪をバッサリ切ってくれた。
もう一ヶ所、どうしても行っておきたい場所があった。
西東京にある霊園。
彼が亡くなったことを知った遠い親戚がこの霊園にお墓を立ててくれて、そのことを美咲さんが教えてくれた。
私がお墓参りする資格なんてないって思っていたけれど、
「ちゃんと雪落に逢ってあげて」
彼のために言ったのか、それとも私のために言ってくれたのかはわからないけれど、昔から彼のことを知っている美咲さんだからこそその言葉に重みがあった。
ちゃんと謝らないと。
背中を押されるように電車に乗る。
東京駅から新宿と調布を特急で経由しても片道50分以上かかるから人混みの少ない時間を狙って行ったけれど、相変わらず人が流れてくる。
京王線の改札まで押し合うように歩く。
前を歩く60代くらいのおじさんが人を刺すかのように傘の先端をこっちに向けながら手を振って歩いている。
こういう人って周りの人のこと考えないのかな?
右手で引いて歩いていたキャリーケースがすれ違う人の足にぶつかって舌打ちと同時に睨まれた。
小さい声ですみませんと言って謝ったけれどちょっと腹が立った。
まだまだ気持ちが落ち着かない。
自己憐憫なんて言葉を使ったらバチが当たりそうだけれど、胸の奥で焦燥感と抑制心が独楽のようにぐるぐると回っている。
彼の墓が近づくにつれて身体が震えていく。
やっぱり彼に逢うべきじゃないと思ってきた。
怖くて引き返したくなったけれど、美咲さんの言葉を思い出し、深呼吸をして前に進む。
名前の刻まれたお墓を見たら切なくなった。
誰かが挿したお花は少し枯れかけていた。
彼との思い出が走馬灯のように蘇る。
それと入れ替わるように彼の最期の姿が、断末魔の叫びが目の前に映し出されてくる。
花を替え、線香を焚き、手を合わせる。
墓石の前でごめんねと言いながら水をかけると、ずっと我慢してきたものが溢れてきた。
ここでは泣かないって決めていたのに、泣くことすら赦されないって思っていたけれど泪が止まらない。
私の想いを無視するようにどんどんと流れていく。
何度洟を啜っても慟哭してしまう。
ーこれ以上ないくらい墓石の前で咽び泣いた後、紅く染まった瞳を拭って新宿近くのホテルでチェックインを済ませる。
待ち合わせは夜6時に西新宿の“LOVE”のオブジェの前。
ロバート・インディアナというアメリカ人が手がけた赤い彫刻のポップアートで、待ち合わせ場所としてもSNS映えとしても有名な場所。
目的地に向かっている途中、スマホに通知が来た。
「ごめん、間違えて逆方向乗っちゃった。これから新宿方面に戻るからちょっと遅れる」
これは私たちの中で毎回恒例となっている『恋ちゃんあるある』だ。
道を覚えるのが極端に苦手な恋ちゃん。
そういう私もも道を覚えるのは苦手なのだけれど。
上京したてのころ、新宿駅でひたすら迷った記憶がある。
改札が多すぎてどこを行ったら乗り継げるのか全然わからなかった。
道行く人たちはみんな急いでいる様子で道を開けるような雰囲気じゃないし、駅員さんに聞いても冷たい反応をされる。
東京出身の優梨は、都心部はそんなもんだから気にしたら負けだよ。と言って割り切ることを教えてくれた。
ーあの一件以来動いていなかったグループLINE。
止めてしまった原因は私だから申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、マイペースな恋ちゃんを除いては即レスしてくれる優梨と里帆っちに口元が緩む。
今日会ったらみんなに謝らなきゃ。
時間より少し早く着くとそこには里帆っちと優梨がいた。
久しぶりの再会すぎてどんな顔をして良いのかちょっと戸惑った。
すると、私に気がついた里帆っちがニコッと笑いながら「のりしお~」と言いながら抱きついてきた。
昔なら恥ずかしくて照れ隠ししていたけれど、久しぶりに呼ばれたあだ名と里帆っちの柔和な笑顔に懐かしさと嬉しさで泣きそうになった。
「のりしお、ショートカットにしたんだね!かわいい!」
「ありがとう。里帆っちはちょっとふっくらしたんやない?」
「久しぶりの再会の第一声がそれ?ひどくない?」
久しぶりでもこんな冗談の言い合える関係に幸せを感じる。
横にいた優梨が「もう大丈夫なの?」と聞いてきた。
彼のことを忘れたことは一度もない。
現実を受け入れようと頭ではわかっているつもりでも、何かがきっかけで崩れ落ちるかもしれない。
普段なら反射的に大丈夫と言ってしまうのに、優梨には本音が言える。
「だいじょばない、かな」
強がってもバレてしまうし、繕つくろうことを嫌うから何でも話せる。
「優しそうな人だったもんね」
うん、これ以上ないくらいに優しい人だった。
「紫苑のために必死になってくれる人だったもんね」
うん、私が駄目になるくらい愛してくれた。
本当に優しかった。
本当に本当に優しかった。
「少しだけだけど、雰囲気がわかったよ」
私がスマホを落として修理をしに行こうとした日、彼と優梨は不思議な夢を見て偶然出会い話したときにそう思ってくれたらしい。
私は優梨と梨紗っちに「心配かけてごめん」と深くお辞儀をして謝った。
お店は夜6時半に予約している。
まだ着く予定のない恋ちゃんをギリギリまで待つことにした。
結局恋ちゃんが待ち合わせに来たのは15分後。
お店には事前に電話していたのでキャンセル扱いにはならなかったけれど、恋ちゃんが支払いを多めにすることでチャラにした。
場所は西新宿近くにある高級ホテル内のレストラン。
エレベーターを上り、店の入り口に近づくと黒いスーツ姿の店員さんがドアを開けて「ご予約の荒川様ですね?お待ちしておりました」
と出迎えてくれた。
整髪料で整えられた短く黒い髪、奥二重の綺麗な瞳と柔らかな笑顔、180cmくらいの身長がその爽やかな印象を引き立たせる。
名札には酒匂と書いてある。
里帆っちが好きそうな顔をしている。
案の定、横を見ると里帆っちは口元を緩ませながらニヤけていた。
白を基調とした店内には等間隔でシャンデリアが吊るしてあり、床はすべて大理石なんじゃないかと思わせるくらい煌びやかに輝いている。
こんなオシャレなところはじめて来た。
ざっと見た限りでも300席くらいはある。
窓際よテーブル席に案内され、高層ビル群が一望できる。
隣のテーブルにはスーツを着た経営者風のダンディな男性と女子アナ風の美人女性。
その奥にはきっとお金持ちの旦那さんをつかまえたんだろうなって思わせるくらいブランドものを着飾ったマダムたち。
そして何の仕事をしているか見当もつかないちょっとチャラめの男性たちがだらしなく座っていて、カウンターには常連らしき老人がボルドーグラスに入った赤ワインを片手に顔を火照らせながら店員さんと楽しそうに話している。
コース料理を運んでくる酒匂さんは凛々しく、紳士という言葉はこの人のためにあると言っても過言ではない。
それくらいスマートな立ち居振る舞い。
私たちは出てくる料理に感動しながら写真を撮っていた。
自分で言うのも何だが、4人が揃うと本当に五月蝿い。
1つの話題が10にも100にもなる。
すると、そのすらっとした長い足でゆっくりと私たちの前まで来た酒匂さん。
「お客様、失礼ですが……」
ラグジュアリーな雰囲気とジャズが流れるムーディーな店内を壊すかのような喧しさに注意されると思っていると、
「そちらはコトノちゃんでしょうか?」
里帆っちのポーチに付いているマスコットキーホルダーを見ながらそう言う。
きっとこの鳥のマスコットを言っているんだろう。
「コトノちゃん知ってるんですか?」
「えぇ。わたくし京都サンガサポーターなので」
「私もです」
里帆っちは大のサッカー好きで、小さいころから地元のサッカーチームを応援している。
昔サッカー部のマネージャーをしていたこともあるくらい。
サッカーのことはよくわからないけれど、2人の距離がぐーんと縮まった。
酒匂さんと話す里帆っちは乙女のような笑顔で飲んでいたキティのように赤く頬を染めている。
お酒なのか酒匂さんなのかはわからないけれど、すごく楽しそうなのは事実。
「もしかして、京都の方ですか?」
「はい。向日市出身です」
「すごく近いですね。わたくしは鶏冠井の方です」
「鶏冠井なんですか⁉︎私もそっちの方です!」
ただでさえ目が大きいのに、さらに目を大きくさせて飛び跳ねるように喜んでいる里帆っち。
話についていけない私たちは静かに2人の会話を聞いていたけれど、当の本人は2人だけの世界に浸っているように無垢な表情で終始ニコニコしていた。
それからは私の話もちょっとしたけれど、せっかくの再会で重たい空気にしたくなかったからずっと気になっていたことを名付け親に聞いてみた。
私たちのグループLINEのKAWAHARAという名前についてだ。
「小学生のころね、クラスメイトに好きな人がいたの。その人の名前が香和原 翔平くんって言うの。でね、彼はサッカー部のエースだったんだけど、中学に上がるとき、プロになるために京都府内の名門校に進学したの」
「結局彼とは何もなかったの?」
食い気味の恋ちゃんの質問に対し、
「チューはした」
それを聞いた私たちは声を出してテンションが上がる。
「それってさ、彼も好きやったんやないと?」
「どうだろ、わかんない」
「その人里帆ちゃんのこと好きだったと思うな」
「彼は推しみたいな存在だからいいの」
私と恋ちゃんの問いに対し、里帆っちの回答はどこか本心とは違う歪曲された切ない言葉に感じた。
それから他愛もない話をして店を出た。
最後まで酒匂さんに彼女がいるか聞けなかったけれど、里帆っちはなぜか満足気だった。
店を出ると街はネオンで輝いていた。
生ぬるい夜風はほろ酔い気分を覚ますにはちょうど良い。
里帆っちのマシンガントークは絶えず続いたので、新宿駅までみんなで歩くことにした。
歩きながらみんなに質問をする。
「このコメントあげたのってみんなだよね?」
スマホの画面を見せると、
「あの後、先輩アイツの本性暴いてやろうと思ってみんなで色々と調べてたんだけど、そしたらまぁ出てくる出てくる」
「先輩の過去すごくてさ、親の権力を武器に小学生のころからいじめを主導してて、中学時代はそれがエスカレートしてクラスメイトを使って万引きさせたり動物を虐待してたみたい」
「高校生のときなんか学校中の女子を食い漁ってたらしいよ」
優梨の言葉を皮切りに恋ちゃんと里帆っちが続く。
「しかもその寝た相手の写真や動画を勝手にネットにアップして愉しんでたんだって。マジでイカれてるよね」
話を聞くだけで吐き気がしてきた。
バイト中の優しい振る舞いや笑顔は、画面の奥の獣の姿を隠すためだったのかと思うと、何とも形容し難い感情が芽生えてきた。
「ある程度炎上させておいたからきっといまごろは削除されてると思うよ」
優梨たちの暴露に当時の被害者たちが乗っかってくれたことで一気に拡散されたらしい。
馬脚を露すのも時間の問題だと思う。
「先輩のこと調べてるときの優梨ちゃん、まるで探偵みたいだったよね」
「よっ!名探偵ゆりりん!」
恋ちゃんの煽りに里帆っちも便乗する。
みんなのおかげで心の奥の膿が少し取れた気がする。
「天網恢々疎にして漏らさずだね」
「えっ?なんて?」
「れんれん、急にどした?」
恋ちゃんが聞いたことのない言葉を発し、私と里帆っちは一瞬硬直した。
「天網恢々、疎にして漏らさず。だよ」
当然知ってますよねのスタンスで言い直されてもさっぱりわからないんですが。
反芻しようにも文字がまったく浮かんでこない。
「悪さをしたものには天罰が下るって意味でしょ?」
優梨が意味を説明してくれたがそれでも理解できなかった。
初めて耳にする言葉に脳が追いついていない。
「いや、はじめて聞いたんですけど」
「そんな言葉どこで知ったと?」
「なんかね、私と優梨ちゃんの好きなゲームに出てくる推しキャラの言葉なの」
「敵をやっつけた後に剣を振りながら言うんだけど、クールで超かっこいいよね」
私も里帆っちもゲームをしないからわけがわからずポカーンとしている。
「里帆ちゃんも紫苑ちゃんもやってみて。無料でダウンロードできるから」
「う、うん。考えとく」
「私も」
いつの間にか話が脱線したけれど、どんなときも変わらず接してくれるみんなが大好き。
やっぱり持つべきものは友。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
みんなとお別れした後、ホテルに帰る途中、私は最も会いたくなかった人に会ってしまった。
そう、私を犯した男。
人の人生をぶち壊した悪魔は偶然を装い、SNSで私の居場所を突き止めていた。
もう会わない約束したはずなのに、この男にはそんな約束意味をなさなかった。
「久しぶり。ショートカットも似合ってんじゃん」
顔を見るだけで、声を聞くだけで虫唾が走る。
シカトしてエントランスへ向かおうとしたけれど、腕をぐっと強く掴まれた。
その瞬間あの日の出来事が走馬灯のように蘇ってきて、恐怖の再来と同時に何かのスイッチが入った。
「会いたかったです」
目は合わさず感情を無にして言った。
「あのときは無理矢理襲って悪かったよ。こうして最初から向き合っていれば良かった」
この男はどこまで身勝手で阿呆なのだろう。
ナルシストすぎて反吐へどが出そうだった。
人生の1ページを鹵掠したこの男はに復讐しないと気が済まない。
彼が報われない。
そう思った。
きっと黙っていても何いずれ捕まるだろうけれど私自身の手でやりたかった。
「今日ここに泊まってるんです」
「神法、やっぱりあの日のことが相当刺激的だったんだね」
何も応えずそのまま部屋に入った。
「先にシャワー浴びてきてください」
「そうさせてもらうよ」
髪をかきあげながらシャワーを浴びにいっている隙に部屋に常備されていたスティック状のコーヒーをカップに入れ、温めたお湯で溶かす。
バスローブ姿で出てきた先輩をソファを座らせ、コーヒーを差し出す。
「気が利くね」
ニコニコしながらそう言う先輩の言葉を無視して向かい側に座る。
「2人きりなんだから隣においでよ」
脚を組み、左手でソファをトントンと軽く叩きながら座って欲しそうにしている。
「ちょっと緊張してて」
斜め下を向きながら口角だけ上げた。
「そうだよね。まぁ時間はあるんだし、楽しもう」
そう言って一口、ゆっくりとコーヒーを飲む。
喉を通ったことを確認すると私は確信を持ちながら立ち上がった。
程なくして先輩はその場に倒れ込んだ。
そう、あの日以来バッグに常備していた睡眠薬をコーヒーの中に大量に投与していた。
復讐は成功した。
**
古くてボロい部屋。
小さな机の上には小さなテレビが置かれている。
畳の匂いがする雑居房。
私はここで何年過ごすのだろう。
早めにチェックアウトをして向かった先は警察署。
コーヒーの中に大量の睡眠薬を投与した後、あの男が苦しむ姿を想像しながら自首をした。
後悔はしていない。
むしろ清々しい気持ちだった。
刑務所での生活は思っていたものとは少し違った。
「やばっ!めっちゃ美人!」
雑居房に入っていきなり声をかけられた。
同じ部屋にいたちょっと気の強そうなギャル風の人。
「あ、ありがとうございます」
動揺してぎこちない応え方をしてしまった。
こういう世界では友情や愛といった概念はなく、心を開くこともなく、一定の距離を保ったままの関係だと思っていたから驚いた。
ピアスの痕や首元のタトゥーなど、昔ヤンチャしていたのかなと思わせるその人は私と相部屋。
見た感じ同世代くらいかな?
「そのメモ帳ってNarrative Landだよね?しかも限定ものの」
ナラランはたまに期間限定でノベルティーを出していた。
このメモ帳はそのときのもの。
同じノベルティーで化粧ポーチやリップクリームとかもあったけれど、ここに持ってくることは許されず、ポケットサイズの小さなメモ帳だけ許可された。
このメモ帳には彼との思い出が詰まっている。
彼と行ったお店や彼と行く予定だった場所。
デートのときに撮ったプリクラをいくつも貼っていたので、肌身離さず持っていた。
「えっ?ナララン知っとーと?」
「もちろん知ってるよ。美羽さんのカリスマ性や毒舌も好き。ってか博多弁?」
若い世代で名の知れたブランドだけれど、やはり自分の好きなものや憧れている人を褒めてもらえるのは嬉しい。
「こんな美人で博多弁話すとかウチが男だったらすぐ告っちゃうかも笑」
初対面とは思えないほどグイグイくる。
いままで出会った人の中にはいなかったタイプだ。
「ねぇねぇ、福岡出身ってことは『おっとっと』の早口言葉のやつ言える?」
おっとっとの早口言葉とは、
『おっとっと取っておいてって言ったのになんで取っておいてくれなかったの?』
というのを博多弁で言った場合、
「『おっとっと取っとってって言っとったのになんで取っとってくれんかったと?』」
私たちからするとなんてことのない会話なのだけれも、こっちの人からすると早口言葉に聞こえるらしい。
私は力むことなくすらすらと言ってみせた。
「本物だ~、かわいい!あっ、初対面なのにごめんね。私、綺麗な人や可愛い人見るとテンション上がって話しかけちゃうんだよね。イヤだった?」
「あ、いえ、そんなことないです。全然悪い癖やないと思うし」
「良かった。あなた名前は?」
「神法 紫苑って言います」
「何その神々しい苗字」
そう言いながら彼女は部屋にあった鉛筆と紙切れを取り、自分の名前を書いて見せてきた。
「うち、鬼灯 朱花って言うの」
いやいや、人のこと言えないと思いますが。
ってか明るい。テンション高い。本当に受刑者?
「赤い花って書いて朱花って読むんですね、良い名前」
「そうかな?母親が赤い花が好きだからって理由でつけたらしいよ。安易すぎない?」
「ちなみに誕生日っていつですか?」
唐突すぎる質問に目をパチパチをさせながら、
「8月2日だけど」
「ってことは多分ノコギリソウと関係してるかもしれないですね」
「ノコギリソウって、そのなに怖い名前」
ノコギリソウ、お花を知らない人からしたらたしかに恐ろしい名前。
「名前はインパクトありますけど、花弁は赤く綺麗ですごく可愛いんですよ。もしかしたらお母さんの好きな赤い花と何かシンパシーみたいなものを感じたのかもしれないですよ」
「紫苑ってロマンチストなんだね」
「そ、そうですか?」
「あと敬語使わなくていいよ。この部屋では年齢とかそういうの関係ないから」
「うん、わかった」
朱花はこの刑務所でできたはじめての友達。友達という表現は正しいかどうかわからないけれど、まいっか。
「ちなみに紫苑は何したの?」
「殺人未遂」
「そんな可愛い顔してすっごいことしたのね」
ちょっと引いている?
「朱花は何したの?」
「私はドラッグ」
お互いなかなかの罪だ。
「こんなこと聞いて良いのかわかんないけど、紫苑はなんで殺人を?」
私はあの日、バイト先の先輩に強姦されたこと。庇ってくれたあの人を刺してしまったことを話した。
「それって悪いのその先輩じゃん。冤罪だよ」
「でもその後に未遂を犯したのは事実だから」
そこからの私の人生は転落していった。
まだ人生の半分も過ごしてないのに、大切な人を失って人生がめちゃくちゃになった。
身も蓋もないことをネットで言われ、たくさん傷ついた。
他人の方が圧倒的に多いから無理もないかもしれないけれど、それでも言葉や文字というものは人の心を簡単に傷つけてしまう。
「そっか……紫苑、この部屋で良かったね」
「えっ?」
「他の部屋だと新人へのいじめとかもすごいらしいよ。布団や食事を取り上げられたり、強制的にマッサージさせられたり。すぐ隣の部屋にはお局つぼねみたいな人がいてさ、彼女に逆らうと服役期間が延びるって噂もあるの」
朱花の話し声に反応したのか、奥で寝ていた人が起きてきた。
「楓、起きたね。おっはー」
楓と呼ばれるその人は長い睫毛に細い目、口元に黒子があり楚々としている。
「おはよう。この子新入り?」
少し眠たそうな顔のまま静かに話す。
「神法 紫苑です。よろしくお願いします」
挨拶をすると、人見知りなのか目も合わさず軽く会釈をするのみだった。
「この子は楪 楓。詐欺で捕まったの」
こんな清楚な人が詐欺?
「朱花、昔キックボクシングやってたから気をつけた方がいいよ」
「ちょっと楓、脅かすようなこと言わないでよ。ダイエットしようと思って手遊び程度にやってただけだから」
クスッと笑うとかえではまたすぐ眠ってしまった。
ほんの少しの時間だったけれど、2人の仲の良さを窺える。
哀しくも刑務所での生活も慣れてきてしまった。
でもあの日の記憶は鮮明に覚えている。
私がアイツを殺めようとしたせいで彼と離れ離れになってしまった。
いっそのこと彼のもとへと行こうかなとも思ったけれど、そんなことしたら怒られそう。
『命は時間と同じくらい大切だから雑に扱っちゃいけない。自分と自分の大切な人との時間はとくに大事にしないと』
っていつも言っていたよね。
たまに小説家のようなことをさらっと言うんだから。
ここ最近、なんだか左胸の辺りがキリキリと痛む。
針とか串なんかじゃ比にならない。
薙刀くらい鋭利なもので心臓の奥まで突き刺してくるようなそんな痛み。
それが立て続けにやってくる。
「ちょっと紫苑、大丈夫?」
胸を押さえながら急に項垂れた私を見た朱花が心配してくれる。
切羽詰まったようなその声に起きた楓が私のもとにやってきて、
「ちょっと見せて」
私も朱花も驚いたが、その真剣な眼差しが何かを訴えかけているかのように感じ、言われるがまま服を脱いで胸を見せると左の胸に痼ができていた。
こんなのあったっけ?
楓がその痼を軽く押す。
「痛っ!」
「これいつから?」
真剣な表情で聞いてくる楓。
「覚えてないけど、ここに来るまでにはなかったと思う」
「もしかしたら乳癌の初期症状かもね」
嘘でしょ?
いままでずっと健康的だったのに。
「乳癌は日本人女性の中でもトップの罹患率。だいたい10人に1人の割合くらいで、乳癌になった人の約30%が亡くなってしまうって言われてるの。その数字は年々増加しているわ」
「ちょっと楓、物騒なこと言わないでよ」
朱花の口調が少し荒い気がした。
「まだ確証はないし私も専門家じゃないからわからないけど、もしこのまま痛むなら医療刑務所に行って診てもらった方がいいわ」
「ってか楓、何でそんなに詳しいの?」
「私ね、捕まるまで医療を学んでたの。医師になりたくてね。家庭の事情で学費は自分で稼がないといけなかったんだけど、どうしても払えなくて……」
経済面や家庭の事情で夢を諦めなきゃいけない人は大勢いる。
楓も本当は勉強だけに集中したかったのだと思う。
でも自分で稼がなきゃやっていられないくらい厳しい環境だったのだと思うと、私はすごく恵まれていたことに気づかされた。
私も夢に向かって早く刑務所ここを出なきゃ。
その気持ちとは裏腹に痛みが激しさを増した。
待って、どうしよう。
まさか私、癌で死ぬの?
しかもここで?
「紫苑を早く病院に……」
朱花の言葉を遮るように楓が言う。
「この刑務所、医療の管理が杜撰で有名なの。ちゃんとした医療を受けられる可能性は極めて低いからあまり期待しない方がいいわ」
「でも、病気かもしれないんだよ?」
朱花がまたも感情的になっている。すごい剣幕だ。
気持ちは嬉しいけれど、楓に言っても仕方ないよ。
後日、看守に言って医療刑務所で診てもらうことができた。
「ステージ4ね」
冷静に無感情に言う女性医師。
医師によると、ステージ4は末期の状態で生存率は低いそうだ。
「とりあえずこれを飲んでおいて。また何かあったら看守経由で教えてちょうだい」
作業のように淡々と話す。
痛み止めってそれだけ?日に日に痛みが増しているんですが。
発熱とか倦怠感とかもあるのにそんな簡易的な。
「あの、入院とかはできないんですか?治療は?」
こちらの態度に反するように、面倒くさそうな顔で冷たい視線を浴びせながら、
「残念だけど、いま病室がいっぱいなの」
何よそれ。
私まだ21歳だよ?
もし神様がいるのならひどすぎない?
そう思いながらも痛みはさらに増していく。
(痛い、痛い……)
それから数日間、痛み止めのおかげで少しは和らいだがそれでもただの気休め程度。
痛みが消えることはなかった。
ーある日、看守に呼び出された。
病室に空きが出たという理由で医療刑務所に移ることが決まった。
「お別れだね」
「短い間だったけど一緒に過ごせて良かった」
朱花と楓に見送られながら刑務所を後にする。
2人とは不思議なくらい仲良くなれた気がする。
上手く表現できないけれど、まるで昔から知っていたかのように心を開けた。
「ありがとう。またね」
そう言って別れた。
医療刑務所に移ってしばらくは痛みもなく完治できるかと期待していた矢先、私の身体は言うことを聞いてくれずにそのまま意識を失った。
「……慶永」
どこからか声が聞こえた気がした。
一瞬だけだがその声に聞き覚えがあった。
久しぶりに聞く少し太いその声。
幼いころに亡くなった父さんの声だ。
生前の記憶が流れてくる。
ー家族4人揃って河原近くのキャンプ場で遊んでいる。
ジーンズを膝まで捲り、水流に佇む石の上をジャンプしながら向こう側に渡る遊びをしている父さんと兄さんの姿を見て真似したくなったのか、「僕もやる!」と言って2人に続く。
横断歩道の白線だけを渡るように兄さんに続いて石の上を飛んで遊んでいると、
「慶永、あぶないわよ」
心配する母さんの言葉は俺の耳を素通りしていった。
リズミカルに飛んでいく父さんに続こうと兄さんがジャンプすると着地に失敗して川に落ちた。
子供でも足が着くほどの深さだったのに水の勢いは思っていたよりも急で、人の身体が紙切れのように簡単に流されていった。
急流に流されていく兄さんを父さんが急いで助けに行くが、自然の猛威は恐ろしく2人はあっという間に流されていった。
母さんは動揺を隠しきれずひどく狼狽している。
数十分後、兄さんは下流の近くの砂利で見つかった。
意識はなかったが息はしていた。
しかし、助けに行ったはずの父さんが見つかることはなかった。
遺体が見つかったのは数週間後の川のほとりだった。
🍦
福岡の田舎町で生まれ育った私は、寡黙な寛樹お父さん、ちょっと天然だけれどいつも笑顔の菖蒲お母さん、クールな姉の桜咲と犬のノアの5人家族。
ホークスファンのお父さんは試合中いつも缶ビール片手にソファに座って中継を観る。
普段は寡黙なお父さんもそのときだけは、「いまのはストライクやろ」とか、「いまの球なんで打たんとや」とか、ちょっと怖いくらいに熱が入る。
とくにWBCっていう世界大会のときなんか画面に釘づけでテレビから一歩も動こうとせずお酒の摂取量もいつもの倍多かった。
お母さんは台所で食器を片づけながらお姉ちゃんと好きな俳優とデートするならどこに行く?という妄想話や、最新の美容グッズの話で盛り上がっている。
私はファッション雑誌を読んだり、ネットサーフィンをして暇つぶしをするのが我が家の日常。
高校2年生のある日、リビングでお母さんに進路について聞かれたときのこと。
この日もお父さんは缶ビール片手に野球を観ていたが、白熱した展開だったみたいでビールを飲むペースが早く顔が真っ赤だった。
私の夢はファッションデザイナー。
東京の学校でファッションを学びたいとお母さんに話していたとき、聞き耳を立てていたお父さんがソファ越しに口を挟んできた。
その内容は東京に行けばファッションの最先端に触れられることを話してもお父さんは頑なに否定した。
なんでダメなのか問いただしてもちゃんとした理由を教えてくれない。
この態度に腹が立ち、感情的になった。
「そんなんじゃいつまで経っても東京行けんやん」
リビングに不安な空気が流れる。
「本人が行きたいって言うなら行かせてみたら?」
お母さんが空気を戻そうと味方してくれる。
「そんな真っ赤な顔で言っても説得力ないけん、素面のときに話しなよ」
冷静なお姉ちゃんが芯をつく。
神法家で男はお父さんだけ。
こういうときの男性は不利って聞いたことあるけれど、このときの我が家の状況もまさにそれ。
ばつが悪くなったお父さんはそこから私とは一言も喋らず再び野球を観だした。
私は気持ちを落ち着かせるため、冷蔵庫から新作のはちみつ味のアイスを取り出し、2階の自分の部屋へと戻ってYou Tubeを観た。
アイスを食べたら落ち着いてきた。
お父さんと喧嘩したのなんて何年ぶりだろう。
お酒が入っていたとはいえ、なんであんな頑なに東京行きを反対する理由がわからなかった。
ファッションだけじゃなく、どの世界で生きていくのも大変なのはわかっている。
でもやりたいと思ったことはやりたい。
だって一度きりの人生だから。
後日お父さんに東京行きを反対する理由を聞いてみようと思っていると、ドアをコンコンとノックする音がした。
ドアを開けた先にいたのはお母さんだった。
きっと心配して来てくれていたんだろう。
横並びでソファに腰掛けると、いつになく真剣な表情で話してくれた。
「紫苑が生まれてすぐくらいのころかな。お父さん東京で会社の経営をしていたことがあってね、友達と食品関係の会社を立ち上げて最初の2、3年は調子良くて徐々に軌道に乗り始めていったんやけど、4年目のときに新しく雇った経理担当の人にお金を横領されてしまったんよ」
お父さんが東京で経営していたことをはじめて知った。でもそれ以上に横領されていたことに驚いた。
「横領ってどのくらいされとったん?
「3年間」
「3年間も⁉︎そんなに長いこと横領されとって何で誰も気づけんかっと?」
お母さんによると、大口の支払い以外のもの、すなわち小口系の支払いの管理はすべてその経理担当に任せっきりだったみたい。
経営のこととかよくわからないけれど、管理体制が杜撰なことだけはわかった。
「お母さんが経理をやればよかったんやないと?」
「ママに経理ができると本当に思っとる?」
たしかに。
いまだに九九がちゃんと言えないお母さんに経理をやらせたら杜撰なんて言葉じゃ片づかない。
「まったく、なんでそんなに大事なこと1人に任せちゃうのよ」
「小さい会社やったし、それにその人すっごい美人さんやったみたい」
「なにその理由。ばり引くっちゃけど」
「ほとんど男の人ばかりやったし、みんな躍らされていたんやろうね」
「それで、会社はどうなったと?」
察しはついていたけれど、一応聞いてみた。
「多額の借金を抱えて倒産したわ」
やっぱり。
「じゃあ借金あると?」
お母さんがニコッと笑いながら、
「もう完済したけん、安心して」
でもそれって横領したその女が悪いんでしょ?
なんでお父さんが借金背負わなきゃいけないの?
なんだかイライラしてきた。
お母さんが言うには、密かに横領の証拠を集めていたお父さんたち役員の人たちがその女を問い詰めた結果、女は自供し後日逮捕された。
しかし、横領のほとんどは旅費やブランド品で消え、返済額は雀の涙ほどだった。
獅子身中の虫にハメられてしまった。
「まさか借金返済したのって」
心当たりが1人だけいた。
「そう、天彦お爺ちゃん。ママとパパで事情を説明して肩代わりしてもらったんよ」
天彦お爺ちゃんは九州で有名なスイーツ店を経営する中空グループの会長。
仕事中は怖いらしいけれど、私たち孫の前てまはいつもニコニコしている仏のような存在の人。
幼いころ、お姉ちゃんと走り回って遊んでいたときメガネを踏んで割ってしまったことがある。
そのときもまったく怒らなかった。
お母さんはその中空 天彦の三女で、高校が一緒だったお父さんに猛アタックして付き合った。
いつも明るいお母さんは他校の生徒からも告白されるくらい美人だけれど見向きもしなかったらしい。
一方のお父さんは休み時間に教室の端っこで本を読んでいるような人で、決して目立つような存在ではなかったみたい。
お母さん曰く、勉強ができて器用なお父さんは普段大人しいのにみんなでボーリングやビリヤードをする度に新記録を更新し、校内のスポーツ大会でも活躍する姿が格好良かったらしい。
何より顔がタイプだから好きになったって言っていたけれど、いまのメタボ体型といつもだるそうにしている表情からは想像もつかない。
女性と付き合うのはお母さんがはじめてっていうお父さんはいまと変わらず優しい。
タバコもギャンブルもしないし、夜遊びもしない。
天彦お爺ちゃんはほの誠実さを認めて大学卒業と同時に2人の結婚を快諾した。
「お爺ちゃんもよう肩代わりしてくれたとね」
「事情が事情やったし、それに交換条件があったっちゃん」
「交換条件?」
①借金を肩代わりする代わりに地元に戻って中空グループに貢献すること。
②孫(私とお姉ちゃん)に何に一度必ず会わせること。
だから年末年始はいつも実家にお爺ちゃんがいたんだ。
「なんかすごく優しい条件」
やっぱりお爺ちゃんは仏のような人だった。
「でもお父さんが昔社長やったなんて想像もつかんのやけど」
「あのころのパパは生き生きとしててばり格好良かったんよ。どんなに大変でもママとの時間を大切にしてくれるけん」
昔を思い出して顔を赤らめるお母さんの姿を見て私もなんだか恥ずかしくなってくる。
「やっぱりパパとおりたかったし、支えてあげたいって思った。ほら、パパって家事苦手でしょ?」
いや、お母さんも苦手だと思いますが。
お洗濯もお料理も私とお姉ちゃんがやっていますが。
「パパからするとあまり東京に良い思い出がないし、紫苑ちゃんには同じ思いさせたくないって思っとるのかもね」
「でもそんなこと言っとったらいつまで経っても東京行けんやん」
「そやね。ママからも説得しておくけん、パパが素面のときにまた話そうや」
それにしても私とお父さんの誕生日を間違えたり、つい最近まで肘と膝を言い間違えていたり、塩と砂糖を入れ間違えたりするようなお母さんがこういうことを覚えているのはなんだか面白いというか可愛いと思えた。
後日、お父さんが素面のときに家族会議が行われる予定だったけれど、お姉ちゃんが東京の出版社に内定していたことがわかり、お父さんが折れた感じだ。
お父さんはなぜかお姉ちゃんには弱い。
気が強いからなのか口喧嘩が強いからなのかはわからないけれど、いつもお姉ちゃんの言うことには口出ししない。
ー東京行きの日、家族みんなで空港まで送ってくれることになった。
先に上京していたお姉ちゃんも有給を使って前日から実家に戻ってきていた。
車のトランクにキャリーケースを入れ、後部座席に座ろうとするとノアが小走りで寄ってきて尻尾を振りながら私を見つめている。
「ノアともしばらくこお別れやね」と涙声で言うと、私にシンクロしたかのようにクゥーンと寂しそうな声を出しながら私のそばを離れようとしない。
何度も離れようとしてもまた寄ってくる。
その度に私の涙腺が弱くなる。
運転中、お父さんはずっと無言だった。
その表情はどこか寂しげに見えた。
お姉ちゃんを送るときと同じ目をしていた。
お母さんとお姉ちゃんは相変わらずガールズトークで盛り上がっている。
博多空港に着くと、ずっと黙っていたお父さんが一言、何に一度は帰ってきなさいと言った。
その言葉には寂寥を孕んでいたようにも聞こえた。
お母さんはいってらっしゃいと笑顔で見送ってくれたけれど、その目は少し充血しているようにも見えた。
お姉ちゃんと一緒に検査場を通りしばしの別れを告げた。
そんな愛に溢れた家族が大好きだった。
ーあのとき目を開けていたら彼を刺してしまうことなんてなかったのかもしれない。
あのときアイツを家に上げなければあんなことにならなかったのかもしれない。
ううん。
そもそも距離を置いたりしなければ彼が死ぬことなんてなかったのかもしれない。
そう思えば思うほど後悔の念と殺意が襲ってくる。
事件の日を境に私は福岡の実家に帰っていた。
バイトも辞めて学校も辞めた。
ご飯はまともに喉を通らず、不眠症にもなってしまい、毎日のように睡眠薬を飲まないと眠れない身体になってしまった。
家族に相談して不同意性交罪として訴えたけれど、私を強姦したあの男は政治家の息子で多額の示談金で揉み消そうとしてきた。
不起訴処分にして前科をつけたくないのだと思うと身勝手すぎる思考に腹が立った。
でもお金の問題じゃない。
いくら積まれても心の傷が癒えることはないし、彼が還ってくることはないのだから。
ただ、裁判が長く続けば続くほどあの日のことが夢に出てくる。
彼が脇腹を押さえながら崩れていく瞬間の夢を。
もうあの悪夢は見たくない。
ニュースでは事故死ということになっていて詳細は明らかにされていないし大きな報道にはなっていない。
きっとこれも政治家であるアイツの親が関わっているんだろうと思った。
しかし、ネットの世界はそうはいかなかった。
なぜか私とアイツが付き合っていて、彼が浮気相手の設定になっている。
浮気を知った彼が乗り込んできてアイツを殴ろうとしたところを私が庇って刺したことになっている。
『浮気相手が殺人鬼だったなんてヤバすぎ』
『逆上して殴ろうとするなんてサイコパス。死んで当然』
『この彼女、綺麗な顔して二股とかただのビッチじゃん』
彼も私も散々な言われよう。
なんでこんな風になったのかはわからないけれど、これじゃあまるでアイツだけ被害者みたいな展開。
百歩譲って私のことをどうこう言うのは我慢できる。でも、彼のことを論い、謗られたことが赦せなかった。
だからといって何かができるわけじゃない。
気が狂いそうだった。
もうあの家にはいられないし、お姉ちゃんにも火種が飛ぶことを恐れて仕事を辞めて一緒に福岡に帰ることになった。
あの事件がなければお姉ちゃんはいままで通り普通に東京で仕事ができたのに私を責めることは一切せず、むしろ擁護してくれた。
アイツは私からなにもかもを奪った。
大好きな彼はもうこの世にいない。
それなのにあの悪魔だけのうのうと生きている。
それがものすごく赦せなかった。
そう思ったとき、
「ちょっと紫苑、これ観て!」
実家でニュースを観ていたお姉ちゃんが声を張る。
台所でお皿を洗っていた私は手を止めてお姉ちゃんのスマホを覗く。
その内容に驚愕した。
『衆議院議員の砂金 和至議員に収賄疑惑。さらに議員の息子が過去に強制猥褻していた疑惑も浮上』
一生分の傷をアイツに与えてやりたいという胸の奥底に隠していた気持ちが蘇った。
久しぶりにスマホを取り出す。
ここには見たいもの、見たくないもの、知りたいこと、知りたくないことがたくさん埋められている。
ネットを開くと嫌な思いをたくさんするからずっと避けていた。
消せないままでいる彼との写真。
SNSに多くのコメントが寄せられている中、1つのコメントを契機に拡散されている。
『先の件で真実が発覚‼︎先日の東池袋の事件で亡くなった男性。実は被害者の交際相手で、強姦したのは砂金議員の息子だった!亡くなった男性は被害者を庇って亡くなった』
この書き込みをした人物の名は“カワハラ”。
これは偶然?
『あれ事故じゃなかったの?』
『浮気相手が本当の彼氏だったってこと?』
『これが本当だったらやばくね?』
『議員の息子ってことは金で解決されたのか?』
『サイテーなんだけど』
件くだんの書き込みでネット上がざわついている。
数日後、みんなから連絡がきた。
西新宿にあるオシャレなレストランで女子会をすることになった。
東京に行くのなんていつぶりだろう?
あの事件以来気まずくなってしまい、連絡するタイミングを逃していた。
スマホを開くと彼のことを思い出してしまうから……
新幹線で東京に向かう。
飛行機という選択肢もあったが、たまたまキャンペーン中で安くチケットが買えたので新幹線で向かうことにした。
彼と一緒に乗った車両を思い出す。
そんな遠くないはずなのに遥か遠くの記憶に感じてしまう。
何でもない景色がペンキに塗られていくように心臓と海馬を黒く染めていく。
斜め前に座る会社員がノートパソコンを開いて仕事をしている。
キーボードをカタカタ打つ音が大きくて五月蝿い。
もう少し静かにして。
反対側に座っている若いカップルがスマホで動画を観てケタケタ笑いながらイチャついている。
人前でイチャつくなんて目障り。
彼がいなくなってから些細なことにイライラしてしまう自分がいた。
自業自得なのに自己嫌悪に陥る。
このままじゃダメ。
そう思ってある決意をする。
東京駅に着いてからある場所へと向かった。
「本当にいいの?」
「はい。お願いします」
久しぶりに東狐姐さんの店にいた。
何も言わずに福岡に帰ってしまって少し気まずさもあったけれど、いろいろとお世話になったからちゃんと挨拶しようと思った。
あの日から気持ちが落ち着かず、すべてに対して投げやりになっていった。
でもいつまでも落ち込んでなんていられない。
東狐姐さんはてっきりトリートメントかカラーリングだと思っていたらしく、ショートカットにすることを伝えたらものすごく驚いていたけれど、それでも理由は訊かず、10年ぶりに長い髪をバッサリ切ってくれた。
もう一ヶ所、どうしても行っておきたい場所があった。
西東京にある霊園。
彼が亡くなったことを知った遠い親戚がこの霊園にお墓を立ててくれて、そのことを美咲さんが教えてくれた。
私がお墓参りする資格なんてないって思っていたけれど、
「ちゃんと雪落に逢ってあげて」
彼のために言ったのか、それとも私のために言ってくれたのかはわからないけれど、昔から彼のことを知っている美咲さんだからこそその言葉に重みがあった。
ちゃんと謝らないと。
背中を押されるように電車に乗る。
東京駅から新宿と調布を特急で経由しても片道50分以上かかるから人混みの少ない時間を狙って行ったけれど、相変わらず人が流れてくる。
京王線の改札まで押し合うように歩く。
前を歩く60代くらいのおじさんが人を刺すかのように傘の先端をこっちに向けながら手を振って歩いている。
こういう人って周りの人のこと考えないのかな?
右手で引いて歩いていたキャリーケースがすれ違う人の足にぶつかって舌打ちと同時に睨まれた。
小さい声ですみませんと言って謝ったけれどちょっと腹が立った。
まだまだ気持ちが落ち着かない。
自己憐憫なんて言葉を使ったらバチが当たりそうだけれど、胸の奥で焦燥感と抑制心が独楽のようにぐるぐると回っている。
彼の墓が近づくにつれて身体が震えていく。
やっぱり彼に逢うべきじゃないと思ってきた。
怖くて引き返したくなったけれど、美咲さんの言葉を思い出し、深呼吸をして前に進む。
名前の刻まれたお墓を見たら切なくなった。
誰かが挿したお花は少し枯れかけていた。
彼との思い出が走馬灯のように蘇る。
それと入れ替わるように彼の最期の姿が、断末魔の叫びが目の前に映し出されてくる。
花を替え、線香を焚き、手を合わせる。
墓石の前でごめんねと言いながら水をかけると、ずっと我慢してきたものが溢れてきた。
ここでは泣かないって決めていたのに、泣くことすら赦されないって思っていたけれど泪が止まらない。
私の想いを無視するようにどんどんと流れていく。
何度洟を啜っても慟哭してしまう。
ーこれ以上ないくらい墓石の前で咽び泣いた後、紅く染まった瞳を拭って新宿近くのホテルでチェックインを済ませる。
待ち合わせは夜6時に西新宿の“LOVE”のオブジェの前。
ロバート・インディアナというアメリカ人が手がけた赤い彫刻のポップアートで、待ち合わせ場所としてもSNS映えとしても有名な場所。
目的地に向かっている途中、スマホに通知が来た。
「ごめん、間違えて逆方向乗っちゃった。これから新宿方面に戻るからちょっと遅れる」
これは私たちの中で毎回恒例となっている『恋ちゃんあるある』だ。
道を覚えるのが極端に苦手な恋ちゃん。
そういう私もも道を覚えるのは苦手なのだけれど。
上京したてのころ、新宿駅でひたすら迷った記憶がある。
改札が多すぎてどこを行ったら乗り継げるのか全然わからなかった。
道行く人たちはみんな急いでいる様子で道を開けるような雰囲気じゃないし、駅員さんに聞いても冷たい反応をされる。
東京出身の優梨は、都心部はそんなもんだから気にしたら負けだよ。と言って割り切ることを教えてくれた。
ーあの一件以来動いていなかったグループLINE。
止めてしまった原因は私だから申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、マイペースな恋ちゃんを除いては即レスしてくれる優梨と里帆っちに口元が緩む。
今日会ったらみんなに謝らなきゃ。
時間より少し早く着くとそこには里帆っちと優梨がいた。
久しぶりの再会すぎてどんな顔をして良いのかちょっと戸惑った。
すると、私に気がついた里帆っちがニコッと笑いながら「のりしお~」と言いながら抱きついてきた。
昔なら恥ずかしくて照れ隠ししていたけれど、久しぶりに呼ばれたあだ名と里帆っちの柔和な笑顔に懐かしさと嬉しさで泣きそうになった。
「のりしお、ショートカットにしたんだね!かわいい!」
「ありがとう。里帆っちはちょっとふっくらしたんやない?」
「久しぶりの再会の第一声がそれ?ひどくない?」
久しぶりでもこんな冗談の言い合える関係に幸せを感じる。
横にいた優梨が「もう大丈夫なの?」と聞いてきた。
彼のことを忘れたことは一度もない。
現実を受け入れようと頭ではわかっているつもりでも、何かがきっかけで崩れ落ちるかもしれない。
普段なら反射的に大丈夫と言ってしまうのに、優梨には本音が言える。
「だいじょばない、かな」
強がってもバレてしまうし、繕つくろうことを嫌うから何でも話せる。
「優しそうな人だったもんね」
うん、これ以上ないくらいに優しい人だった。
「紫苑のために必死になってくれる人だったもんね」
うん、私が駄目になるくらい愛してくれた。
本当に優しかった。
本当に本当に優しかった。
「少しだけだけど、雰囲気がわかったよ」
私がスマホを落として修理をしに行こうとした日、彼と優梨は不思議な夢を見て偶然出会い話したときにそう思ってくれたらしい。
私は優梨と梨紗っちに「心配かけてごめん」と深くお辞儀をして謝った。
お店は夜6時半に予約している。
まだ着く予定のない恋ちゃんをギリギリまで待つことにした。
結局恋ちゃんが待ち合わせに来たのは15分後。
お店には事前に電話していたのでキャンセル扱いにはならなかったけれど、恋ちゃんが支払いを多めにすることでチャラにした。
場所は西新宿近くにある高級ホテル内のレストラン。
エレベーターを上り、店の入り口に近づくと黒いスーツ姿の店員さんがドアを開けて「ご予約の荒川様ですね?お待ちしておりました」
と出迎えてくれた。
整髪料で整えられた短く黒い髪、奥二重の綺麗な瞳と柔らかな笑顔、180cmくらいの身長がその爽やかな印象を引き立たせる。
名札には酒匂と書いてある。
里帆っちが好きそうな顔をしている。
案の定、横を見ると里帆っちは口元を緩ませながらニヤけていた。
白を基調とした店内には等間隔でシャンデリアが吊るしてあり、床はすべて大理石なんじゃないかと思わせるくらい煌びやかに輝いている。
こんなオシャレなところはじめて来た。
ざっと見た限りでも300席くらいはある。
窓際よテーブル席に案内され、高層ビル群が一望できる。
隣のテーブルにはスーツを着た経営者風のダンディな男性と女子アナ風の美人女性。
その奥にはきっとお金持ちの旦那さんをつかまえたんだろうなって思わせるくらいブランドものを着飾ったマダムたち。
そして何の仕事をしているか見当もつかないちょっとチャラめの男性たちがだらしなく座っていて、カウンターには常連らしき老人がボルドーグラスに入った赤ワインを片手に顔を火照らせながら店員さんと楽しそうに話している。
コース料理を運んでくる酒匂さんは凛々しく、紳士という言葉はこの人のためにあると言っても過言ではない。
それくらいスマートな立ち居振る舞い。
私たちは出てくる料理に感動しながら写真を撮っていた。
自分で言うのも何だが、4人が揃うと本当に五月蝿い。
1つの話題が10にも100にもなる。
すると、そのすらっとした長い足でゆっくりと私たちの前まで来た酒匂さん。
「お客様、失礼ですが……」
ラグジュアリーな雰囲気とジャズが流れるムーディーな店内を壊すかのような喧しさに注意されると思っていると、
「そちらはコトノちゃんでしょうか?」
里帆っちのポーチに付いているマスコットキーホルダーを見ながらそう言う。
きっとこの鳥のマスコットを言っているんだろう。
「コトノちゃん知ってるんですか?」
「えぇ。わたくし京都サンガサポーターなので」
「私もです」
里帆っちは大のサッカー好きで、小さいころから地元のサッカーチームを応援している。
昔サッカー部のマネージャーをしていたこともあるくらい。
サッカーのことはよくわからないけれど、2人の距離がぐーんと縮まった。
酒匂さんと話す里帆っちは乙女のような笑顔で飲んでいたキティのように赤く頬を染めている。
お酒なのか酒匂さんなのかはわからないけれど、すごく楽しそうなのは事実。
「もしかして、京都の方ですか?」
「はい。向日市出身です」
「すごく近いですね。わたくしは鶏冠井の方です」
「鶏冠井なんですか⁉︎私もそっちの方です!」
ただでさえ目が大きいのに、さらに目を大きくさせて飛び跳ねるように喜んでいる里帆っち。
話についていけない私たちは静かに2人の会話を聞いていたけれど、当の本人は2人だけの世界に浸っているように無垢な表情で終始ニコニコしていた。
それからは私の話もちょっとしたけれど、せっかくの再会で重たい空気にしたくなかったからずっと気になっていたことを名付け親に聞いてみた。
私たちのグループLINEのKAWAHARAという名前についてだ。
「小学生のころね、クラスメイトに好きな人がいたの。その人の名前が香和原 翔平くんって言うの。でね、彼はサッカー部のエースだったんだけど、中学に上がるとき、プロになるために京都府内の名門校に進学したの」
「結局彼とは何もなかったの?」
食い気味の恋ちゃんの質問に対し、
「チューはした」
それを聞いた私たちは声を出してテンションが上がる。
「それってさ、彼も好きやったんやないと?」
「どうだろ、わかんない」
「その人里帆ちゃんのこと好きだったと思うな」
「彼は推しみたいな存在だからいいの」
私と恋ちゃんの問いに対し、里帆っちの回答はどこか本心とは違う歪曲された切ない言葉に感じた。
それから他愛もない話をして店を出た。
最後まで酒匂さんに彼女がいるか聞けなかったけれど、里帆っちはなぜか満足気だった。
店を出ると街はネオンで輝いていた。
生ぬるい夜風はほろ酔い気分を覚ますにはちょうど良い。
里帆っちのマシンガントークは絶えず続いたので、新宿駅までみんなで歩くことにした。
歩きながらみんなに質問をする。
「このコメントあげたのってみんなだよね?」
スマホの画面を見せると、
「あの後、先輩アイツの本性暴いてやろうと思ってみんなで色々と調べてたんだけど、そしたらまぁ出てくる出てくる」
「先輩の過去すごくてさ、親の権力を武器に小学生のころからいじめを主導してて、中学時代はそれがエスカレートしてクラスメイトを使って万引きさせたり動物を虐待してたみたい」
「高校生のときなんか学校中の女子を食い漁ってたらしいよ」
優梨の言葉を皮切りに恋ちゃんと里帆っちが続く。
「しかもその寝た相手の写真や動画を勝手にネットにアップして愉しんでたんだって。マジでイカれてるよね」
話を聞くだけで吐き気がしてきた。
バイト中の優しい振る舞いや笑顔は、画面の奥の獣の姿を隠すためだったのかと思うと、何とも形容し難い感情が芽生えてきた。
「ある程度炎上させておいたからきっといまごろは削除されてると思うよ」
優梨たちの暴露に当時の被害者たちが乗っかってくれたことで一気に拡散されたらしい。
馬脚を露すのも時間の問題だと思う。
「先輩のこと調べてるときの優梨ちゃん、まるで探偵みたいだったよね」
「よっ!名探偵ゆりりん!」
恋ちゃんの煽りに里帆っちも便乗する。
みんなのおかげで心の奥の膿が少し取れた気がする。
「天網恢々疎にして漏らさずだね」
「えっ?なんて?」
「れんれん、急にどした?」
恋ちゃんが聞いたことのない言葉を発し、私と里帆っちは一瞬硬直した。
「天網恢々、疎にして漏らさず。だよ」
当然知ってますよねのスタンスで言い直されてもさっぱりわからないんですが。
反芻しようにも文字がまったく浮かんでこない。
「悪さをしたものには天罰が下るって意味でしょ?」
優梨が意味を説明してくれたがそれでも理解できなかった。
初めて耳にする言葉に脳が追いついていない。
「いや、はじめて聞いたんですけど」
「そんな言葉どこで知ったと?」
「なんかね、私と優梨ちゃんの好きなゲームに出てくる推しキャラの言葉なの」
「敵をやっつけた後に剣を振りながら言うんだけど、クールで超かっこいいよね」
私も里帆っちもゲームをしないからわけがわからずポカーンとしている。
「里帆ちゃんも紫苑ちゃんもやってみて。無料でダウンロードできるから」
「う、うん。考えとく」
「私も」
いつの間にか話が脱線したけれど、どんなときも変わらず接してくれるみんなが大好き。
やっぱり持つべきものは友。
楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
みんなとお別れした後、ホテルに帰る途中、私は最も会いたくなかった人に会ってしまった。
そう、私を犯した男。
人の人生をぶち壊した悪魔は偶然を装い、SNSで私の居場所を突き止めていた。
もう会わない約束したはずなのに、この男にはそんな約束意味をなさなかった。
「久しぶり。ショートカットも似合ってんじゃん」
顔を見るだけで、声を聞くだけで虫唾が走る。
シカトしてエントランスへ向かおうとしたけれど、腕をぐっと強く掴まれた。
その瞬間あの日の出来事が走馬灯のように蘇ってきて、恐怖の再来と同時に何かのスイッチが入った。
「会いたかったです」
目は合わさず感情を無にして言った。
「あのときは無理矢理襲って悪かったよ。こうして最初から向き合っていれば良かった」
この男はどこまで身勝手で阿呆なのだろう。
ナルシストすぎて反吐へどが出そうだった。
人生の1ページを鹵掠したこの男はに復讐しないと気が済まない。
彼が報われない。
そう思った。
きっと黙っていても何いずれ捕まるだろうけれど私自身の手でやりたかった。
「今日ここに泊まってるんです」
「神法、やっぱりあの日のことが相当刺激的だったんだね」
何も応えずそのまま部屋に入った。
「先にシャワー浴びてきてください」
「そうさせてもらうよ」
髪をかきあげながらシャワーを浴びにいっている隙に部屋に常備されていたスティック状のコーヒーをカップに入れ、温めたお湯で溶かす。
バスローブ姿で出てきた先輩をソファを座らせ、コーヒーを差し出す。
「気が利くね」
ニコニコしながらそう言う先輩の言葉を無視して向かい側に座る。
「2人きりなんだから隣においでよ」
脚を組み、左手でソファをトントンと軽く叩きながら座って欲しそうにしている。
「ちょっと緊張してて」
斜め下を向きながら口角だけ上げた。
「そうだよね。まぁ時間はあるんだし、楽しもう」
そう言って一口、ゆっくりとコーヒーを飲む。
喉を通ったことを確認すると私は確信を持ちながら立ち上がった。
程なくして先輩はその場に倒れ込んだ。
そう、あの日以来バッグに常備していた睡眠薬をコーヒーの中に大量に投与していた。
復讐は成功した。
**
古くてボロい部屋。
小さな机の上には小さなテレビが置かれている。
畳の匂いがする雑居房。
私はここで何年過ごすのだろう。
早めにチェックアウトをして向かった先は警察署。
コーヒーの中に大量の睡眠薬を投与した後、あの男が苦しむ姿を想像しながら自首をした。
後悔はしていない。
むしろ清々しい気持ちだった。
刑務所での生活は思っていたものとは少し違った。
「やばっ!めっちゃ美人!」
雑居房に入っていきなり声をかけられた。
同じ部屋にいたちょっと気の強そうなギャル風の人。
「あ、ありがとうございます」
動揺してぎこちない応え方をしてしまった。
こういう世界では友情や愛といった概念はなく、心を開くこともなく、一定の距離を保ったままの関係だと思っていたから驚いた。
ピアスの痕や首元のタトゥーなど、昔ヤンチャしていたのかなと思わせるその人は私と相部屋。
見た感じ同世代くらいかな?
「そのメモ帳ってNarrative Landだよね?しかも限定ものの」
ナラランはたまに期間限定でノベルティーを出していた。
このメモ帳はそのときのもの。
同じノベルティーで化粧ポーチやリップクリームとかもあったけれど、ここに持ってくることは許されず、ポケットサイズの小さなメモ帳だけ許可された。
このメモ帳には彼との思い出が詰まっている。
彼と行ったお店や彼と行く予定だった場所。
デートのときに撮ったプリクラをいくつも貼っていたので、肌身離さず持っていた。
「えっ?ナララン知っとーと?」
「もちろん知ってるよ。美羽さんのカリスマ性や毒舌も好き。ってか博多弁?」
若い世代で名の知れたブランドだけれど、やはり自分の好きなものや憧れている人を褒めてもらえるのは嬉しい。
「こんな美人で博多弁話すとかウチが男だったらすぐ告っちゃうかも笑」
初対面とは思えないほどグイグイくる。
いままで出会った人の中にはいなかったタイプだ。
「ねぇねぇ、福岡出身ってことは『おっとっと』の早口言葉のやつ言える?」
おっとっとの早口言葉とは、
『おっとっと取っておいてって言ったのになんで取っておいてくれなかったの?』
というのを博多弁で言った場合、
「『おっとっと取っとってって言っとったのになんで取っとってくれんかったと?』」
私たちからするとなんてことのない会話なのだけれも、こっちの人からすると早口言葉に聞こえるらしい。
私は力むことなくすらすらと言ってみせた。
「本物だ~、かわいい!あっ、初対面なのにごめんね。私、綺麗な人や可愛い人見るとテンション上がって話しかけちゃうんだよね。イヤだった?」
「あ、いえ、そんなことないです。全然悪い癖やないと思うし」
「良かった。あなた名前は?」
「神法 紫苑って言います」
「何その神々しい苗字」
そう言いながら彼女は部屋にあった鉛筆と紙切れを取り、自分の名前を書いて見せてきた。
「うち、鬼灯 朱花って言うの」
いやいや、人のこと言えないと思いますが。
ってか明るい。テンション高い。本当に受刑者?
「赤い花って書いて朱花って読むんですね、良い名前」
「そうかな?母親が赤い花が好きだからって理由でつけたらしいよ。安易すぎない?」
「ちなみに誕生日っていつですか?」
唐突すぎる質問に目をパチパチをさせながら、
「8月2日だけど」
「ってことは多分ノコギリソウと関係してるかもしれないですね」
「ノコギリソウって、そのなに怖い名前」
ノコギリソウ、お花を知らない人からしたらたしかに恐ろしい名前。
「名前はインパクトありますけど、花弁は赤く綺麗ですごく可愛いんですよ。もしかしたらお母さんの好きな赤い花と何かシンパシーみたいなものを感じたのかもしれないですよ」
「紫苑ってロマンチストなんだね」
「そ、そうですか?」
「あと敬語使わなくていいよ。この部屋では年齢とかそういうの関係ないから」
「うん、わかった」
朱花はこの刑務所でできたはじめての友達。友達という表現は正しいかどうかわからないけれど、まいっか。
「ちなみに紫苑は何したの?」
「殺人未遂」
「そんな可愛い顔してすっごいことしたのね」
ちょっと引いている?
「朱花は何したの?」
「私はドラッグ」
お互いなかなかの罪だ。
「こんなこと聞いて良いのかわかんないけど、紫苑はなんで殺人を?」
私はあの日、バイト先の先輩に強姦されたこと。庇ってくれたあの人を刺してしまったことを話した。
「それって悪いのその先輩じゃん。冤罪だよ」
「でもその後に未遂を犯したのは事実だから」
そこからの私の人生は転落していった。
まだ人生の半分も過ごしてないのに、大切な人を失って人生がめちゃくちゃになった。
身も蓋もないことをネットで言われ、たくさん傷ついた。
他人の方が圧倒的に多いから無理もないかもしれないけれど、それでも言葉や文字というものは人の心を簡単に傷つけてしまう。
「そっか……紫苑、この部屋で良かったね」
「えっ?」
「他の部屋だと新人へのいじめとかもすごいらしいよ。布団や食事を取り上げられたり、強制的にマッサージさせられたり。すぐ隣の部屋にはお局つぼねみたいな人がいてさ、彼女に逆らうと服役期間が延びるって噂もあるの」
朱花の話し声に反応したのか、奥で寝ていた人が起きてきた。
「楓、起きたね。おっはー」
楓と呼ばれるその人は長い睫毛に細い目、口元に黒子があり楚々としている。
「おはよう。この子新入り?」
少し眠たそうな顔のまま静かに話す。
「神法 紫苑です。よろしくお願いします」
挨拶をすると、人見知りなのか目も合わさず軽く会釈をするのみだった。
「この子は楪 楓。詐欺で捕まったの」
こんな清楚な人が詐欺?
「朱花、昔キックボクシングやってたから気をつけた方がいいよ」
「ちょっと楓、脅かすようなこと言わないでよ。ダイエットしようと思って手遊び程度にやってただけだから」
クスッと笑うとかえではまたすぐ眠ってしまった。
ほんの少しの時間だったけれど、2人の仲の良さを窺える。
哀しくも刑務所での生活も慣れてきてしまった。
でもあの日の記憶は鮮明に覚えている。
私がアイツを殺めようとしたせいで彼と離れ離れになってしまった。
いっそのこと彼のもとへと行こうかなとも思ったけれど、そんなことしたら怒られそう。
『命は時間と同じくらい大切だから雑に扱っちゃいけない。自分と自分の大切な人との時間はとくに大事にしないと』
っていつも言っていたよね。
たまに小説家のようなことをさらっと言うんだから。
ここ最近、なんだか左胸の辺りがキリキリと痛む。
針とか串なんかじゃ比にならない。
薙刀くらい鋭利なもので心臓の奥まで突き刺してくるようなそんな痛み。
それが立て続けにやってくる。
「ちょっと紫苑、大丈夫?」
胸を押さえながら急に項垂れた私を見た朱花が心配してくれる。
切羽詰まったようなその声に起きた楓が私のもとにやってきて、
「ちょっと見せて」
私も朱花も驚いたが、その真剣な眼差しが何かを訴えかけているかのように感じ、言われるがまま服を脱いで胸を見せると左の胸に痼ができていた。
こんなのあったっけ?
楓がその痼を軽く押す。
「痛っ!」
「これいつから?」
真剣な表情で聞いてくる楓。
「覚えてないけど、ここに来るまでにはなかったと思う」
「もしかしたら乳癌の初期症状かもね」
嘘でしょ?
いままでずっと健康的だったのに。
「乳癌は日本人女性の中でもトップの罹患率。だいたい10人に1人の割合くらいで、乳癌になった人の約30%が亡くなってしまうって言われてるの。その数字は年々増加しているわ」
「ちょっと楓、物騒なこと言わないでよ」
朱花の口調が少し荒い気がした。
「まだ確証はないし私も専門家じゃないからわからないけど、もしこのまま痛むなら医療刑務所に行って診てもらった方がいいわ」
「ってか楓、何でそんなに詳しいの?」
「私ね、捕まるまで医療を学んでたの。医師になりたくてね。家庭の事情で学費は自分で稼がないといけなかったんだけど、どうしても払えなくて……」
経済面や家庭の事情で夢を諦めなきゃいけない人は大勢いる。
楓も本当は勉強だけに集中したかったのだと思う。
でも自分で稼がなきゃやっていられないくらい厳しい環境だったのだと思うと、私はすごく恵まれていたことに気づかされた。
私も夢に向かって早く刑務所ここを出なきゃ。
その気持ちとは裏腹に痛みが激しさを増した。
待って、どうしよう。
まさか私、癌で死ぬの?
しかもここで?
「紫苑を早く病院に……」
朱花の言葉を遮るように楓が言う。
「この刑務所、医療の管理が杜撰で有名なの。ちゃんとした医療を受けられる可能性は極めて低いからあまり期待しない方がいいわ」
「でも、病気かもしれないんだよ?」
朱花がまたも感情的になっている。すごい剣幕だ。
気持ちは嬉しいけれど、楓に言っても仕方ないよ。
後日、看守に言って医療刑務所で診てもらうことができた。
「ステージ4ね」
冷静に無感情に言う女性医師。
医師によると、ステージ4は末期の状態で生存率は低いそうだ。
「とりあえずこれを飲んでおいて。また何かあったら看守経由で教えてちょうだい」
作業のように淡々と話す。
痛み止めってそれだけ?日に日に痛みが増しているんですが。
発熱とか倦怠感とかもあるのにそんな簡易的な。
「あの、入院とかはできないんですか?治療は?」
こちらの態度に反するように、面倒くさそうな顔で冷たい視線を浴びせながら、
「残念だけど、いま病室がいっぱいなの」
何よそれ。
私まだ21歳だよ?
もし神様がいるのならひどすぎない?
そう思いながらも痛みはさらに増していく。
(痛い、痛い……)
それから数日間、痛み止めのおかげで少しは和らいだがそれでもただの気休め程度。
痛みが消えることはなかった。
ーある日、看守に呼び出された。
病室に空きが出たという理由で医療刑務所に移ることが決まった。
「お別れだね」
「短い間だったけど一緒に過ごせて良かった」
朱花と楓に見送られながら刑務所を後にする。
2人とは不思議なくらい仲良くなれた気がする。
上手く表現できないけれど、まるで昔から知っていたかのように心を開けた。
「ありがとう。またね」
そう言って別れた。
医療刑務所に移ってしばらくは痛みもなく完治できるかと期待していた矢先、私の身体は言うことを聞いてくれずにそのまま意識を失った。
応援ありがとうございます!
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